吉家家興亡記   作:OTZ

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プロローグ 覇者の胎動

 

 北方世界の西方、岳島大陸群の南方、四河大陸。

 その全土を治める四河国は数世紀に亘る戦乱の最中にあった。

 1217年、大禰王が流行り病で崩御したのち、王には子が居なかったため、跡継ぎ争いが起こったのだ。

 二人の候補が出たが、文武の二大勢力であった、左大臣の琴原家と国軍総帥の水原家がそれぞれを担ぎあげた為対立が起こった。

 先王の遺言には『争いを起こさぬべし』とあったため、すぐに戦禍とはならなかった。

 しかし―――

 

「曲者ぞ! 誰ぞあらぬか!?」

 

 四河国の都、岩杉にある琴原塩蔵邸の中で発せられたこの一声から、血で血を洗う戦国の世がはじまった。

 何が起こったのか。

 一人の刺客が、塩蔵の寝こみを襲い、暗殺を試みたのだ。

 塩蔵は元々耳が良かったのと、目に見えない程細い糸を辺りにめぐらして知らせる仕掛けを御息所に仕掛けていた。その為、糸に触れた刺客に気付き、塩蔵は声を上げて援軍を呼び、応戦。

 丁々発止の最中に腕に何か所か傷を負ったものの、命に別状は無かった。

 本当のところは未だ不明確であるが、塩蔵はこれを水原の仕業であると仕立て上げ、翌朝開かれた朝議で糾弾。

 水原家当主・光久は、当家にかかわりのない事であるとして、否認し続けた。

 しかし、琴原塩蔵による、水原派の買収や、工作によって次第に光久は追い詰められた。

 窮した光久は、擁立していた大禰王の甥、悠萱親王を担ぎ上げて「琴原左府は、根も葉もない事をでっち上げ、己が陥穽に落とさんとする君側の奸である」として宣戦を布告。

 悠萱親王の後ろ盾を活用して、地方の諸侯を味方につける事に成功。一気に琴原を追い落とさんとした。

 これに対し塩蔵も、工作で味方に付けた首都周辺の諸侯に対し「水原総帥こそ、自らの過ちを認めず、遂には正義を討とうとする悪鬼である」と檄を飛ばして、賛同を得る事に成功。

 1231年11月、両者は兵をあげて、岩杉より北に10㎞程離れた忍峰にて対峙し、やがて衝突。

 この戦いはすぐさま終わるかと思われたが、両者の軍勢は数は大して変わら無い上に、士気も昂じていた故、次第に膠着状態となってしまった。

 小競り合いが岩杉の中にまで波及し、都は荒廃。その上、参加していた諸侯達はだいたいは国を家臣に預けている。その為、野心をもった家臣が次々に独立を宣言し、国の政府に従わない地方政権が続出。

 世は下剋上の時代となったのである―――

 

―――――――――

 

 さて、都よりは少し離れた箕崎と名付けられた国の諸侯、房部家もその一つとなろうとしていた。

 房部家は、忍峰の乱には水原派として参加したが乱の趨勢を見切り、時の当主・頼長は早々に退却。自国の整備に努めた。

 頼長が見切った通り、四河は乱世に突入した。

 周りの家々が家臣に乗っ取られていく中、房部は辛うじて家を永らえさせることが叶った。

 これは西国(四河大陸を縦に切り裂く、中央山脈の西側の地域)の中では琴原や北山の例外を除いてはまず無かったことである。

 頼長は1238年に逝去し、頼光が後を継いだ。

 頼光は、房部家の歴史上最大の名君であると謳われ、同業者組合の中でしか許されなかった商売を誰にでも行えるように自由化を行い、領内の街道整備も積極的に行った。

 学問も推し進めて、技術の発展にも貢献し、農業の生産も引きあがった。しかし、頼光は税を増やすことはせず、富める者から多くを徴収することで、そのままの年貢を保った。

 それだけでなく、隣接の平手家や沖島家等からの侵攻にもよく耐え、一歩も足を踏み入れさせなかった。そんな主君である、頼光に家臣たちは皆憧憬の念をいだき、与えられた主命に励んだ。

 その中の一人が、吉家康盛。後に諸侯として初代当主となる男であった。

 

 康盛は、頼長治世末期より仕えていた武将である。頼光治世下では主に文官として抜群の働きを見せ、馬役小頭より、家老の一人に列せられるほど出世を果たした。

 1263年に頼光が亡くなると子の頼時が後を継ぐ。しかし、頼時は頼光の行った政策を廃止し、私腹を肥やす政策ばかりを施行。特に一年に一回、一つの地域につき一人、女を「寄人(本来は貧窮した人が、施しをしてくれる富裕層の家に居候する四河国の風習)」として頼光に差し出せという『寄人令』は後世にまで伝わる悪法となった。

 康盛は何度か頼時に諫言こそしたが、全く聞き入れられず、康盛は段々と中枢より遠ざけられてしまう。

 同じような境遇の重臣は何人もおり、中には謀反を思案しはじめる者もいた。

 人望のあった康盛は何度か謀反を持ちかけられたが、主家に背くわけにはいかないと拒み続けた。

 しかし、最初に謀反を提案された、1265年の秋に康盛は奉行として農村の視察に出向く。

 その時、その村の首長の屋敷に入り、昼餉を振る舞われた。

 

「奉行様、こちらが昼餉となりまする」

 

 康盛はその内容に愕然とした。

 なんと、少々の米に大きく水増しされた粥に菜っ葉が僅かに入ったのみの粗末なものであったのだ。

 供の者はそれに憤慨し

 

「貴様! これが、そこもとの我々に対する礼であるか!」

 

 と、鯉口を切りながら威嚇した。如何にもすぐに抜刀せんとする勢いだったので、康盛は無言で手にて制す。

 酋長はそれに対し些かも物怖じせずに

 

「我が家にはこのような物しか用意出来ませぬ。されど、これが私めの出来る最上のもてなしにございます。それが気にくわぬと仰せになるのなるのであれば、この内坂文衛門、首を差し出す覚悟にて」

 

 と酋長は改めて座り直し、神妙な様子で首を差し出した。

 

「庄屋風情が、出過ぎた真似を……! うぬの望み通りにしてくれようぞ!」

 

 そう言って、従者は束に手をかける。

 

「狼藉は止めぬか」

 

 康盛はそう言って束をかけた方の腕を取り、諌めた。

 従者は我に返って

 

「申し訳ございませぬ……。この者の振る舞いがふてぶてしく……」

「些事で癪を起こすものなど、当家には不要である。暇をくれてやる故、早々に立ち去るがよい!」

 

 余りにも怒気の籠ったその一声に、従者は気圧され退散していった。

 退いた後、康盛は酋長の方へ僅かに表情を崩しながら、座り直す。

 

「騒がせてしもうたな。済まぬ。馳走になろうか」

 

 と、静かにその雑炊に手をつけたのだった。

 

 康盛はこの一件から農民たちの窮状を肌で感じ取り、謀反を決意したのだ。

 それから半年間、康盛は謀反に賛同する人々を集め慎重に計画を進めた。

 そして、1266年5月未明、康盛は3000の兵を率いて房部の本拠・岩盛城を急襲。この時戦陣で活躍した坂本恵村や夜襲を献策した藍山信堯は子子孫孫に至るまで吉家の家老として活躍した。

 頼時は飛び起き、抗戦しようとするも、支度をしている時に敵兵に見つかり、呆気なく首級を取られた。

 翌朝、康盛は独立を宣言。ここに、政権として、諸侯としての吉家が誕生したのであった。

 しかし、吉家の船出は祝福されたものではない。

 箕崎国内、旧房部の家臣が主君の仇とばかりに挙って反乱を起こしたのだ。旧臣の中には頼光に対する裏切りであると受け取った人物もいたからである。

 4つの勢力に分断されたが、17年後に統一を果たした。これで漸く、吉家は一政権として成立したと言えよう。

 その後は房部と同じ轍は踏まぬとばかりに、頼光の政策を康盛なりに改編したものを施行。

 箕崎の国は賑わい、往時の、頼光期の勢いを取り戻したのであった。

 さて、国内に余裕が出来た為、康盛は領土拡大を画策。取りあえず都を目指そうと、北の大名家である平手家を相手取った。

 しかし、平手家は名将が揃った名家であった為、大いに苦戦。康盛存命中には倒せないままに終わった。

 1323年、康盛が95歳で逝去。

 長子の昌克が後を継いだ。

 吉家昌克は、まず南の諸侯である大洲家と同盟を組み連合して平手家を滅ぼした。

 昌克は民政安定の為、平手家当主の嫡男である、平手忠峰を重臣として取り立てた。最初は大いに気まずい関係ではあったが、昌克は働きに応じて感状や家宝を与え、懐柔に務め、心服させる事に成功した。

 優秀な平手の家臣をも己が掌中に収める事に成功した訳である。

 昌克は知謀と武勇を駆使して領土を更に拡大。大洲家は従属し、後に家臣として取り込んだ。

 西国の南部を席巻した吉家に危機感を抱いた、西国の中央に位置する宇治田・初川・琴原の三家は宇治田家当主、徳秀の提案で1348年3月に『中央連合』を結成し、吉家に備えた。

 三家まとめてでは相手にし切れないと悟った昌克は、中央連合と和議を結び、領内の拡充に勤しんだ。

 しかし、盟主であった徳秀は結成から数年後に逝去。後を継いだ徳昌は凡庸な当主であったため、連合の足並みは徐々に乱れ始めた。

 昌克はまず、琴原を御家争いに乗じて、本来の当主である琴原塩正を蹴落とし、自らの子である吉家諸治を当主に擁立すべく、養子として送り込んだ。

 塩正は王家の重臣であることを活用して、当時、破竹の勢いで西北部に勢力を広げていた北山に援軍を要請するが、北国の安定を優先させるため拒否。中央同盟は最早、徳秀の死以来、昌克の手が入ったこともあり、まともに機能しなくなっていたのだ。

 進退窮まった塩正に対し、諸治は家臣を味方につけた上で、折檻状を送りつけ、隠居を強要。塩正は抵抗を思案するも、かなわぬと判断して逼塞を受け入れた。琴原は無血で完全に吉家の掌中となった。

 琴原は岩杉の守護者でもあった為、昌克は都入りし最早傀儡と成り果てた国王の豊園王(悠萱親王の孫)に謁見。四河全体に自らの権威を誇示した。その上、国王の身柄を護る名目で近衛隊を設置。各地から剛の者を集めた5万人の大組織となり、警察組織の役目も担った。

 その後、昌克は残りの宇治田家、初川家とも戦った。しかし、背後には当主が変わり、対吉家に方針を変えた北山がついており、攻略は楽には行かなかった。が、1410年には初川家は滅び、中央山脈の中心部を手中にした。それから2カ月後、昌克は北山を気にかけながら100年の命を終えた。

 

 昌克を継いだのは嫡男の頼政であった。

 吉家頼政は、武勇の誉れ高く、初陣となった初川領の大円城攻めでは200の首を獲るという大戦果を残している。勉学に関しても造詣は深かったが、弟の諸治には劣っていた。

 そんな頼政が当主になって初めて直面した問題は、宇治田攻めの事である。

 宇治田は最早、勢いを失い、最後の一城であった札下城を残すのみであった。しかし、そこには赤城玄蔵という豪傑がおり、ほとほと頭を悩ましているのである。

 札下城を囲む事一年弱、1411年5月に総大将を務める頼政に一つの吉報が入った。

 男子が生まれたというのである。

 頼政は一計を案じ、その事を兵士に伝えた。

 吉家の兵は直属兵が多かった故に、当主に対する忠誠も高い。その為、御家の朗報に報いようと兵の士気は大いに上がって、たった一晩で城を落とすことに成功したのであった。

 岩盛城に戻った後、頼政はその子を勝利の貢献者であるとして幼名を『勝天丸』と号した。

 この赤子が後に、四河の歴史上最大の覇王となろうとは、今はだれも知る術は無かった―――

 

 




最後に登場した、吉家長政が、一応この小説の主人公となります。
次回以降は彼を主軸としつつ、この国の歴史を叙述していきます。
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