作:『?』

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地面に倒れ込んだまま、千切れ、床に無造作に投げ出された縄を見つめていた。散々と締め付けられた首は痛み、空気が欠乏したことにより朦朧とした意識と視界は、ずっと戻ることはない。

呼吸は荒く、心臓の鼓動は止まっていない。
二人で「せえの」と椅子を蹴った、あの最も幸せで恐ろしい瞬間がなんどもフラッシュバックする。
涙が頬を伝う温かさだけは鮮烈だった。

近くに、僕と同じように倒れ込んでいる者はいなかった。
置いていかれたのだ。また、あのときのように。


走馬灯の中で

 一日…そう、貴重な休日を丸一日使って、彼女と久し振りに遊んできたのだ。

 彼女はデートと称していたが、僕としてはデートよりよっぽど楽しくて、遠慮なんていらない小旅行の気分だった。

 よく行っていたカラオケ、潰れてしまった商店、出身校の新しく変わり果てた様子。それらをゆっくりと時間を掛けて見て歩いて、最後に行き着いたのは懐かしい図書館であった。

 彼女と僕が一番最初にあった場所。

 

「――あなたのこと、とても好きだったんだよ」

 

 気が狂ったような静寂の中、ひどく熱っぽい彼女の声が、僕の脳みそをじっとりと侵した。

 本棚と書物が作り上げた心地良い黴臭…僕のよく知る図書館の香りの中、かすかに甘い花のような、香水が作り出す夜の香りだけは、僕の知らないものだった。

 月明かりが知らない君の、あぁ、ひどく女っぽくなった綺麗な顔を横から照らす。

 火照り、少し汗ばんで、髪の張り付いたそれは、震えるほどに色っぽくて、僕の目に焼き付けられる。

 

「だからね、一緒に…死んでくれないかなぁ?」

 

 心をざわつかせる喜び。いつかの絶望を塗り替えた時の、汚い喜び以上に純粋な喜びを感じていた。

 ただ、それでも心が割れそうなほどに悲しくて、涙が溢れてしまう。

 

 僕は彼女と共に死ねるだろうか?

 そんなもの、とうに決まっていただろう。

 

◇     ◇

 

 僕は変化が嫌いな子供だった。

 小学校に通っていた頃から、大人になって働くようになるまで、ずっとやることが終わったら、同じ図書館で新しい本を読んでいた。

 図書館からの帰り道はつまらなかった。本を読んでいる最中もどこか退屈な感情が鬱蒼として精神に繁茂しており、そうして時間が来て帰る時は「あぁ、またこんなことで無意味に時間を潰してしまった」と後悔する。

 世間には読書は勉強になるのだと言う人もいるけれど、惰性で文字を目に入れているだけの行為は、きっとどういう見方をしても勉強とは呼べないだろう。なにせ、昨日読んだ本の粗筋すら思い出せないのだから。

 そんな無益な生活を送ることに、しかし僕は満足していたのである。

 

 そんな卑屈な日常。意識の低空飛行に割り込んできたのが、彼女だった。

 たしか最初は宿題を忘れたとか言っていたか。

 

 中学校生活最後の夏休み、その最終日。夏休みを通して、変わらず僕の城であった図書館に、やかましく駆け込んできた彼女は、大袈裟で変にコミカルな動きによって僕の前に座ったのだ。

 

「ねぇ、君!ずっと図書館いるよね!?」

 

 君が誰だか知らないけど、僕に話しかけないで貰えないかな。

 そう返したくなるほどにキンキンと響く少女の声に、しかしコミュ障かつ人間不信の僕は、性格の悪い内心をぶち撒けることなどできるわけもなく、怯えながらも「そうだけど…」と返した。

 

「まだ読書感想文残っててさ!なんかいい本教えてよ、知ってるでしょ!?」

 

 あぁ、うざい。

 初対面。そして一度のやり取りを通して、彼女に抱いた感想はそれであった。

 僕は見ず知らずの人相手であっても、失望されるのは嫌いだった。…しかし、いかんせん能力がない。

 僕は確かに本を読んでいるが、別に好きで読んでるわけでもなし、さしたる興味もないものなので、何が良くて何が悪いかなど知らなかったのだ。

 きっと僕は彼女に失望されるだろう。

……だが、そもそも「いい」とはなんだろうか。そんな曖昧な基準でお題を出されて、勝手に失望されるなんて迷惑千万だ。

 君のような無思慮な人間でも読みやすい、シンプルな本でも探しているのだろうか?…だったら幼児コーナーにでも行って、青虫が一生懸命葉っぱを食べる本でも読んでいたらいいのだ。僕には君の期待に応えられるような能力は無いのだし、さっさと向こうに行ってくれ。

 そんなことを内心毒づく。

 

「短い時間で読みやすい本ってことでいい…ですか?」

 

「あっうん、そゆこと!なにかいいのあるかな?」

 

 ワンテンポ遅れて返事をする僕に、彼女は期待に満ちた返事をした。

 キラキラと輝く視線を送ってくれる。そんな目を僕に向けられても何も返せないと、この理不尽への苛立ちと同時に罪悪感も覚え始める。

 そういう目は嫌いだ。それを裏切ることになるのは目に見えていて、期待が失望に変わる瞬間が一番恐ろしいのだから。

 

 じわじわと迫る恐怖めいた感覚に追い詰められながらも必死に少なめの脳みそを絞っていると、ふと、僕にしては珍しく、期待に応えられるであろう良い本を思い出した。

 あれなら1時間もあれば読めるだろう、挿絵もあるし。

 若干テーブルに身を乗り出してこちらを見つめる彼女に、その本のタイトルを伝える。ついでにそれが収められているであろう本棚を指差す。

 

「多分あそこら辺にあるからさ…」

 

「ほんとに!?ありがとー!」

 

 僕は走り去ってゆく彼女の背中に、嵐が去ったような感情になって心の底からホッとしたことを覚えている。そうしてしばらくして…今まで一度も会話などしたことないというのに、僕の名前を呼んで。あの本、見つけられたよと伝えに来たときの燦々とした笑顔は、僕のような無精者には耐えられないほどに眩しかった。

 そのあと、いつもの静けさが戻ってきて…以降、じわじわと僕の心を蝕むようになった感覚を、あの頃の僕はまだ知らなかったのだ。

 少しの物寂しさと、少しの後悔。あの胸中に走るズキズキとした痛みは、きっと初恋であったのだと。

 

 さて、それ以外に大した思い出などない、ひどく乾いた夏休みが明けて。色々イベントはあったが、やはり記憶に残ることなどないまま、いつのまにか中学校生活は終りを迎えることとなった。

 

 

 その後、僕は高校生活の始まりを迎えることになった。

 そこは地元でも多少は偏差値の高い学校だった。幸いにも勉強は苦手ではなかったし、漠然とひとつの行動を続けることも苦ではなかったので、気ままな受験対策を1年も続けていれば、問題無く受かることができた訳である。

 もっとも中の上程度の自慢するには恥ずかしいような平凡な学校ではあったけれど、それでも親不孝な性格の僕が、多少は親を安心させられたので、悪くはないとも思っていた。

 

 さて。入学式を終えて、教室でしょうもない、興味もない本を眺めていると、ふと横から名前を呼ばれたのである。

 隣の席。喧しい相手だったら嫌だと思いながらも、声の方に振り向けば、そこには見覚えのある…無駄に輝く笑顔があった。

 

「久しぶりだね!私のこと覚えてる?」

 

 あぁ、やはり底無しの明るい情緒は癪に障る。

 それでもにへらと下手に笑って見せて、僕は「もちろんだよ、図書館で会ったよね」なんて言ってみた。

 その台詞に意外そうに目を丸くする彼女。しばらく応答はなく、徐々に居心地の悪い雰囲気が空気を満たしはじめる。

 なんだよ、そんなに僕が返事をしたのが意外だったのかよ?だったら最初から話しかけてくるなよな。

 本当に失礼なやつめ。

 

「どうしたの?そんなに驚いて…」

 

「あっごめんね?…いや、そっちかあって思ってさ、ほら…ずっと同じクラスだったじゃん?」

 

「えっ…」

 

「え?」

 

 失礼なのは僕の方だったと気が付いて、必死に誤魔化す僕の様子はきっと滑稽だったろうな。

 そうだよね、そっちだよね。覚えてたよ!もちろん、でも先に思い出したのが…云々と、身振り手振りを交えて早口で言い訳をしていた僕のことを、大層面白そうに笑ってみてさ。

 顔から火が出そうなほどに恥ずかしかったんだ。僕の顔はきっと赤く染まってたろうさ。…でも、あのとき赤面していた理由は、ただ恥ずかしかったからだけではなかった。

 可愛かったのだ。あのときの笑顔は、今でも目を閉じた瞬間に、瞼の裏でとてつもなく鮮烈な輝きを放って再生されるくらいには。

 

 

 そうして図書館の彼女と再開してからというもの、僕の平穏は重心を抜いてしまったジェンガのように、ものすごい勢いで崩れ去っていった。

 やれカラオケに行こうだの、やれ遊びに行こうだの。大して仲良くもない彼女の、大勢の友達に紛れた場違いな陰キャとして、誘われるがままに同行する毎日だ。

 図書館になど行っている暇などなくなってきて、いつのまにかクラスの中心でへらへら笑いながらくだらない冗句を飛ばすような人間になっていて、僕はひどく充実していたのだ。

 今でも振り返れば、昨日の出来事のように思い出せるものだ。…あぁ、なんてくだらない毎日だったのだろう。

 

 そんな高校生活も二年が過ぎて、3年目の半ばを越えてしまう。いつしか終わりの気配が薄らと感じられるような頃合いになってきた。

 僕は彼女と二人きりの教室で、寂しい夏色がずっと焼き付くような夕陽に照らされながら…

 

 

 君のことが、好きだったのだと。

 あのとき一目惚れをして、それからずっと心から離れることがなかったのだと、伝えたのだ。

 

 

「ごめん…私ね、実は…」

 

 

 さて、ずっと好きだった子が、僕が好きになる前から親から性的虐待を受けていたのだと。それを知って、僕は一体どんな反応をすれば良かったのだろうか。

 耳が壊れてしまったのだと錯覚するような静寂があった。

 強烈な蝉の鳴き声や部活に明け暮れるスポーツマンたちの絶叫など、ほとんど意味を為さないような重い沈黙。うるさいのに、静かに感じる奇妙な間。

 

「そう、なんだ…」

 

 僕は何も言えなかった。

 いろんな感情があった。

 初恋が誰とも知れない男に汚されていたという絶望、自らの娘を手に掛ける悍ましい存在への怒り、彼女のやるせない笑みによって強烈に感じられる失恋の悲しさ、これまでの全てが無意味であったかのように思われる虚しさ。それでも好きなのだと、あなたと一緒にいたいのだと叫びたい愛情。それを場違いだと必死に食い止める理性。

 そして、彼女の身体を貪った存在への、恨めしさ。

 

 あぁ、僕はどうすればよかったんだろうか?

 

 しばらく何も言えなくて、二人きりの間に確かにあった鉛のように重く苦しい空気を享受して、やがて彼女から「ごめんね」という言葉が切り出されたかと思えば、気付けば僕は一人だった。

 

 夜も更けて、見回りの先生が僕を注意する瞬間まで、僕はただ呆然とそこに立っていた。

 そしてあれから卒業まで、僕は彼女と話すことはなかった。

 彼女のためなら何をしてもいいと、例えただ死ねと言われても躊躇いなく死んでみせると、そう思いながらも、彼女に嫌われることだけが恐ろしくて、嫌われしまったということを認識するのが恐ろしくて、声を掛けられなかったのだ。

 そして高校を卒業して以降は、もはや会う機会などなくて、これからも関係を絶ったまま、やがて死んでゆくのだろうと思っていたのだ。

 今日の、今の今までは。

 

◇     ◇

 

 休日、日曜のちょうど正午を回った頃合いのことだ。

 午前中のうちに平日では片付けられなかった雑務を処理して、週明けすぐにある会議の資料を作成した僕は、行きつけのカフェでくつろいでいるところであった。

 いつも頼んでいたオムライスとコーラを注文して、それが届くまでの合間は、相変わらず適当に見繕った本を眺める。そんな平穏な時間の合間に割り込んできた、ひどく懐かしい元気な声質。

 

 明るくて、煩くて、そして…ひどく愛おしい。

 ずっと魘されてきたトラウマの主役の、少しだけ大人びた声だ。

 

「久し振りだね!私のこと覚えてる?」

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