如月千早とは。
765プロダクションに所属するアイドルの一人である。
そんな如月千早は朝はトレーニングから始まる。
朝6時に起床し、顔を洗い、歯を磨き、お気に入りの青いジャージに着替えてのランニングが日課。
数キロの道程を親友の天海春香にプレゼントしてもらった音楽プレーヤーを装着し走る。軽い足取りは規則的な足音を鳴らし、近所に住むお婆さんに挨拶を交わしながら。
鍛えられた身体はこの程度のジョギングで大きく息を乱すことも無い。
呼吸を整え部屋に帰ると次は筋力トレーニングが始まる。
必要以上に筋肉がつかないよう、最低限の腕立て伏せ。そして腹筋。
細く美しい身体のラインを崩さぬ様に欠かせないものだった。
そして1リットルの牛乳パックを一気飲みする。
控え目な胸の膨らみを見下ろし、今日もひとつ…重たい溜息が漏れた。
「千早ちゃん、おはよー」
「おはよう、春香。今日は早いのね」
「そうかなぁ、確かにちょっと早かったかも?」
千早と挨拶を交わすのは親友である、天海春香。
普通の女の子と言えばそれまでだが、正真正銘、トップアイドルと言って差し支えない存在。
頭の左右にリボンを結び、どこをどう見ても普通の少女。
しかし、舞台に上がればその評価を一変させる。
溢れるリーダーとしてのカリスマ性は見る者を魅了する。
「千早ちゃんの今日の予定は?」
「えっと…今日はレッスンかしら。確か真壁さんと一緒ね」
「瑞希ちゃんと千早ちゃんって相性いいよね」
「そうね…真壁さんは大人しくていい子だから」
「実は瑞希ちゃんの方が歳上だけどね…」
小声で指摘するも気にしていない千早は劇場の中に足を進める。
ロケ番組の撮影がある春香とは玄関で別れ、ドレスルームへ一直線に向かう。
コン、コン、コンとノックを3回。部屋の中からは落ち着いた抑揚の無い返事が返ってきた。
「おはようございます、真壁さん」
「おはようございます、如月さん」
昔に比べてパーソナルスペースが狭まった千早は瑞希の座る隣へ腰を下ろした。棘の無い千早は誰からにも頼られるお姉さんとも言えるだろう。現状この部屋で年齢が上なのは瑞希なのだが、アイドルとしては先輩の千早がお姉さんなのは妥当と言えるかもしれない。
鞄からスマホを取り出し、たどたどしい手付きで操作しながらプロデューサーからの連絡を確認する。春香や美希に何度教えられても機械が苦手な千早は相変わらず最低限の操作しか出来なかった。
「今日のボイストレーニング、ご指導よろしくお願いします」
「そうは言っても、真壁さんに教えることは殆どないと思うわよ?」
「いえいえ、未だ若輩ですから。先達である如月さんには色々と教わりたい所存です。頑張るぞ、瑞希」
小さくガッツポーズを取る瑞希に笑みを零す。
抑揚の幅が少ない普段の口調からは想像が出来ない程瑞希の歌声は魅力的だった。
千早にとってそうであるように、瑞希にとっても同じ。
透き通るような高音と伸びのある声を羨むアイドルは多い。
瑞希はその秘訣を学ぼうと、須らく吸収しようと目論んでいた。
「如月さんはどの様に声を出しているのでしょう」
「…どの様にと言われると、返事に困るのだけれど。真壁さんは歌う時に何処に意識を集中させているのかしら」
「ふむ…お腹、腹筋でしょうか。天海さんに聞いた時に、そうするといいと言われたので」
「春香に教えたのも私だけれど、ちゃんと実践出来てるのなら後は経験値ね」
千早が立ち上がると瑞希も合わせて席を立つ。
千早は手を鳩尾の部分に当て、声を出してみせた。合わせるように瑞希も声を重ね、ドレスルームに二重奏が響く。
「そう、その調子。ここにゆっくり力を込めて、自然に息を吐けるように練習しましょう」
瑞希の背後に立つ千早は瑞希の腰から腕を回し、自身が意識する場所に手を添える。
ここに力を入れて、ゆっくり音を出してみて。と瑞希の耳元で発声の邪魔にならないよう小声で囁く。
腹部に伝わる千早の体温、吐息混じりの美しい声が鼓膜を震わせる。
目線をズラし、頬をほんのり朱色に染める瑞希。
そんな状態でも全く気にしない千早は瞼を下ろして瑞希の声に集中する。若干の声の震えを気にしながらも、発声に満足した千早は体を離した。
「その感じを常に出せるように意識してみましょう、そうすれば無理なく高音が出るようになると思うわ」
「ありがとうございました…」
火照る顔を手で隠し、速くなる鼓動がバレないように座り直す。
感じたことの無いドキドキを、瑞希は密かに大切にしたとか。