鬱の音がした。
それは、冬の足音。飽くまで音である故に即ち波形を描くばかりで実体を持たないが、その中に木枯らしに紛れる氷の季節の上立ちを幻嗅する。
初めは行軍宛ら規則的な律動をしていた、それらを淡くも覆う寒波のアルペジオが肉薄してくる。二度容態を転じ研がれながらも粘着質な戦慄を沁み込ませた後、三小節と半分___遂に、牙を剥く。空を浸し、地を沈め、人を呑むその本性。
その旋律は、入り組み雑じった森林の隙間、墓廟の如くに寂寥と建つ洋館から流れていた。忘却された無辜の自然の背景にやはりそれは異物感をこびり着かせて佇む訳だが、しかしその出処は西洋造りの希少性とかの部分には無く推考される。例えば吸血鬼城の貫禄、或いは覚り邸の麗雅、そう言ったものが致命的に欠落しているのだ。
理由は明白、骨組みが所々露呈したぼろの外壁には蔦が絡みっ放し、窓も何枚かが割れたまま放置されている。音はそれらの抜け穴から漏れ聞こえるもので、或る種侘びしさの趣を湛え等と吹かしても良いだろうが、第一に常人の棲家のする装いではない。
尤も小波を手繰って源を見れば、結局其処には人ならざるものが一つ。彼女達にとって住居とはその本来的機能や見てくれは二の次三の次で、楔、柵、そんな意味しか持たない。
椅子に浅く腰掛けるその左手に構えられた小提琴は蝋燭の仄かな灯りにも艶めき、右の弓の傾き、揺蕩いの末節から万の色を豊熟させる。決して力感は過ぎない繊細な手引きからしかし香調は濃厚に掻き鳴らされ、精巧な彫刻を削り出すにも似ていた。両の目は少女のそれにも関わらず耽美に瞑り、上下に靡く金糸すらが歌うかの様に。
気付けば風来した厳酷は身を隠し、綿埃を固めた雲の割れ目から差す光の温もりが一時漂った。しかし束の間の憐憫とは得てして嵐の惨禍を目前に在る、程無く踏まれる三十二分は不協和音を交えて内面に緊迫を張り詰め、傍観するその背筋さえ共振させる。
そして、再来。
この暴虐も二度目となれば只中に有って立ち姿を保てる位に適応とは不気味なものだが、向こうも承知して更にもう一皮破り、無尽と、いっそ頑愚に最高潮で畳み掛ける。
此処まで来ると真に恐ろしいのは奏者、極限の情動を直走らせた怪演のしかも根元に居て、自我を喪わず寧ろ意のままに曝けている。何故ならば、それこそが彼女達の存在意義だから。猛火の如く激流の如く、かたち移ろえど果つる際無く、月日も忘れて騒ぎ倒し、あの心の溝を埋めるべく。
やがて、騒擾は過ぎ去る。
毅然と震える低音を余薫として。
騒霊屋敷に、冬が来た。
「はい、はーい。ちょっちたんま」
名残もそこそこに再び弓を番える騒霊の長女へ容れられた嘴で、喝采ものの妙技にソファ諸共何故か沈没していた冬の妖怪の意識も纏めて引き揚げられた。
「…………なに」
「なにじゃないわよ、まさかこのまま自分の独壇場で終わらせる気?」
訪ねた最初は前例を見ない優遇で冬の妖怪を迎えた対面の長女。しかし集中を遮られた事には上目から滲む憤怒に冬の妖怪は豹変と言う語のその類型を思うのだが、突っ掛けたちびの三女の方は慣れているのか軽く投げ返す。
「仕方無いじゃない、そう言う曲なんだから」
只今騒霊屋敷の客間で披露されているのは“冬っぽい曲”公演、観賞一名。楽園に名立たる奇人変人との交流からふと自分探しへの関心を萌芽させた冬の妖怪の希望による、そんな気紛れの産物。
プリズムリバー楽団の最盛期はと言えば祭りに宴と引く手数多、逍遥する妖怪一匹に付き合う謂れ何ぞ本来無いんであるが、野外ライブが武者修行と窶れる冬では幾分暇を嵩ませるらしく冬の妖怪もその滅多な機会に与れる運びになった、しかもただで。
「冗談じゃないわ。二楽章までルナ姉の陰気臭い演奏でやられたら客人が窒息死するっての」
ところで冬の妖怪、音楽方向への素養はからっきし。これだけの奢侈が何とも勿体の無い、妖怪に石仏とはこの通りだが、無いものは無いので三女の言い分も道理か否か。ただ冬の妖怪の脇にどっかりと座している次女も頻りに頷いているので多分そうなのだろう、しかし恐らく三人前の筈の長椅子が二人で既に狭苦しい。てか死ぬとこだったの私?
「……分かったわよ、もう」
「よおし。じゃ、交代ねー」
数的不利か長女の器量か、または部外者の手前を含んでか割とあっさり矛を下ろし、それでも不満は潜めずやおらに離席した長女が先程まで三女の居たソファの肘置きに身を落ち着ける。
代わって相対に収まった三女、その手にも何処からと無しにヴァイオリンが取られており、それを小振りな左肩と顎で支えては右足を僅かに引き、仕上げに弓を添えた。
「彼女、キーボーディストなのよね?」
「リリカは何でも出来るのよ。さっきも裏で聞こえてたでしょ?」
演奏中ながら冬の妖怪とのお喋りに興じる次女。ここで冬の妖怪は弾くのは一人にも拠らず明らか複数、何ならヴァイオリン以外が鳴っていた謎について漸く納得した。手足を介さず楽器を扱える霊障である彼女達に係ればソファの端でそれらをぶらつかせているばかりでも十二分、独演での重奏という無法さえ朝飯前だ。
当の三女は平常の茶目も控えめに淑やかな楽節を紡ぎ、けれどゆったり振られる頭と其処で幼気に浮かべたままの微笑とが聞き手をも解す。長女のそれを倣えば流石に拙さは残るが、技術の以上に此方の愛嬌に惹かれる筋合いも有ろう。その技術も一級を超したもの。
「なかなか格好付いてるじゃない。やっぱりちっちゃいけど」
「まあ、要は器用貧乏よね」
しかし聴衆からの言われたい放題でその表情が見るからして歪む、指遣いにまで及ばせなかったのは殊勝だが。
口許で揺れる吐息のトリル、穏和な時を刻むピチカートに熱る情景。それと幻想の音が結ばれ、暖かな部屋の抱擁をまた感触する。
「……此処、リフォームとかしないの?」
「私もそう言ってるんだけど、姉さんが意固地なの。清貧なんて今日日流行らないのに」
ただそうなるとどうしても内装の粗末が目に付いてならない。視線が冬の妖怪から次女、そして上辺は手持ち無沙汰の長女へと渡される。
「……別に良いじゃないの。思い入れは分かるでしょ?」
「故きを尊ぶのは結構だけどね、それで天井の染みとかまで有難がってちゃ世話無いわ」
「どうせ雨漏りとかしても困らないし」
「せめてもの体裁ってのがあるでしょう」
「リリカも『良いんじゃない』って」
「まあ。私にもそっくり同じ台詞言ったわあの娘」
その長女まで輪に加え、すっかり雑談の伴奏と化した音色。傾聴に値しないのでは無く、それは相反する空間にさえ溶けて馴染むのだ。自若たる、献身の調べ。背をラルゴで柔らかく叩いてはスラーが撓りと撫ぜ、快い脱力感に満たされる。
だからふと終われば二分弱に足るかと言うその間に、冬の妖怪が某赤毛の死神よろしく操舟し始めているのも無理からぬ事なのである。
「お客様ー、お客様。次が最後ですよー」
「はっ」
次女に呼ばれ覚醒する。魔砲も斯くやの図太さを誇る冬の妖怪にさえ一抹の疚しさを過らせる不躾千万も、三女は存外ご立腹で無い様子だ。本当に退屈な芸術とは微睡みさえ催さない。
何なら逆に悪戯っぽく口端を吊り上げる三女が不意に立ち上がっては、真横に退き空いた席を指示しながら目配せする__長女に向けて。
「…………なに」
「なにじゃないわよっ」
口では溢していつつ意図は汲み取ったらしい長女が苦笑がちに従い、壇上へと復帰する。一度伴侶を握れば初めと寸分違わぬ型へ定まっていく、傍らから三女もしかし引き下がらずにその場で構え直し、一瞥、互いの視線が接触する。
終章は、光彩陸離の合奏より。
風が吹く。
三拍子に乗ったそれは時に旋を巻いて彷徨い、また時に駆足で盲進し、その道には雑草と土砂が無残に散乱する。
「……やっぱり、冬の曲って暗いのね」
「そう聞こえた?」
風はもう一つ。双対の風は衝突しては相乗して、しかし一体になる事無く余波で景色を荒廃させていく。
閉目して自分の領分に籠り切りの長女を、此方は身体ごと視界の正面に捉えた三女が細やかに助ける、そんな様と音が符合した。三女の本懐はこうした働きにこそ有り、長女の描き殴る世界が丁寧に補整される。
「いや、さっきのは明るかったけどさ。あれだってどうせ囲炉裏の火がどうとか言うんでしょ?」
「あら御名答。洋楽だから暖炉の方が正確かしら」
褒め称されて然したる喜びも無く、心地はただ枯木寒巌の最中。
「そうねえ。まあ、よく聞いてる事よ」
冬の妖怪に適うのは畢竟、次女の言葉通りの沈黙のみ。
二つの風は競奏の末渦となり、いよいよ大地を穿つばかりに。
急転。
唐突に塊が転げて、冬の妖怪の上体までが突んのめった。
「この楽章で表されるのは、氷上を歩く様。滑るまいとおっかなびっくり進んで、結局すってんころり。そして、それもまた冬の楽しさだって、そう詩っているの」
次女が語ったこの瞬間身を打ち付ける北風は霧消し、足元一面の床が凍てついて行く。
「……で。貴女は別に、今の解釈を鵜呑みにする事だって無いわ。音楽って、貴女が暗いと思えば暗がるし、明るいと思えば明るむ、そう言うもの」
「……なんなの、それ」
と言った傍から梯子を外されそれまでが蒸発した。相好を乱す冬の妖怪の何とも単純な限りであるが、次女に揶揄う胸は無く、それは継いだ句にも確かだった。
「だから、まあ。貴女も、貴女らしくやるのが良いんじゃない?御節介だろうけど」
自己定義。楽園へ落ち延びた者共にとって見れば、如何に脆弱なのだろうものか。しかし現に騒霊達はそれを為して、その存在を繋ぎ留めている。
全く適応とは不可思議で、あれだけの跋扈の後に微風の囀りまで幻夢に見出してしまう。
きっとそれは、夢では無いのだろう。
書き上げられた譜面に人の数多が等しく夢を見た時、幻想は幻想をやめ、形を作る。それがまた後世の人心に痕を残して、其処で悠久を生き続ける。
競奏は協奏へ。長女と三女、二人の笑みが刹那交差し、鬱と幻想は遂に調和する。
そして、重来。魂柱が響かせる苛烈は枷から放たれてアレグロに踊り、巡る暦に抗う事もなく、徒に、泥臭く吼えた。
去り行く嵐。
それは最後、満場一致の拍手にて送られていた。
「ふふ、どうだった?結構良かったっしょ?」
跳ねる様に舞台を降りた三女が歩み寄り冬の妖怪に問うてくる。……その斜め前から。
「……あ、メル姉だった。ごめん」
「ねえリリカ?冗談でもそれはメル姉傷付くわよ??」
血を分け、ているのだかは知らないがその間柄でまさかそう薄情に取り違うはずも無いので、どうも独奏での物言いを未だ根に持っていたらしい。次女に腰回りを掴まれても三女は鼻を背けるばかり、姉妹喧嘩は妖怪も喰わぬのに。冬の妖怪の側が呆れて話を自分と同じ顔した長女へ逸らす。
「いやしかし、流石は天下を騒がすプリズムリバー伯。こう言う古風?なのもいけるのね」
「煽てても騒音しか出ないよ。まあ、たまにはこんなのも面白いでしょ」
その会話に飛び入ってくる、右へ左へ忙しない三女。
「次はどうしよっか、折角だし他の季節も聞いて貰う?」
「悪くないわね。お望みとは変わってきちゃうかも知れないけど、全部聞いてこその発見もあったりするから___」
ぶぺぇ〜。
「…………なに!」
「なにじゃないわよ!また私を爪弾きにするの!?」
冬の妖怪が思わず耳を塞ぐ異音。行儀悪いその喇叭へ長女が怒声を張って非難を呈すのを、しかし次女はそれ以上の威勢で以て圧する。
「……まあそれは謝るけど。じゃあどうするの」
「此処はあれでしょ、冬の日の幻想!」
「うぇ。いきなりそれはヘビーじゃない?」
「いけるってー。駄目ならそうね、四楽章だけで愉快にやりましょ!腕とその他諸々が鳴るわー!」
「メルが気持ち良くなりたいだけじゃない、それ……」
打ち合わせは溜め息ながらに締め括られる。やはり冬の妖怪にその内情はさっぱりだが、主に昂りっ放しの次女の模様からしてろくな未来が窺えない。
「……そう言う訳だから。今回の御駄賃は私達の気の済むまで付き合って貰う事、それで良いわね?」
「晩か、次の朝か、死ぬまでかも分かんないけどねー」
「……えーと、その。どうか御手柔らかに、ね?」
「うふふ、遠慮は要らないわ。さあ、貴女も最高にハッピーになりましょー!」
年がら年中得手勝手に狂騒する彼女達には、冬の死気は疎か四季とて形無し。
その安眠は、さて、何時やら。
滑り込みで短め。間奏感覚に
私の推しはルナ姉です
手持ちのネタは残り二つ程。まあはっきり終わりってする作風でもない気はしてますが、漫然とやるのも何だしどこかで一区切りは着けたいと思っています。ではまた冬に