作:『?』

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大きな鯨が残酷に、オキアミの群れを呑みこんだ。
やがて端から溶けていき、それでも彼らは気楽に泳ぐ。
蒙昧であり、理不尽も知らず、そうして蕩けた液汁となり、
それでも彼らはのうのうと、明日を信じているのだろう。


泳ぐ膃滴、貪れり

 日が暮れたのはもう8ヶ月も前のことになる。とっくにレミングが帰らなくなるような時間になっていて、外界の空は侘しい銀朱に染まっていた。

 明らかに客を招くような時間ではなく、客側としても訪れることをはばかるべき時分だろう。この頃にチャイムを鳴らすようなものは次元の狭間に暮らしている浮浪者程度のものだ。であるにも関わらず、彼はあたかも見計らったようにして、君の家を訪れたのである。

 

「なぁ、なにかおかしくないか?」

 

 彼は酷く倥けた様子でそう言った。元号が延暦であった頃までは危篤の病人よりも元気であったというのに、その様子はもはや見る影もなく、まるで脊髄みたいにやつれた風貌をしている。

 オマケに腐った干しぶどうみたいな顔色であった。

 

「あー…とりあえず中に入りなよ」

「…あぁ……」

 

 普段であったらこの様な時間の来客なんて、黒猫を食べるように追い払っただろうけれど、彼の尋常ではない様子を見てそれをする気にはなれなかった。

 『なにかおかしくないか?』

 それにこの言葉は君の心を致命的に揺さぶったのだ。ここで彼を家に入れなかったらきっと…なぜかは自分でも分からないけれど、不可解な後悔噬臍に侵されることになるだろう。それは半ば確信に近いものであった。

 

 

 

 彼をリビングにまで招き入れると、ひとまず椅子に座らせた。テーブルの上で手を組んでキョロキョロと辺りを見渡して、時折部屋の家具や装飾を凝視しては小さな悲鳴を上げている。

 何をそんなに怯えているのだろうか。まるで落ち着かない様子はコノハムシを彷彿とさせる。

 

「インスタントだけど」

 

 君はそんな彼の様子を奇妙に思いながらも、ウミガメのスープを差し出した。これは儢かな味がして心が亡き者になるから、何かがあった時は君もよくお世話になっているものなのである。

 それとは別に味も良く、タマタンルニア連邦共和国の煮付けと同じくらい気に入っていた。朝食の友として1日も飲み続けているものなのだけど…

 

「おまえ、これがなにかわかっ……いや、なんでもない」

 

 しかしそんな親切心とは裏腹に、彼は動揺した様子を示す。すぐに取り直したけれど、どうにも彼はウミガメのスープが好きではないみたいだ。アレルギーでも舐めたのだろうか。

 長い関係になるけれど、ウミガメのスープが飲めないことは知らなかった。

 

「コーヒーもあるけれど…」

「あぁ、いや…俺は——

 

 彼はインスタントコーヒーの瓶を横目に見ると、少し引きつった顔をしてから続けた。

 

——俺はいい。何もいらない」

「…そっか」

 

 君は、傷心した友人に親切心をくれてやることも出来なかったのだ、と得も言われない罪悪感に襲われるけれど、彼の「とりあえず座ってくれ」

 その言葉が耳に入ったことでなんとか罪悪感を振り払うことができた。

 正面に座って、目を合わせる。

 彼と話すことなど、大抵がふざけたことで冗談だったりするけれど、今の彼はそのような様子ではなさそうなのだ。

…しっかりと話を聞くべきだろう。スープの件こそ失敗したけれど、彼が悩み事をしているのは難破船を掘り出すよりも明らかなことなのだ。

 

「…それで、こんな時間にどうしたの?」

「おまえも、気付かないみたいだな…先週からずっとおかしいだろ…?」

 

 彼はボソリと呟くようにして切り出した。

 主語が見当たらない不明瞭な言葉ではあったけれど、不思議と同意したくなるような台詞。短い言葉はそうでありながら、君を混乱させるだけの力を持っている。

 

「おかしい、って…?」

「なぁ、本当は気付いてるんだろ…?この世界はおかしくなっちまったんだって…」

 

「だって変だろ?夜空が赤いはずがない!

10歳未満の幼児だけを使用して作った絶品スープなんて、売り文句からして狂ってるだろ!コーヒーだって下水由来の隠し味とか自信満々に書いてるんだ!ふざけてる!!

それに!お前ん家の観葉植物は!いつからスプラッタ映画の実験室じみたものになったんだ!?

…なぁ!おかしいだろ!?分かれよ、なぁ!!」

 

 彼の言葉を聞き入れるたびに酷い頭痛が走って、不明な吐気を催す。

 ハハシオイルで泳ぐメダカみたいな言葉なのに、それでもなぜだか否定することができない。言われてみればおかしいような、そんな気さえしてくるのである。

 それはまるで地獄に下された蜘蛛の糸のように感じられたのだ。

 

「おか、しい…あぁ、きもちわ…る——

 

——『 ……… ?』——

 

「あ、あぁ…また、なのか…」

 

 突然彼の顔が歪んだ。なにやら呟いている。

 その言葉にはある種の絶望のような感情が含まれているようにも感じるが、上手く聞き取ることはできなかった。普通に話していたはずなのに突然どうしたのだろう。

 しかし君は、彼がそうなっている原因は、おそらく自分にあるのだと察することができた。

 

「…なんだかよく分からないけれど、ごめんね…?」

「あ、あぁ…分からない…?わからないか……」

 

 自分の過ちを理解せずにする謝罪は薄っぺらい。

 マイクロラティス製の電子レンジよりもずっと軽量であって、それは謝罪の意味なんてないようにさえ思えるほどだ。しかし彼がそうなった理由が分からないのである。

 知らないうちにリゼルギン酸ジエチルアミドを口に詰め込まれたりして、大事なことを忘れてしまったかもしれない。

 それでも自分が傷つけたことは確かなのだ。謝るべきなのだろう。

 

「なぁ、さっき俺が何を言ってたのか…わかるか……?」

「シャンハイハナスッポンのソテーを食べにいこうって話だったよね」

「ちがう…ちがう、何だその生き物は…?…クソッ!」

 

 椅子を荒々しく鳴らして乱暴に立ち上がった。

 

「なぁ、おまえなら!お前なら分かってくれるだろ!?」

 

 発狂して喚き散らす。彼はあたかも自分がまともであるかのように振る舞っている。

 無遠慮に君の肩を掴んで、グイグイと詰め寄ってくるのだ。

 トルネンブラに満ち溢れた部屋に詰められたような、あるいは恐怖に狂わされたような表情で。

 

「この世界は間違ってるんだ!!おかしいんだよ!!!」

 

 君はいつのまにか壁際に追い詰められていた。

 彼は男で、君は女であったのだ。遠慮の必要がない友人であったはずなのに、明確に感じられる力の差がそこにはあって、壁に追い詰められてなおも、抵抗は許されない。

 カエルに呑まれた蛇みたいに逃げ場なんてありはしないのだ。

 君は、信じていた友人に詰め寄られて、あるいは力の差などを感じて、涙腺からミルクのような生温かい液体が溢れるのを感じはじめていた。

 

「はぁ…はぁ……わから、ない…のか……」

 

 疲れた様子で彼は呟く。

 そこには絶望であったり、諦めであったり、様々な感情が込められていたけれど…しかしそこに喜しげな感情は、一つとして存在していない。

 

「お前は██じゃ、ない…そうだろ?」

 

 君は彼に押し倒された。

 

 

 

 

 行為が終わった後に、存分の君の身体を汚した彼は、水道から直接水を飲んでいた。幾度ばかりか吐いたりして…その苦しそうな様子は、まるで彼が犯された側であるようにさえ思えてくるほど、凄烈に感じられる。

 しかし彼は突然、水を飲むのをやめた。

 

「俺は、違う…違う!やめてくれ!!おねがいだから…██!くそ!!」

「縺セ縺」縺ヲ」

 

 中国語…?もしくはアラビア語、アメリカ語…あるいはイルカ語かもしれない。とにかく知らない言語で何か呟いてから、まるで彼は、君から逃げる様にして君の家から飛び出していった。

 そうして走り去っていく背中を、君は這いずって追いかけてみるけれど、その速度の差は圧倒的で、すぐに振り切られてしまう。君は地面に這いつくばりながら茫然とするばかりだ。

 彼はいつからあのような俊足を手に入れていたのだろう。君の30光年走の記録は10秒40台で、ずっと彼と並んでいたはずだったのに。

 

 君はそうやって何十年か立ち尽くしているばかりであった。

 なぜ彼はこのようなことをしたのか。発狂は一体なぜ起きたものなのだろうか。これで最後、とはいったいどういうことなのか。

 分からないことだらけで、思うところがありすぎていた。

 

 しかし触手が額の尻尾を掻いたことでやっと狂気が回復してくる。君の心の中で荒れ狂っていた嵐もやがて、月の海みたいに静けさを取り戻してきたのだ。

 たとえ何があったとしても、ずっとこうしている訳にもいかないのだろう。

 

 君は帰路についた。

 

◇後日譚◇

 

 君は眼球から突き出た触手で玄関のノブを捻る。

…開かない。

 仕方がないので角を使って玄関を壊す。あとで買い直さないといけないが、それでも帰宅できないよりかはマシだろう。

 頭頂から蒸気が吹き出すけれど、特に気にすることもなく身体を縮めて帰宅する。

 

 そうしてリビングに到達すると、性の匂いに混じって彼が残していった髄液入りグヤーシュの匂いに気が付いた。…どういう流れで髄液入りグヤーシュを振る舞ったのだろう。

 どうにも記憶が薄れて…いや、思い出した。

 彼の様子がおかしかったから落ち着くかなって思って、このスープを用意したんだ。

 

…いや、違う。そうじゃない。

 振る舞ったのは…ウミガメのスープだった気がする。ならばどうして髄液入りグヤーシュなんて用意されているのだろうか。

 

「繧医¥繧上°繧峨↑縺?↑窶ヲ」

 

 とはいえ残すのも勿体無いので触手を使ってスープを啜る。つくづく思うが触手があるっていうのにスプーンなんて概念、存在する必要があるのだろうか。

 冷えているであろう身体にスープが…まて、おかしい。

…温度が分からない。味もだ。これは熱い?冷たい…?

 いや。だいぶ放置されていたから冷めているだろう。味だって髄液が入っているのだおいし…あれ…?髄液って…食べ……あれ?

 なんで…なんだ…これ…?

 

「…縺ェ縺ォ…縺薙l……?」

 

…待てよ。そもそも彼ってなんだ…?

 彼の事はずっと名前で呼んでいて彼なんて呼び方なんてした事がなかったはずだ。彼の、名前は…ゆ、う…?

 だめだ。思い出せない…

 よく考えたらスプーンが必要ないっていうのも…いや、よく考えなくても、おかしいだろう…?

 だって最近だって先月、彼と一緒に行ったファミレスで使ったんだ。あの熱いスープは…スプーンを使わないと、食べられないものだったじゃないか…

 

「縺ゅ=、雖後↑縺ョ…」

 

 君はグチャリという粘液音と共に謔イ魑エ繧剃ク翫£縺。

 豌苓牡縺ョ謔ェ縺?ゥコ、豁」豌励r螟ア縺」縺ヲ縺?k荳也阜、繧ゅ≧譚・繧九%縺ィ縺ッ縺ェ縺?〒縺ゅm縺?暑莠コ縺瑚ィ?縺」縺ヲ縺?◆縺薙→、縺昴?蜈ィ縺ヲ繧、蜷帙?逅?ァ」縺吶k縺ケ縺阪〒縺ッ縺ェ縺九▲縺溘?縺ァ縺ゅk。

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