遥か未来の、ファンタジー。
宇宙の果てのその先には、彼女の心が広がっていた。

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いつになっても

 人間の視覚と知覚は根本的に違う。それを理解している人たちはどの程度いるのだろうか。

 宇宙の果てが観測できるようになって、マリアナ海溝の底にも人間が足を踏み入れ、人工知能やロボットが仕事と呼べるものをあらかた人間から奪い取ったこの時代において。

 確かに宇宙の果て、すなわち宇宙のすべては『見える』。地球上の砂粒よりも多い恒星もその周りを回る惑星も、いつ消滅するか分からない小さな彗星や小惑星すらスーパーコンピュータが事細かにデータを取っている。

 しかし、見えているからといって知っていることにはならない。まだ西暦という基準を使っていた時代、太陽系の惑星は観測できていても実態のほとんどが謎に包まれていた。ネットや雑誌で熱心な学者が論説を垂れ流し、面白半分の民衆が陰謀論を囃し立て、未知への興味を共有していた。

 なのに、百年ほど前に『宇宙の果てが観測された』と言われたとたん、人々は宇宙への興味を失った。

 あくまで『見えた』だけでしかないものを、すべて『知った』と思い込んで。

 

 もちろんそれを非難する資格は僕にはない。何せ僕だって、あんなことがあるまでは宇宙なんて遠い世界の話だと思っていたんだから。

 そもそも、宇宙の謎を解き明かそうだなんて崇高な志なんてないんだから。

 

 

 

※※

 

 

 

 慣れてしまえば快適な宇宙船の中、気の置けない友人となった同僚たちとわずかばかりの酒を酌み交わす。

 もともと僕は下戸だったが、楽しみの少ない船旅で勧められるままに呑んでいるうちに多少の耐性がついた。クルーの中で一番の若手なので断ることもできなかったからだが、心優しい同僚たちは僕が悪酔いするまで呑ませることはなかった。

 

「次の仕事はいつになるかな」

 

 酔いが回ったせいか、それともすっかり気を許した友人に囲まれたせいか、深く考えることもなく思ったことをそのまま口に出してしまう。

 彼らはぽかんとした表情でこちらを見て、それはすぐに憐れむような視線に変わった。

 

「おいおい、女がいないからって仕事のことばかり考えてちゃ人生損するぜ」

「こんなにキツい仕事そうそうないんだ、休める時に休まないと身体がもたないぞ」

「妹の友人にいい子がいるからさ、紹介してやるよ」

 

「いや、別にそういうつもりではないんですが」

 

 予想外の方向に飛んだ話を訂正するも、アルコールの勢いは止まることを知らない。「お前の妹ってもうババアだろ」だの「いい子がいるなら俺にも紹介しろよ」だの、既に僕のことは眼中にない様子でがやがやと騒いでいる。憐れみの視線といっても、からかい八割みたいなものなのだ。

 暖かい空気の中、しかしたった一言が場を凍りつかせる。

 

「昔の話は少し聞いてるが、あまり引きずるのもよくないぞ」

 

 ピキ、と乾いた音がして、全員が表情までも固まった。誰もグラスを落とさなかったのが不思議なくらいに。

 

「いえ、本当にそういうのじゃないですから」

 

 そんな訂正でひきつった愛想笑いを浮かべる一同を見ているのがいたたまれなくて、傍らのビンの栓を抜く。

 

「辛気くさいのはやめましょうよ、お酒の席なんですから。ほら、呑みましょう」

 

 むりやり全員のグラスに酒を注いで、自分はビンに直接口をつける。

 大して残っていないだろうとたかをくくって呑み始めると案外たくさんあったけれど、自分が火をつけた以上後には引けない。急速に意識がもうろうとしてくるのを感じながら、息苦しいのを堪えて一気に飲み干す。

 呆気にとられた様子だった同僚たちもぎこちないながら乾杯をして場を盛り上げ、暗くなった雰囲気を払拭する。

 どうにか丸く収まったらしいことに安心すると、もう思考は続かなかった。

 

 

 

※※

 

 

 のどかな山村の風景。

 吹き渡る風は爽やかで、鳥のさえずりが朝を知らせ、羽虫がぶんぶんと飛び回っている。

 多くの人類が地球を離れた今、そんな何気ない風景は最高級の嗜好品とも言える。

 村の働き手が田を耕すのを尻目に、僕は幼なじみと遊んでいた。

 

「早くこいよ、大丈夫だから」

「私にはムリだって …… 」

 

 田んぼに水を引くための用水路、五十センチほどの幅を挟んだ対岸どうしで、そんな言葉を交わす。

 

「じゃあ、ほれ」

 

 しびれを切らした僕が手を伸ばすと、彼女はそれをしっかりと掴んだ。

 そのまま引っ張ろうとして力を込める。

 

「やっぱりムリっ!! 」

 

 逆に引っ張られた。

 コンクリートの淵ぎりぎりに立っていた僕は、予想外だったこともあってあっさりと込められた力に従い。

 どぼん、と泥水に落ちた。

 しかも、手を離さなかったせいで彼女も真下に引っ張られ、僕の上に落ちてきた。

 堆積した泥の中に顔面を押し込まれる。

 

「 ―― !! 」

 

 声にならない悲鳴とともにじたばたと手足を動かす。

 様子がおかしいことに気付いた彼女が僕の上から降りてくれるまでの時間は、永遠にも感じられた。

 

 なぜ、今こんなことを夢に見るのだろう。

 色褪せていたはずの思い出が、はっきりと色鮮やかに蘇ってくる。

 息を吸うたびに鼻に泥が入ってくる気持ち悪さ。

 顔を上げたら頬にしがみついていたザリガニの、硬い足がわさわさとうごめく感触。

 梅雨に入る少し前の、肌にまとわりつく空気。

 背中いっぱいに感じる、柔らかい温かさ。

 

「ごめんなさい …… 」

「気にすることない、から、ホントに、さ」

 

 ぶはっと口を開けると少しだけ入っていた泥が溢れた。ねちゃ、という感覚に本能的な気持ち悪さを覚え、慌てて近くの蛇口を探し口内をゆすぐ。

 顔を上げると、後ろから彼女がついてきていた。全力で走ったからかなりの距離が開いている。

 

「待ってろ、すぐ行くから」

 

 もう一度だけ水を吐き出して来た道を引き返す。

 その、目の前で。

 巨大な構造物が空から落ちてきた。

 落下点を確認するまでもなく、何が起きたかは理解できていて。

 

 

 

 声が出なくなり、胸を締め付けられるような痛みとともに、目が覚めた。

 

 

 親切にも誰かが寝袋に入れてくれたらしい。動いてくれない人間の身体を寝袋に入れるのには相応の技術があり、それはこの作業船に乗り込む時に全員がレクチャーを浮けていた。

 ひどい悪夢だった。

 『彼女』を失ったのはもう十年以上前になる。最近、ようやくうなされる頻度も減ってきたくらいの頃合いだった。

 なんてことはない、開発途上のコロニーによくある事故のひとつ。建設途中の天井が落下してきただけのこと。

 

「引きずる、ね」

 

 何一つ否定できない。

 

 しかし、気を使わせないようにと思っての行動が迷惑をかけているとなっては情けないことこの上ない。

 せめてもと背筋を伸ばして向かったキャビンでは、昨日のことなど忘れてしまったようにからっとした笑顔の同僚がいる。

 

「昨日は、ご迷惑をおかけしました」

 

 おはようの挨拶も忘れての謝罪に皆が振り向く。

 この船の船長、といっても僕とさほど年齢の変わらないガタイのいい男がにこやかに言った。

 

「気にするなよ、酒の席でのことだ」

「いや、しかし」

「あいつだって反省している。お前も反省しているならそれでいい」

「ですが …… 」

「ったく、気にすることないってのに。じゃあ昨日呑んだぶん、しばらくお前はアルコールなしだ。それでいいな? 」

 

 有無を言わせない口調での提案には互いの妥協が含まれていて、形ばかりとはいえこの申し訳なさに対する罰を与えてくれるのはありがたい。

 断る理由もなく、僕は頷いて、『例の発言』をした同僚に視線を向ける。少し離れたところにいたが別に気まずいとかじゃない。互いに軽く一礼して、この騒動にはケリがついた。

 

「さて、仕事すんぞ、てめーら」

 

 威勢のいい掛け声に身も心も引き締まる。

 そうやって今日も、平穏で心地よくてやりがいに満ちた仕事が始まる。

 

 はずだった。

 

 気付いた時には遅すぎた。

 船内にアラートが鳴り響く。小惑星が船体を直撃したのだった。

 そもそも宇宙空間を飛び回る小惑星など無数にあって、どれも音速を越えるスピードで飛び回っている。すべてを予測するなどどだい無理な話なのだ。

 すぐに鳴り止んだ接近警報に代わるように空気漏れの警報音が直接頭に響き続けていた。

 

「さっきの衝突でイカれたところがある、外に出て直さなきゃならない。宇宙服を取ってくる」

 

 計器類とにらめっこしていた先輩が踵を返す。この手の事故はさほど珍しいことではなく、ベテランクルーたちの動きは慣れたものだった。

 

「僕も行きます」

「正気か? 」

 

 無言で頷く。

 これが初めての航海となる僕に宇宙空間での船外活動の経験はない。調査対象の惑星へは降りることを許されたが、それも地球によく似たコロニー候補の星であればこそ。

 普段は船外で活動する同僚たちのデータを受け取って閲覧、編集、報告するくらいの事務仕事しかやっていないのだから驚かれるのも無理はなかった。

 

「本当に大丈夫なのか? 」

「僕だって必要な訓練は受けてます。それに、いずれはできるようにならないといけないことですから」

「それはそうだが …… 」

 

 渋面を崩さない先輩の肩を、木の幹ほどもある太い腕ががっしりと掴む。

 

「連れていってやれ」

 

 先輩の振り向いた先に、船長の爽やかな笑顔があった。

 

「見たとこ可動翼と機体係留装置の物理的な損傷だろ? まだ入港までには間があるし応急処置ならさほど難しくもないだろ。いい勉強になる」

「分かりました」

 

 今度は苦い顔をして、先輩は頷いた。

 

 

 

※※

 

 

 

 息が苦しい。

 視界は開けていて遥か彼方まで見通せる解放感があるのに、同時に胸を締め付けられる圧迫感が襲ってくる。

 初めて生で見る神秘的な光景にはこれまでにないほどの感動を覚えるのに、気を抜くと恐怖に押し潰されてしまいそうだった。

 

「キツくなったらすぐに言え、船に引っ張り込んでやる」

「ありがとう、ございます」

 

 宇宙に慣れていない者にとって一番危険なのは精神が参ってしまうことだという。話に聞いても実感は湧かない話だったが、こうして体感するとさもありなん、と思える。

 周囲の環境が生物の存在を許さない過酷なものであることを、自分の身体が本能的に感じ取っているような気分だった。

 先輩が作業する横に控えて、工具箱から言われたものを渡すだけの役割。

 多用途ケーブルを通した接触回線から伝わってくる少しくぐもった声すらも新鮮だった。

 

「ふう。こんなものだろう」

 

 その言葉を聞いた時には数時間が経っていた。

 いかに訓練と実践経験を積もうと、分厚い宇宙服越しの精密作業は神経を磨り減らす長期戦になる。

 横で見ていただけの僕ですら、手のひらにはじっとりと汗が滲んでいた。

 

「作業終了。帰還します」

「了解だ」

 

 ひとまずの危機を脱した船内が安堵に包まれるのが無線越しにも伝わってくる。

 安心感が自分の心にも伝播してくるのを感じながら工具箱を閉じ、宇宙船につながるケーブルを手繰り寄せようとしたその時だった。

 

「 …… くん」

 

 ぎょっとして周囲を見渡しても何もない、何もいない。

 

 気のせいだろうか?

 しかしその『声』はあまりにもクリアに聞こえた。無線機越しの船長や先輩の声とは明らかに違う、空気の振動のみを介した天然の音だ。

 しかも、女の。

 

「急げ。空気は無駄にできないからな」

 

 感情を抑えた先輩の急かす声に慌てて向き直る。日常業務とはいえ数時間の作業を共にした後であれば、そんな声にも優しさが感じられる。

 きっと気のせいだ。

 頭を振って渦巻くもやもやした思考を吹き飛ばし、船のエアロックへ向かう。

 

「 …… くん、 …… くん? 」

 

 やっぱり聞こえる!

 気のせいなんかじゃない、はっきりと耳を打つ声は間違いなく現実だ。

 しかし真空の宇宙で空気の振動が伝わるはずがない。なら、なぜ。

 振り向くと、一面の宇宙が広がっている。こんな景色を見れば切り取った一部分でしかない『星空』なんて言葉は馬鹿馬鹿しくて、そのまま『宇宙』と言う方がしっくりくる。

 それでもこれまで小さな宇宙船の窓からしか見なかった星の海に身体ひとつで飛び込んだ先にあったのは、人生観が変わってしまいそうなほどに美しい、形容しがたい眺めだった。

 砂浜の砂つぶをすくうように、無数に見えている星たちは手を伸ばせば届きそうなほどに近くて、口に含んで甘美な味を堪能できそうなほどに小さい。

 『何もない』に包まれた全身がどうしようもなく興奮して、意味もなくじたばたと手足を動かしてみる。少しだけ、『声』に近付いた気がした。

 

「ふふっ」

 

 上品で透き通った笑い声。うっすらと吐息の温かさを感じるほどに近く、惑星間でのテレビ通話のように遠く冷たくもある。

 しかし聞こえてくる方向は分かった。

 遥か遠くに『宇宙の果て』を臨む方角。空気による光の減衰がない宇宙空間だから見えているだけで、数万光年は離れているだろうか。

 そもそも『見えている』という表現は正しくない。何も見えないからこそ果てなのだ。

 

 どこかで聞き覚えがあるような気がした。

 懐かしく、暖かく、包み込まれるような、守ってあげたくなるような。

 生まれて初めてだろう、こんなに頭が働くのは。

 『声』が聞こえるたび、言い表しようのない感情がじわじわと広がって薄ぼんやりとしたイメージを脳内に紡ぎ出す。

 分かりそうで分からない。思い出せそうで思い出せない。

 

「待って!! 」

 

 思わず手を伸ばしたのは、頭の中での虚像だったはずなのに、現実に自分の手はまっすぐ伸びていた。

 ぐにゃり、と視界が歪む。

 現実と空想が混ざり合って、漆黒の宇宙に虹色の光が宿り、宇宙服が周りの空間に溶け込んで本当に身体ひとつで見知らぬところへ放り込まれた感覚を覚えた。

 

 そこで。

 

「やっぱり、『 ―― 』くんだ」

 

 ぼやけた輪郭が急にくっきりと浮き出て。

 

「なんだ、『 ―― 』かよ」

 

 やはり、懐かしい顔だった。

 

 

 

※※

 

 

 

 ここは宇宙。

 しかし、もといた宇宙ではないという。

 

「わけのわからないことを言わないでくれ。ただでさえ混乱してるんだ」

 

 目の前に立つ彼女は、また優しく微笑んだ。上品で透き通ったあの声だ。

 

「だから、落ち着いてもらうために説明してるんだよ。私だってびっくりしてるんだ、まさかこっち側に入ってくるとは思わなかったから」

「こっちもあっちもない。四方八方、どこ向いたって夏の山の中みたいな散らかり放題、ぐっちゃぐちゃじゃないか」

「うん、そうだね …… 、先にこれ言っちゃおうか。宇宙ってさ、ひとつじゃないんだよ」

 

 おいおい。

 昔からパラレルワールドとか平行宇宙とかそんな話は掃いて捨てるほどあるけれど、それじゃ僕は生身でそこに放り込まれたってことになるのか?

 まさか。

 

「人は、それぞれひとつずつ、自分の宇宙を持っているんだ。だから、宇宙はひとつじゃない」

「いや、それは宗教とか哲学とか、そういう話だろ? 」

「いいセンいってるよ。まあ、そっちの宇宙にいる『そういうの』はだいたいホラ吹きの詐欺師、適当なこと言って目立ちたいだけだよ。だって自分の宇宙は、生きているうちは認識できないから」

 

 怪しい。

 眼前で微笑みたたずむ『彼女』が姿かたちだけ似せた偽物で、何か変な宗教に勧誘されていると考える方がしっくりくる。

 僕の知っている『彼女』が、こんな話を大真面目にするなんて思えない。

 

「正確に言えば『肉体を持っているうちは』かな。生きているっていうのは、みんなで一緒のところに住むために身体を間借りして精神をそこに宿している状態なんだ。肉体が死んでも精神は死なないから、元あった場所に、つまり自分の宇宙に戻ってくる。なんとなくわかった? 」

「 …… ああ」

 

 気になることを全部口に出していては話が進まないので、とりあえず頷いておく。胡散臭いのは変わりないが、理解はした。

 

「でさ、ここからが面白いんだけど、自分の宇宙って終わりがないんだよね。境界? 限界? なんていうか …… 」

「『果て』ってやつか」

「そう、それ」

 

 今度の笑顔は、太陽のように明るく活発なもの。暖かいどころか迂闊に手を伸ばせばやけどしそうな熱を持っているように感じられた。

 

「どこまでも広がってるわけじゃなくて、他との境目が曖昧なんだ。だからこうして試しに現実にいるきみに呼び掛けてみたの」

「なるほどね」

 

 とても興味深い。学者連中がよだれを垂らして欲しがる知識を流れ落ちる滝つぼで塞き止めているような罪悪感すらある。

 しかし、今の僕にとってそんなことはどうだっていい。

 

「お前がこっちに来ることはできないのか? 」

「やっぱりそうなるよね」

 

 初めて見る笑顔。

 天真爛漫で自由奔放ないつもの彼女でいて、テストの点数ではついぞ負けたことのない僕でも及びもつかないほどの何かを悟ったような、裏に何を隠しているのかを悟らせないようにしながらも何かを隠していることは隠さないような。潤んだ瞳が訴えてくる。

 数秒の沈黙という解答を得て、ようやく僕は自分の質問が失敗だったことに気づいた。

 

「悪かった」

「謝ることじゃないよ。私だってそのつもりで声をかけたんだし」

「なら …… !! 」

「でも、ダメだよ」

 

 明確な拒絶。

 これもまた初めてのことだ。

 幼い頃はお互いに思ったことを全部口に出しては何でも二人でやってみて、痛い目を見て大泣きして次の日には似たような無茶をやっていた。

 目の前にいる彼女は、やはり近くて遠い。

 

「本来、そっちで死んだ人間に会うべきじゃない。私も、よく話す人たちに何度も止められたからね。これは一回限りのワガママなんだ」

 

 伏せられた瞳の奥から水滴が流れ落ちる。

 

「ごめんね、つらい思いさせちゃって。埋め合わせは、いつか必ずするから。きみがそっちで死んで、こっちに来てからさ」

 

 笑えない冗談。そのはずだ。

 でも必死に震えを抑えて紡がれたその言葉に、僕は精一杯の笑顔で応えた。

 涙は出ていなかったと思いたい。

 

「最後にひとつだけ、いい? 」

「なんでもどうぞ。僕がお前の頼みを断ったことあったか? 」

「私のこと『お前』って呼ぶのやめてって言ったとき」

「 …… っ」

 

 ころころと笑う顔は、年相応のものだった。

 深い意味など込められていない、ただ純粋に感情を表に出した底抜けに明るい笑顔。

 

「死ぬことは怖いことじゃないよ。でも、生きることをやめちゃダメ。精一杯もがいて、あがいて、生ききったからこそ死ぬのが怖くなくなるんだ。死ぬ前も、死んだ後も、同じくらい不思議できれいで楽しい世界があるんだよ」

「 …… 心に留めておくよ」

 

 もう、年相応じゃないとか悟ってるとかそういう感覚はなかった。

 昔も今も、彼女は彼女だ。

 それでいい。

 

 まどろんでいく意識の中、最後まではっきりと目に焼きついていた彼女の姿がぐにゃりと歪んで、気付けばカプセルベッドの緑色のガラスの中にいた。

 

 

 

※※

 

 

 

 それからの日々はあっという間に過ぎていった。

 あの日、彼女が話したことを理論的に解明してみたくて宇宙の観測・研究に明け暮れ、いつの間にか業界の中ではそこそこ顔の知れた重鎮になっていた。

 自分の研究室も持ったし、大学や企業で講義することもあった。

 それでも、結局、『ここではない宇宙』の研究は大して進まなかった。

 七十を越えた頃に大病を患い、自身の研究は後進へ譲った。本来の目的である研究の副産物的なものが多かったが、宇宙開発分野に大きな影響を与える法則の解明や理論の提唱は僕の研究室を大きく成長させていた。

 

 どうだっていい。

 どうだっていいことだ。

 

 肉体が滅んで意識だけの存在になれば、恐らくは全知と呼んでいいレベルの知識が得られるのだろう。そして既に逝った先人とも思う存分語らえる。博識な人と議論しながら夜を語り明かすこともできるだろう。

 限りのない時間のなかで、自ら真理を追い求めるのもいい。敢えて答えを聞かず、何千何万の歳月を経て自力で何かを解き明かす喜びはなにものにも替えがたい。

 

 いや、それすらどうだっていい。

 大切なことはひとつだけ。

 

『精一杯もがいて、あがいて、生ききった』。

 

 その事実が、その経験が得られたならこれまでは上々。

 そしてきっと、これからも悪くない世界が待っている。

 だから、最期の言葉はこれでいい。

 

「これから、すべてを確かめにいくのさ」

 

 彼女の、心すらも。


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