瑠璃がネイトを意識するようになってから数日が経過した。その間に瑠璃はネイトに対しては勿論、海羽達に対しても見せた事のないような初々しい反応を見せるようになっていた。
そんなのを間近で見続けていれば、いくら何でも海羽だって気付くし疑問も抱く。
気になった海羽は、ある日瑠璃の部屋を訪れ思い切ってどうしたのかを聞いてみた。
「瑠璃姉ぇ、最近どうしたの? 何かネイトさん前にすると変になるよ?」
「うっ!? そ、そんなに変?」
「うん。どっちかって言うと露骨って言うか」
海羽からの指摘に、瑠璃は己の迂闊さに頭を抱えた。ポーカーフェイスはギャンブルの基本だと言うのに、こんなにあっさりと周りにバレるだなんて。
だが海羽から見ればそれは決して悪い事ではなかった。今までの瑠璃は海羽から見て憧れである一方、どこか遠い存在のように見えていたのだ。憧れるだけで、手が届かない存在と言うのが以前までの印象だった。
それがここ最近、グッと距離が近くなったように感じる。瑠璃にもこんな風に普通の女性の様な初々しい一面があるのだと思うと、海羽はなんだか嬉しくなった。
「それで、本当にどうしたの? まさかだけどネイトさんに何かされた?」
「ち、違う違う! そう言うのじゃないの」
「じゃあ何?」
海羽が詰め寄ると、瑠璃はこれ以上誤魔化すのは無理と判断し、ここ最近のネイトに対する想いなどをぽつりぽつりと話し始めた。
絞り出すような瑠璃の話を、海羽は黙って聞き続ける。
「……私、セラであった事を思い出すのが怖いの」
「何だか、セラだった事を思い出すと、自分が自分でなくなると言うか……」
「もしかしたら、壊れちゃうんじゃないかって」
「でもネイトは、私にセラだった頃の事を思い出してほしくてここに居る」
「ネイトが私を気遣ってくれるのは、私がセラだからだって言うのはよく分かってるの」
「でも私は、セラじゃなく瑠璃で居たい。瑠璃として、ネイトの事が好きになっちゃった」
「それはネイトにとって裏切りになっちゃう」
「私、瑠璃とセラ、どっちを選ぶべきなんだろう……」
一頻り話し終え、その場には何とも言えぬ沈黙が舞い降りる。
瑠璃は何とも居心地が悪かった。こんな弱々しい自分の姿を見せて、海羽に幻滅されたりしないだろうかと不安になった。何だかんだ言っても瑠璃も身近な人からのイメージ位は大事にする。海羽の中での瑠璃のイメージを、悪い意味で砕いてしまったのではないかと話してから不安になったのだ。
だが瑠璃の感じる不安に反して、海羽の浮かべた表情は安堵だった。瑠璃にもこんな弱々しく、そして何より可愛らしい一面があったのだ。
瑠璃は記憶喪失であるからか、海羽達に対しても一定の線引きをしているようなところがあった。それは決して悪い事ではない。海羽だって鉄平に対しては隠している事の一つや二つあるし、何人であっても踏み入れさせたくないラインというものは存在する。
だが瑠璃のそれは、そう言うのとはまた違った意味で距離を置いている感じだった。
それが今はどうだ。瑠璃は自分の弱いところをさらけ出し、あまつさえ悩みを打ち明け助けを求めている。瑠璃は本当の意味で海羽の事を家族と認め、信頼してくれているのだ。海羽はそれが嬉しかった。
その嬉しさを噛みしめつつ、海羽は瑠璃からの悩みに彼女なりの答えを口にした。
「私は、瑠璃姉ぇには瑠璃姉ぇでいてほしいかな。もしかしたらセラって人も瑠璃姉ぇと変わらないのかもしれないけど、瑠璃姉ぇが怖がるなら無理にセラに戻る必要はないと思う」
海羽の答えに瑠璃は安堵半分不安半分と言った顔になる。無理にセラに戻る必要はないと言ってもらえて安心する半面、やはりネイトに対する裏切りは心苦しいと言う気持ちが半分と言ったところか。瑠璃である事を選ぶという事は、ネイトがここに居る理由を奪うという事。瑠璃が瑠璃を選んだことで、ネイトが離れて行ってしまうと思うとそれはそれで心苦しくて仕方なかった。
「でも、ネイトは……」
「だからさ!」
セラに戻る事を怖がりつつ、ネイトの事を想うとセラを捨てきる事に躊躇せずにはいられない。その気持ちを露にすると、海羽が瑠璃の眼前に顔を近付けてきた。
「ネイトさんには、セラよりも瑠璃姉ぇの方が魅力的だっていう事を刷り込んじゃえば良いんだよ!」
「す、刷り込む?」
「ネイトさんを、瑠璃姉ぇに惚れさせちゃえばいいんだって!」
言いたい事は分かる。セラよりも瑠璃が魅力的だとネイトに思わせれば、なるほど確かにセラである事を捨ててもネイトは瑠璃の傍に居てくれるだろう。
幸いと言うか、瑠璃は極上の女性だ。その気になれば男など簡単に誘惑できる。今だって多くの男性を虜にしているのだから、その魅力をネイト1人に向ければ彼だってイチコロだ。
「でも、あんまり露骨すぎると逆に引かれちゃいそう……」
ただここで気を付けねばならないのは、ネイトの中にはセラのイメージが付いて回るという事だ。普段瑠璃が男性客や時折目にする海羽の同級生の男子らに挑発的な仕草を見せるのは、彼らを揶揄っての事であり言ってしまえば引かれても構わないと思っているからに他ならない。
これがネイトとなると、普段の様な事をして瑠璃として幻滅されたりすると、セラの方に軍配が上がってしまう。
その心配を口にすると、海羽は何てことは無いように言った。
「そんなに気にする事ないよ。ただ普段からネイトさんと一緒に居ればそれで十分だって」
自分の事だから忘れがちなのかもしれないが、前述した通り瑠璃は極上の女性だ。そんな女性と頻繁に一緒に居れば、彼女の魅力は嫌でも伝わる。瑠璃は特に何もする必要はなく、ただネイトと一緒に居ればいいだけなのだ。
「取り合えず、今度のお休みにネイトさんをデートにでも誘ってみたら?」
「デート!? デート……デートかぁ……」
デートと言われ一瞬動揺したが、しかしこの街に暮らして2年の瑠璃は海都でデートと言われても今一ピンとこなかった。何しろこの街、生活するのに苦労しない程度に商業施設は充実しているが、その一方で娯楽施設の殆どはカジノに集中しており遊園地や動物園などのレジャー施設は存在しなかったのだ。今後街の拡張と共に徐々に増えていくそうだが、少なくとも現時点では存在しない。
なのでこの街でデートをするとなると、カジノ巡りをしないのであればそれは必然的にショッピングという事になる。
「う~ん、今別に欲しい物特にないしな~」
つい最近、個人的にも欲しい物を粗方買い揃えてしまったので見るべき物がない。それはネイトも同様で、買い物に行くと言う口実でデートに誘う事は出来なかった。付き合っている訳ではないのだから、ウィンドウショッピングなど論外である。
瑠璃は悩んだ。困った、自然な感じでデートに誘う事が出来ない。
うんうんと悩む瑠璃を見て、海羽は名案を思い付いた。
「そうだ! 海に連れて行けばいいんじゃない?」
「海? そりゃここは海のど真ん中の街だから海も行きやすいけど……」
そう言えば一応数少ないカジノ以外のレジャー施設として海水浴場はあるし、沖縄よりも更に南にある立地の関係上一年中海開き状態だ。だから確かに海に行こうと思えば何時でも行ける。
だが海羽が言っているのはそれとは別の意味だった。
「そうじゃなくて、何時も瑠璃姉ぇが行ってる奴だよ!」
「何時も行ってるって…………あぁ」
ここで瑠璃は漸く海羽の言いたい事が分かった。海羽はネイトを、瑠璃がよく行くダイビングに連れて行けと言っているのだ。
多くの人が利用する海水浴場だと、瑠璃は目立って落ち着けない。最悪瑠璃がナンパされまくって、ネイトを魅了するどころではなくなってしまう。
だが個人でボートを借りて沖に出てのダイビングであれば、誰の目にも留まることなく存分にネイトに瑠璃の魅力を見せつける事が出来る。
海羽の提案に瑠璃は納得し、頭の中でネイトを誘う算段を立てる。最近の天気予報では天候が崩れると言う予報もなかったし、何もする事がない今度の休日に向かうのに丁度いいだろう。
ネイトをデートに誘う事を考える瑠璃の様子を、海羽は微笑ましくも遠い物を見る目で見ていた。つい最近、ネイトに瑠璃が取られる事を危惧して敵視していたのが嘘のようだ。
あの頃は海羽もまだまだ子供だった。それは年齢的な話ではなく、精神的な話である。姉と慕う瑠璃を独占したいと言う子供っぽい理由から、ネイトを出し抜こうとスピンドライバーを勝手に持ち出したりしてしまった。
だがあの事件を経て、海羽は自分ももっと成長する必要性を実感した。そうしなければ、瑠璃が今後どんな道を選ぶにも不安を残す事になってしまう。
瑠璃に気兼ねなく自分の道を自由に進んでもらう為には、海羽が瑠璃離れをしなければならないのだ。瑠璃とネイトが付き合うのは、そういう意味でも丁度良いと言えた。
「うん……海羽ちゃん、ありがとうね!」
「いいのいいの。今度のお休み、頑張ってね~」
海羽は瑠璃にそう激励をすると、部屋から出て行った。この後瑠璃は開店時間まで、当日着る水着を吟味するだろう。
その光景を思い浮かべ、海羽は笑みを浮かべた。
(頑張ってね、瑠璃姉ぇ)
瑠璃は確実に前に進んでいる。それが過去を思い出す為か、過去を捨てて新たな自分としての道に続いているかは分からない。
ただはっきり言える事は、瑠璃が前に進もうとしている以上海羽も足踏みしてはいられないという事だ。一歩でも半歩でも、大人への階段を上らなければならない。
取り合えず差し当たって、今やるべき事は学校からの課題だろう。さっさと終わらせて、夜の店の手伝いに入れるようにしなければ。
海羽は気合を入れ直し、自室へと入ると鞄から課題を取り出し取り掛かるのだった。
***
それから二日ほど経ち、明日は店も休みだと言う日になった。
この日瑠璃は空いた時間を使って、ネイトを伴いデパートに来ていた。
それと言うのも海羽のアドバイスでネイトをダイビングに誘おうと決めた後、水着を選んでいて瑠璃は気付いたのだ。
水着が無ければ、海へ誘う事も出来ない。そう思った瑠璃は、ネイトとの距離を詰める事の一環として水着選びに付き合わせたのだ。名目上は瑠璃の水着選びだが、本当の目的はネイトの水着選びである。自分の水着を選ぶと見せかけて、一緒にネイトの水着を選ぶのが目的だった。
なんやかんやと理由を付け、ネイトを買い物に付き合わせることには成功した。ネイトは最初唐突な買い物に首を傾げていたが、それ以上に何か疑問を持つことはなく快く付き合ってくれた。
「――――それで、水着を選ぶんだって?」
「そうそう。偶には新しい水着も欲しいなって思って」
そう言いながら瑠璃は最初適当に水着を選んでいた。本当の目的はネイトに水着を買わせる事なのだ。自分の物は既にあるので、そこまで真剣に考える必要はない。
と、最初は思っていたのだが、ある瞬間瑠璃はふと考えた。そう言えばこれもネイトにアピールするチャンスでは?
試着にかこつけて自分の水着姿をネイトにアピールし、魅了してしまうのだ。この場に海羽が居れば絶対にそれを勧めてくる。
思い立ったが吉日とばかりに、瑠璃は気合を入れて水着の吟味を始めるといくつかの水着を手に取り試着室へと入っていく。そして気になった水着を着た姿を、連れてきたネイトに披露した。
「どう?」
カーテンを開け、新たな水着を着た自分の姿をネイトに見せた。
瑠璃が身に付けているのは露出の激しいビキニ水着。豊満な胸とくびれのある腰、程良い腹筋と引き締まった太腿を黒いビキニが引き立てている。
刺激的な姿となった瑠璃の姿を前に、ネイトは衝撃を受けた様に僅かに仰け反り顔を僅かに赤くしながら視線を逸らした。
「ッ! ま、まぁ、何だ? 似合ってると思うぞ?」
まるで思春期の少年のような反応を見せるネイトに、ときめきに近いものを感じてこそばゆそうに笑う瑠璃。そこで彼女はちょっとした悪戯心を抱き、一緒に持ってきた別の水着も見せた。
「因みにこんな奴も持って来たんだけど、ネイトはこれどう思う?」
そう言って見せたのは、今着ているビキニに比べ更に布面積が小さい水着と首から臍までが大きく開いたスリングショットと呼ばれる水着だった。スリングショットの方は紐と言う程細くはないが、それでも着ていない時点で瑠璃が凄まじく刺激的な姿になる事が予想される。そんな物を瑠璃が着たりしたら、その威力は凶器なんてものではない。
「いっ!? や、止めとけ止めとけ! 今着てる水着が一番似合うから!」
自分の理性を守る為にも、ネイトはその二つの水着を着せないようにと瑠璃を宥めた。瑠璃としてもこの二つは別に着るつもりはなかったので、試着する事はせずカーテンを閉めると元の服装に戻った。
「さ、次はネイトの番よ」
「え? 俺?」
いよいよ本命のネイトの水着選び。言う間でもなくネイトは自分が水着を選ぶ事になるとは思っていなかったので、瑠璃の突然の言葉に面食らっていた。
「いや俺は別に……」
「何言ってるの。海都でギャンブル以外に楽しめるものなんて海しかないんだからさ。折角だからネイトも水着の一つくらいは持っておいた方がいいよ」
瑠璃は半ば強引にネイトを男性用の水着コーナーに押していく。何時になく押しの強い瑠璃にネイトは困惑しながらも、彼女の言う事も一理あるかと考え直し並ぶ水着の吟味に移った。
男性用の水着は女性用に比べるとバリエーションと言う点においてどうしても劣る。だがそれでも迷う程度には柄も種類も多いので、ネイトはどの水着にするかでそれなりに悩んでいる様子だった。
「ん~……ん~?」
顎に手を当てながら並ぶ水着を眺め、時折手に取ると色々な角度から眺めお気に召さなかったのか元の場所に戻す。これを何度か繰り返し、最終的に彼は1つのボクサータイプの水着を選んだ。
「うん、これにするかな」
「試着は? しないの?」
「ん、別に良いだろ。サイズさえ合ってりゃ問題ない」
そう言うとネイトは瑠璃の持つ籠も持ってレジに向かった。彼が纏めて会計を済ませるつもりなのだという事に気付き、瑠璃は慌てて自分の財布を取り出した。
「あ! 待って待って、自分の分は自分で払うよ!」
「別に水着ぐらい問題ないよ」
「よく見て、値段……」
「値段?…………うっ」
籠の中には最初に購入を決めたビキニの他に、試着をする事はせずに終わった布面積の小さいビキニとスリングショットの水着も入っている。合わせて3つの瑠璃が選んだ水着はそれなりにしっかりしたブランドの物だったのか、水着のくせしていい値段をしていた。値札を見て、ネイトは思わず呻き声を上げた。
それでも彼なりに男としての意地があったのか、瑠璃の視線と値札を交互に見ると咳払いを一つしてレジに籠に入った瑠璃の水着と手に持っていた自分の水着を置いた。
「これ、頼む」
「畏まりました。袋は一緒でよろしいですか?」
「いや、こいつとこいつは分けてくれ」
「畏まりました。少々お待ちください」
程無くして店員によりネイトの水着と瑠璃の水着がそれぞれ袋に分けてレジカウンターの上に置かれ、代金がレジに表示される。改めて提示された値段に、ネイトの喉の奥から呻き声が上がると瑠璃が小さく笑いながら財布を取り出し自分の分の代金を払おうとする。
それをネイトが止めた。
「あ、いや待て瑠璃」
「え?」
「…………割り勘にしよう」
「……ふふっ、分かった」
たっぷり時間を掛けたのは、全額自分で払うかどうかを悩んだからだろう。男のプライドに掛けて全額支払いたいが、予想以上に高額な値段にどうしても足踏みしてしまう。だがここまで来て全額を瑠璃に出させるのはプライドが許さなかったから、妥協案として割り勘を提案したようだ。
その瞬間ネイトの中で展開された脳内会議の様子が手に取るように分かり、瑠璃は笑いを堪える事が出来なかった。
とは言え流石に綺麗に半分と言うのは買った物の数的にネイトが不公平になってしまうので、瑠璃が三分の二を払い残りがネイトが払った。ネイトは微妙に納得していない様子だったが、そこは瑠璃が強めに押し通した。流石に自分の方が高額且つ多く買っているのにネイトに負担を掛けさせるのは瑠璃が納得できない。
買いたい物も買い終え、デパートを後にした2人はそのまま真っ直ぐ店へと向かう。本当は喫茶店にでも寄って一息つきたいが、今夜は今週最後の営業日。明日が休日だからと羽目を外して店に来る客も増えるので、準備も早めに済ませなければ。
その道中で、瑠璃はいよいよ覚悟を決めネイトを海に誘うべく声を掛けた。
「すぅ、はぁ……よし。ねぇネイト、明日空いてる?」
「明日? まぁ明日は休みだしな」
冒険家も今は休業状態なので、休みの日のネイトはハッキリ言って暇だ。する事と言えば海都の地理を覚える為にぶらりと1人で街の散歩に向かうか、海辺や公園でのんびりとした時間を過ごすのが彼の休日の過ごし方だ。基本アウトドア派なので、休みであっても家に居ない事が多い。
なので休日はネイトにこれと言った予定はなく、空いていると言えば空いていた。
「それならさ……明日、一緒に海に出ない?」
「海に?」
「そうそう。ボートを借りてさ、沖の方で水着着て海に潜るの。気持ちいいよ、すっごく!」
徐々にネイトを誘う瑠璃の言葉に熱が籠り始めた。そう言えば、沖のダイビングに誰かを誘うのは初めての事だ。普段は1人のんびりとした時間を過ごす為、そして時には1人で誰に邪魔される事も無く考え事をする為に向かうので、海羽ですら誘った事はなかった。
果たしてネイトは誘いに乗ってくれるだろうかと、瑠璃は期待半分不安半分で返事を待つ。
「そうだな……折角海のど真ん中の街なんだし、海を存分に満喫するのも悪くないか」
「じゃあ――!」
「あぁ、一緒に行かせてもらうよ」
ネイトの答えに瑠璃は内心でガッツポーズをした。目的の第一段階はクリアされた。これで後は明日、ネイトと海での一時を過ごせば……
「ッッッッ!!」
不意に襲ってきた激しい羞恥心に、瑠璃の顔が一瞬で赤くなる。咄嗟に隣を歩くネイトの方を見るが、幸いな事に彼は瑠璃の異変に気付いた様子はない。
ネイトに気付かれていない事に瑠璃は小さく安堵の溜め息を吐き、店に戻るまでの道中で何とか顔色を元に戻そうと奮闘。結果的に誤魔化す事には成功したが、その代償の様に開店前から瑠璃は激しい疲労感に苛まれる事となるのだった。
***
そして翌日。空は快晴、波は穏やか。絶好のダイビング日和である。
今日と言う日を待ちわびていた瑠璃は、柄にもなく興奮でなかなか寝付く事が出来ずこの日はちょっぴり寝不足気味だった。今日は大事な日だと言うのに何たる不覚かと、起きてから睡眠時間を思い出した瑠璃は悔いた。
だが体調に得に異変は見られない。気分も悪くないし、ダイビングに向かうのに問題ない程度には体調を保てていた。これならいける。
出発までは思い思いに過ごし、皆と共に朝食を済ませ食後には静かなコーヒーによる一服を楽しんだ。
程々に時間も経ち、時計を見れば時刻は朝と昼の中間と言う頃。瑠璃はそろそろかと立ち上がった。
「ネイト、そろそろ……」
「ん? おぅ、分かった」
瑠璃に呼ばれ、ネイトが立ち上がる。するとそれに鉄平が反応した。
「ん? どうした? 2人揃って何処か出掛けるのか?」
「ん、彼に海都の海を満喫してもらおうと思ってね」
事情を知らない鉄平の問いに、瑠璃はウィンクをしながら答える。普通ならこう言われれば向かう先は海水浴場だろうと考えるのだが、言葉の主が瑠璃で彼女の事を良く知る鉄平には2人が何処に行こうとしているのか見当が付いた。
徐にテレビのリモコンを付け、ニュース番組を付ければ丁度いいタイミングで天気予報が流れている。予報によると今日は一日穏やかな気候らしい。それを確認して鉄平も満足そうに頷いた。
「うん、大丈夫そうだな。行ってくると良い」
「ちょっとマスター? 私だって行く日はちゃんと選ぶわよ?」
「瑠璃1人なら心配しないがね。だがネイトが一緒となると、もしもという事はあるだろう?」
「おいおい、俺はこれでも危険と隣り合わせの冒険家だぜ? ちょっとのトラブル位乗り越えてみせるさ」
「大自然の驚異の前には、人間の力などちっぽけだという話さ。ともあれ、今日は大丈夫そうだからいってらっしゃい」
「頑張ってね~!」
最終的には鉄平と海羽の2人に見送られる形で、瑠璃とネイトは家を出て港へと向かう。そして何時もの貸しボート屋で小さいボートを借り、係留所へと向かった。
「あれ? 瑠璃ちゃん今日は1人じゃないんだ?」
港に繋がれているボートの一つに向かい、手荷物を放り込み海に出ようとすると馴染みの係員がネイトと共に居る瑠璃の姿に首を傾げた。確かに、瑠璃は基本1人で海に出るので他の誰かと共に港に居るのは非常に珍しいかもしれない。
「今日はね。この街に来てそれなりに経つ彼に、海都の海を体験させてあげようと思って」
「ふ~ん……今日は特に出港も入港も予定はないから大丈夫だとは思うけど、一応気を付けて」
ネイトを心配してか、係員も注意するよう声を掛けてきた。そんなに瑠璃はネイトを振り回すように見えるのか、それともネイトが頼りなく思えるのか。もし後者だった場合の事を考え、瑠璃は小さく笑みを零す。
「心配と忠告どうも。それじゃ、行ってくるわ」
「ん~! うん、今日は本当に良い天気」
「分かるのか?」
「もう何度も海に出てるからね。風と波の感じで大体分かるようになっちゃった」
「凄いな」
海の天候を肌に感じるモノだけで察知する瑠璃の姿に、ネイトは素直に感心をしてみせた。
だが同時に彼は、彼女のその姿にセラの姿を重ねずにはいられなかった。島に滞在していた頃、テレビもラジオもないのに、セラは肌に感じる海風と目に見える波の様子だけでその日の海が荒れるか穏やかかを判断してみせた。そしてそれは当たっていた。セラが止めた方が良いという日は必ず荒れ、逆に大丈夫と言った日は朝から晩まで穏やかなままだった。
容姿は勿論、仕草やこういうところまでセラとそっくりな瑠璃に、彼が2人を重ねてしまうのは無理もない事。だがネイトは、その事を口にする事も無ければ2人を頭の中で重ね合う事も止めた。セラと言う存在が、瑠璃に対してのプレッシャーとなっている事に気付いているからだ。
頭を振り、脳裏に浮かんだセラの姿を消し去るネイト。彼の異変に気付く事無く、瑠璃は適当なところでボートのエンジンを切った。
「ここで良いのか?」
ネイトが周囲を見渡しながら瑠璃に問う。場所は正に海のど真ん中。遠くを見れば机の上のミニチュアの様な姿となった海都が見えた。
「うん。私が泳ぎに来るのは何時も大体この辺なの」
そう言いながら瑠璃は徐に着ている服に手を掛け脱ぎ始めた。その光景にネイトは咄嗟に目を覆いそっぽを向く。
「ちょ、まっ!?」
「何してるの? お互いもう下に水着着てるじゃない」
海に出る際、予め借りるボートは小さいものである事を告げていた。なので着替えの手間を省く為、2人は家を出る前に着替えを済ませていたのだが、突然服を脱ぎ始めた瑠璃に動揺してネイトはその事を好かり忘れてしまったのだ。
服を脱いだ瑠璃は、先日買った黒いビキニの水着に身を包んでいる。試着した時とは違う、太陽に照らされポニーテールにした長髪が風に靡く姿にネイトは一瞬見惚れてしまった。
自分に見惚れるネイトの姿に笑みを浮かべ、瑠璃は一足先に海に飛び込んだ。その際の水飛沫が顔に掛かった所で、ネイトも我に返り慌てて服を脱いで水着姿になる。
水着姿になったネイトが辺りを見渡すと、潜ってしまったのか瑠璃の姿は見当たらない。
瑠璃と共に過ごし、またセラの事も考え、ネイトは彼女が海中でネイトが飛び込んでくるのを待ち受けていると予想した。彼女の事だ、ボートの下に隠れて飛び込んだネイトに後ろから驚かしに来るつもりなのだろう。
そうはいかないとばかりに、ネイトは海に入ると即座に後ろを向いた。これで目の前に瑠璃の姿が――――
(……居ない?)
予想したボートの下に瑠璃の姿は見当たらなかった。フェイントを掛けられたかともう一度背後を振り返ったが、そこにもやはり彼女は居ない。ボートの周りは勿論、周囲を見渡しても瑠璃の姿は何処にもなかった。
瑠璃が海に飛び込んでから、ネイトが服を脱ぎ海に入るまでの時間は数分程度。たったそれだけの時間で、視認できないほど遠くへ泳げる人間など居る訳がなかった。
そこまで考えて、ネイトは下方に対する警戒が疎かになっていたことに気付いた。ここは水中なのだから、動きは三次元的になる。
自分のうっかりに苦笑しながらネイトは下を見ると、果たしてそこには案の定瑠璃が居た。だが何だか様子がおかしい。瑠璃は手足を全く動かさず、頭を下に向けて海の底へ向けて沈んでいた。
(瑠璃?)
違和感を感じて、ネイトが瑠璃を追って下へと潜る。深度が深くなるにつれて胸が苦しくなり、上の方に比べて辺りが暗くなってきた気がするが構わず瑠璃の元へと辿り着く。
そして沈んでいく彼女の顔を見て、ネイトは己の不安が的中した事を知る。
(瑠璃!?)
瑠璃の目は閉じられ、口からは気泡が零れていた。ネイトが腕を掴んでも反応しない。誰がどう見ても瑠璃は気を失っていた。
慌ててネイトは瑠璃の体を掴み海上に向け浮上した。鍛えているネイトだが、それでも気絶した人間を1人掴んでの浮上は苦労した。まるで誰かが下から引っ張っているかのように、水をかいても上がっている気がしない。
次第にネイトの方も息苦しくなってきた。潜る時にも体力と酸素を消費したので、海上に出る前に限界が近付きつつあったのだ。
(間に合え! 間に合え! 間に合えぇぇぇぇっ!!)
肺の中の空気が飛び出しそうになるのを気合で堪え、ネイトは意識が途切れそうになる中海上へと顔を出す事に成功する。
「ぶはぁぁぁぁぁっ!? はぁ!? はぁ、げほっ!?」
危うく酸欠で溺れる寸前だったネイトは、海上を漂いながら呼吸を整える事に専念。失われた酸素を肺が必死に取り入れていた。
「はぁ、ふぅ。瑠璃、大丈夫か!?」
ある程度呼吸が落ち着いたところでネイトは瑠璃の事を見たが、彼女はネイトの問い掛けに答えない。まさかと思い彼女の口元に耳を近付けると、案の定呼吸の音が聞こえなかった。沈んでいる間に大量に水を飲んでしまったらしい。このままではマズイ。
「くそ!? 瑠璃、待ってろよ!」
ネイトは周囲を見渡し、乗って来たボートを見つけると瑠璃を引っ張ってボートの方へと向かっていった。
その間、瑠璃はまるで海流に流される海藻のように波に合わせて体をゆらゆらと揺らすだけであった。
読んでくださりありがとうございました!
執筆の糧となりますので、感想評価その他よろしくお願いします!
次回の更新もお楽しみに!それでは。