作:『?』
月兎ではなかった兎は、崖の下から星空を見上げている様子。
彼女の、その真赤な目玉に浮かんでいたものは、振り返った月兎たちが想像してたような…たとえば絶望であったり、悲しみであったり、それらの感情はさほど大きくないように見えました。
沢山の月兎たちがススキの揺れる秋の岬に集まっておりました。
今日はみんなが待ちわびていた日。星が溢れる夜の空を踏み締めて、まんまるなお月さまに帰っていく日なのです。
自分のお母さんや、お父さんに会うために。
あるいはお団子をつくために。
あるいはかぐや姫さまと遊ぶために。
夢に胸を膨らませて、故郷に溢れんばかりの期待を寄せて…
けれども岬から跳ぶことは、月兎といえども勇気が必要なものらしく、みんな臆病風に吹かれてしまって、まだ誰もお月さまに向かって跳び出すものはおりません。
その中でも特に怯えている臆病な兎が一羽…
周りの兎達も彼女の、その弓を構えた狩人を前にしたかのような怯えように、心配して声を掛けたり、きっと大丈夫だと励ましたりしている様子が目立ちます。
というのも彼女は、自分が月兎ではないのではないかという…根拠こそありませんが、それをひどく心配していたのです。
そうやって多くの兎が足を竦ませている最中。ある兎が岬から跳び出していきました。
とても勇気がある兎でした。いつだって一番になる事が大好きで、鰐渡りの時だって、一番最初に飛び出したのは彼だったのです。
『僕は飛べるんだ!』
手毬のような真白な体で宙を跳ねながら、勇敢な兎は月に向かっていきます。
他の月兎たちは、そうやって恐れを忘れて月に向かっていく家族の姿を、呆然として眺めているばかり。しかし負けじと覚悟を抱いたのか、一羽の兎が言いました。
『僕だって月に帰るんだ!』
言葉の主であろう月兎も、岬から跳び出していきます。
その言葉は酷く震えているようでした。しかし彼も問題なく空を跳ね、嬉しそうにしながら月に向かって飛んで行きます。
そうやって飛び出していった家族の、振るい出すような勇気に。そしてその成果に、ざわりと兎の群れが震えました。
『私も』『僕も』
…その勇気に大小こそあれど、皆の想いは同じです。
故郷に帰るという、地上に来てからずうっと願い続けてきた夢のこと。…次の瞬間に、一面が天の川に呑まれたような白色に覆われました。
岬を覆い尽くしていた月兎たちが、とうとう決意を固めて飛び出していったのです。
『私たちも行こうよ』『大丈夫だから』
…けれども、それでも留まり続けていた兎もおりました。
あの、臆病な兎です。
それと彼女を励ましたり心配してくれていた兎も…しかし彼女らはすでに空に跳んでいこうと、うずうずしている様子でありました。
哀れな家族を放ってはおけないと、待っていたのです。…しかし臆病な兎もその様子に気がつけば、とうとう決心をしたようです。
彼女は、自分のそばにいて待っていてくれた親切な兎たちに『ありがとう、もう行けるよ』と感謝の気持ちを伝えました。
『私だって彼らの家族なのだ!きっと飛べるはず!』
心の中で自分を鼓舞した彼女は、思い切って助走をつけて…ばっ!と岬から飛び立っていきます。
沢山の月兎たちが川に並んだ沢山の鰐を渡っていました。
彼らは空を跳ぶための特訓をしているのです。
鰐たちは自分の頭を踏んで向こう岸に渡り、また隣に並んだ鰐の列を渡って元いた岸に戻っていく…ということを繰り返している兎を微笑ましそうに見守っていて、また明日にはお月さまに帰るということを考えては、とても寂しそうな様子を見せるものも何匹かいるようでした。
ここは月兎たちが故郷に帰るための練習をする場所。
古い月兎たちは小高い崖で練習をしていたようなのですが、崖から落ちて怪我をする兎を哀れに思った鰐たちが、いつしかこうやってお手伝いをするようになったのです。
そんな折のことでした。
一羽の特に焦った様子で鰐を渡ろうとしている月兎が、川辺で兎たちの様子を見ていたとある鰐に声を掛けられたのです。
どうやら話があると…彼はとりわけ年の功を重ねた老齢の鰐であり、沢山の月兎たちに助言を送り、月に帰郷するお手伝いをしてきた名教官でありました。
呼ばれた兎の名前は“をみな”と言います。
彼女は沢山の月兎たちが、着々と故郷に帰る技術を磨いていると言うのに、一羽だけなかなか鰐たちを渡れずにいたのでした。
彼女は何を言われるのか、色々と考えを巡らしながら老齢の鰐が伏せている場所。川辺のほうに向かっていきます。
そうやって特訓から抜け出していく小さな背中を、月兎の家族は心配そうに眺めていました。
『をみなさん、その…やめたほうがいいのでは…?』
そういって切り出した老齢の鰐の言葉に、をみなは何となく察しがついていました。
鰐渡りの感覚は、空を跳ぶ感覚にとても近いと言います。それができないのならば、つまり…
をみなは彼が自分のことを酷く心配してくれていることは分かっていたのですが、それでも『やめる』と素直に答えるつもりなど、毛頭ありません。
彼女は親を見たことがありません。他の月兎達は、おぼろに親の姿を覚えているそうなのですが、彼女だけは親の姿なんて想像すら出来ないものでした。
彼女はお月さまの記憶がありません。他の月兎達は黄色い大地でお団子をついている沢山の兎を見た記憶があるそうなのですが、彼女だけはそんな光景なんて記憶のどこを探しても見つからないものでした。
『ご心配をいただいて、ありがとうございます。でも私は…』
お月さまで待っているであろう、顔も知らない自分のお母さんと、お父さんに…
一度も見たことがない自分の故郷に…
彼女はずっと昔から『こんばんは、お月さま。おひさしぶりです、お母さま、お父さま』と挨拶を交わすことを夢に見ていたのです。
それらを諦めるというのは、ありえない考えでありました。
『そう、ですか…貴女の覚悟は伝わりました。私達も応援していますよ』
鰐はとても優しく、そしてなんとも悲しそうに彼女に言葉を伝えました。
そうして『あぁ、でも…忘れないでください』と続けます。
『私達は貴女を、とても大事に思っていますから…いつでも、帰ってきてくださいね?』
をみなは神妙そうにコクリと頷いて、鰐渡りの練習に戻っていきます。
その様子を老齢の鰐が、あたかも今際の別れを見送るような痛ましげな目で見ていることに、をみなが気がつく事はないようでした。
明日は故郷に帰る日です。
今日も彼女は夜更けまで、少し怯えて、けれども待ち遠しそうに、一匹でも多くの鰐たちを渡ろうとしています。
これは鰐たちの計らいなのでしょう。
落下の先にあったものは、存外にも優しいものでありました。岬の下には沢山の枯れ草が敷き詰められていたのです。
とはいえ高いところから墜落した衝撃は軽いものではないため、しばらくは動けそうにありませんが…しかし彼女に大した怪我はないようでありました。
『私には大きすぎる夢だったのだろう』
なんとも表現することができないような曖昧な感情…これを強いて言うならば、きっと納得というものなのでしょう。
それとちょっとの悲しみを覚えながら、彼女は遥か彼方に浮かぶお月さまを見つめていました。
なんとなく察してはいたのです。それを認めることができなかっただけで。
私は月兎の中に紛れ込んだ普通の兎。彼らのように空を飛ぶことなんて、とても、とても……
をみなを心配してくれていた親切な月兎は、墜落した直後に悲鳴を上げたのですが、彼女が無事だと叫べば心配そうに岬の上から見下ろしてきます。
『心配しないで。私もまた、挑戦するから』
をみなは努めて元気そうに、そう伝えます。
それを聞いた彼らは分かったと返事をして、それから少し助走を付けて、跳び立っていきました。
けれども時折心配そうに振り返るので、彼女が見送るように手を振ってやれば、やっぱり不安そうでしたが、もう振り返ることはないようでした。
…やがて明け方になるころには、もう岬の上には一羽の兎もおりません。
彼女は朝焼けの紫色が遠くのほうで顔を見せはじめると、まだ少しだけ軋む身体に鞭を打って、ゆっくりと歩きはじめました。
そうしてすっかり誰も居なくなった岬に登っていくのです。
自分以外のみんなは、無事に帰ることができたのだと知るために。
そうする理由は彼女自身にも言葉にできないものでしたが、それはとても大事なことでありました。
真白に染まっていた岬はすっかりがらんどうになって、ほのくらい海の景色と、ススキが揺れているばかり。
をみなはなんとも言えない寂しさが、じっとりと胸に溜まっていくような感覚に、その小さな身体を沈めます。
そうやって太陽が登って水色に染まっていく海を眺めていた彼女は、やがて鰐たちの足音が聞こえてくると急いで姿を隠しました。
おそらく帰れなかった月兎はいないだろうかと確認するために来たのです。
…そんな兎はどこにもおりません。ですが私が残っていると、大きな勘違いをしてしまうことでしょう。
鰐たちが『兎たちはみんな帰れたみたいだな』と呟いて、安心したような表情を浮かべたことを見ると、をみなは足を潜めて帰路に着きました。
そうして鰐の気配も感じられなくなると、をみなは軽快な足取りで跳ねはじめます。
帰り道は空などではなく、目的地も月ではないのですが、それでもぴょんぴょんと空を跳ねるようにして…
そうして巣穴に入っていった彼女は、次の日から姿を見せなくなりました。
彼女を心配して訪ねるような仲間も月に行ってしまって、鰐達も彼女が月に帰ったものだと思っていたので、彼女がどうなったかは、もう誰にも分かりません。
きっとお月さまに帰っていったのでしょう。