クィリナス・クィレルは歪な男であった。
彼は頭も良かったし、簡単なものなら杖なしで魔法も扱える魔法使いである。けれど極端に自信がなかった。小さなプライドは心の奥底にしまい込み、いつも人の顔を伺って生きていた。
クィリナスは魔法使いとマグルの間に生まれた半純血の子供だった。彼は幼い頃から本が好きだったし、魔力にも恵まれていた。だから両親は彼が立派な魔法使いになると信じて疑わなかった。十一歳になり、ホグワーツから入学許可証が届いた時の二人の顔といったら!クィリナスはその後の学校生活で何度も二人の表情を思い出した。
ホグワーツに入学し、レイブンクローに組み分けされたクィリナスは早くも壁にぶち当たった。幼い頃から一人息子として大切に育てられてきたクィリナスは、周りにマグルの子供も多い場所で育ったせいか、同年代の魔法族と話した経験がほとんどなかった。
加えて、彼の父親は純血であるにもかかわらずマグルと結婚したため、生家からは少し距離をおかれていた。二世であるクィリナスにもその余波は届いており、純血の生徒は彼のことを異端だと認識していた。
そんな状況下でクィリナスがいじめの標的になるのに長くはかからなかった。ある時は面白半分に廊下で魔法をかけられたし、またある時は持ち物が姿を消した。大抵他のそういう生徒は落第していったり他校に移ったりするが、クィリナスの自意識はそれを許さなかった。否、許されなかったというべきか。
彼は七年間耐え抜いて見せたのだ。
何とか卒業した後、控えていたのは就職活動であった。人口は減少の一途をたどる魔法界である、小さめの会社や魔法省の下請けにいくらでも働き口はあった。しかしクィリナスはどうしてもそこに就職する気になれなかった。社交性に著しく欠けている自分を認識はしていたものの、心のどこかで小さなクィリナスが叫んでいた。
自分はこんなところで埋もれているべき人間ではない、と。
魔法省の中心機関に就職希望を出すも悉く跳ね除けられ、数年が経った。気づけばホグワーツの同期の中で就職先が決まっていないのは自分だけになっている。見かねたダンブルドア校長はクィリナスに教師の職を斡旋してくれた。
自分が教師に?クィリナスは高揚した。
つい最近までホグワーツの生徒だった自分にとって、教師は絶対だった。教師に逆らおうものなら罰則、優れた働きをする生徒は認められて加点。そんな存在になれるというのだ。魔法省でのキャリアは諦め、クィリナスはマグル学の教職を得た。
しかし、彼は忘れていた。教師こそ、生徒との関わり、そして人望を得ることが必須の職業である。若くて吃音のクィリナスの授業は不人気で、受講するのはマグル出身でマグル学に自信のあるもの、または成績のために授業をとった一部の生徒のみだった。誰もが『マグル学』よりも『闇の魔術に対する防衛術』や『魔法薬学』に価値を見出していることは明白だった。
けれど教師をやれていることはクィリナスにとって奇跡であった。盾突いてくる生徒がいれば減点するし、酷い時には寮監に引き渡して罰則を与えることができた。
それでもクィリナスが絶望するのは、自分を凌駕する才能を見た時だ。教師になった年に入学してきたグリフィンドールの四人組には本当に手を焼かされた。幸いマグル学をとったのは四人組の中では一人だったが、彼らの大掛かりな悪戯――全校集会や祝賀会の時など――には舌を巻いた。
おまけに彼らは頭もよく、生徒から人気があるときている。彼らは傑物となるだろう、クィリナスはそんな予感と共に言い知れぬ劣等感を燻ぶらせていた。
そんな彼らが卒業してから幾年かはクィリナスも穏やかに過ごしていた。
平穏が崩れ去ったのは忘れもしない、1989年のこと。
「アルバス、ハリーはもうすぐ入学だったかしら」
「そうじゃな、しかし我々は彼をあくまで一生徒として育てねばならないのじゃ。わかるな、ミネルバ?」
校長と副校長の職員室での会話が聞こえてきてしまったのだった。途端に、脳裏にジェームズ・ポッターの茶目っ気のある表情が浮かぶ。彼が最も印象に残っている生徒だった。あの四人組の中で唯一マグル学を受講しており、たまに授業中に当てればユーモアのある解答で生徒たちの笑いを誘うような、そんな生徒だった。クィリナスが一人で講義しているだけでは決して生まれないその笑いに、醜い感情が生まれたこともある。クィリナスはその気持ちを押し殺していたが。
彼の息子であるハリー・ポッター。生き残った英雄であるハリー・ポッター。彼が来年入学する?自分はまたポッターに嫉妬しなければならないのか。
本当は嫉妬なんてしたくなかった、けれど自分のちゃちなプライド、ちっぽけな自尊心がそうさせる。クィリナスはそんな自分にすらもう嫌気がさしていた。そしてある発想に至る。
自分がハリー・ポッターより優れていればそうは思わないのではないか。
『例のあの人』はハリー・ポッターに敗れ、現在はバルカン半島あたりに潜んでいるらしい。そんな噂がクィリナスの耳にも入ってきていた頃だった。
結論から言えば、それはあまりにもばかげた行動だった。大恩ある校長に無理を言って学年末に休職し、クィリナスはバルカン半島を探し回った。
そして、『例のあの人』をついに見つけ――その手中に堕ちた。クィリナスがホグワーツの教師だということを知った『例のあの人』はこう言った。
「クィリナス・クィレル、貴様は認められたくないのか」
「私に今手を貸すだけで、お前はもっとも偉大な魔法使いの右腕となる」
「クィリナス、お前の才能がそのまま埋もれるのが惜しくてならない」
それはまさしく悪魔の囁きだった。クィリナスは逡巡し、少しならと手を伸ばす。それがクィリナス・クィレルとして存在できた最後の瞬間だった。脳は他の誰かの思考に侵食され、魔法を使うにも絶えず干渉される。クィリナスは脳内の『それ』、否『ご主人様』に従ってホグワーツに戻り、『闇の魔術に対する防衛術』の教職に就いた。マグル学にはほかにも適任の人物がいたし、『闇の魔術に対する防衛術』の教職は一年ともった者がいないため不人気だったから復帰は容易だった。
そうしてクィリナスは目的を果たすこともできず、傀儡として教師に戻った。ハリー・ポッターへの劣等感は恐れていたほどは抱かなかった。彼は父親に比べて普通の生徒だった。母親の性格を受け継いでいるのだろうか。
対して予想外にクィリナスを悩ませたのはアリア・アルカーという生徒だった。年度が始まる前に校長から話があった。
曰く、「アリア・アルカーは自分の秘蔵っ子で十分な教育を受けている。形式的に入学はしたが規格外なのでなるべく成績による加点はせず、別枠で扱うように」
そんな通達はそれなりに長い教師人生の中でも初めてだった。クィリナスの脳内で別の声がする。
『ダンブルドアの秘蔵っ子だと?新手か、対処法を考えねばな……くそ、力が足りない……』
それからの生活は苦痛であった。グリンゴッツに侵入したり、禁じられた森でユニコーンの血を飲む禁忌を犯しご主人様に力を分け与えたり、ハロウィーンには苦労して入手したトロールを学校に紛れ込ませたり……。疲労は限界に近づいていた。
加えて、ご主人様はクィリナスにアリア・アルカーについて探るようにとも命じていた。
彼女は不思議な女の子だった。同級生との会話を聞くに、ホグワーツで開講されている各科目に深い理解がある。また、驚くほど優れた能力にも関わらず他人への協力を惜しまない。自分の課題をそっちのけにして人に教えていることもあった。
そして、マグル学ほどではなかったが軽んじられがちなクィリナスの授業を真面目に受けている生徒の一人でもあった。
あれがダンブルドア校長の秘蔵っ子か。以前のクィリナスであれば劣等感に苛まれていたことだろう。けれど、もう彼はクィリナス・クィレルとしての自我を失いかけていた。
そんな折、休日にアリア・アルカーを廊下で見かけた。こっそりついて行ってみれば、勝手知ったる様子で校長室へと入っていく。校長と長い付き合いであるクィリナスですら校長室にはあまり入ったことがないというのに。
『ふむ……アリア・アルカーか』
“ご主人様”の声に従い、密やかにその場を立ち去った。もはや自分は呪われており、肉体が朽ちるのも遠い日ではないだろう。
願わくば、彼女が“ご主人様”の毒牙にかけられることがないように。
“クィレル教授”と目を合わせて会話する数少ない彼女のことを思いながら、ご主人様に悟られないよう、忘却の彼方にその感情を隠した。
そろそろ賢者の石編が終わります。