作:『?』
あなたと話す、私は死体。
「あなたは本当に、そこにいるのですか?」
「あなたは私ではないのですか?」
問うた答えに、意味はない。…生きてるうちはね。
それでも夜の、深い間は話をしよう。
あなたのことが好きだから。
そこは、真暗だった。
喧騒のない夜にありふれた、照明の落とされた空間だ。
視界の端にぼんやりと映った窓の外では、
静かだが全く音のないわけではない、そんな静寂で満たされていた街の、その他大勢。取るに足らないもののひとつ。
どこにでもある賃貸に、なんの特徴もない家具が置かれているだけの、色気も無ければつまらない部屋であった。
ただ飲み込まれそうな、夜の空気で満たされている。
そんな部屋の中、私はざわざわとして落ち着かない心持ちで、少し痺れている思考をぐるぐるとまわしていた。
脈絡もなければ取り留めのない思考の群れが、暗闇をライトで照らすように『あぁ、そんなとこにあったのか』って思うように、ぼんやりと湧いては去っていく。まるで舞うように。
『落ち着くね』
声がした。彼女の声だ。
甲高いようでいて落ち着いた調子の、聞き取りやすいやさしい声だった。
全くもっていつからいたのか分からなかったけれど、声のする方向から察するに、多分ベッドのあたりにいるのだろう。
不意に軋みを伴って、ぼすりという沈み込む音が聞こえ、彼女が座ったことを察した。
「本当に?…ここはまったく落ち着かないよ」
『そう?私はあなたの隣だったら、どこでも息が吸えるのになぁ…』
テレビを。電源灯の赤く光った、何も映っていないテレビを見詰めたまま、返事をする。
もっとも返事など、有っても無くてもよかったのだろう。…どうでもよさそうな相槌の後、彼女は懐かしい歌をハミングしていた。
間。…下手な鼻歌が、やけに耳に染みる。
不意に遠くの方で聞こえた救急車のサイレンが、もっと遠くに離れていくのを理解して、どこか寂しいような辛いような。…でもそれらの言葉では表現し得ない、漠然とした絶望感を覚えていた。
何年前だったかは忘れたけれど、あぁ…確かあれは、以前は私を連れて行ったのだ。
耳の奥で激しく響く、今にも破裂しそうな心臓の音。止まらない吐き気。震える足。…そしてなによりも、謂れのない不安と絶望が、恐ろしかった。
きっと逃れられないのだろう。
「今日はいつまでいるの?」
そんな嫌な思い出を振り切るようにして問いかけると、ハミングが止んだ。
彼女が消えてしまいそうで、少し心がざわざわとする。…でも彼女はいつだってそうだった。
マイペースで、思わせぶりな態度を取って、私の心を惑わせるのだ。
『んー、今日はねぇ…』
ぎしりと、ベッドが軋む。
『いつまで、いてほしい?』
「ひぅ…」
思わず、声が漏れた。
彼女は想像していたより、ずっと近くに来ていたらしい。
吐息が耳に触れる暖かい感触。鼓膜をくすぐるようないじわるな声に、ぞわぞわと肌が粟立つような感じがする。
『ねぇ、あなたがいてほしいと思う時まで、ずっといてあげるよ』
「ふえっ…えぇ、えっと…」
上手く声が出ない。
耳元で囁く声が、意識の全てをぐっと掴んで、私の思考を断ち切るのだ。
近すぎるとか、ゾクゾクするとか、そんな感想ばっかりが脳裏を駆けていって、真面な返答を組み上げることもままならない。
私は、彼女に、いつまでいてほしいのだろうか?
私はいつまで起きていられるのだろう。
わからない。
『…ふふっ、かわいいね。』
「えっ、え」
『いいよ、今日はとくべつ。…あなたが寝るまで、ここにいてあげる』
「あっ…うん。…ありがと」
『最期に、なるだろうからね』
気配が遠ざかる。
彼女が傍にいるという恐怖が無くなってどっと安心すると同時に、胸の片隅には残念に思う感情も、無視できない程度には積みあがっていた。
それでもきっと、この『残念』も一瞬のものだろう。
何せ、私の夜はこんなにも長いのだから。
彼女が寝るまでいてくれると言うなら、きっと眠る頃には寂しさも忘れているはず。
長い夜は辛くて、苦しくて、恐ろしい。…だから私は彼女と一緒にいるのだ。
『そういえばさ、ねぇ、今日は雨が降ってたよね』
「そうだね、大雨だった」
突然話題が切り替わった。
彼女は『そういえば』という言葉を万能なものだと思っている節があって、昔から話題に飽きたり、もしくは気まずい雰囲気になったりしたら、すぐこの台詞を使う。
もっとも私も、彼女との脈絡のない会話が好きだったから、隙あらば挟まれる『そういえば』が嫌いではなかった。
脳味噌に浮かんだ言葉を、思うがままに音にしているかのような…そんな流れに漠然と同調することが好きだったのだ。あるいは彼女が好きだった、と言い換えられるのかもしれない。
放課後、やる気もないのに補修の課題を机に出している彼女に付き合って、星がちらつく頃まで教室で時間をつぶしていたのは、ひとえに彼女と話すためであった。
やる気もないのに補修の課題を机に出していたのは、あなたと話すためだった。
そんな時間がとても幸せだったのだ。
彼女が幸せだったかは、もうわからないけれど。
あなたが幸せだったかなんて、考えたこともなかったけれど。
『雨。…ねぇ、寒のあめって知ってる?』
雨の降る晩方の道を描いた、陰鬱な雰囲気の詩だったはずだ。
ただ不思議なのは、彼女は詩なんて読むようには見えないし、ましてやそのような雰囲気を好むとも思えないということであった。
「うん。金子みすゞのでしょ?」
『金子みすゞ…誰?作者の名前?』
「…知らなかったの?」
まぁ、そうだろうなぁ…
納得というか、むしろ知っていたほうが驚いていただろう。
『興味ないからね。…そんなに有名な人なの?』
「有名…だと思うよ、多分。私と小鳥と鈴とって詩を歌ってる」
一度は聞いたことあるんじゃないかなと、そんな風に続けた私の言葉に、どうやら彼女はピンと来ていないらしい。
語尾に付くクエスチョンマークが容易に想像できるような、随分と間の抜けた声で唸っている。…とはいえ本当に聞いたことがないということはないだろう。
おそらくは寒のあめよりずっと有名な、金子みすゞといえばコレという人も少なくないであろう作品だ。
「…みんなちがって、みんないいってやつだよ」
『あぁ、アレね!…同じ人なんだねぇ』
そんなものだろうか。…まぁ、そんなものか。
教科書に載っているような著名な詩人だが、そもそも興味が無ければ覚えていないのも仕方がないだろう。
興味の赴くままに行動している彼女については、そのあたりの性質は特に強いような気がするし…これも次の日には、忘れているのかもしれない。
「それで、寒のあめがどうしたの?」
逸れかかっていた…いや、逸らした私の言うことではないけれど、とにかく話の軌道を元の話題に修正する。
多分このままでは別の話題が始まってしまって、二度と彼女の口から「寒のあめ」という言葉が出ることは、ないだろうから。
気になるところで話が中断してしまって、後で聞いても他ならぬ彼女自身が忘れていた…なんて経験は、珍しくないのだ。
『いや、あなたに似てるなぁって、改めて思ったんだ』
「えぇ…?あれの中の…なにが?」
あの詩は情景こそ描かれているけれど、登場人物について分かることは本当に少ないのだ。
唯一人間である登場人物の『私』についても、薬を持って傘を差して歩いているという描写だけで、そこから読み取れる雰囲気こそあれど、彼女を取り巻く状況や心情が描かれることはない。
もっとも詩とは、そういうことを語るものでもない気がするけど。
そんな『私』ですら、私と重ねられる部分は少ないだろうに。
『なにがって…なんだろうね?…街燈とか?』
「街燈が…私に似てるの?」
疑問形で返された「私に似てるもの」は、そもそも人間ですらなかった。
得てして詩なんていうものは、人間以外のものに人間性を見出すものだろうけど、自分のことながら…いや、自分の事だからこそなのか、私と街燈が似ているという話は、あまり納得できるものを感じることができなかった。
『うん。…なんとなく言ってみただけだけど、とっても似てるよ』
「そんなにかなぁ…」
『…だってあなたは、誰かのために動く人のことを、まるで憧れるような目で眺めてたから。何があっても遠くから見守っているだけ。それなのに何かがあったら、とても苦しそうな顔をするの。自分を灯すことだって忘れるくらいに』
そうして彼女はまるで自分で例えた街灯という表現に、自分で納得するような感じの台詞を言うと、あとはもう話が続くことはなかった。
なんだか腑に落ちなくて「どんなところが似てるの?」と聞いても、適当にはぐらかすだけで、最終的には秘密ということにされてしまったのだ。
『点いてないテレビを見るのって、楽しいの?』
突然に彼女が言った。
それは私の行動について触れるものだった。
「あんまり楽しくないかな」
『そう。なんで?』
「なんでって…」
当たり前だろう。
真暗の、自分の姿だけが反射する画面を見て、それでも楽しいと思えるのは、生粋の精神異常者くらいだ。
『つまり…あなたは精神異常者ってこと?』
「…どうだろうね?」
私は視界のやり場に困っているだけだ。
彼女が来た時に自由にできるスペースがあるように、ベッドの上に寝るという訳にはいかない。そもそも寝たくない。
テレビを点けたら、それはそれで邪魔。…かといって目を瞑るというのは、なんだか怖い。
あれも嫌、これも嫌…そんなことを思った果てに、最終的に行きついたのがこれなのだ。
『まぁ、あなたは気が触れてなくても、こういうことしてそうなところはあるけど』
「それってどういうこと…?」
流石に悪口だろう、今のは。
その気がなくても刺さる言葉はあるのだ。
『あなたは不思議、ってこと』
「不思議って…」
ベッドが軋む。
衣擦れの音が静かな部屋に響いて、彼女が動いたことを明瞭に伝えていた。
その音は、音だけで推測するところでは、どうやら四つん這いでベッドの上を歩いているようだ。
『あなたは、私と話してる。それってつまり、そういうことじゃない?』
肩に、手が置かれた。
それが余りにも信じられなくて、驚きから情けない、まるで零すような悲鳴が漏れる。
……だってそんなことは、ありえないじゃないか。
『わたしはここにいる。…でもどうして、あなたは私を知っているの?』
「わたっ…わたしは、だって…あなたと…『ねぇ』
食い気味に、私の台詞を遮るように、彼女が囁く。
心拍数が異様に高まっていた。呼吸も不規則で、素早く、完全ではない。
私の肩の上、確かに存在する『重み』が、なによりも異常だった。
『あなたは、どうして私が聞こえるの?』
ひゅ、と。そんな音と共に、呼吸が止まる。
苦しいとは感じられないくらい、切羽詰まっていた。
ぐらぐらと揺れる視界と頭痛が、とうとう限界を超えて吐き気を伴う。
早鐘をうつ心臓の音が、まるでゲームみたいに誇張されて聞こえ、全ての要素がありえないくらいに不調和を極めていたのだ。
『私はもう、ずっと前に死んでいるのに』
私は…もう、耐えられなくなってしまう。
これ以上されたら気が触れてしまいそうだ!
「や、ぁ…」
『ふふ、ねぇ…こっちを向いて』
ふと、彼女の声調が変わる。
先ほどまでの恐ろしく無感情なものから、いつもの優しくて意地悪な声に。
「…やだ」
それでも私は、彼女の言葉に従えない。
想像以上にずっと震えていて、まるで嗚咽のようにも聞こえる縋る声で返事をする。
「見たら…いなくなっちゃうんでしょ?」
私は知っているのだ。
彼女が本当はそこにいないことも。
それを確認するようなことをしたら、幻だっていなくなってしまうことも。
『いなくならないよ、約束する』
彼女は確信めいた言葉で私を誘惑する。
肩に置かれた重みが、私に期待を抱かせる。
その私に芽生えた感情が恐ろしくて、もし今日消えてしまったらと思うと怖くて、私は、私は……
『こっちを、向いて…?』
私は、我慢できなかった。
どうやら私は、死んだらしい。
振り返ると、そこには彼女がいた。
四つん這いで、私の肩に手を伸ばして、こちらを見下ろしている。
綺麗だった顔はあどけなさを残したままに、もっと綺麗になっていて。滑らかだった髪は前より少し伸びて、陽光を浴びる川のように輝いていて。胸は思ったよりもそのままだけど、それでも確かに膨らんでいて。ふわりと香る彼女の匂いは甘くて、それでいて香水とは違って自然で。
あぁ、こんなにも大人びているのに、確かに彼女は『彼女』だった。
『ね、いなくならないでしょ?』
あっけらかんとした台詞。
私の情緒を埋め尽くす巨大な感情を置き去りにした、まるで何気ないような返事が、余計に彼女らしく思える。
それは間違いなく私の知る人なんだという確信が、痺れるように私の身体を貫いた。
確かな存在が、彼女は幻ではなくて、私の妄想でもなくて、そこにいるのだと証明していたのだ。
『あ、ぁ…会えた!!また!会えた!!!』
『…騒ぎすぎ。会えたも何も、ずっとここにいたってば』
泣きそうになる私とは対照的に、呆れたような視線を送る彼女。
確かにそれはいつも通りの反応だったけれど、少しくらい喜んでくれてもいいじゃないかと思う自分もいる。
……でも、それでよかった。
彼女は自分がどれだけ怪我をしていても、私がどれだけ怪我をしていても、関係ないと言わんばかりに何気ない会話をする人だったのだ。
痛みを感じないみたいに、痛みを理解できないみたいに…そんな異物感を漂わせる彼女は、まるで精霊みたいに美しかった。
その振舞いが少し煩わしく思えたこともあるけれど、いつでも私を歓迎してくれて、何気ないけど私を好いてくれていることが分かるのが、何よりも幸せだったのだ。
『そんなことよりさ、ねぇ。こっちで一緒に寝ようよ』
『えぇ!?え、だって、ぇ…それは、ちょっと……』
流石にそれは恥ずかしい。
彼女と近づきすぎると、多分私は爆発してしまう。
『あなたと一緒にお喋りしながら眠ってみたかったの…あなたは嫌なの?』
呆れたような目線はそのままに、心なしか眉尻が下がったような気がする。
『そんなこと、ないけど…』
『だったら…!』
それでも躊躇う私を見兼ねたのかもしれない。
不意に彼女は腕を伸ばすと、ひんやりとした滑らかな手で私の手を掴んで、ぐいと引っ張ったのだ。
私は生身で彼女と触れ合ったことによる、精神的な衝撃で全く抵抗することができなかった。
そもそもの問題として、食事も生活も不摂生を極めている私の、到底成人しているようには思われないであろう体格では、きっと物理的にも抵抗は叶わなかっただろう。
『うぁ…!』
そうして気が付いたときには、すぐそこに彼女がいた。
文字通り目と鼻の先、もはや触れ合う寸前と言った距離。
彼女の吐息をそのまま私が吸って、私の吐息をそのまま彼女が吸うような、相手の身体の熱を強く感じられる距離感であった。互いに体温なんて無いし、息もしていないはずなのに、どうしてか酷く火照ってしまう。
『なんか…それは気持ち悪くない?』
不意に彼女の突っ込みが入った。
ごもっともであろう。反論の余地など欠片もない。
交じり合ったことでぼんやりと察せる彼女の思考からも、ちょっとした興奮と共にドン引きするような意志が読み取れた。
『…ごめ『そういえばさ』
どうやら謝罪を聞く気はないらしい。
唐突な話題の転換に、これ以上気まずい感情を抱えていても無駄らしいことを察して…もっとも捨てることはままならなかったけれど、とりあえず彼女の話を聞くことにした。
『エイリアンっていると思う?』
いつも通り、突拍子の無い話だった。
私はぼんやりと映画でも見たのかなと思いながら、困惑交じりに適当な言葉を返す。
『多分、いる…と思うよ?』
私にとってあなたは、宝物のようなエイリアンだった。