作:『?』
「お前、そんなところで何してるんだ…?」
そこに置き去りにされていた肉塊は、元が四肢と頭を備えていた生物だとは思えないほど人間らしい形を失っていた。
肉で成形されたはんぺんみたいな物体が音を発した事で、ようやくそれがまだ生きていることに気が付いたのである。
目的もなく放浪していた足を停止させ、翻ってその肉塊に注目した。
この程度の異物など今となっては普遍的に存在するものになっていて、決して注目に値するものでもなかったのだが…
……しかしあれに半ば埋没しているペンダント。あれは、そこにあってはいけないものだろう。
不必要な既視感を覚えてしまったことが災いして、俺はそのまま立ち去るという選択肢を見失っていた。
踏み締める感覚さえあやふやな足を踏み出す。目的地はその肉塊のところ。
きっと勘違いであると。あいつがここにいるなんてありえないはずなのだと。
そんな逃避じみた思考とは裏腹に、心拍音は一歩を踏み出すたびに強く、大きく、奇妙に加速していく。
胸中に漫然と巣食っていた酷く諦観的な絶望は、それに近付くにつれ、取り返しがつかない失敗を犯したかのような急激な焦燥に変化していった。
その肉塊を確かめなければならない。
そのような思考をすればこそ、マリオネットが自分の意思に関わらず身体を動かすように、脚が勝手に速まっていく。
脳裏に渦巻いている想像を振り払っている最中でさえ、それはボソボソと語ることをやめない。
「避難しなきゃ、だめじゃないか…」
……聞き覚えがあった声質に、とても嫌な予感がしていた。
◇ ◇
黎明を告げる陽光が夜空を侵食し、物寂しい薄紫色に代わって淡い水色が顔を見せる。
終末による圧迫感が胸を押しつぶすようで、未だに見えない“壁”を漠然と待ち続けていた。
……ふと見下ろした街並みは、随分と懐かしい正常な朝焼けによって照らされている。
その清々しい天気とは打って変わって、この廃墟の群れは遺棄されて十数年と経ったような荒廃具合であった。
人気もまったく無くて、所々に植えられている形容しがたい生き物が悍しくてたまらない。
そんな決して短くない時間を過ごしてきた故郷の変わり果てた姿は、悪夢という言葉ではまったく足りないほど悪夢的な光景だと思う。
もう悲しむことも怒ることも出来ないのは、その感情が尽き果ててしまったからなのだろうか。
……不意に、奇妙な香りに気が付いた。
甘酸っぱくて心地良いような、あまりに濃厚でむせかえるような…それはまるで喫煙所を満たす煙のように、鼻腔を通って呼吸器を支配していく。
俺は…この臭いを知っている。
屋上に繋がる扉が激しく叩かれた。
◇ ◇
肉塊は相変わらずボソボソと呟き続けている。
「誰かと思えばなんだ、結城じゃないか…見ないうちに、大きくなったんだな……」
見下ろしたところにあるそれは、おそらくビルの外壁を背もたれにして座り込んでいるのだろう。
近づいてことでまず感じたのは、僅かに漂う臭いであった。それは何とも形容しがたい薬品めいた悪臭で、大雑把に説明すると甘酸っぱいような臭いをしている。
続けて肉塊を観察すると、いくつか武器や防具のようなものが、それに巻き込まれて埋没しているのを認めた。
およそ一般的な日本人が持ち得るとは思えない武装は赤黒く染まり、朽ち果てている。原型を失っているため、元の形を知らなければそれが道具であることにも気が付けなかっただろう。
しゃがみこんで、それが呟く音に澄ませる。
「しかし…どうして、こんなところにいるんだ……?」
……分からない。
おそらく声なのだろうその音は非常にくぐもっていて、まるで判然としないものであった。
しかしそのような不明瞭さに混じって、たしかに知っているような既視感がある。
「……結城…後生だから、ここから…逃げてくれ……」
おそらく口であろう音源の穴に耳を近づけてみるけれど、やはり内容を理解することは難しい。
……あるいは意味なんてない呻吟なのかもしれないけれど、その酷く曇った音には意味があるように思えて仕方がなかったのだ。
◇ ◇
階段室から屋上に繋がっている鉄扉が叩かれている。
先程から不快感を刺激する芳しい香りは、その扉の奥から漂ってきているように思えた。
「あああああああああ」
この光景はいつかのテレビ番組で見たことがある…たしか引きこもり息子の部屋を強引に開けようとしている父親の構図、きっとあれに近い状況だろう。
それかスプラッタ映画で殺人鬼に追われている人が追い詰められて、鍵の閉まったドアを開けようと躍起になっている様子かもしれない。
「あああああああああ」
そんな気狂いじみた奇声を努めて意識の外に追いやりつつ、壊れた田舎臭い街並みにかつての面影を探すことにした。
残された時間はそんなに無いけれど、決して息吹くことなどないのだから…故にこそ穏やかに過ごすべきなのだ。
◇ ◇
「にげてくれ」
その聞き取れない、あるいは聞き取りたくない不明瞭な声を解読するという試みは諦めて、この肉塊に近づくきっかけとなったペンダントを探ろうと腹を決める。
ここから離れなければならないと、これ以上調べてはならないと…思考の理性的な部分は告げていたけれど、それでも確かめなければならなかった。
この奇妙な物体が決してあいつではないのだと、知らなければならなかった。
「おねがいだから」
その肉塊のおそらく元は首があったのだと思われる部分に手を伸ばす。
半ば埋まっているペンダントの形状は、無骨で飾り気のないものであった。
……しかし一般的なロケットペンダントと比べ些か大きすぎるそれは、特徴的なデザインこそ見当たらないものの、確かにアイツが好んで身に付けていたものだと分かる。
気のせいだ。
そうじゃなくても市販品だったんだから、何もアイツだけが持っているわけじゃないだろう。
それを掴んで肉塊から引き抜こうとして…しかし随分と強く食い込んでいるらしい。血液めいた奇妙な液体でぬらついていることもあって、僅かばかりも動かない。
携帯していたハンカチを使って両手で掴むと、今度こそ微かに手応えを感じたので力を込めた。
「何をやっているんだ…?」
プチプチという何やら千切れるような音を伴って、僅かずつペンダントの全容が露わになってくる。
「いたい」
肉とペンダントの隙間から赤黒い液体が吹き出して、ハンカチを濡らす。
徐々に肉に埋まっている部分が減り、それと共に根元がぐらぐらと不安定になってきた。まるで大きな奥歯を引き抜いているような想像が頭をよぎって、得も知れない悍ましさにより青褪めたことを自覚する。
「いたい」
それでも力を込め続けるとある瞬間、一際大きな千切れる感触がして後ろに倒れ込んだ。
手元を見るとハンカチの中にはペンダントがあって… それを確認すると同時に肉塊は恐ろしい絶叫をあげたのである。
◇ ◇
この世界は狂気に冒されているけれど、それでも季節の変遷に異変は起こらないらしい。
日付や時間を示す道具は使い物にならなくなってしまったが、気温や湿度は今の頃合いに相応しいように思える。
……にも関わらず桜が当然のような面をして咲き乱れていたり、遠方に見える楓やイチョウが当たり前のように紅葉していることを見るに、季節以外は相変わらず狂っているようだ。
「あああああああああああ!!!」
それでも今ばかりは、狂った季節感もそんなに悪いようには思えない。
大きな桜がある公園は数え切れないほど遊び回ったし、友人とドッチボールをして遊んだ記憶や、ゲームで対戦をしていた記憶も…微かではあるが思い出すことができる。
待ち合わせの集合場所として、その後に遊ぶ場所として…何にでも利用していたな。
あの池にボールを落として、臭い水で靴を濡らした回数なんて数え切れないだろう。
登下校の道に生えていたイチョウの木も懐かしいな。
無駄に実りがいいものだから道いっぱいに銀杏が散らばっていて、それを爆弾と称していたことを覚えている。
それ以上もそれ以下もない浅い記憶だけど、しかし案外そのような…濃密な体験より何でもないような事ばかり憶えているものだ。
皆はどうなのだろう。
この街に転がっている肉塊のいくつかは、そんなくだらない事を覚えているのだろうか。
それともただ漠然と這いずりまわって、震えているだけなのだろうか。
あるいはそんな体験よりも素晴らしい何かを、得ていたのだろうか。
「ああああああああああああ!!!」
……もう何も分からないことだ。
◇ ◇
耳が痛くなるような絶叫が、絶え間なく響いている。
「あああああああああああ!!」
咆哮は僅かにズレた音と重なっていて、酷い不協和音と化していた。野太く低い声だ。
先程まではおそらく人であろうと推測できる声であったが、今となっては人外めいて人らしさが失われている。
これを例えるなら恐ろしくなるよう意図して加工した人工音声か…それでもこれよりはマシな仕上がりになっているだろう。
地獄に録音機を設置すれば、録れるのはきっとこのような音だと思われる。
その尋常では無い様子が恐ろしく無いかといえば嘘になるが、しかし今に限っては手元にあるロケットペンダントの方が優先すべきことであった。
使い物にならなくなったハンカチを捨てて、ペンダントを手に取るが…案の定と言ったところか、肉塊がこびりついていて大事なところが何も見えない。
こびりついた肉塊を指で剥がしていく。
爪の隙間に肉が詰まるような、何とも言えない感触が気持ち悪い。
奇妙なことに金属にも液体が染み付いているのか、塗れているというよりペンダントそのもの赤黒く染まっている感じした。
そうして剥がした肉塊の奥に見えた彫りつけられた名前は—————
◇ ◇
空の様子は朝焼け模様から、すっかり水色に染まっている。
遠くに浮かぶ太陽や雲は、陽炎の向こうに見える景色のように歪んで揺れ、それが周囲を巻き込んで伝播していく。
遠くの景色が徐々に歪みはじめて、揺れがこちらに迫ってきていた。…まるで壁に描かれた絵が迫ってきているみたいだ。
そろそろ世界が終わるのだろう。
最後の空がまるで普通の世界に戻ったかのような、まともな空であったのは本当に運が良かったのだと思う。
目を覚ました瞬間は本当に普通みたいで、これまでがただの悪夢であり、ようやく目が覚めたのだと…少しだけではあるけれど、希望を見出せたのだから。
「あああああああああああああ!!!」
結局空以外は何も変わらないままであったのだが…
いつもどおり絵の具入れの中から適当に選んだみたいな色合いであったり、あるいはずっと暗いままであったりするよりかは、多少なりともマシな気がするだろう。
……ふと見上げれば、歪んだ空が徐々に墜落してきていた。
野外で天井に圧迫感を感じる機会なんて初めての経験だし、きっと最後にもなるのだろう。
「ああああああああああああ!!!」
そろそろ無視をするのもやめて、学校の屋上に通じる道。
あるいは唯一の出入り口である扉を見てみると、鉄製であったそれは滲み出すように赤黒く染まりつつあって…染まった部分は脆くなっているのか、今にも穴が開きそうだ。
扉の形自体も取り返しがつかないほど歪みきっていて、その隙間から見える親父については、あの肉塊であった頃の姿が可愛らしく思える惨状である。
……あれは多分、もう保たないだろう。
逃げ場がない。何もかもが終わっている。
何の理由があったのか生きることを許されて、それからずっと逃げ続けて…その果てがこれだというのなら、どれだけ生き汚い人間でも諦めがつくというものだ。
俺ももう、疲れ切ってしまった。
終わるには良い日…だなんて口が裂けても言えないけれど、この地獄は全てを諦めてしまうにはもってこいだろう。
とうとう耐えきれなくなったのか、扉がひしゃげて外れる音がした。
肉を乱暴に叩きつけるような湿った足音が走り寄ってくる。間違いなく3本以上は生えているであろう足が、めちゃくちゃなリズムを刻んで確実に近づいてきている。
息を大きく吸い込むと、甘酸っぱい臭いを一層強く感じる。
咳き込みそうになったり、餌付きそうになるのをなんとか堪えて…空気で肺をいっぱいにする。
そしてそれをゆっくりと吐き出し——————
頭が乱暴に締め付けられて、視界が急速に回転する。
身体が振り回されて、地面に擦れた脚が変な音を立てた。
「あああああああああああ!!!」
近づいてくるアレは地面なのだろうか、壁なのだろうか。
痛みで頭がぐちゃぐちゃになるし、叫んでいるのが自分なのか親父なのかよく分からない。
あぁ、死んでゆく。
俺が、世界が、ぐちゅりと気色の悪い肉の音を立てて、そうして不細工に潰れていく。
泣きそうなほどに懐かしく、壊れ果ててしまった最期の日は、まるで風のない、とても蒸し暑い日であった。