七慾のシュバリエ ~ネカマプレイしてタカりまくったら自宅に凸られてヤベえことになった~   作:風見ひなた(TS団大首領)

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第28話 今、年下の男子がアツい!

 クロダテ要塞を巡る【トリニティ】と【アスクレピオス】の攻防戦は、【トリニティ】の勝利で幕を下ろした。

 

 突然のレイドボスの乱入によって【アスクレピオス】作戦司令部が壊滅したことに加え、クロダテ要塞自体が崩落してしまったため、もはや【アスクレピオス】はこのエリアを死守する能力と意義を喪失したのである。

 

 これによって【トリニティ】はクロダテ要塞エリアの奪還に成功する……。

 

 

 

※※※※※※

 

 

 

「クロダテ要塞を奪還した、その功績は認めよう……」

 

 

 円卓を囲む席上で、年配の男が拳を振り上げる。

 

 

「だが、肝心のクロダテ要塞を崩落させては意味がなかろうが! これで防衛を固め直し、先の防衛線で疲弊した戦力を立て直すという大戦略が瓦解した! この責任をどうとるおつもりか!? だから私に任せておけばよかったのだ! それを横から自分ならできると豪語したのがこのざまではないか!!」

 

 

 烈火のように激怒するポーズを見せる年配の男は、先の防衛戦でクロダテ要塞を奪われた指揮官だった。

 自分が守り切れなかったことを棚に上げて、自分なら無傷で奪回できたと逆にペンデュラムを攻撃する材料にしようとしていた。

 そんな政敵に、ペンデュラムは涼しい顔で応える。

 

 

「問題ありません。より良い代案をお持ちしました」

 

 

 ペンデュラムが指を鳴らすと、そばに控えていた副官がインターフェースを操作して会議場のモニターにデータを表示させる。

 

 

「こちらは“怠惰(スロウス)”系統のレイドボスから得られた素材によって解禁された技術ツリーです。“グラビティガン”などの重力兵器や、ある程度の重力を遮断するパーツなど、多数の新兵器・新パーツの生産が可能となりました」

 

 

 ペンデュラムの部下の参謀がさっと資料を配布する。そちらには解放される武器やパーツの詳しいスペックが記載されていた。

 円卓を囲む【トリニティ】幹部たちが、そのスペックにほう、と声を上げる。

 

 

「ご存じの通り、未だ“怠惰”系統のレイドボスが撃破された公式記録はありません。今回『私が初めて撃破した』のです。故にこれらの武器とパーツは、現時点では【トリニティ】と【アスクレピオス】の寡占(かせん)技術。【アスクレピオス】には“ヘルメス航空中隊”が横殴りして得た素材しか渡っていませんから、実質我々の独占に近い状態にあると言えますな。これらの兵器で優位に戦うなり、技術を高値で売りつけるなりすればよろしい」

 

「欺瞞を! 問題をすり替えてもらっては困りますな! 確かに“怠惰”のレイドボスを倒した功績はある、だが防衛戦略の崩壊をそれで補えるわけではない!」

 

「話は最後まで聞いていただきたいですな」

 

 

 ペンデュラムは薄く笑うと、パチンと指を鳴らす。するとモニターが切り替わり、クロダテ要塞付近のエリアが表示された。

 

 

「クロダテ要塞を落とした次は、周辺エリアを電撃作戦で奪います。クロダテ要塞を占拠するメリットは、要塞に籠った航空部隊による防御力と、周辺エリアへの攻撃のしやすさの2点。しかし周辺エリアをこの後すぐに攻め落とせば、もはやクロダテ要塞の戦略上の価値は激減します」

 

 

 アニメーションで矢印が表示され、みるみる周辺エリアを占拠していく。

 資料はメイドが10分で作ってくれました。

 

 

「無論、電撃作戦はこのまま私が引き受けましょう。ご安心を、貴方のお手を患わせはしませんよ。……また防衛しそこなって奪われては、甲斐がありませんからな?」

 

 その嫌味に、ぐっと政敵が呻き声を上げる。

 ペンデュラムは芝居がかった調子で両腕を広げると、居並ぶ指揮官たちを見回した。

 

 

「では、私の手並みをご披露させていただくということでよろしいですかな?」

 

 

 パチ、パチ、パチパチパチ……。

 

 小さな拍手の音が響く。

 列席する指揮官たちではない。ひとりの少年が鳴らしたものだった。

 

 真っ白な詰襟の軍服に、少しだけ長く伸びた金髪。

 柔和で穏やかな顔立ちは、一見して人の良さを感じさせる。

 その内面を知らなければ、おとなしい文学少年のように思えただろう。

 

 

「さすがです、ペンデュラム。弟として大変鼻が高いですよ」

 

「……カイザー」

 

 

 カイザーと呼ばれたにこやかな少年の顔つきとは対照的に、称賛を受けたペンデュラムは苦々しい表情を浮かべた。

 

 

「誰にも倒せなかった“怠惰”のレイドボスを倒してのけ、クロダテ要塞を占拠したその華々しい武勲。その前には“氷獄狼(フェンリル)”の手からミハマエリアを防衛し、今度は大胆な電撃作戦まで指揮するという。本当に素晴らしいことです。つい先日まで弱兵ばかりで苦戦していた貴方とは思えませんね」

 

 

 カイザーはにっこりと微笑み、まったく笑っていない漆黒の瞳を姉に向けた。

 

 

「どんな強兵を手に入れたのです? 教えてくれませんか」

 

 

 深い深い、闇のような色の瞳。

 深淵に通じているのではとすら思える、吸い込まれそうな吸引力。事実、これまで無数の人間が、魂を引き込まれるようにこの少年の前に跪かされた。

 

 それはペンデュラムの配下も例外ではない。それまで精強を以て知られたペンデュラムの軍は、戦闘力に長けた優秀な兵士を多数引き抜かれてしまっている。

 篤い忠誠心を持つ者たちは残ったが、今となってはもう見る影もないほどに弱体化していた。

 

 

 ――自分とはまったく異なる相の、カリスマの権化。

 

 

 ペンデュラムは内心に浮かべた汗をおくびにも出さず、薄い笑みを浮かべる。

 

 

「教えんよ。人のものをすぐ欲しがるのは貴様の悪癖だ。直してはどうだ?」

 

「おやおや……姉におねだりするかわいい弟に随分と冷たい」

 

 

 クックッと楽しそうに笑う弟に、何がかわいいものかとペンデュラムは思う。

 確かに昔はかわいかった。まだ姉様、姉様と後ろをついて歩いていた頃は。

 

 齢を重ねるたびに化け、無数の人間を虜にするようになった。

 19歳になった今ではもはや掛け値なしの化け物だ。

 

 天翔院(てんしょういん)牙論(がろん)

 カイザーというアバターを得てペンデュラムを苦しめる、最大の政敵。

 

 

「ははは……姉弟仲がよろしくて大変結構。五島の未来は安泰ですな。ですが、社内について論じているときに姉弟という立場を出すのはお控えください」

 

 

 この場の議長格がハンカチで汗を拭いながら、カイザーたちを嗜める。

 年長者として、立場が上の人間としてのリーダーシップを見せようとしていたが、流れる汗はこの場の主役が姉弟であることを語っていた。

 

 

 カイザーは肩を竦めると、これは失敬とおどけて見せる。

 

 

「ええ、彼女の策に反対意見はありません。実現できるのであれば素晴らしい作戦です。ぜひその活躍を見せてください。期待していますよ、ペンデュラム」

 

 

 まるで自分の方が上位者であるかのような弟の物言いに、ペンデュラムは不愉快そうに鼻を鳴らした。

 

 

「そちらこそ、自分の奪回作戦は順調なのだろうな? 寝首を掻かれねばいいが」

 

「ええ、もちろん。素晴らしい助っ人がいますからね……貴方と同じく」

 

 

 睨み付けるペンデュラムと、涼しげな顔のカイザー。

 次期五島重工のトップを巡り、骨肉の争いを繰り広げる後継者候補たちの中でも最も燦然と輝く才能の申し子である姉弟。

 

 後継者レースは、現在牙論が圧倒的に有利とみられていた。

 

 

 

※※※※※※

 

 

 

 VRポッドの中で目を開いた天音は、ゆっくりと体を起こした。

 ポッドのハッチが開くと、すぐそばに控えていたメイドが跪き、銀の盆に載せられた冷たい濡れタオルとスポーツドリンク入りのボトルを差し出す。

 いつ天音が帰還してもいいように定期的に取り換えられていたタオルは、ひんやりと冷気をまとわりつかせていた。

 

 

「ご苦労」

 

 

 スポーツドリンクを飲んで水分を補給する天音の背後に回ったメイドが、タンクトップの中に手を差し入れて、濡れタオルで汗を拭い取っていく。

 そして周囲のメイドたちよりも一回り年かさの、眼鏡を掛けて理知的な雰囲気をもったメイドが資料を手に天音の前に立った。

 

 

「ご報告を」

 

「よろしい。手短に頼む……ごほん」

 

 

 天音は咳払いすると、少し顔を赤らめて軽く笑みを浮かべた。

 

 

「VRボケしてるわね。“ペンデュラム”がまだ抜けてないわ」

 

「性別を逆にしているとなりやすいそうです。お嬢様だけではありませんよ」

 

 

 メイドは薄く笑い返すと、再び表情を引き締めた。

 

 

「ご命令いただいておりました、山王(さんのう)電子機器の買収に成功しました。これによって金城(かねしろ)常務の派閥が割れることはほぼ確実です」

 

「でかしたわ。山王の経営陣は全員首を切って、うちのシンパにすげ替えておいて」

 

「はい、その手はずも進めております」

 

 

 VRゲーム内の作戦とリアルでの買収劇を同時に進めていた天音は、自分が指示した買収工作を成功させたメイド隊のリーダーに満足げな笑みを浮かべた。

 

 天音が買収したのは、五島重工内の後継者レースにおける敵対陣営が実質的な子会社としている企業だった。一時期は不渡りを出しかけていた電機メーカーだが、近年の第七世代通信網の普及による需要によって息を吹き返してきている。

 

 そしてその敵対陣営とは、先ほどの席上でペンデュラムの責任を追及しようとしていた指揮官が属する派閥だった。

 

 この買収劇にあたっては、VRゲーム内での今回の戦闘の結果が少なからず影響している。敵対派閥の失態と、ペンデュラム派の華々しい戦果。

 そして五島重工の“()()()”を大きくリードさせる寡占技術の入手。これが山王電子機器に対しての交渉を有利に運ばせたのである。

 

 端的に言えば、“VRゲームで勝ったことで買収工作が成功した”。

 

 これまでの常識で言えば、到底ありえないような現象が起こっていた。

 

 

「……5000円じゃどう考えたって安すぎるわよ、こんなの」

 

「は?」

 

 

 何でもないわと言って、天音はスポーツドリンクの残りをすする。

 

 

「金城派に属していたパイロット、引き抜けるわよね? 戦闘に長けたのがほしいんだけど、なんとかなりそう?」

 

「それが……我々が連絡を取った頃には、既に牙論様のスカウトが手を回していました。買収が成功することをあらかじめ予想して、事前に接触していたとみられます」

 

 

 天音はボトルの中身を一気に飲み干し、ゴミ箱に向かって投げつけた。

 

 

「チッ、なんて手の早い……! あの愚弟め、全部知っててなーにが『強兵を手に入れたようですね』よ。また戦闘に長けたパイロットを確保しそこなったわ!」

 

「申し訳ございません。我々に戦闘センスがないばかりに……」

 

「……貴方たちのせいじゃないわ。貴方たちは自分にできる分野で、私をよく支えてくれている。いつも感謝しているのよ」

 

「恐縮です」

 

 

 眼鏡を掛けたメイドのみならず、その場に控えるメイドたちが一斉に頭を下げた。

 彼女たちを見ながら、天音は考える。

 

 

 数年前から異様なカリスマ性を発揮するようになった牙論は、まるで魔法のような人心掌握術で《トリニティ》内外を問わず多くの優秀な兵士を集めている。

 いくつもの戦場で苦楽を分かち合ったはずのペンデュラムの配下たちが、牙論にスカウトされるなり去っていってしまったことは、今も天音のトラウマだ。

 

 天音に忠誠を捧げる腹心の部下(メイド)たちは残ってくれたものの、彼女たちの戦闘力は決して高くない。事情を知らないクラン外の人間はペンデュラムの軍を今もなお精兵だと思っているようだが、実情はガタガタなのだ。

 

 戦闘力に秀でた人材はどうしても必要だった。それが一騎当千の実力を持っているのならば、なおのこと。

 

 

「……どうあってもシャインを捨て置く手はないわ。あの子を何とか私のものにする。彼女なら、牙論が集めている戦闘パイロットにも匹敵するはず」

 

「かしこまりました」

 

 

 深々とお辞儀する、メイドたちのとりまとめ役。

 

 

 そんな主人とメイドリーダーの会話を、別室に設置されていたVRポッドから目覚めた副官&参謀メイドたちがドアの陰から見守っていた。

 

 

「きゃー! 『私のものにする』って、これって恋の始まりニャ?」

 

「えー、でも天音様もシャインちゃんも女の子ではありませぬか?」

 

「女の子同士の恋愛、あると思います」

 

「「「キマシタワー!!!」」」

 

 

 きゃいきゃいと盛り上がるメイドたち。

 地獄耳を誇るメイドリーダーはこめかみに青筋を浮かべ、こいつら後でおしおきしてやると固く誓うのだった。

 

 

 

※※※※※※

 

 

 

 VRポッドから目覚めた虎太郎はびっくりした。

 なんと警察官が自室に訪ねて来たのである。

 

 警察にあまりいい思い出がない虎太郎は、どきどきしながら要件を聞いた。

 

 

「ああ、いえ、実は付近の住民の方から、お昼ごろに『死ねェェェ!!!』などと女性が絶叫する声が聞こえたと通報がありまして。何かご存じありませんか?」

 

「いえ、僕は今日ずっとVRゲームして遊んでたのでさっぱり……」

 

 

 ああ、もしかして……と虎太郎は思う。

 

 

「近所でVRゲームで遊んでた人の防音が甘くて、声が漏れてたとかじゃないでしょうか?」

 

「そうかもしれませんねえ。最近はVRゲームで遊ぶ人も随分と増えましたから。まあ暴力なんかはゲーム内で発散してくれた方が健全でいいんですが、人に聞かれたら勘違いされますからなあ」

 

「おまわりさんも大変なんですね……」

 

「ははは、まあ何事もなければそれに越したことはないですよ。まったくこの20年で急激に文明が進んじまったみたいで、私みたいなおじさんはついていけません」

 

 

 警察官はとくに虎太郎を疑った様子もなく、また何かあれば気軽にご連絡くださいと言い残して帰っていった。

 

 

「よかった、いいひとで。故郷の警察とは大違いだ」

 

 

 やっぱり東京は暮らしやすいな、上京してよかったと虎太郎はひとり喜んだ。

 

 

 それから軽く腹ごしらえして、ジャージに着替え、日課のランニングへ。

 

 VRゲームを始めてみて、虎太郎はランニングや筋トレは必須だと感じていた。何せ狭いところに閉じこもってリアルの体を動かさないのだから、習慣的に運動しないとみるみる体がなまってしまう。VRポッドの説明書によれば筋力維持機能があるらしいのだが、それに頼り切るつもりはない。

 体を動かさないのは健康にだって悪いし、せっかく頑張って体に覚えさせた動きが錆び付いてしまえばゲーム内で使えなくなってしまうかもしれない。それは避けなくては。

 

 東京の夜は20時を回っても明るく、煌々と街灯が輝いていて、どこにだって人が歩いている。これも田舎では考えられなかったことだ。夜でもランニングがしやすくて実に便利だと思う。

 

 

「あれ……?」

 

 

 公園の脇を素通りしかけた虎太郎は、暗い公園に誰かが立っているのに気付いた。なんだか見覚えがある後ろ姿だと思い、近付いてみる。

 

 

「鈴夏先輩じゃないですか。先輩もランニングを?」

 

「あっ……虎太郎くん」

 

 

 振り返った鈴夏の瞳が少し濡れているのに気付き、虎太郎はまずいところに来ちゃったかなと思った。

 鈴夏はさりげなく涙を拭うと、手に持っていたスマホをズボンのポケットにしまって、うふふと笑顔を浮かべる。

 

 

「うん、そうなの。昔からの癖でね、体を動かさないと眠れないんだ」

 

「そうなんですか。何かスポーツでもやってらしたんですか?」

 

「まあ、実家がね。少しスポーツを教える仕事をしていたものだから」

 

 

 ゆっくりと鈴夏が近づいてきて、すぐ前に立った。

 

 あれ……? この人、割と背が高いな……。

 

 アパートの中で座って話していたときには気付かなかったが、女性にしては高身長の鈴夏は虎太郎よりも少し背が高かった。高校生のうちに身長がもうちょっとほしかった虎太郎としては、ややコンプレックスを刺激されてしまう。

 

 どうしよう。この人泣いてたし、すぐ帰ったほうがいいのかな。

 でも恩人だし、何か困ったことがあるなら力になってあげたい。

 

 しばらく迷った結果、ええいままよと決断する。

 

 

「あの……さっき、泣いてませんでした? 僕でよかったら相談に乗ります」

 

「あっ、見られてたんだ……」

 

 

 鈴夏はばつが悪そうな表情になった。やっぱり聞かない方がよかったかな。

 しかしすぐに自分の頭をコツンと叩き、てへと舌を出す。

 

 

「実は仕事で失敗しちゃってね。偉い人から怒られちゃったの」

 

「そうなんですか。少し失敗したくらいでひどいですね」

 

「ううん……私が悪かったの。始末書くらいで済んだのはむしろ温情よ」

 

 

 始末書か。何か問題をしでかしたら書かされるのだと聞く。

 鈴夏先輩のバイト先はコンビニだと聞いていたが、最近のコンビニはバイトにも厳しいんだなあ。

 

 

「まあ、チームからも外されちゃったんだけどね。頑張って入った憧れのチームだったんだけど……なかなかうまくいかないよね」

 

 

 夜勤のシフトに入ってたのかな?

 

 

「とはいっても、チームの先輩とはうまくいってなかったし……いつかこうなるのは当たり前のことだったのかもしれないなって思うの」

 

「それなら、きっと辞めてよかったですよ。人間関係のごたごたなんかで苦しめられるのはバカみたいじゃないですか。それに、お肌にも悪いですよ」

 

「お肌? うん、確かに睡眠時間も削られてたしね」

 

「はい! 今はぐっすり眠るのがいいと思います!」

 

 

 お前、ペンデュラムの次の相方見つけてんじゃねーよ。

 

 噛み合っているようでまったく噛み合ってない会話で励ます虎太郎に、鈴夏はくすっと笑顔を浮かべた。

 

 

「『辞めてよかった』……か。ふふっ」

 

 

 ――『ふーん。じゃあ辞めれば?』

 

 

「本当に軽く言ってくれちゃって、もう……」

 

 

 ぎゅっ……。

 

 

「えっ……!?」

 

 

 鈴夏に正面から抱きしめられた虎太郎は、真っ赤になって硬直した。

 ジャージの薄い生地越しに、柔らかくて大きな膨らみが顔に押さえつけられる。

 なんだか花のような、すごくいい香りがした。

 

 

「あ、あの……!」

 

 

 はわはわはわわわっと慌てる胸の中の虎太郎に、鈴夏もまた真っ赤になって身を引き離す。

 

 

「ご、ごめんね! なんだか知ってる子と話してるような気がしちゃって……。何やってるんだろ私……!」

 

「知ってる子、ですか……」

 

 

 鈴夏先輩にはこんなふうに抱きしめる子がいるのか。

 そう思った虎太郎の胸の奥が、ちくりと痛んだ。

 

 

(バカ、何を考えてるんだ。先輩とは昨日出会ったばかりだぞ。まったく、我ながら惚れっぽくて呆れるよ)

 

 

 頭を振って痛みを振り払った虎太郎は、軽く笑って尋ねる。

 

 

「その子って僕と似てるんですか?」

 

「ううん、全然そんなことないの! 生意気でワガママで子供っぽくって、何でも世の中自分の思い通りになると思ってるような傲慢さで……虎太郎くんみたいないい子とは似ても似つかないわ」

 

「なんか、すごい奴と友達なんですね……」

 

 

 僕ならそんな迷惑なやつとは絶対に友達になりたくない。そんなのと付き合っていられる鈴夏先輩は、本当に心が広くて優しい人なんだな。

 

 

「友達……友達か。うん、そうね。友達なの」

 

 

 そう頷いて、鈴夏は花の蕾が綻ぶかのように、にっこりと笑った。

 

 まるで女性という花が花開いたかのような、そんな笑顔に虎太郎は見とれる。

 

 

(先輩は、きっとそいつに恋をしてるんだな……)

 

 

 たぶん自分では気付いていないんだろうけど。

 その人物が、目の前の優しい女性を幸せにしてくれることを虎太郎は祈る。

 心優しい人には、どうか幸せに報われてほしい。

 

 そんな虎太郎の内心を知るべくもなく、鈴夏はぽんと手を叩いた。その拍子に、ジャージの生地越しに大きな胸が揺れる。

 

 

「あ、そうだ。虎太郎くんもランニングとか筋トレが日課なの? じゃあ私と一緒にやらない?」

 

 

 虎太郎はそこから頑張って視線を離しながら、戸惑った声を上げた。

 

 

「えっ? それは……いいんですか?」

 

 

 その気になる人と過ごした方がいいんじゃ? と虎太郎は思う。

 しかし鈴夏はにこにこと笑うばかり。

 

 

「もちろんいいよ。2人なら、ひとりじゃできないトレーニングもできるし。私、実家だとインストラクターの真似事みたいなことしてたから、そういうの得意なの!」

 

「そうなんですか」

 

 

 いいのかな……と虎太郎は少し罪悪感を覚える。

 しかし、鈴夏の表情から昨日の擦り切れる直前のような、まるで人生に疲れ切ったかのようなやつれが消えているのを見て、彼女の好きなようにさせてあげたほうがいいのではないかと考え直した。

 

 

「じゃあ……せっかくなので、お願いしていいですか?」

 

「うん、いいよ! これからよろしくね、虎太郎くん」

 

 

 にこやかに差し出される鈴夏の手。

 その手を握り返し、握手する虎太郎。握られた手から、温もりが伝わる。

 

 

 その温もりは、ホログラム越しよりもずっと暖かった。

 

 

第一章 おわり


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