プロローグ
この世界における神霊学。それは神に関する世界のあらゆる理を学ぶ学問である。一文を借りるとすれば、この世界はかつて神が創造したとされており、すべての生命が地上にて生きるさまを、天空から見守っているという。
あらゆる生命の発端となる、神の存在。それを人々の代弁として、祈りを通して感謝をささげる。それが神に仕える者の義務なのである、と。
海の上を、白い鳥が飛んでいる。穏やかな波の音は、浜辺の近くに建設している建物にまで聞こえてきた。
清潔な白いその建物は、修道院。常に手入れを欠かさないその姿は、厳格でありながらも息苦しさを感じさせない、神聖な空気に満ちている。来る者を拒まず、一種の聖域と呼んで差し支えないだろう。
そんな修道院にも、学問を学ぶ一室は存在する。神に仕える者ならば、教養はむしろ必修といえた。
数多くの図書が保管されている棚が並ぶ、その一室。書物特有の香りが濃い空間内で、一人の女性が椅子に腰かけていた。
彼女の手元には、一冊の本。やや古さを感じさせるものの、一般人が読むには少々厚みがあり、また内容も学問の初歩を収めた者でなければ読み解くことすら難しいとされている一冊である。
その本を机に乗せたまま、難なく頁をめくり続けている女性。彼女が成人を迎えた女性か、それに近い年齢だというのならば、何の不思議もない光景だろう。
だが、彼女は未だ10歳にすら届いてもいない年齢だ。そもそも女性というにはあまりにも幼すぎ、また実際にそうである。
その少女――アリスは口元をわずかに動かしつつ、読んでいる本の内容を復唱していた。
「光を侵食せし闇、世界を覆う……しかし神の竜より生まれし勇敢なる者、天より来たりて。その勇者と呼ばれる者こそ、まことの闇を切り裂かん……」
そんな、おおよそ見た目とは不釣り合いな内容の文を読み進めている最中、部屋のドアがノックする音が聞こえた。
「こちらにいたのですね、アリス」
入ってきたのは、成人になったばかりといっていい外見の女性。この修道院で働いているシスターの一人だ。少女の教育係を担当している。
「シスター・リディア様。失礼しました。ただいま参ります」
アリスと呼ばれた少女は、本を閉じて席を立つ。どうやら、時間を忘れて勉強していたらしい。
「いえ、勉強熱心なことは良い事です。では、参りましょうか」
目上の者を待たせてしまったことを、リディアは微笑みで受け流す。申し訳ない気分になりつつも、アリスは書籍を本棚へ仕舞い込んだ。
2人が部屋を出ると、修道院の礼拝堂が迎え入れる。この修道院はとりわけ規模の大きい院であるため、来訪者が多かった。家族連れや修行希望者とすれ違いつつ、リディアは目の前の扉を控えめにたたく。
内部からの返事に、2人はドアを開けて室内に入る。司祭室と呼ばれているそこは、質素な部屋の中で年配の女性が椅子に腰かけていた。
「ヴェラ司祭。お待たせしてしまい、申し訳ございません」
「お気になさらず。こちらもいろいろと立て込んでおりましたからね」
そう言いながら、手前の机の上に書類の束をそっと置く。大規模な修道院の司祭としての仕事は多忙だ。慣れた作業とはいえ、高齢の彼女にはそろそろ負担を心配する時期である。
もっとも、司祭自身は己の引退の時期など考えた事もないのだが。
部屋の壁に設置されている棚には、先ほどまでの勉強部屋など比べることもできない数の古い書物がところ狭しと並んでいる。その一冊一冊に意味があると思うと、この修道院の歴史の長さなど想像に難くない。
「どれほど勉強すれば、読めるようになるのでしょうか」
ポツリと、ついアリスは口にした。司祭の手前、リディアが静かに咎める視線を送ってくるが、老練の女性は皺の深い顔でニコリと微笑んだ。その笑顔は、不思議と誰もが緊張をほぐしてしまうかのような愛嬌があった。
「今の調子で勉強をしていれば、きっと読めるようになりますよ。アリスは物覚えが速いですからね」
「あ、ありがとうございます」
社交辞令とはいえ、お褒めの言葉をいただいた。つい背筋を必要以上に伸ばしてしまう。そんなシスター見習いの少女に、ヴェラ司祭は笑顔を崩さない。
「……ヴェラ司祭。そろそろ」
そうでしたね、とヴェラは話を促すリディアに応じる。
「話とは他でもありません。あなた方のように当修道院にて修行をする者が、例年に各地の村へ派遣される事はもはやご存知ですね?」
「はい」
「存じております」
その申し出に、2人は驚かない。事前に大まかな内容は聞かされているからだ。
派遣制度。修道女の修行の一環としては、必修の課題だ。尼は苦行に耐え、神へ己の誠意を持って挑む者。それは、幼年のアリスですら何度も聞かされている事だからだ。
「では、ヴェラ様。この子が向かう先は?」
「こちらですよ」
そういって、机の上にある書類の一枚を手渡す。リディアはそれをアリスにも見えるように目の前でかざす。
「なるほど。その村ですね」
人伝に聞いたことがある。人口こそ他のそれに比べると少ないものの、自然に囲まれた美しい村だという。
「リディア。言うまでもない事だとは思いますが」
そう前置きして、ヴェラ司祭は告げる。
「アリスの事を、よろしくお願いしますよ」
「はい」
言うまでもないが、アリスはまだ幼い。
そのため、旅の経験が豊富な修道女を付き添いとして派遣先まで連れて行く手はずになっている。今現在こそ修道院に腰を落ち着けてはいるものの、リディアはかつて海を越えた先の教会にも足を運んで、数年間も修行をした旅の尼でもあった。
「そして、アリス」
「は、はい」
また言葉が上ずってしまったアリスを気にする事もなく、ヴェラは司祭としての威厳をこめた言葉を口にする。
「たとえ、お前がどれほど幼い年齢であろうとも、人への災いは等しく平等に降りかかります。しかし――」
「……」
「――どのような辛い事がおきようとも、神への敬いは忘れてはなりません。さすれば、必ずや全知全能の主はこの世におけるすべての罪を許すこととなりましょう」
厳かな、司祭の姿。アリスは、万感の思いをこめて返答した。
「はい」
こうして、1人の幼い修道女が広大な大地へと足を踏み入れる事になる。
彼女がこれから向かうのは、緑あふれる美しい小さな村。
その名を――サンタローズといった。
此度の歩みが、汝の生きる糧とならんことを。
その祈りを最後に、アリスはこの日の礼拝を終了した。
質素ながらも厳格な空気を色濃く残す教会の中。少女は膝を曲げていた祈りの姿勢から立ち上がる。
前に立ち、聖書の一文を読み終えた初老の神父が振り向くと、アリスにねぎらいの言葉をかけた。
「お疲れ様、シスター・アリス。もう自由にしてくれて構わないよ」
「ありがとうございます、グレン神父」
「奉公の時間には、まだ間がある。少し部屋で休んできたらどうかな?」
気遣いのできるグレンは、まだ幼いシスター見習いに提案する。実際、祈りの儀式は忍耐や体力がいるものなのだ。
しかし、アリスはかぶりを振る。幼いながらも、精一杯の丁寧な言葉遣いを心がけつつ。
「実は……外の清掃を切り上げたままで祈りのお時間となってしまいましたのです。それが終わり次第、ということで」
では、とアリスはそそくさと教会の扉を開き、外へと出て行った。その様子を見ながら、傍らにいる年若いシスターであるミランが近寄ってくる。
「外の清掃は、後回しでも良かったのですが。すでに落ち葉の季節など、とうに過ぎ去ってしまいましたからね」
そうですね。神父は笑う。
「しかし、今年の冬というのは妙なものですね」
「はい。すでに春と呼べる季節になるというのに、未だその気配も見えませんな」
はて。2人は、そろって首を捻った。今年に限ってこのような異常気象が起きるとは。
視線の先。窓の向こうには、未だ霜が残っているサンタローズの白い風景が映っていた。
ちゃぷ、とバケツの反面が川の水に入った。流れる清涼な水を使って、アリスは水汲みを続ける。
サンタローズは、山脈の崖の麓に作られた小さな集落である。特定の場所には山特有の湧き水が存在しており、それが川として村の間を縫うように流れているのだ。村人の生活水として重宝されている資源なのだ。
川の端に立っているアリスは、チラリと視線を横に向ける。清涼な水が流れているのは、崖の壁に大きく開けられた、薄暗い洞窟の中から。
いまや村の一員として生活を続けているアリスですらめったに立ち寄った事はないが、あの洞窟は魔物が住んでいる。魔物自体は力こそ弱いものの、戦闘経験のない者は断じて近づいてはならないといわれていた。
洞窟の出入り口には一人だけ腕に覚えのある剣士が、見張りとして立っている。屈強なその男は伸ばしている髭を撫でながら、今も緩慢に洞窟の出入り口付近を行ったり来たりしていた。
いつもご苦労様です。そんな内心を抱きつつも、アリスは仕事に戻る。教会で定められている、奉公の時間だ。
「水、ここに置いておきます」
「おお、アリスちゃん。お疲れさん。今日はもう上がっていっていいよ」
土に振るっていた鍬をおろし、中年の男性は笑顔で答える。農業を営んでいる彼は、額の汗を拭きながら近寄ってくる。
「いやあ、ありがとう。アリスちゃんのおかげで、畑から離れなくて済むよ」
「いいえ。簡単なお仕事しか出来ませんでしたので」
本当に助かっているよ。そうアリスの頭をシスター服のヴェール越しにポンポンとたたく。つい顔がほころびそうになるアリスは、まるで撫でられた猫のようであった。
奉公。教会に勤める者として、人々への奉仕を意味する修行の一環。これはアリスに限らず、修行中の尼に義務付けられているシスターの制度だ。
そして、この日のアリスの仕事内容は農業への奉仕。簡単に言えば、畑仕事の手伝いだ。人手の足りない者が教会に申請をし、それを受けて修行者が仕事を手伝う。
サンタローズは小さい村なので、こういった制度は非常にありがたい。人口が少ないため、一家庭の仕事はその者たちに任せるというわけにはいかないからだ。老夫婦とて村には存在している。
幼いアリスとて、仕事を行うのは例外ではない。しかし、彼女本人からすればこの程度の労働などは大した問題ではなかった。これも、修行なのだから。
そして、夕方に時刻が回りかけた頃――
村の入り口から、やけに大きなざわめきが聞こえてきた。村人たちが、何事かとこぞって集まっていくのが見える。
その人だかりの中から、1人の番兵が姿を見せた。彼は周囲のざわめきにも負けない声で、村人に聞こえるように大声を出す。
「おおいっ。パパスさんが帰ってきたぞっ!!」
「なんだって。パパスさんが!?」
その言葉にどれほどの意味があったのか。農家の男が目の色を変えて他の人たちと同じように人だかりの中へ向かっていく。
取り残された形になったアリスは、とりあえず農具を畑の端に置く。パパス。その名前は聞き覚えがあったからだ。
村一番の働き者で、誰からも人望があった男の名前。アリス自身、何度も彼の逸話や評判を村人たちから聞いていた。
全ての村人に囲まれている輪を抜け、黒髪の青年が姿を見せる。遠目からでも髭を生やしているところから年配かと思ったが、胸当てからのぞく筋肉は若々しい。
後ろには、1人の少年もついてきている。パパスが彼の歩幅にあわせて歩いている姿を見ると、どうやら親子のようだ。
そういえば、とアリスは思い出す。パパスは村を出て旅に出た際、1人の息子を連れていたという。そうなると、彼がそうなのだろうか。
「おかえりなさい、パパスさん!」
「今度はうちに店にも寄っていってくれよ!」
口々から歓迎の言葉を告げられつつ、しかしパパスという男は全ての者に笑顔で応対しつつ、歩いてきた。村の東に向かっているところからすると、どうやら自宅に向かっているらしい。
ふと、そこで教会のシスターが騒ぎを聞きつけて外へ出てくる姿が見える。アリスは彼女についていこうと思い、足早に近寄っていった。
ほぼ同時にパパスに駆け寄る形になった2人だったが、彼は不思議そうな顔もせずに2人に温かく挨拶をする。
「やあ。教会のシスター・ミランじゃあないか。少し髪を切ったのかな?」
「まあ。すぐに分かってくださるなんて……」
ぽっ、と頬が染まるミラン。初々しい反応だが、誰もそれを指摘しないでおく。アリスも子供ながらに空気を読んだのだ。
頃合を見て、アリスも頭を下げる。
「はじめまして。こうして会うのは初めてですね。パパスさんのお噂はかねがね村中の方たちから聞いております」
「この子は?」
目を瞬かせるパパス。その反応に、自分がうっかりしていた事を悟る幼いシスター。
「失礼しました。2年ほど前に修道院から派遣され、現在はこちらにシスター見習いとして修行をさせていただいているアリスと申します」
微笑みを浮かべ、彼女は胸の前で指を組む。その仕草は、未熟ながらもしっかりとシスターとしての未来を思わせる礼であった。
「ほら、アリス。祈りのときはもう少し脇をしめて」
「も、申し訳ございません」
ごく僅かなミスも、ミランは見逃さない。シスターが祈りの姿で無作法などとんでもないことだった。
幼いからといって、神への礼拝には失敗は許されない。アリスはつい羞恥に顔を赤くする。
「わっはっは。いいんですよ。それよりも、将来が楽しみなお嬢さんだ」
そんなシスター同士のやり取りを、パパスは笑って終わらせる。
「それよりもぜひ、アリスちゃんとは私の子とも仲良くしてあげて欲しいものです」
さあ、とパパスの傍らに立っている少年が促され、おずおずと前に出る。緑色のターバンを頭に巻いているのが印象的だった。
「は、はじめまして。リュカといいます」
丁寧にお辞儀をするリュカという名の少年。人見知りをするというよりは、この歓迎されている村の空気に慣れていないだけなのだろう。
「はじめまして。シスターのアリスです」
アリスも祈りの礼ではなく、同じようにお辞儀をする。顔を上げた際、お互いの目が合った。
旅をしていたために衣服こそ汚れてはいるものの、瞳はまるで黒曜石のような輝きを保っている。
心が和みそうな瞳を持つ人だな。アリスは素直にそう思った。
「あの、なにか?」
つい瞳を見つめ続けてしまっているアリスに、リュカは小首を傾げる。
「ごめんなさい。リュカさんに見られていると、不思議と落ち着いてしまって」
「そ、そうかな。喜んでいいのかわからないけれど」
「素直にそう思ったんですよ」
ニコリと笑い、つられてリュカも笑う。よかった。お互いに仲良くやって行けそうだと、2人は子供心にそう思う。
「おお。早速お友達ができたようだな、リュカ。今日は帰ってきたばかりだから家に帰らなければならないが、明日になったら遊びに誘ってみるといい」
「あら、そういうことならアリス。明日は礼拝が終わったあと、ゆっくり休んでくれていいわ」
その後はわずかに話をした後、パパス親子は自宅へ向かっていく。家から家政夫の男性が出迎えたところを見届けると、アリスとミランはそれぞれの持ち場へと戻っていく――
「パパスさん……2年前よりも、もっと素敵になっちゃって」
――前に、アリスはミランの手を引いて教会へ歩くことにする。
頬に手を当て、遠い目をしてフラフラと歩く先輩シスターを放置するほど、アリスは薄情ではないつもりであった。
旅の青年、パパス。
その息子であるリュカ。
そして――シスター見習いのアリス。
この時こそ、彼らが本来迎えるであろう歴史を大きく変える分岐点になろうなどとは、この場にいる誰もが知る由も無かった。
つづく
初めましての方は初めまして。連載は2本目の玖堂と申します。
ここまでこのような作品に目を通していただいた皆様方。このたびは、DRAGON QUEST Ⅴ ――聖女の足跡――を読んでいただき、誠に感謝しております。しがない文章で大変恐縮なのですが、僅かでも楽しんでいただけたら幸いです。
もしかしたら今後、タグにもある通りに設定間違いや、他の媒体の設定とは違う箇所が自分の至らなさで生まれてくるかも知れません。しかし、そこはあえて生暖かい目で見逃していただけるか、私自身があえてそうしているのだろうという解釈をしていただけると助かります。
更新も亀とそう変わらない速さになる時期があるかも知れません。さて、言い訳ばかりになってしまいましたが、今後とも当作品を読んでいただけると嬉しいです。
それでは。