作:『?』

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生きられなくなってしまいました。
無能になってしまって、その理由も分からないのです。
そうして生恥を晒すのは、私には耐えられません。
突然のことで申し訳ありません。
探さないでください。


暗澹より見張る

 森林の風景は淡々としていた。

 あるいは面白い風景などもあったのかもしれないけれど、生憎と私には自然を楽しめるほどの余裕などありはせず、道中の記憶なんて実に希薄なものであったのだ。

 そんな脳味噌の具合とは打って変わって、身体に襲いかかる疲労感は深刻なものであるらしい。

 足が地面を踏みしだく度に、骨が砕かれるような鈍痛が走るのだ。

 ロクなものが入っていないリュックサックも、亀仙人が悟空らの修行に使った甲羅のように、あたかも大変な重荷のように感じられる。

 

 きっと随分と長いこと歩いていたのだろう。…そんな他人事のような感想が浮かんでいた。

 たしかに自分の事ではあるけれど、でも、そう考えてしまうのも仕方のない事なのだ。歩っている最中は本当に他人事のような感覚であったのだから。

 

 それを例えるならば、夢を見ているような感覚に近い。

 夢の世界で感じられる苦痛が現実ほど深刻なものではなく、幸福が現実ほど素晴らしいものではないように、自分を取り巻くあらゆるものがどうしようもないくらい曖昧に感じられるのである。

 あるいは殺人鬼などが刃物でも持って襲いかかってきていたとしても、刺される瞬間まで呆けていることになるかもしれない。

 

 本当にどうしようもなくなってしまうまで、あるいはそうなっていたとしても実感を持って襲ってくる『なにか』が起きない限り、まるで現実感、あるいは責任などというものを持つことができないのである。

 また、その苦痛によって現実感を得たのも束の間、すぐに夢見心地に戻ってしまう。

 

 以前は…こうでは、なかったはずなのだ。

 しっかりと責任というものを認識していたつもりだった。そうでもなければ社会人になどなれていないだろうから、それは私の妄想などではないのだと思う。

 それに責任が感じられないだとか、現実感がないだとか、そんな子供でもしないような言い訳をしたり…まるで自分が悪くて失敗したわけじゃないみたいな、そんな事も思っていなかったはずである。

 

 いつから、このような癖が付いてしまったのだろう。

 特にこれだというタイミングは思い当たらない。もっとも今更思い出せたとしても、意味なんてないだろう。

……でも仮に、この性質すらも、ただの現実逃避にすぎないのだとしたら?

 あぁ、そんなことで沢山の人に迷惑を掛けてきたんだ。

 きっと死んだって詫び切れない。

 

「はぁ」

 

 小さく、ため息を漏らした。

 こんなことを考えたって、どうにもならないことだろう。

 疲れてきたのが災いしているのだろうか?…どうにも厭世的な思考が沸き始めている。

 いや、首を吊りに来ているというのだから、そうやってネガティブになるというのは、論理的に間違っていないことなのだろう。

 ポジティブに自殺を試みるなんて、そのほうが不可解なことだ。

 もっとも自殺という行為そのものが論理的かどうかといわれると、どうやってもそうはならないのだが。

 

「今、何時だろ」

 

 いつの間にか多くなった独り言を、今もまた呟きながら足を止めた。

 ずっと前に親戚。…優しくて楽しい性格をしていたおじさんに、もう使わないからと貰った腕時計を確認する。

 短針は五時を過ぎたあたりを指していた。

 

 五時か。もう五時。

 そろそろ、潮時かもしれないな。

 出発した時間は、たしか午前の9時頃であっただろうか。…だとすれば、もう8時間近くも歩いていたのだ。

 普段から運動などしないのにこんなにも歩いたとあれば、きっと、私にしては良くやったほうだろう。

 

 大きく、息を吐く。

 緩慢な動作でリュックを降ろした。

 

 そこで不意に時計を見たくなって、もう一度腕に目線を持っていった。

 今度は時間ではなく、腕時計そのものが見たかったのだ。

 

 いつにも増してぼんやりとした思考。

 疲れの中で高級感のある意匠を眺めていると、懐かしいことをいくつか思い出してしまう。

 昔はただ嬉しかったのだ。貰った日から外に行くときは毎日のようにつけていたけれど、親に遊びに行った先で無くすと大変だからって、注意されたっきり使っていなかった。

 最期だからって倉庫から引っ張り出してきたけれど、今になって考えると…やっぱり分相応な感じがするな。

 どうにも私にはふさわしくないような気がしてしまって、居心地の悪さを感じる。

 

 そういえば最後におじさんと会ったのはいつだろう。

 確か私が小学生、何年生だったかな。…確か三、四年生頃が最後だったはずだから、十何年かそこらだと思うのだが。

……彼は今でも、元気にしているだろうか?

 今でも会えば、私の頭を撫でてくれるかもしれない。…流石に、無いかな。

 

 つまらない思い出もそこそこに、足元に下ろしたリュックサックを開けて、中身を確認する。

 そこにはホームセンターで購入した綿ロープと、折り畳める椅子が入っていて…

 他は財布とか水筒とか、そういう特筆するべきではないものが、雑多に詰め込まれていた。

 とにかくリュックの中からロープを取り出すと、両端を結んでいく。

 

 ハングマンズノット、きっと有名な結び方だろう。

 それが名誉なことであるようには思えないけれど、とはいえ一般的には釣りなどに使われるものらしい。

 私が釣りについて知っていることは少ないけれど、荷重によって輪が締まる。…そういう性質は魚との攻防に都合が良いと聞く。

 この結び方を習得するために使ったウェブサイトの運営者は、あのサイトをこんなことのために使っている人がいるだなんて、想像できないだろうな。

 執筆者の紹介とか言って写真を載せていたが、あのピースサインが似合う浅黒い肌の男は、きっと陽気だ。

 

 そうこうしているうちに結目が完成していた。

 このうち片方が首を括るほうで、もう片方が枝に吊るすほうになる。そうしたら次は、首を括るだけでおしまいだ。

 もうこれで自分の無責任に悩む…いや、自殺も大概どうしようもない責任逃れだろうけれど、少なくとも生恥を晒して苦しむことはないだろう。

 死後の恥に関しては深く考えるべきではない。

 

 ざっと森を見渡して適当に頑丈そうな枝に目星を付けると、綿ロープの輪を枝に向かって投げつける。

 もちろんそんな事は初めての経験なので、何度か失敗こそしたけれど、最終的には上手くいった。

 案外私にはガンマンの才能があったりするのかもしれない。

 賞金首を追って馬で荒野を駆け、悪党にロープを投げつける私…いや、柄じゃないな。

 それにもし本当にそんな才能があったとして、かつここが西部劇の時代だったとしても、私に不成者の世界を生き抜けるほどのメンタルは無いだろうから意味がない。

 

 そんな馬鹿馬鹿しい妄想も大概にして、枝に引っ掛けた縄に体重を掛けてみる。

 しなりはあるけれど強度は問題なさそうだ。重荷が掛かると締まる性質というのも本当なようで、枝に括られた縄は最初こそ緩かったけれど、少し体重をかけただけでしっかりと枝を締め付けていた。

 

 大丈夫。怖くない。

 

 折り畳みの椅子を組み立てて、足場にするために縄の下に設置する。

 リュックサックに入るようなサイズを選んだ事もあって高さが足りないらしい。

 爪先立ちをしないと首が縄に届かなくて、少しやりにくい体勢になるけれど…まぁ、一度吊ってしまえば同じだろうから、きっと大差はないだろう。

 グラグラする足場の上で爪先立ちをして、私は首に縄を添えた。

 

 

 そうやって奇怪な体勢のまま立ち尽くして、結局私は、縄に身を委ねられずにいた。

 つまるところ、足場で背伸びをしたまま動けなくなっていたのだ。

 

 怖いのだろうか。

 そんなのありえないだろう…?

 さっきまで現実感がどうとか、そんなくだらないことばかりを考えていたくせに!

 

 あぁ、本当に自分勝手な話だ。

 きっと私は怖いのだろう。私は後に引けない状況であったとしても、自分で望んでここまできたのだとしても、死を恐れてしまっているようだ。

 

……でもきっと問題なんてない。

 縊死は苦しくないはずだ。だって事前に沢山調べただろう?

 身体こそ盛大に暴れるけれど、無意識であるそうじゃないか。

 首は締まれば落ちるのはあっという間だって、化学的にも証明されているって書いてあったじゃないか。

 

 一瞬だ。怖くない。

 

 自己暗示と共に、大きく深呼吸をする。

 そしてそれ以上に深く息を吐く。

 

 問題ない。大丈夫。

 

……だって私は———

 

 あるいは疲労からなのかもしれない。

 しかしそれは意図した事ではなどなく、完全に不意のこと。

 

 カクンッ、なんて表現できるような感覚がして、それと同時に足から力が抜けたのだ。

 それから「グッ…!」なんて呻き声のような、あるいはカエルが踏み潰されたような…自分の事ながら、得も言われないような不細工な嗚咽が漏れて、同時にギュウと締め付けるような感覚が喉を襲う。

 

 その後に足先で何かを蹴るような感覚がしたのは、きっと気のせいじゃないだろう。

 だって確かにあったはずの足場がどこにも感じられないのだ。

 バタバタと暴れている足が、無意識に折り畳み椅子を蹴飛ばしたのかもしれない。

 

 なにが、起こっ———

 

◇後日譚◇

 

 周りには警察が数人ほどうろついていて、誰もが顔を顰めている。

 どういう経緯から見つかったのかは私の知るところではないけれど、しかしどうやら『死体も見つからないように』なんて細やかな試みは失敗してしまったようであった。

 状況を見るに、おそらく応援であったり、あるいは他の業者でも待っているのだろう。

「どうしてこんなところで待たねばならないのか」と愚痴を言い合っている姿は、不満と苦痛に溢れていて心苦しくなってくるものだが、しかし私には詫びることができないのだ。

 

「…あの、先輩…俺らっていつまでコレ見張ってないといけないんすか…?」

「…あと30分くらいだ。…さっきも聞いただろ、少し黙っててくれ」

 

 若い警官がベテランっぽい警官に咎められて「だって辛いんですもん」と心底から辛そうにボヤく。…当たり前だ。

 ベテランのような警官に関しても、なんでもないようにしているけれど、きっと辛いに違いない。本当はこんなこと、誰だってやりたくないだろう。

 この警官達にも、この後に来るであろう誰かにも、申し訳なくて仕方がなかった。

 

 もっとも仮に謝罪ができたとしても「ふざけるな」って怒られるだけだろうけれど…にしてもそうか。あと30分か。

 それでこの森も見納めなのだと思うと、こんな場所でも不思議と恋しさのようなものが感じられてくるものだ。

 

 鬱蒼としていながら…いや、だからこそなのだろう。

 ここが美しいと思えるのは、恋しさを感じられるのは、こんな森の奥深くだからこそだ。

 きっと余裕が無かった頃の生きていた私では、この森の鬱蒼とした具合も差し込む木漏れ日も、何も思わなかったのだろう。

 今はとても、心に染みる。

 

 こんなことを考えていると疑われてしまうかな。

 彼らには本当に、申し訳ないと思っているのだ。…それと両立して森への恋しさがあるだけで。

 

……だって考えてみてほしい。

 このような光景を見れば、誰だってそう思うだろう?

 こんな自分勝手な行動にも、意味があったように思えて仕方がないのだ。

 これは『失ったからこそ感じられるようになったもの』であって、以前は理解できなかったものだ。

 たとえ心身が健康であっても、生きていればそれだけで、ここまで美しいとは感じられなかったはず。

 

……本当に?

 失ったからこそ。

 確かにそうは言ったけれど、私が失ったものはこんなに美しいものではなかっただろう。

 彼らの姿は葉の一片でさえ青々しくて、ある種の力強さのような物を感じるのだ。

 

 私の胸中に入っていたものは、そんなに上等なものだったか?

 

 そんなことは想像することさえおこがましいことだ。

 私の『生』はあんなに美しくもないし、力強くもない。

 もしも私が彼らのような筆舌に尽くしがたいほど、素晴らしい命を持っていたのだとしたら、きっと私は投げ捨てたことを酷く後悔していた。

 彼らの美しさを愛でるほどの余裕なんてなかっただろうし、後悔でこうやって考えていることさえままならなかっただろう。

 

 でも、それはない。そんなものは取り返せるとしても願い下げだ。

 あれは淀んでいて…死んだ魚の目みたいに、生臭くて汚らしくて敵わない。

 

 いまであればこそ、分かってしまうものなのだ。

…きっと、私の命は腐ってしまっていたのだろう。

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