作者:紅葉久
平日、放課後のある日。μ'sのダンス練習が終わった後のことだった。
今日も練習が終わって下校するまでの少しの時間、μ'sメンバー達は穏やかなひと時を部室で過ごしていた時のことだった。
「ねぇねぇ! 希ちゃん!」
元気ハツラツお転婆娘こと星空凛が、椅子に座ってスマートフォンを見ていた東條希に元気良く話し掛けていた。
「ん? 凛ちゃん、どうしたん?」
凛に向けて、まるで母のような優しい笑みを希が浮かべる。
そんな希に凛が制服のポケットからあるモノを取り出すと、それを徐に彼女へと差し出した。
「希ちゃん! ガム食べる?」
唐突に凛が希に差し出したのは、市販で売っているグレープ味のチューインガムだった。
長方形の細い筒に包まれた紙の中から、一枚だけ“不自然に”飛び出ているチューインガムを凛が希へ差し出す。
「良いの? それなら遠慮なく――」
凛がガムを持ち歩くなんて珍しい。そう思いながら、希が何も考えずに凛から差し出されたチューインガムを取ろうした瞬間――ふと、彼女は伸ばしていた手をピタリと止めていた。
「……どうしたの?」
手を止めた希を見て、凛が首を傾ける。
そんなあっけらかんとした凛の反応に、希はジトッと半目を彼女に向けていた。
「……なんか妙やん」
「えっ? 何が?」
希の言っている意味がわからないと、凛が困った顔を見せる。
しかし希は、そんな凛にただジト目を向けていた。
不思議と、凛の唐突の行動に違和感を感じる。そう思った希が彼女の手に持っているチューインガムを凝視した。
誰かを揶揄うことが好きな希だからこそ、分かることもある。こと目の前にいる凛も、大概にしょうもない悪戯をすることがある。
そんな凛がこういう場面で好みそうな物。それをしばらく考えながら希が思考を巡らせて数秒、彼女は思い付いたことを口にしていた。
「ねぇ凛ちゃん。そのガムって……もしかして取るとパチンってなるやつやない?」
凛の持つチューインガムを希が注意深く見つめた結果、それが希の導き出した答えだった。
希が言っているのは、イタズラをする為のおもちゃで、よく小売店に売っているジョークグッズだった。主に雑貨店に売っているのを希も何度か見た覚えがあった。
チューインガムを模した形。その細部に細工が施されたもので、ガムを引き抜くと、引き抜いた指に向けて細工された小さな板がパチンと飛び出るイタズラ商品である。
突然に凛がチューインガムを差し出したのを見て、希は直感的に彼女が待っているのは“ソレ”ではないかと疑っていた。
「えぇ⁉︎ そんな訳ないよ⁉︎ 凛、そんなことしないよ?」
驚いた凛が目を大きくする。
しかし人間というのは、一度疑ってしまうとその考えは簡単に抜けるものではない。
この時点で、希は凛の持つチューインガムがイタズラする為の物であるとしか思っていなかった、
だからこそ、希は対策する方法を即座に考えていた。もし本当に凛の持つチューインガムがイラズラする物であるならば、その条件を自分が満たさなければ良いだけなのだと。
「なら凛ちゃん。そのガム、自分で抜いてからウチにちょうだい」
希が凛に右手を差し出す。自分でガムを引き抜き、そして自分に渡せと。
これで本当にただのチューイングガムならば、凛は平然とした顔でガムを引き抜くだけである。
「……うん、希ちゃんがそう言うなら」
少ししょんぼりと、凛が落ち込む。流石の希もその姿に心が痛んだが、それでも心を鬼にした。なぜわざわざ分かっている悪戯に引っ掛からなければならないのか。そして痛みを伴う悪戯は、勿論希も嫌いである。
凛がガムに向けて、手を伸ばす。しかし彼女の手は、何故かガムを掴む手前でぴたりと止まった。
奇妙な反応を見せた凛に、希が無言で彼女を見つめていると――
「はぁ……はぁ……!」
何故か、凛は息を荒くしていた。顔を強張らせて、目を吊り上げている。
チューインガムに手を伸ばそうとして戻し、そしてまた伸ばそうとして戻す。それを何度か繰り返していた。
そんな光景をしばらく眺めて、希は小さな溜息を漏らした。
「はよ、ガム抜かんの?」
「待って! 今、取るから……凛が取るからッ!」
凛が希にカッと目を見開き、鋭くする。しかし息を更に荒くして、彼女はチューインガムを鋭く睨むだけだった。
「…………」
そんな凛を、悲しそうな目で希は見つめていた。
しかしそんな視線を希から向けられていることにも気付かず、凛は必死にチューインガムを凝視する。
「はぁ……はぁ……くっ……!」
実に馬鹿な子だと、希は内心で思っていた。
自分から提案した手前、引くに引けないのだろう。ガムを引き抜いた時に起きる出来事を既に知っていている以上、自ら痛い思いをするは誰でも嫌なのは明白である。
今から自分が痛い思いをする。それを理解しながら、ガムを引き抜く。おそらく凛は、その覚悟を今決めている。
まるでガムを引き抜くだけとは思えない形相で、凛が目を強く瞑る。震えた彼女の指が、チューインガムに向けて伸ばされた。
「……いや、もうわかったからええよ。引き抜かなくて」
凛のアホらしい葛藤を見て、希が溜息交じりにそう告げていた。
予想通りの結果に、希は呆れ果てた表情を見せていた。
「え……? 良いの?」
先程までの苦しそうな顔から一転して、素晴らしく満面な笑みを凛が浮かべる。
希は肩を竦めると、苦笑いしながら答えていた。
「次はもっとわからないようにやらんとダメだからね?」
「……希ちゃ〜ん」
希の慈悲の言葉に、凛が泣きそうな顔をする。
凛はそれに「ありがとう、希ちゃん!」と元気よく答えて、希から離れてると今度は穂乃果へと近寄って行っていた。
「ねぇねぇ! 穂乃果ちゃん! ガム食べる?」
この子は学習すると言うことを知らないのだろか?
凛の先程と同じ行動に、流石の希も心底呆れていた。
そんな凛と何も知らない穂乃果の二人を、指摘することすら面倒になった希はとりあえず見守ることにした。
「良いの! やったー! ありがとう、凛ちゃん!」
穂乃果がガムを差し出した凛に感謝して、彼女の持つチューインガムに手を伸ばす。
そして穂乃果がガムを引き抜くと、そのガムから小さな板が飛び出しすなり、それは彼女の指を勢いよく叩く。
親手に走った鋭い衝撃。穂乃果は反射的に手を引いていた。
「いったぁぁぁぁぁぁ!」
「やぁぉぁぁぁい! 引っかかったにゃぁぁぁ!」
イタズラが成功した嬉しさから、凛が穂乃果に笑顔の向けながら小馬鹿にしたように指を指す。
「それはガムじゃなくてぇぇ! おもちゃだにゃぁぁぁ!」
先程までの希とのやり取りを忘れるようなテンションで、凛は穂乃果を煽っていた。
「凛ちゃん! 酷いよ!」
「引っかかる方が悪いにゃ!」
親手を激しく摩りながら、穂乃果が凛をムッと睨む。
しかし凛はそんなことを気にすることなく、心底楽しそうにしていた。
「むぅ……私だけにやるのはずるい。他の人にもやってよ」
穂乃果が自分だけ痛い思いをしたのが納得出来ず、他の人を巻き込もうと提案する。それに凛は楽しそうに頷いていた。
「良いにゃ! なら次は誰にしようかな?」
現在、部室には七人しか居ない。不在の二人は、ちょうどお手洗いに行っていた。
頬を膨らませる穂乃果と凛がそんなやり取りをしていると、タイミングよく部室の扉が開いた。
「……二人とも? どうしたのですか?」
部室に入ってきたのは、園田海未だった。長い綺麗な髪を持つ、古風な話し方をする大和撫子な少女である。
「あ! 海未ちゃん! ガム食べる?」
ちょうど現れた海未に、凛がチューインガムを差し出した。
希がその言葉を聞いた瞬間、驚愕のあまり椅子から落ちそうになった。おそらくμ'sメンバーで一番その手のことをやってはいけない人間に向けて、凛はそれを差し出していた。
「ガム……ですか?」
「うん! 良かったら食べるかにゃ?」
「頂けるのでしたら……では貰いますね」
希が止める間もなく、海未が凛に差し出されたチューインガムをそのまま引き抜く。
そして海未がガムを引き抜くと、ガムに細工された板が飛び出し彼女の親指に衝撃が走った。
「いっ……た……」
「やぁぉぁぁぁい! 引っかかったぁぁぁ!」
そして定番の煽りを、凛が海未に向けて言い放った。
親手を握りしめて、海未が“俯いて”痛みに耐える。
その時――希は察した。コレはマズイと。
希が自分が巻き込まれて被害に合わないようにと、部室の隅にそっと逃げる。いつの間にか、その光景を見ていた他のメンバー達も、同じように部室の隅へと逃げていた。
「やぁぉぁぁぁい! 引っかかったにゃ〜!」
しかしそれに気付かない凛が、海未を更に煽る。
そして凛が煽っていると、海未から小さな声が聞こえた。
「ーー凛?」
底冷えするような、海未の声が部室内に響いた。
楽しげな凛の身体が、ピタリと止まる。そして海未が顔を上げると、その真顔の表情を見て凛は大きく後ずさっていた。
「海未……ちゃん?」
「よくもやってくれましたね……あぁ、そうでした。そう言えば私も、ちょうどガムを持っているんですよ?」
「へ、へぇ……どんなガムにゃ?」
「これです」
海未が、凛から目にも止まらぬ速さでチューインガムを奪い取る。
あまりの速さに、凛は自分の手からチューインガムが無くなったことを認識するのに僅かな時間を要した。
そして凛からチューインガムを奪い取った海未が、彼女に向けてチューインガムを差し出していた。
「さぁ、凛。ガムを食べませんか?」
「え、でもそれは……」
「ガムを食べませんか?」
「でも……」
「ガム、食べませんか?」
「……えっと」
「食べますよね?」
「……はい、食べます」
海未の威圧に負けた凛がこくこくと何度も頷く。
そうして海未から差し出されたチューインガムを凛が引き抜くと、彼女の親指にパチンと衝撃が走った。
「いったいにゃゃゃぁぁ!」
「凛は食いしん坊ですね。まだ食べたいなんて」
海未の言葉に、それを聞いた希達は戦慄した。
同じく、それを聞いた凛も声を震わせていた。
一度ならまだしも二度目は、流石の凛も許容できなかった。
「食べたくないにゃ」
「食べないのですか?」
「うん、食べたくない」
「食べないのですか?」
海未の声の圧力が、尋常ではなかった。
側から見ている希や穂乃果ですら、底冷えするほどの恐怖心を駆り立てるモノが今の海未にはあった。
それを直に受けている凛の心中を察すると、希達は静かな黙祷を捧げたくなった。
助けを求めるように凛が部室を見渡す。しかしそれと同時に、全員が凛から顔を背けていた。
誰も助けてくれない。自業自得――それを理解すると、凛は声を震わせて海未に答えていた。
「……食べたくないにゃ」
「凛? 食べますよね?」
「嫌にゃ……」
「た・べ・ま・す・よ・ね?」
「……食べます」
圧倒的な恐怖は、時に人を従順にする。そんな言葉を、希は何かで読んだことがあった。まさしくこのことだと、希は心底思った瞬間だった。
抵抗すらできない凛が、差し出した海未のチューインガムを引き抜く。そしてまたパチンと、彼女の親指に衝撃が走った。
「いったいにゃゃゃゃ!」
痛みに耐えながら凛が親指を激しく摩る。
そしてしばらくして凛の親指の痛みが収まったところで――見守っていた海未が一言呟いた。
「まだ食べますよね?」
凛の顔が、絶望に歪んだ。
そして他のメンバー達も、海未の言葉に震え上がった。
紛れもなく、鬼がいる。その言葉が、彼女達の中で一致していた。
「ごめんなさいだにゃぁぁぁ!」
凛が泣きそうな声で海未に頭を深々と下げる。
しかし海未はにっこりと笑みを浮かべるだけだった。
「最後に一枚、抜いたら許してあげます」
「鬼だにゃぁぁぁぁぁぁ!」
凛の悲痛な叫びが、部室内に響いた。
今日の教訓。イタズラも、ほどほどに。
そして再確認――海未はやはり、怒らせてはいけない。
泣き叫ぶ凛と笑顔の海未を見ながら、他のメンバー達はそれを胸にしっかりと刻み込む事にした。