A ferocious pure love 作:Bacon and Egg
8月15日、夏真っ盛りのエジプトではうだるような暑さが毎日続いていた。今日も最高気温は36℃にまで上り、熱気のせいで景色が揺らいで見えるほどだ。そんな中でも7歳のマリア・ヘルシュラグはいつも通り果物屋の売り子を務めていた。
暑い中では水気の多い果物が飛ぶように売れる。抱えていた籠一杯に入っていたグレープフルーツやオレンジ、梨、ナツメヤシなどの果物はあっという間に無くなり、その分マリアの持つ巾着袋が小銭で重くなっていった。
本来であれば籠の中身が減ってきた時点で一度店に戻り、果物を補充して再び売りに出かけるのだが、何となく今日はそのままあちこちを見て回ろうと決める。薄紫の薄い布で出来たヒジャブを飛ばないよう気を付け、マリアは自分が住むハーン・ハリーリ市場から出てみることにしたのだった。
***
来た道を脳内で反復しながらどんどん歩みを進めていく。普段は来ないような閑静な住宅街にたどり着いたところで、マリアはようやく足を止めた。人通りが殆どないのが、暑すぎるせいなのか普段からそうなのかマリアは知らなかった。何しろあの市場からここまで離れるのは初めてなのだ。
好奇心旺盛な少女は躊躇うことなく目の前の角を曲がる。
「__!」
突然目の前に現れた大きな建物。家というより城だと言われたほうが納得のいく、そんな建築物の様相に少女は目を輝かせた。
改めて言っておくと、マリア・ヘルシュラグは好奇心旺盛で、かつ怖いもの知らずなのである。
入り口を見つけるべく、塀に沿って歩き出した。巨大すぎて敷地の一辺を辿るのに物凄く時間がかかる。マリアは途中から走り始めた。やっと入れそうな門を見つけた時には探し始めてから30分は経っていた。だが門は固く閉ざされており、塀にも入れそうな隙間はない。
マリアは諦めることなく更に進んで塀を辿って行った。そして、脆くなって隙間が空いた箇所を発見した。
籠を歪めて塀の向こうに入れ、その次に自分も潜り込む。小柄で華奢な身体は難なく通り抜けられた。ようやっと立ち上がったマリアは、塀と建物の間に生い茂る木々に思わず声を漏らした。やがて我にかえるとヒジャブをしっかりと巻き直して籠を抱えた。
静かすぎる場所にマリアのサンダルの軽い音だけが響く。怖いもの知らずな少女は怯むことなく突き進み、とうとう大きな扉の前までやって来た。後ろには先程見た門がある。
マリアは扉を右手で押した。ノックをしようか迷ったが、そもそも人が住んでいるかも分からないし、居たところで勝手に入るなと怒られるのが関の山だ。
鍵のかかった様子もなく、僅かに軋んで扉が開く。中には見たこともないような暗闇が広がっていて、マリアはそこで初めて逡巡した。が、窓があったことを思い出し、更に扉を開けて中に滑り込んだ。
やや大きめの音を立てて扉が閉まる。マリアは息を殺して暗闇の中で目が慣れるまでじっとしていたが、段々と見えるようになってくると移動を始めた。左側に階段があり、右側にはドア、まっすぐ通り抜けた先にもドアがある。マリアは左、真っ直ぐ、右、と順番に指で指し示していった。母が彼女に教えた、迷った時に決める方法である。
「どれにしようかな、天の神様の言うとおり…」
歌の終わりで手が止まったのは右側のドアだった。マリアはぺたぺたとサンダルの音を鳴らして近寄る。ドアの横には『
ドアノブを捻ると思ったよりも大きな音が響いてしまい、マリアは慌てて中に入った。そこは名前の通り朝食をとるための部屋らしくなっており、一面ガラスの張り出し窓の他にもテラスがあった。カーテンが閉められていて暗かったが、内装はかなり豪奢であることが分かる。
一通り見てしまうと、マリアは次へ進もうと先程のホールに戻り、細心の注意を払って静かにドアを閉めた。
「勝手に人の家に入って見て回るなんて悪い子だね」
「!」
突然後ろから聞こえた嗄れた声に、マリアは文字通り飛び上がった。振り返ると階段のそばに小柄な老女が立っていた。杖を持っており、ふさふさとした髪は真っ白だ。
「おばあさん、だれ?」
マリアはきょとんとして首を傾げた。
「人に名前を聞くときには自分から名乗るのが筋ってもんじゃろうが」
「わたしはマリアよ。マリア・ヘルシュラグ」
「マリアね…。わしはエンヤじゃ」
「ふうん。おばあさんはここに住んでるの?」
マリアは興味津々なのを隠さずに聞いた。怖がったり怯えたりする様子を少しも見せない少女に面食らいつつもエンヤは頷き、それからマリアを手招きをして呼び寄せる。
「わしはここに住んでいるが、ここの主は別にいるんじゃ」
「あるじって?」
「この館で一番偉い人のことじゃ。お前は勝手にここに来たからその人に殺されるかもしれん」
マリアは目を瞬いた。屋敷の主はまだ小さな侵入者には気付いておらず、エンヤは怖がらせるために言ったのだが、彼女には全く効果を示さなかった。
「入っただけなのにそんなに怒るの?そんなのひどい」
「あのお方は見知らぬ者を嫌うんじゃよ」
「じゃあわたし、殺される?あやまってもいいよって言ってくれないかな」
「どうじゃろうなあ。気ままな方じゃからのう」
「今日いっぱい果物が売れたんだけど、そのお金をまだコーヘンおじさんに渡せてないの。それまで待ってくれる?」
マリアは至って真面目だったのだが、エンヤはそれを聞いて大笑いをしてしまった。この少女は殺されるというのがどういうことかもわかっていないに違いない。
だから、館の主が気付く前に出してやろうと考えた__のだが。
「エンヤ婆…何の騒ぎだ?」
地を這うような低い声が階段の上から響く。マリアは思わず上を見ると、いつの間にか背の高い男が立っているのが見えた。
「お騒がせして申し訳ありませぬ。この小娘がいつのまにか館に入り込んでいたために捕らえた次第にございます」
男の顔が動き、エンヤの一歩後方に立つマリアに顔を向ける気配がする。階段から上が一階よりも更に深い暗闇に溶けているせいで、目を凝らしても首から上は見えなかった。
「其奴の目的は何だ?」
「ただの果物売りの小娘にございます。迷い込んだだけかと」
「ほう」
沈黙が落ち、エンヤの額に冷や汗が滲んだ。まさかDIOがここまで幼い少女の血を必要とするとも思えないが、自身の安寧を邪魔した者をただで置くとも思えなかった。
エンヤとて人の子である。
「あなた、ここで一番えらいの?」
場違いなほど明るい声音。エンヤは目を見張ってマリアを見た。彼女は純粋な好奇心で質問しているようだった。
「偉い?」
「このおばあさんがそう言ってたの」
「……」
「おにいさん、お名前は?わたしはマリア・ヘルシュラグ」
「DIOだ」
「ディオ?」
「二度は言わない」
「_DIO様」
不機嫌そうなDIOの声の後、エンヤが素早く口を挟んだ。DIOが僅かに身動ぐ気配がする。
「何だ?」
「この娘、いかがいたしましょうか」
「…フン、外に出せ。騒がしくて敵わん」
「畏まりました」
エンヤに背中を押され、外に出るよう促される。扉が開いた時に光が差し込んで中を照らした。マリアが振り返ったとき、既に階段の上には誰もいなかった。
***
「マリア!今日はずいぶん遅かったな」
果物屋の店主が戻ってきたマリアに声をかけてきた。彼の名前はアーミル・コーヘンと言い、40歳をとうに超えた市場の古株だった。
マリアは7歳だが父親の言い付けでここの売り子をしていて、本来通うべき小学校へは通っていない。本来義務教育であるため行かなければならないが、役所には“インターナショナル・スクールに通っていたが、病弱のため休学”ということになっていた。全ては碌に働かない父親のせいである。
「暑すぎて休んでたの。今日はいっぱい売れたよ」
空っぽの籠と重い巾着袋を示す。コーヘンがマリアの学校について何も聞かないのは、ひとえに彼女が他の売り子3人分を稼いでくるからだった。
「今日もすげえな。ほら、お前さんの給料だ」
「ありがとう」
沢山売れば沢山貰える。だがマリアの給金は、大抵父親の酒代か母親の化粧代に使われる。ささやかな反抗として少し給金をくすねることもあったが。
「そういやあお前の親父さん、ハシシュの運び屋やってんだよな?」
「うん」
ハシシュとは大麻の樹脂のことで、エジプトで広く普及している麻薬のことである。マリアの父親はその運び屋をしているのだ。
コーヘンは少し険しい顔になると声をひそめた。
「最近、途中で流通量が不自然に減ってるらしい。運び屋は真っ先に疑われるから気をつけろって言っといてくれ」
「…?」
「あー、つまりだな、親父さんに『疑われてるから気を付けろ』って伝えとけ」
「わかった」
コーヘンの言葉にマリアは頷き、帰路についた。
既に空は暮れかけていたが、暑さは依然として残っている。時刻は19時30分をまわっていた。
***
翌日、朝から市場に来たマリアは店主のコーヘンから商品の果物を受け取った後もその場に留まっていた。
「どうした?」
「私も果物が食べたいの。お金払うからちょうだい」
「もちろんさ。売る分とは別にしとくよ。帰りに持ってくか?」
「ううん、今がいい」
コーヘンは不思議そうにしながらも梨とオレンジを包んで渡した。マリアは左手に籠、右手に包みを持って市場を出た。
あっという間に果物は売り切れ、マリアは籠の中に包みと巾着袋を入れた。今いるのは昨日の館の前、穴の空いた塀のところである。目的はもちろん、昨日階段の上にいたDIOという男に会うためだ。
昨日摘まみだされたマリアだったが、当然興味本位からの行動ではなかった。
「あんな暗いところに一人なんて、きっと病気なんだわ」
盛大な勘違いのもと、彼女は再び塀の隙間に身体を押し込んだ。
今日も扉の鍵はかかっておらず、マリアは更に静かに扉を開けて滑り込む。エンヤが来る前に移動するべく、ヒジャブを外すと入って左側にある階段を急いで2階へと上がった。
上がったところは廊下になっているが、1階同様真っ暗だった。一番端の部屋の外には『
中を覗いたが誰もおらず、浴室の窓はもちろんカーテンが閉まっている。更にそこを通り過ぎると正面と右に扉があった。
右側の扉に近付く。
「“
プレートに彫られた文字をなぞって口に出す。ドアノブをひねってみると意外にも簡単に開いた。中に一歩踏み込んで覗き込む。
「誰だ?」
「!」
部屋の奥から圧を込めた声が聞こえてくる。突然声をかけられたマリアは驚いたが、目的地であることが分かったので引き返すことなく部屋に入った。
「誰だと聞いている」
「マリアよ」
「…ああ、昨日の小娘か。殺されにでも来たか?」
声の主_DIOは大きな天蓋付きベッドの上で寛いでいた。マリアはサンダルの音をペタペタ鳴らしながらそばまで行き、その顔をよく見ようと顔を近づける。だがそれをDIOが容易に許す筈もなく、マリアは壁を背に押し付けられた。首元をDIOの右手だけで押さえつけられており、およそ120cmしかない身体は地面から浮き上がっていた。
果物の包みが床に落ちて転がる。
「何をしに来た?もしや誰かの…ジョースターの手先か」
「ジョースター?」
マリアは怪訝そうな顔で聞き返す。喋らせるためかDIOの手そのものに力は込められておらず、マリアは容易に話すことができた。
「だあれ、それ?」
「ジョースターはジョースターだ」
「そんな風に言われてもわかんないわ」
「貴様、とぼけてるんじゃあないだろうな」
大男と少女の押し問答が続く。DIOのしつこいまでの質問に、マリアは遂に文句を言った。
「知らないって言ってるじゃあないの!」
DIOは真意を確かめるべく少女の瞳を見つめたが、そこには嘘も偽りも感じられなかった。
それでは目の前の小娘は、一体何の為に再びやって来たというのか。と言うかそもそも、
「貴様、このDIOが怖くないのか?」
「うん」
「変人だな。ジョースターの手先でないなら何をしに来た?」
「そこの包み」
マリアはDIOの足元を指さした。ここに来る前、コーヘンから買った果物が入ったものだ。
「あなたにあげる」
DIOはマリアから手を離すとそれを拾い上げた。大きな白い手が包み紙を開く。
「…なんだこれは」
「梨とオレンジ。私のお店で売ってるやつなの」
立ち上がったマリアは首をほとんど垂直に見上げた。薄暗い中で赤い双眸が少女を見下ろしている。
「俺が聞きたいのはそんなことじゃあない…なぜ貴様はこのDIOに梨とオレンジを持ってきたのだ?」
「嫌いなの?」
「質問を質問で返すな」
「…病気の人には果物をお見舞いに持っていくんだってお母さんが言ってた」
「このDIOが病気だとでも?」
「元気な人は真っ暗な家に住んだりしないわ」
「フハハハハハ!
「?」
マリアが首を傾げると、DIOは愉快そうに口の端を歪めて屈みこんだ。
目の前の少女の黒髪と同じ色の瞳をじっくり眺める。当のマリアはというと、自身の髪を摘まむDIOの指先を眺めていたが、やがて何かを思いついたように赤い瞳をのぞき込んできた。
「ねえ」
「なんだ」
DIOは髪を摘まんだまま、ちらりとその顔を見やった。
「わたしと友達になってくれる?」
エンヤ婆のキャラが湯婆婆みたいになりそう