作者:北屋
それはある日の昼下がりのこと。
彼女たちにとっては日常の一コマである、校庭の中庭でのランチタイム。雲一つない青空の下、これまたいつも通りに少女たちは何気ない会話に花を咲かせるのだが、今日だけは少しばかりいつもと勝手が違っていた。
「はぁ……」
明るい空模様とは打って変わって、物憂げな表情でため息をつく少女が一人。
元から整った顔立ちも相まって、愁いを含んだその横顔は、男女問わず見る者を魅了しそうな美しさを持っていた。
「海未ちゃん、どうしたの?」
そのすぐ横で穂乃果と談笑していたことりが心配そうに声をかける。
幼馴染の異変に気付くのはいつも彼女だった。
「え? 海未ちゃん、大丈夫? もしかして体調悪いとか?」
続いて穂乃果も彼女の様子が可笑しい事に気づいたのか、同じく海未の顔を覗き込んだ。
本人は隠していたつもりだったのだろうか、思わず仕草に出てしまったそれに照れたように少しだけ頬を染めて、
「あ、いえ。大丈夫です」
「何か心配事?」
大丈夫と、その一言でまとめようとするが、しかし生憎幼馴染は二人とも、彼女の性分を彼女以上に理解していた。生真面目が故に、平気な顔をして簡単に無茶をしがちな所は昔からよく知っているのだ。
「何か悩みがあるんだったら言ってよ!」
そしてこうなってしまった彼女達を誤魔化すのは難しい。
観念したように、海未は薄く苦笑を浮かべ、
「はい……実は、その。またスランプ気味で」
「スランプ?」
彼女を悩ませているのは新曲の歌詞の事だった。
これまでμ’sの作詞担当としてそれなりの数の歌詞を仕上げてきた。その中で悩み、苦しむ事は幾度もあったが、それにしても今回の産みの苦しみは今までのそれとは比較にならないものだった。
「今回の曲って……ラブソングだっけ?」
「あ~」
穂乃果の問いにことりは納得したように頷き、海未は顔を抑えてしまう。
以前のSnow halationの際もそうだったが、彼女は恋愛テーマの曲の作詞をするのが得意ではない。いや、正確に言うならば苦手というわけでこそないものの、どうにも作るのに苦労してしまう。
それは彼女の“作る者”としての特性に由来するところもある。どちらかと言えば彼女は自身の経験を元にイメージを膨らませ、作品を仕上げていくタイプだ。
しかし元来の生真面目さ故か、恋愛事には疎い彼女にとって、こういった方面の創作はなかなかとっかかりが見つからず、自然と筆を執る手も遅くなってしまう。
「なら、またみんなで映画とか見てみる?」
「うーん……でも前の事もあるから……」
ことりが苦笑を浮かべる横で、海未は恥ずかしそうに顔を伏せた。
以前にメンバーで恋愛映画を見た時、感受性の高さと耐性の低さが仇となって、感動のラストシーンをまともに見る事が出来なったのだ。
「あ、」
その時、ふと閃いたとでも言うように、ことりが手を打った。
「どうしました?」
「ことりちゃん、何か思いついたの?」
「うん!ちょっと思いついんだけど……海未ちゃん、放課後、練習が始まるまでの間に時間ある?」
「え、はい」
海未が頷くと、ことりはにっこりと笑みを浮かべてみせた。
†
「んー、後はこの辺とかかな?」
放課後、練習前。
窓から照らす夕日によって明るく照らされた図書室は人もまばらで、大きな机をまるまる一個海未が独占するような形となっていた。
彼女の目の前には何冊もの文庫本が積まれている。その本の数々を目にし、困惑した様子の彼女を他所に、ことりはさらに本棚から持ってきた文庫本を机の上に並べていく。
「あのー、ことり? これは……」
「恋愛ものの、人気のある小説だよ。古典的なものが多めかな?」
ことりがくすりと笑って、最後の一冊を海未の前にそっとおく。
人気がある、古典的という触れ込み通り、どれもこれも一度はタイトルを見聞きしたことのある作品ばかりだった。
「海未ちゃん、映画だと真っ赤になっちゃってあんまりじっくりと見られないでしょ? でも、文章作品ならもしかしたら大丈夫かなー、って」
「はぁ」
何とも気の抜けた返事をしてしまう。
正直、こういった作品を読むのは殆ど初めてに近く、正直言って未知の領域の事であった。だが、彼女の言っていることも分かる。
以前のように映像作品を見るよりも、こちらの方が自分にはあっているかもしれないと、そう思った。
「プラトニックなお話……落ち着いた大人の恋愛のほうが多めだけど、登場人物の心情描写が多くて海未ちゃんにはこっちの方がいいかも。あと、こっちは、どっちかっていうとSFに近い作品。少し要旨はずれるけど、読みやすいから箸休めもかねて」
ことりが持ってきてくれた本をおずおずと手に取る。
それなりに量があり、全てに目を通すのは難しいだろう。加えて貸し出しの数にも限度がある。裏表紙に書かれたあらすじに目を通し、特に気になったものを借りていく事にした。
「ふふ、海未ちゃんてそういうのが好みなんだ」
「ちょ、そういう訳では……いや、そうですが言い方が」
「ふぅ……」
ぱたり、と。昼間に借りてきたばかりの本を閉じ、壁にかかった時計を見上げる。時刻は既に24時に近い。
「こんな時間になっているとは」
欠伸をひとつ。読み始める前に明日の準備をしておいて良かったと、そんな事を考えながら、今度は寝る準備を進めていく。
ことりがおすすめしてくれた本は思いのほか面白く、苦手なはずの恋愛ものであるはずなのに気が付けばこんな時間になってしまう程に没頭してしまっていた。
こんな事ならば好き嫌いせずに読んでおくべきだっただろうか? いや、それを言うならばことりにもっと早くおすすめを紹介してもらうべきだったか。あるいは今度、μ’sの他のメンバーにも聞いてみるのもありかもしれない……などと、自分がこういったジャンルが苦手であることを半ば忘れていたのも眠さ故だろうか。
寝ぼけ眼にぼんやりと考えながら作業していたのがまずかった。
机の上に置いた本を片付けようとして、ちょっとした拍子に手が滑ってしまった。
「あ、」
音を立てて、先ほどまで読んでいた文庫本が床に転がった。慌てて拾い上げて確認するが、幸いにして目立つ折れ目や傷はなく、ほっと胸を撫でおろす。
と、その時、本の中からひらひらと落ちるものがあった。
とっさにキャッチした一枚は貸出カードである。随分古びていて、黄ばんでいるそれに記された名前は思ったよりも少なく、一番最近の利用者の名前も随分と掠れてしまっている。
だが、問題はそこではない。
今まさにこの本を手元に持つ園田海未の名前さえもそこには書かれてはいなかった。
思い返せば記憶にある名前を書いた数と、手元にある本の数が一致していない。どうやらこの一冊がそれであったらしい。
「書き忘れていましたか」
随分と間の抜けた事をしてしまった、後できちんとかいておかなければと、少し落ち込みながらカードを本の内側に備え付けられたポケットに戻そうとして、彼女はふと気づいた。
本来カードだけが入っているはずの場所に、一枚の紙きれが収められていたことに。
(なんでしょう?)
なんとなく気になって、取り出してみればそれは二つ折りにされたノートの切れ端だった。
小さな字で何か書き込まれたそれは手紙か何かのようだった。
(人様の手紙を覗き見るのは褒められたことではないですが……)
普段ならばこんな事はしないのだが、少し興がのってしまった。
手紙を書いたと思わしき以前の利用者も随分と昔の生徒のようで、とうに卒業しているだろう。ならば過去からの手紙に思いを馳せるのも、ちょっとロマンチックな気がした。
書かれていたのは、ちょっとした挨拶と本の感想。
良い話だったとか、こんな恋をしてみたいとか、そんな事が書かれている。
(あぁ)
得心がいって、思わず微笑んでしまった。
この本に書かれた物語は、名前も顔も知らない男女が文通を介して恋を育んでいくといったストーリー。以前に読んだ人物が、それに憧れたのか、あるいはちょっとしたイタズラのつもりなのか、物語をマネして手紙を仕込んでいたらしい。
手紙を、というよりも長い文章を書くのに慣れていないのだろうか。素朴で、飾り気のない言葉たちは、けれども一生懸命さが伝わってきて、読んでいて心地よい。
(こんな見方もあるんですね……)
特に本の感想は自分にはなかった視点から書かれていて、こんな風な捉え方もあったのか、ここはこういう意味だったのかと、一回読んだだけでは気づけなかったことまで書かれていてなかなか面白い。
「ふむ」
ついつい時間を忘れて手紙に読みふけってしまった。
時計を見れば24時まであと僅か。もうそろそろ寝ないと翌日に差支えがありそうだと、そんな風に考えながらも、海未は机の中から愛用のペンを取り出していた。
手紙を裏返し、ペンを走らせる。
彼女にしては珍しく、悪戯心が沸いたのだ。
『こんばんは。お手紙読ませていただきました』
筆を走らせる。
さて、何を書くべきか。
未来の自分から過去の誰かへ。
名前も知らぬ貴方との文通はただの一度きり。
思えば手紙なんていつぶりだろうか。戸惑い交じりに綴る手紙はどこか新鮮だった。
†
「真姫」
練習が始まる少し前。それぞれが柔軟や準備運動を始める中、海未は作曲担当の真姫の元へ向かい、クリアファイルにまとめられた歌詞を差し出した。
先日から頭を悩ませていた新曲の歌詞が出来上がったのだ。
「あら、思ってたより早かったのね」
受け取ったルーズリーフの束をぺらぺらとめくって、真姫はその綺麗な瞳を真ん丸にした。
「どうしました?」
「良い歌詞ね。恋愛物は苦手だと思ってたのに」
「えぇ、実際あまり得意ではありませんが……」
苦笑交じりに頬を掻く。
「まだ推敲の余地はありますし、歌いやすいように言い回しを変える必要はありますが」
「そうね。今度、曲と合わせてみましょう」
ことりに選んでもらった本のおかげだろうか。あるいはこの間のちょっとした悪戯の手紙のおかげか。ここのところいつにも増して筆のノリが良い。
アイデアがどんどん湧いてきて、言葉選びもスムーズに進む。心の中に浮かぶ情景が素直に文字に変わっていってくれる。
思うように思う通りのものが作れるのは、やはり心地がいい。
作り手としての達成感のようなものを感じながら、彼女も練習のための準備に移る。いい仕事を出来たからだろうか、今日はいつもよりも体が軽く感じられた。
練習終わり、夕暮れ時。
いつもなら幼馴染達と帰路につくところだが、今日の彼女は違った。
用があるからと、二人には先に帰ってもらって、彼女は一人図書室を訪れていた。
返却したばかりの本がまた気になったのだ。
手紙に書かれていた感想は、今考えてもなかなか目の付け所が良いと思う。あの日は夜も遅く読み返すことも出来なかった。
だが、考えれば考えるほどまた読みたいという思いは強くなる。返したばかりで申し訳ないが、もう一度借りるべく再びこの部屋を訪れたのだった。
人気のなくなった図書室、うろ覚えの作者名を頼りに本棚の間を進む。
歴史のある学校だけあって、蔵書量も多く、一冊の本を探すのも一苦労だ。
微かに香る埃と黴の匂い。普段なら不快なそれも、この場所でだけはそうでもないのが不思議だった。
探し回る事十分少々、目的の本は所定の棚にポツンと存在していた。
周りの本は埃をかぶっていて最近読まれた形跡はなく、海未が借りたその一冊だけが妙に目立つ。
今度はちゃんと名前を書かなければ。そう思い、貸出カードを取り出してみる。
「え」
彼女は思わず驚愕の声を上げてしまい、慌てて口を押える。彼女以外に人も居ない部屋の事、あまり意味のないことではあったが、反射的な行動である。
貸出カードが入っているべきポケットの中には、それ以外に手紙が入っている。そこまでならば先日と同じだ。
だが、違うのは、新しいノートの切れ端がおさまっていたこと。
(返事? まさか、)
恐る恐る手紙を開いてみる。
『お返事ありがとうございます。こんな解釈があったなんてびっくりです』
そこには確かに、この間の海未の手紙への返事が書かれていた。
確認してみても貸出カードに新しい名前はないが、文字の癖は全く同じ。
遥か過去からの手紙と思っていたそれは、実は意外と最近のものだったらしい。
(一体誰が?)
友人からの悪戯だろうか? ふとそんな事を考えたが、海未がこの本を借りている事を知っているのはことりだけで、彼女とこの手紙の主の文字は一致しない。
やはり、どこかの誰かが戯れに本に挟んだものを、偶然見つけてしまっただけなのだろう。
それにしてもなんて偶然だろう。感慨深いものがある。
書かれているのは学校の授業の事。友達の何気ない仕草。季節や登下校時の一コマなどの他愛のないことばかり。普段の友人達との会話では聞き流してしまうようなそれらだったが、こうした形で非日常のフィルターをかけてしまえば途端に新鮮なものになってくる。
『勝手なお願いなんですが、もしよかったら、お手紙をもう少し続けていただけませんか?』
最後の一文。締めに書かれていたお願いに息を飲み、すぐに海未は胸ポケットからペンを取り出した。
返事は決まっていた。
『お手紙ありがとうございます。この間、面白い本を見つけました。貴方もきっと気に入ると思います。良かったら読んでみてほしいです』
『おすすめ頂いた本、さっそく読ませていただきました。登場人物の心情描写が上手く描かれていて、読み応えのある作品でした。私からもおすすめの一冊があります』
最初は本の感想に始まって、おすすめの本の紹介をしあったり、ちょっとした雑談を交えてみたり。
『夏の盛りも過ぎて、気が付けば秋も近づいています。山々が色づく景色を見れるのが待ち遠しいです』
『最近めっきり寒くなってきましたね。今年は雪が降るかもしれません。そうそう、この間の朝、友達が布団を出たくないからって遅刻しそうになって大変でした』
気が付けば、近況の報告がメインになっていて、顔も知らない誰かはけれどもとても身近な存在に感じられた。
『もう間もなく桜の季節です。憧れの先輩方も卒業です。今生の別れという訳でもないのに、やはり寂しいものがありますね』
『私の部活にも新入生が入ってきました。この間まで、先輩たちがいなくなってしんみりしていたのに、今はもう慌ただしい毎日です。そういえば』
月日が流れ、季節が移り変わり、二人のやり取りは変わらずに続く。
けれど、そのやり取りはいずれ終わりを迎える。
『こんにちは。多分、これが最後の手紙となるでしょう』
海未はゆっくりと、一文字一文字、確かめるように文字を書いていく。
少しでも彼女との関係が続くよう、時間をかけて書をしたためる。これほどまでに筆が重かったことは一度としてなかった。
『私も卒業を迎えることとなりました。思えばこのやり取りも随分と長く続いてきましたね』
時間で考えるならば、長いという程ではない。けれど、短いと言うには些か抵抗がある。
こんなにこのやり取りが続くとは思ってもみなかった。
別れの挨拶というのは、いつであっても気が滅入る。
今この時になって、いつの間にか名も知らぬ文通相手の事が大切な存在となっていたことに気が付いた。名前も顔も、ほとんど何もしらない相手だというのに、どうしてこう胸に穴が空いたような気分になるのか。
一瞬――ほんの一瞬、このまま何も告げずに終わりにしてしまおうかと、そう思った。
けれどもそれは相手にとって失礼だ。
きっと相手はいつまでも返事を待ち続けるだろう。自分だってそうだ。
だから、進まぬ筆を無理にでも進める。
『さようなら』
最後をそう締めくくり、手紙をたたむ。
本を閉じ、いつもの棚へ戻し、振り返ることなく図書室を後にした。
†
3月31日。
卒業式も終わり、後一日、正確に言えばあと数時間でこの学校の生徒ではなくなるある日。
幼馴染の提案で、彼女達は再び母校の門をくぐった。
三年間、色々な事があった。楽しかった事、辛かった事。本当に色々あり過ぎて、とても語りつくすことは出来やしない。
教室や屋上、体育館。思い出の場所も多すぎて、回り切るのも一苦労だった。
「どうしたの、海未ちゃん?」
図書室の前を通り過ぎようとして、ふと立ち止まった海未を幼馴染が怪訝そうな目で見た。
「いえ、たいした事ではないのですが」
もう、あの本を開く事はないと思っていた。
だが、どうしても興味が抑えられなかった。
二人に断りをいれて、一人で図書室へ入っていく。
何度も通って慣れた本棚、本の位置はもう目をつぶっていても分かるくらいだった。
「あった」
そっと、本を取り出し貸出カードのポケットを確認する。
予想通り、そこには新しい手紙が挟まれていた。
一方的になってしまった別れの挨拶。相手はどんな答えを返してくれるのか。
存在さえ不確かなペンフレンドとの文通はこれが本当に最後になる。
息を整え心を落ち着かせ、手紙を開く。
しかし、書かれていた内容は彼女の予想とは遥かにかけ離れたものだった。
『拝啓、園田 海未様
卒業、おめでとうございます。
あなたとこうしてお話が出来て、本当にうれしかったです。
本当はちゃんと、面と向かって話せればよかった。でも、いざちゃんと話そうとすると上手く喋れなくなってしまう臆病な私を許してください。
本当に色々な事がありましたね。』
「え?」
そこに書かれていた内容は、今までに彼女が……彼女達がμ’sとして活動してきた時の事。
そして、μ’sではなくなってからの事。
メンバーでなくては知りえぬ事。
ならば、名も知らぬと、そう思っていた彼女は、
『もう、あなたがこの手紙を見る事はないでしょう。だから、これは私の自己満足に過ぎません。
本当にダメな私です。
ちゃんと、言おう言おうと思っていて、でも結局言えなかった事を、ここに書きます。
私は、貴女の事が好きでした』
息を呑む。
手紙の最期に遠慮がち小さく書かれた名前を見つけ、彼女はしばし呆然として、しかしすぐに薄く苦笑を浮かべた。
「全く、貴女という人は……」
気が付いた時には駆け出していた。
図書室を飛び出して、彼女の元へとひた走る。
「海未ちゃん!?」
「え? どうしたの?」
困惑する幼馴染には申し訳ないが、こちらの問題を片付けるのが先決だ。
まずはお説教からはいるべきだろうか?
それともちゃんと別れの挨拶?
はたまたお礼をいうべきか?
考える事はたくさんあって、彼女のもとにたどり着くまでにまとまりきるか不安だった。
でも、たった一つ、彼女への返事だけは決まっていた。