作者:あんじ
人を美しいと思ったことはあるだろうか。それは容姿を見て?はたまたボディラインを?
残念なことに僕はそのどれも他人に抱いたことは無かった。人並みに美しいとも、綺麗だとも思うことはある。でも、誰を見てもその顔に仮面を貼り付けているようにしか思えなかった。内なる怒りを孕んだ笑顔も、無感情を隠すための張り付いたような笑顔も、親の微笑みさえ嘘に思えてしまうほどだ。
僕はそんな偏見に偏見を重ねたような、穿った見方をしていた。だが、それを覆すような人物に僕は出会ってしまった。美しいブロンドの髪の毛を束ね、スラリと伸びた手足は女優も顔負けのものを持っている。彼女の名前は、
***
親の言うままに大学へ進学し、やる気が稲穂のように垂れ下がっていく中でたまたま取った講義に、彼女は出席していた。息を呑むとはまさにこの事で、彼女が教室に入ってきた時は男女問わず視線を集めたし、その存在感は凄まじいものだ。
所詮は高嶺の花だとそう括った無関心と、どうせ彼女もまた適当にその場に合わせた顔を見せる福笑いも同然だという身勝手な拒絶で、縁のない人物でいるつもりだった。だが、神様はなんの運命か距離をとればとるほど彼女との縁は深まり、気が付けば彼女に名前も顔も覚えられていた。
「1年生の絢瀬絵里です、よろしくお願いします」
最初は偶然な出会いだった。必修科目の単位で学籍番号毎に振り分けられた結果同じ講義。この時は少人数ではあれど、同じ講義。しかし、グループ学習をする訳でも無く、本当に"ただ知っている"だけだったはずだ。
「隣、空いているかしら?」
次に会ったのはお昼時の学食。ロクに友人のいない僕は図々しくも4席のテーブルを独り占めしていたのだが、お昼時の学食はもちろん混み合う。そんな中4席も占領するはた迷惑な奴の元にやってきたのもまた彼女だった。普段は数人の友人に囲まれ楽しそうにしているイメージだったが、たまたまだろうか。この時の彼女は1人であったし、こちらに向けられた微笑みもまたぎこちないものであった。
こんな感じで1対1で出会う事が増えて行った結果、彼女とはよく食事をする仲となっていた。もちろん学食でという前置きが付くが。
すると不思議なもので、毛嫌いしていた彼女の事も少しずつ見えてくるものがあった。
「ねぇ、キミ。良ければなんだけど、今日のノート見せてもらえないかしら?」
どうや前日何かあったようで、彼女曰く初めて講義中に寝てしまったらしい。友達に見せてもらえばと拒否しようとした時のあの顔は今でも忘れられない。捨てられそうになった子犬と同じ顔だった。
「こんにちは、また会ったわね」
別の講義なんかでも会えば通りすがりに挨拶をされ、ウィンクをしてくる。これも困ったもので、良い意味でも悪い意味でも彼女は潜在的に人気を持っている。聞けばスクールアイドルで名を馳せた、有名な人だと言うでは無いか。そんな人が、しがないぼっちに目をかければ要らない恨みを買うのも仕方の無いものである。
「キミ、ちょっと待ちなさい。もう、ご飯を頬に付けっぱなしよ。子供じゃないんだから」
そう言うと、僕の頬に残っていた米粒を手で取って自分の口に含んでいた。知り合いでも、友達でも、ましてや彼女でもない人にそんな事を普通はするのだろうか?それも20歳手間の大学生が。一体どこの母親だろうか。いや、少なくとも僕の母親もこの歳になってこんな事はしない。
一見微笑ましい現場に見えるが、彼女は人気者。そうでなくとも冴えない男に、綺麗な女性がこんな事をしていては怨嗟の声も聞こえてくるというものだ。
こうした必要のない怨嗟を浴び続けて半年が過ぎる頃、期末試験が訪れていた。まぁ勿論の事友人もおらず、それでいて真面目に講義を受けている僕はテストと言われてもただ面倒だという気持ちしか出てこない。しかし、からくも彼女はそういかなかったらしい。最終講義が終わると共に彼女は僕のことを引き止められていた。
「あなたにね、お願いがあるの。勉強を教えてもらえないかしら……。えぇ、分かってるの迷惑なのは。でも、このままだと私この講義を落としてしまうわ」
焦るでもなく、前のように捨てられる子犬みたいな表情でもなく、彼女はとても自信に満ちた顔をしていた。そんなに凛とした表情をされてもこちらが困る。
コロコロと表情を変える彼女だが、ニコッと笑うその顔は確かにアイドルだ。しかし、今の僕には悪魔の笑みにしか見えなかった。
「お礼はするつもりよ。私にできる範囲でだけど」
今思えば多分、ここで断るのが正解だったのだと思う。彼女により僕に勉強を教えてもらうためと連絡先を交換させられた。家族以外で初めての連絡先が女性になるとは思わなかったが、それ以上にこれが頭痛の種になる方が思いもよらなかった。
翌日、彼女から1件のメッセージが届いた。それは紛れもなく勉強を教えてくれという内容なのだが、少々問題が起きていた。そう、指定された場所が彼女の家である。
何故かは知らないが、彼女は時々ポンコツな部分が垣間見える。男を家に招待するというパワープレイを平然とやってのけるその姿は女子校で培われたものなのだろうか。疑問は尽きないが、何とか言い訳を決め込みファミレスに場所を移すことができた。
「最終日のテスト、午前中で終わりよね? 良ければそこでお礼をさせてもらえないかしら」
多分だが、彼女は天然で人たらしなのだろう。こんなのはまともな知り合いも友人もおらず、彼女いない歴=年齢な僕にでも分かるデートのお誘いだ。ギャルゲーで見たことがある。
そんなこんなでテスト期間はあっという間に過ぎていき、ヤマを張らせた彼女も何とか乗り切れたようだった。だが、僕にとっての試練はここからだ。
"お礼"とは一体何をされるのだろうか、何にせよお礼参りだけは勘弁願いたい。普段は信仰もしていない癖に通りすがりの神社に向かって神に祈ったり、心の中で「南無阿弥陀仏」と唱えたりしながら彼女に連れてこられたのは、どこか近世ヨーロッパの雰囲気を持つロシア料理店だった。
「ここ、おばあちゃんのお店なの。絶品なのよ、おばあちゃんのボルシチは」
ガードの構えをしていたはずなのに強烈なカウンターを喰らった気分だった。特別仲の良い訳でもないのに家族に紹介されるのは常識を疑いたくなったが、そんな気持ちも彼女の祖母に向けている顔で納得がいった。あれは単純におばあちゃんが好きで、そのおばあちゃんの作る料理が好きで、それを他の人にも味わって欲しいとかそういったものだ。彼女はおばあちゃん子なのだろうが、お婆さんも孫が着て喜んでいるのを見ると、蝶よ花よと可愛がったのだろう。
実際出てきたボルシチは夏だというのに、熱い中で食べても、初めて食べるのにも関わらず、とても美味しかった。家庭の味というのはこういう事なのだろうと、思わず唸ってしまうほどには満足した。
「ふふ、あなたもそんな顔をするのね。初めて見たわ」
僕に向けられたその綺麗な笑顔にも同じ言葉を返してやりたかったが、ボルシチを食べるのに夢中になっているのでスルーをしてやる事にした。少しドキッとさせられたが、こういう勘違いで悲しい物語が生まれるのだと掲示板にも書いてあった。それに、どうせこれでしばらく会わなくなる。そのうちに存在も薄くなるだろうし、何より後期も同じ講義を取るとは限らない。これでさよならだと、心の安寧が保たれる。
──そうなるはずだった。
「ねぇ、この水着似合うかしら?」
気が付けば僕はひしひしと降り注ぐ紫外線を浴び、じめっとしていて、それでいて鼻に残る潮の匂いがする夏に定番のレジャースポット、"海"へと来ていた。
誰かと海に来るなんてのは小学校以来だが、今はそれどころじゃあ無かった。ただでさえ服の上からでも分かるナイスプロポーションだった彼女がそれを脱ぎ捨てて水着になっている。これがどういう意味か分かるだろうか? そう、否が応でも注目が集まるのだ。
そもそも何故2人で海に来ているのか。最初は彼女からの連絡で買い物に付き合わされるだけだった。曰く、高校の頃の友人と海へ行くらしいのだが新しい水着を買ったり旅行用のものを買うと。そんなものは1人かその友人と行けと、無視をしていた。するとどうだろうか、彼女は我が家にやってきた。教えたはずのない家に来た事はまだ良い。学生証にも書かれているし、幾らでも理由は見つかる。しかし、問題はそれを対応したのが親であったという事だ。そう、日常的に部屋に籠っている我が子に、女の子が直接来た。悲しいかな、親心としては送り出す事に全力を注ぐもので、あれよあれよという間に俺はショッピングモールへと連れてこられていた。
「あなたは買わないの、水着」
あの言葉はこの時のための布石だったのだろう。その場では要らないと答えたし、実際高校の時の修学旅行で必要になり買ったやつがある。1度しか使っていないし、これからも使う予定はないため問題は無いはずだった。
だが、数日後に味をしめたかのように彼女は我が家に来ていた。今度は海へ誘いに。
その日の夕飯に母親から言われた「春が来たわね」という言葉はとても堪えた。もう過ぎたよと返すには悲しいし、まだ春なんかじゃないというのはおこがましいにも程がある。
画して僕はパラソルの下、死んだような目をして海面から反射する太陽光を浴びていた。ただでさえ人が苦手なのに、灼熱の中お日様の下にいるのは辛いものがある。誘ってきた張本人である彼女は、浅瀬で浮き輪に乗ってこちらに手を振っている。
「浮き輪、1人だとあまり進まないの。押してくれる?」
詳しい事は省くが、数分後には浮き輪の上に乗っているのは僕の方だったと言うことだ。水は苦手なのだから仕方がない。
普段感じない刺激があると時間の進みは早く感じるもので、気が付けば日が傾きはじめていた。海に来ていた人達は少なくなってきて、閑散とし始めている。夕日が沈む頃には数える程度の人しか残っていなかった。僕は疲れ果てて倒れているが、その横で彼女は海を眺めている。
「今日は楽しかった?私はとても楽しかったわ。海も、日本海と太平洋では全然違うわね」
昼間とはまた違う様相を見せる海。彼女の表情もまた、昼間の元気な彼女とは違い、過ぎ行く夏を惜しむ様だった。不覚にも僕はその表情を美しいと思ってしまった。
高校生ではこうもいかないが、大学生となれば話は別。今日は泊まりだ。宿は事前に予約していた古き良き温泉旅館へと連れてこられた。彼女曰く、ホテルよりもこういった旅館の方が親睦を深められるため好きらしい。。
そんな彼女にもここに来てミスを犯していた。あぁ、知っているとも。予約している部屋の数的に1部屋だという事も、これがわざとでは無く気が抜けてポンコツを発揮したが故にだということも。何せ小鳥のようなさえずりが聞こえるのだから。
「よ、予定通りよエリーチカ。大丈夫、彼はそんな事をしないわ」
幸いな事に部屋は広く、2人で横になっても間に布団を2~3枚は敷ける。同じ部屋ではあるが、間違いは起きない。それに、万が一いや億が一にでも何かあったら天狗と柱が腹を切って詫びる所存だ。
旅館の夕食は豪勢なもので海の幸をたんまりと味わい、日光と潮風と海にやられた身体を労わるように浸かった温泉は至福の時間だった。
しかし、至福の時間というものは儚いものである。彼女がお風呂から帰ってきた時、地獄の時間へと変化した。
「ふぅ、さっぱりした。……どうしたの、顔が赤いわよ?長風呂でのぼせたのかしら」
艶やかな髪が濡れている。そしてシャンプーの良い香りが部屋に充満していく。極めつけはそのパジャマだ。
夏であるとはいえ、彼女の着ているルームウェアはショーパン。適度に引き締まった太ももが露わになっているし、線は細いのに少しむっちりとした二の腕もよく見えている。非常にセクシーな格好だ。
僕は
軍人が殺意をコートのように着込むのであれば、彼女はそのセクシーさと時々発揮するポンコツをパーカーの中に隠していて欲しいものだ。
湯上りの火照りが収まってくる頃、彼女は僕に提案をしてきた。
「ねぇ、散歩に行かない? それともあなたは夜に女の子を1人で歩かせるつもりなのかしら」
こう言われてしまえば、ひ弱な僕でもついていかざるを得ない。
まだ日は沈んだばかりで、月が海に近い位置にある。太陽が隠れれば海風も心地よく、漣の音は心地が良い。
宛もなく、でも静かに2人で砂浜を歩いた。どれくらい歩いただろうか、人気が少なくなった頃、彼女は立ち止まり僕の目を見てくる。
「あなたね、私に似てるのよ。高校生の頃の私に」
何の話かはよく分からなかったが、彼女が座ったので僕もそれに習う。
波の音が響く中で、ポツポツと彼女は喋り始めた。
「どこか一歩後ろで物事を見ているようだったり、他人の表情の変化に敏感なくせに、それでいて自分の事には鈍感で──」
決してこちらを振り向かない彼女だが、その横顔だけでも表情は少しずつ変化していた。懐かしむような表情もすれば、思い出の自分に対しての苦笑いだったり、その逆で思い出し笑いをしたり、コロコロと表情を変える。
数ヶ月前の僕なら、これを『仮面の付け替え』とか『福笑い』なんて表現していただろう。けど、今はそうは見えなかった。彼女の表情は精一杯自分を表現していて、感じたこと、思ったことをちゃんと表に出している。だから今の僕が表現するなら、こうだろうか。
──万華鏡、と。
少しずつ変化していく彼女の表情は人と、場所と、観測する地点で違う表情を見せる。でもこれは彼女が表面的に取り繕っている仮面ではなく、見る人や場所によって見方が変わる万華鏡だと僕はそう思うのだ。
「ねぇ、聞いているの?」
でも、自分にすら嘘をついて仮面を付けていては万華鏡の中は見えはしない。知りたいのであれば、その仮面を捨てるしかない。
仮面を付けて波風のない日々を送るのか、万華鏡を見る為に仮面を外すのか。
「……はぁ、1度しか言わないわよ。私はね──」
愛の告白を「月が綺麗ですね」とはよく言ったものだ。確かに海に反射する月は綺麗だったが、僕には仮面を外して覗いた万華鏡の方が何百倍も綺麗に思えた。