「雪の女王様・・・・・・」
ドワーフの子であるザイルが、その闖入者の名を呼んだ。
その者は、雪の女王。氷の彫刻を思わせる、美しすぎる女性。白で統一されたドレスを身に纏い、こちらに微笑みすら浮かべて立っている。
だが、その誰もが見初めるような微笑みに、リュカやアリス達はどういうわけか心が動かされることはなかった。どういうわけか、心の中に引っかかりを覚えるのだ。
「オホホ・・・・・・このような可愛らしい子供達が邪魔に入るとは」
「あ、あのう・・・・・・女王様」
オズオズと話しかけるザイル。それに対し、女王は己の部下であるはずの少年には目もくれることはなかった。
「質問があります。女王様は確かにおっしゃいましたよね。俺のじいちゃんがポワン様に追い出されたと。だから、嫌がらせのために春風のフルートを盗みさえすれば、あのポワンは俺たちに謝ってくれるって」
「ああ、まだいたのですかザイル。下がりなさい」
「え、でも・・・・・・」
「下がりなさい。次はありませんよ?」
まるで取るに足らないものに付きまとわれているような様子。おかしい。少なくともザイルの認識では、雪の女王はこのような態度をするお方ではなかったはずなのに。いつだって、自分の悩みを真摯に聞いてくれて。祖父のことだって、あんなに真剣にポワンに対して怒ってくれたのに。
どうしても下がれといった言葉を聞くことが出来ず、ザイルは縋るように女王へ近づいた。
「雪の女王様。俺、本当のことが知りたいんです。女王様が言ったことは、本当なんですか?」
「ふう・・・・・・」
霧のような吐息をする女王。その溜息が、ザイルへの失望を意味することに気づいたのは、果たしてこの場にはどれほどいたのだろうか。
「・・・・・・己の甘さに吐き気が致します」
そこで、ようやくチラリと雪の女王は足元のザイルを見た。見下ろす――――いや、見下している侮蔑の視線で。
「やはり子供を惑わせて、世界から春を奪おうという考えは甘かったようですね」
「やっぱりそうでしたか!」
声を荒げたのは、アリス。この雪の女王は、ザイルに誤解を植え付けて、親子の思いを利用したのだ。自分が手を汚さずに事を済ませるために。
凍りつく冬を愛する、雪の女王。己の安息の世界を作るために、春を奪うことで永遠の冬を留まらせようとしたわけだ。つまり、この女が全ての元凶。
アリスが鞭を構え、リュカが剣を手にかける。プックルが毛を逆立て、ベラが魔法の詠唱を始めた。
戦闘態勢。それが女王にも伝わったのだろう。美しい容貌をかなぐり捨て、人相が変化を始める。
身を隠している衣服は、戦士が身につける鎧へ。雪を思わせる白い髪飾りは、炎のように蠢く氷の気体に。
目元が三日月上に変わり、口の両端が裂ける。常に不気味な笑みを浮かべている、悍ましい怪物へと変わっていった。
「今度は私がお相手します。さあ、かかっていらっしゃいっ!」
「じょ、女王様!?」
ザイルは目を見開いた。まさか、女王の正体がこんなにも恐ろしい怪物だったとは。
「お前など用済みだ。消えてしまえっ!!」
女王の周囲には、氷の粒のようなものが無数に舞っている。それを大きく息を吸い込むことで、体内に取り入れた。そして、力を込めて吐き出す。
「う、うわああああっ!」
氷を交えた、冷たい息。ずっと己が利用し続けていたドワーフの子供に、雪の女王は容赦のない氷の嵐を叩き込んだのだ。氷柱に似た形状のそれが全身を切り裂き、それが身体に張り付いていく。
だが、それは全身まで回ることはなかった。ザイルの下半身が氷に纏われた時、横から別の冷気が雪の女王の息を防いだのだ。辛うじて全身を氷漬けにされなかったザイルは、割り込んできた冷気の方向へ首を向ける。
「お、お前・・・・・・」
アリスがヒャドを放ったのだ。己の言葉に理解を示してくれたザイルは、今や彼女にとって守るべき対象。何より、こんな状況など断じて見過ごせるものではなかった。
「バギ!」
風の刃が雪の女王に向かっていく。リュカが放った魔法の対応のため、雪の女王は冷気を止めて身を躱す。
「ベラさん、ザイルをお願いします。リュカさん、援護します!」
「うん。アリス、一緒にやるよ!」
「フギャアア!」
自分も忘れるなよといわんばかりに、プックルが鳴く。
「やれやれ。子供というのはすぐに図に乗る・・・・・・」
それを前にしても、雪の女王の笑みは小揺るぎもしなかった。もう一度大きく息を吸い、両手を強く握りしめた。
拳から、氷の炎が燃え上がる。それをリュカとアリスに向かって投げつけた。
速い。2人の運動能力では、どうにか身体が反応するのが精一杯である。身をよじって躱そうとするものの、アリスは足に一撃。リュカは腕にダメージを受けてしまう。
だが、立ち向かう者はまだいる。この中で最も素早いプックルが、4本の脚を使って雪の女王へ距離を詰める。怪物の女王は再び攻撃をしようとするが、一瞬だけプックルの方が早かった。
怪物へ変化し、筋肉質になった腕の手首に鋭い牙を突きつける。痛みに顔をしかめる雪の女王だが、それだけだ。噛まれた腕を振り回し、氷の柱に叩きつけた。
鈍い声を発するプックル。だが、それでもなお離さない。2度、3度と繰り返され、プックルの毛皮に血が滲む。
埒があかないと悟り、雪の女王はもう片方の手でプックルを鷲掴みにしようとする。今度は、その腕に鞭が撃たれる。言うまでもなく、アリスの茨の鞭だ。
白い脚から走る激痛に膝をついているものの、アリスにはまだ中距離でも攻撃可能な鞭がある。そのまま腕を動かし、両腕にそれぞれ一撃ずつ加えた。
「プックル、離れろ!」
翻って、両脚は無事なリュカは走り込み、雪の女王へ銅の剣を振り下ろす。腕でガードする雪の女王だが、流石に一筋の切り傷が生まれた。
むしろ、顔を歪めたのはリュカの方だ。剣を通して、雪の女王の堅さが伝わってきたのである。
何だ、これ。まるで硬い石みたいだ・・・・・・!
そんな身体から放たれる拳は、さぞ凄まじいというものだ。容赦も加減もない一撃が、リュカの腹を抉る。
「がっ!?」
息が止まる。背後に吹き飛ばされる。壁に叩きつけられる。
意識が朦朧とする。今、自分は立っているのか、倒れているのか。それすらも判然としなかった。
「リュカさん!」
悲鳴のような声を出しつつも、アリスはなおも鞭を振るう。生き物のように襲いかかる鞭を、雪の女王は片手でつかみ取った。
「あ!」
「手癖の悪い小娘ですねえ。これはもう少し、私好みに変えてしまいましょうか」
瞬間、冷気が鞭を通して伝わる。鞭を掴んでいる手から、アリスに接近するように武器が氷で覆われていく。とっさに手を鞭から離す少女。
雪の女王は氷で包まれた茨の鞭を持ち替え、アリスに振るう。初めの攻撃だけは奇跡的に躱すことができたものの、蛇のようにのたうつ鞭は容赦なくアリスを追跡する。そして深手を負っている脚に、追い打ちの一撃。
声も出せずに転がる。しかし、そこからさらに右肩。続けて左手首に裂傷と凍傷。
とどめを刺すかのように、再び深呼吸。吐き出された冷たい息は、先ほどの比ではなかった。全身が白い結晶で白く染まり、小柄の少女がオブジェのように変わる。惜しむらくば、その姿が無様に床へ投げ出されているせいで、芸術感も何もあったものではなかったが。
「リュカ・・・・・・アリスまで」
事の全てを見ていたベラは、血の気が引いた。氷の館の気温ではなく、純粋な恐怖によって妖精の体温が下がっていくのが分かる。全て、ザイルに駆け寄るまでの僅かな時間に起きたことだった。
それでも前足に裂傷を負ったままのプックルが、唸りを上げて雪の女王の脚に噛みつこうとする。しかし、もはや見切ったと言わんばかりに脚を動かして躱し、小さな殺し屋を踏み抜いたのだ。奇妙な声をあげて、完全に沈黙する。
もはや仲間はいない。たった1人になったベラに、ゆっくりと近寄ってくる雪の女王。
「ククククク・・・・・・・これで味方はいなくなった。お前達の負けですよ」
「あ・・・・・・」
「勿論、剣を持てない妖精だからといって――――」
一瞬だけ、雪の女王の姿が消える。いや、戦闘能力はそれほどでもない妖精の目には、そう見えただけだ。
メキ。そんな鈍い音が聞こえたと思うと、ベラの腹から激痛が走る。
「――――容赦はしませんが、ね」
糸の切れたマリオネットのように倒れるベラ。一度、僅かに咳き込むと、身動きもしなくなった。
沈黙。氷の館には、ただ吹雪が舞う音だけが残る。リュカ達の戦いは、雪の女王によって敗北したのだ。
否。1人だけ、辛うじて声を出す物がいた。全身を凍傷に苛まれ、下半身も完全に氷漬けになっているザイルだ。彼は口元を震わせつつも、どうにか言葉を紡ぎ出している。
「ゆ、雪の女王、さま・・・・・・本当は、そうだったんですね、だな・・・・・・俺を、騙していた、のか」
人間が辛うじて聞き取れる声にも、雪の女王には充分に聞こえている。彼女はつまらなそうな目でザイルを一瞥した。
「何を言うかと思えば・・・・・・今更それが分かったからといって、なんなのです? 子供は所詮子供ですか。フルートを盗み出せたことは、まあ褒めてあげても良かったのですが」
「よ、よくもっ」
「おや、手癖の悪い」
怒りに震えたザイルが辛うじて手にしたままの斧を振りかぶろうとする。それを予想していた雪の女王は、片手に冷気の炎を燃やす。それをノーモーションでザイルの頭に叩きつけた。
「あがっ!」
「・・・・・・ふん。まあ、このまま放っておいても死ぬでしょう。ですが、それでは私の気が治まりません」
複数相手とはいえ、子供相手に雪の女王が手傷を負わされたという事実。その事に、彼の怒りは少なからず残っている。意識を朦朧とさせるザイルに向かって、手に持っている氷の鞭を構えた。
そして、容赦のない鞭が獲物を狙うようにザイルへと伸びる。その一撃はザイルの骨を砕いて余りある攻撃。それが少年の頭蓋に当たる――――事はなかった。彼の足元で、乾いた音と共に叩きつけられたのである。
「・・・・・・」
奇妙に感情のない顔で、雪の女王は背後に首を向ける。僅かに、銀色の髪を持つ頭が見えた。
氷を所々に張り付かせたままの少女が、雪の女王の背後に立っている。少女が持っているナイフは、確実に脇腹を突き刺していた。
再び、氷の館に静寂が落ちる。数秒ほどの間の後、動きを見せたのは雪の女王であった。アリスの頭を鷲掴みにして、宙へ持ち上げたのである。
「ふん・・・・・・」
「う、ぐ・・・・・・」
苦しそうに顔を歪めるアリス。凍傷と切り傷が疼くが、何よりも痛いのは分厚い氷すらも簡単に切り裂けそうな鋭い爪が、アリスの頭に食い込んでいることだろう。
「まだ動けましたか。だが、今のは悪手ですよ。ただ、相手を怒らせるだけですからね」
そう少女の耳元で呟くと、近くの氷の柱へアリスの後頭部を叩きつける。一瞬だけ目の前が真っ白になるアリス。
「そして――――」
続けて、少女の両手首を頭の上に交差させる。フッ、と雪の女王がその手首に冷たい息を吹いた。すると、アリスの手首に新たな氷が生まれ、背後の柱と一体化した。
完全に、シスター見習いの少女は柱に拘束されたのだ。足元は僅かに床に届かないため、全身の体重の負担が全て手首に集まっている状態になってしまった。
「――――小娘。あんたは、私を怒らせたのですよ」
高い音がした。雪の女王の裏拳が、アリスの頬に炸裂したのだ。口の中を切ったのか、彼女の小さな口の端から一筋の血が流れる。
「・・・・・・」
それでも、7歳の少女の瞳にはいささかの曇りもない。目の前の魔物に怖じ気づくような感情など全くなく、ただ諦めないという意思の視線が冬を司る王に向けられている。
ただし、少女の息は絶え絶えであったが。
「・・・・・・ふん」
興が削がれたと言わんばかりに鼻を鳴らし、背中に刺さったナイフを抜く。人間とは違う群青色の血液が、ブロンズナイフの刀身を濡らしていた。
女王の銀の鎧が血で滲むのを気にもせず、彼女は忌々しい小娘にナイフをあてがう。ただし、切っ先が触れているのはアリスの身につけているドレスのスカート。その裾に刀身を潜り込ませたのだ。
スルスル、とナイフに持ち上げられるスカート。裾が山状になり、少女の白い脚があらわになっていく。そして晒されたのは、小さなヘソに白いパンティ。
「ククク・・・・・・子供にしては趣味の良いものを穿いているのね。背伸びしたい年頃なのかしら」
「っ・・・・・・貴方が確認したい・・・・・・ことは、そんな、事ではないでしょう・・・・・・?」
「ええ、もちろんよ」
そう。太腿に巻き付けてあるホルスター。アリスは妖精の世界に着た時から、ずっと予備の護身としてブロンズナイフをそこに隠していたのだ。
仕込み武器を持っていたというのは、中々に侮れない判断である。こんな子供が、実践でここまで慎重でいるとは。子供だてらに何か修羅場でも潜った経験があるのかもしれない。
だが、それも今を持って無駄になってしまったが。
「良い声で鳴きなさい」
腕を振るい、空気を切り裂いて氷の武器がアリスに襲いかかる。今や己の武器として扱っている茨の鞭だったもの。
鋭い一撃が、アリスの喉の下を切りつけた。声も出せずに唾液を吐く少女。続けて、オベラグローブに包まれた腕、スカート越しの太腿。刃の攻撃とそう変わらない攻撃にアリスは晒された。
雪の女王の猛攻は終わらない。口元は加虐的な笑みで醜く歪み、一振りごとに勢いを増していく。それに比例して、アリスの全身にも次々と怪我が増えていった。
「ほら。さっきの勢いはどこへ行ったのかしら? フルートを取り返すために来たというのに、寝ている場合じゃあないでしょう」
「あ、ぐ・・・・・・」
衣類は全身に渡って裂かれ、そこから切り裂かれた皮膚や下着が露出していく。すでにアリスは意識を保っているかどうかも分からない有様で、それでもただ嬲られる行為に耐えなければならなかった。
そして、両手を拘束されたままの状態で、ぐったりと脱力するアリス。もはや鞭の攻撃にも、何一つ反応を示さなかった。
こうなってしまっては、最早いたぶってもつまらない。失望したようにアリスに背を向け、今度は氷の床に倒れ伏したままのリュカへと足を運ぶ。
「次は貴方よ。さあ、もう少し私を楽しませてちょうだい」
「ア、 アリス・・・・・・!」
いつもならば誰もが見る者の心を和ませる少年の瞳が、悲しさと怒りに変わっていた。大切な友達があのような暴力に晒されながら、自分は何もできなかったのだ。
そんな思いが、僅かに伝わったのか。アリスの真っ暗になっている思考は、極ほんの僅かだけ光が戻り始めたのだ。
少女の一筋の光が呼び出したのは、目の前の絶体絶命の状況ではなかった。ほんの少し前に聞いた、誰かからの言葉であったのだ。
なぜ、今この状況でその人の言葉を思い出したのかは分からない。ただ、あれからずっと心のどこかに残っていた、忘れてはいけない気がするあの人の声。
――――何があっても、屈してはなりません。そして、傍にいる人を誰よりも大切に・・・・・・
「ギラ!!」
凛とした声と共に、炎の閃光がアリスに向かっていった。
先ほどまで倒れていたベラが、自身にホイミをかけて復活したのだ。無論、アリスを傷つける意図は毛頭ない。
魔法の火柱は存分違わず、アリスを拘束している氷の柱へと直撃した。みるみるうちにアイスクリームのように溶けた柱は、アリスの拘束を支える意味をなくしていく。
辛うじてだが、アリスは両腕を拘束されたままの状態で両の足を床につけることが出来た。それを見て、僅かに舌打ちをしてベラを睨む雪の女王。
「チッ、妖精ごときめ。ならば、まずお前から――――」
腕を振りかざす雪の女王。だが、そこに横から女王へ駆けてくる者がいた。
先ほどまで意識が無かったはずの、アリスだ。彼女はほぼ目が見えていないはずなのに、真っ直ぐに討つべき敵へと走っている。
それを、嘲るような笑みで迎え撃つ。まだ動けることは褒めてあげます。だが、腕を拘束されている状態のままで、何が出来る?
再び振るわれる氷の鞭。だが、頭や足に攻撃を受けても、少女の走りは止まらない。氷で包まれた両手を腰だめに振りかぶり、魔力を集中させるアリス。
瞬間、彼女の両手から光が発せられた。包み込んでいる氷から漏れていることも相まって、むしろ神秘的な輝きすら覚えるほどに。
「――――あ!」
その光が何を意味するのかを理解した瞬間、雪の女王は自分があまりにも“それ”に気づくのが遅かったことを悟った。まさか、この魔法は。
呪文。彼女が妖精の村を出る前、ポワンの勧めによって読ませて貰ったいくつもの書物。その中の一冊にあった、魔法書に記された呪文。
諦めない。アリスの心はたったそれだけ。
何があっても屈してはいけない。世界の全てに春を取り戻す。あるべき世界へ。四季を繰り返す大自然の世界に。
どれだけ痛くても。どれだけ息をするのが苦しくても。アリスは雪の女王へ向かっていくのを止めなかった。その姿に、雪の女王も苛立ちが増す。
「近寄るんじゃあない、小娘っ!」
最早、鞭ではアリスを抑える事は出来ない。ならば、渾身の冷たい息を吐いて、少女を氷漬けにするのみ。
上半身が膨れるほどの大きな息を吸う雪の女王。これを吐き出せば、アリスはお終いだ。
だが、それを防ぐ一手があった。背後から襲いかかる風の刃が、雪の女王の背中を切り裂いたのだ。その衝撃で、吸い込んだ息をあらぬ方向へ吐いてしまう。
「これ以上は、やらせないぞっ!」
「小僧っ・・・・・・!」
邪魔をされた怒りで、背後のリュカを睨んでしまう。だが、その隙はあまりにも致命的であった。
ついに距離をゼロに縮めたアリスが、氷漬けの手を雪の女王の胸へと押しつけられる。我に返る雪の女王だが、もう遅い。アリスの口から放たれるのは、雪の女王を討つ呪文の名。
――――イオ。
瞬間、氷の館が震えた。少女が放った初級爆裂呪文によって。
轟音が周辺の地域に響く。氷の床が抉れるほどの爆発が治まり、爆炎の残滓が僅かに残る中、雪の女王は二の足で立っていた。
しかし、その姿は原形を留めていない。胸と腹は向こう側の光景が見えるほどの大きな穴が開き、全身は焦げた匂いを放ちながら黒ずんでいる。ここに、勝敗は決したのだ。
「グググ・・・・・・ググ・・・・・・」
辛うじて声が出てくる。それも、全く言葉にならなかった。やがて、雪の女王だったものは舞い散る粉のように小さくなっていく。
そして、消えていった。先ほどまであれだけ残虐な行いをしていた魔物も、終わってしまえば虚しさしか残らない。冬を司る女王の最後は、まるで淡雪のように儚かった。
フルートを手に氷の館から出たアリス達が真っ先にしたことは、ザイルをドワーフの洞窟まで送り届けることであった。本人は1人で帰れるという態度をかたくなに変えなかったが、そこはアリスやリュカも譲らない。少なくとも、彼が祖父の元へ謝りに行くのを、ちゃんと見届けるまでは。
ドワーフのダニガンはザイルを見るなり、真っ先に駆け寄った。そして、洞窟内に響き渡るほどの大声で怒鳴りつける。危うく失神して仕舞いかねないザイルに構わず、説教が始まった。ドワーフの少年は椅子にも座らせてもらえないまま、しょんぼりしている風でどうにか祖父を宥めようとする。
それでも、リュカ達には分かっていた。ダニガンが、ザイルの帰りを誰よりも喜んでいるのだと。これは、また家族として傍にいるための通過儀礼なのだと。
アリス達は頃合いを見て、洞窟を出た。最後にザイルが自分達に僅かに向けられた視線は、きっとこれからも心の中に残り続けるだろう。せめて、これからは優しいおじいさんを守ってあげてほしい。
そして、一行は妖精の村へと戻った。切り株の城の椅子に腰掛け、ポワンは静かに春風のフルートを受け取る。
村の中は、すでに喜びの声に満ちあふれていた。ここまで来る道中、何人もの妖精に話しかけられたのだ。人間を快く思っていないと口にしていた妖精も、感心した様子で見直したと語ってくれる。
ベラはポワンの隣に立ち、こちらに優しい笑みを浮かべていた。リュカとアリスも、短いながらも世話になった妖精の少女に、心からの笑顔を向ける。
2人と1頭の怪我は、村に来て早々に他の妖精達の手で治療されていた。特にアリスの切り刻まれた衣服はあまりにも色々な意味で痛々しかったので、ポワンの手で修繕されている。
手を一振りしただけで、衣服が元通りになる。一体どんな魔法なのだろうとアリスは少しだけ気になった。それとも、妖精だけが持つ何かしらの術なのだろうか。
「よくぞ、春風のフルートを取り戻してくださいました。小さな戦士リュカ、アリス、プックル。これで、我が務めを果たすことが出来ます。さあ、あなた達のお顔を、もう一度だけ良く見せてくださいまし」
リュカとアリスは、自然な気持ちでポワンの目を見返す。心を和ませる少年の純朴な瞳。聡明な輝きを持つ少女の清楚な瞳。
「本当に、あなた達には感謝の言葉もありません。なんとお礼を言って良いのやら・・・・・・」
ポワンは少しだけ考えるそぶりをすると、2人の目を静かに見返す。
「では、この妖精の村を統べるポワンの名にかけ、約束を致しましょう。あなた達が近い将来、大人と呼べるほどに成長したとき・・・・・・何か困ったことがあれば、我ら妖精の村を訊ねてください。きっと、何かの力になりましょう」
「ありがとうございます、ポワン様」
「感謝致します。私たちも、ご期待に添えたことを心より誇りに思います」
プックルも一鳴きする。微笑ましい仕草に、ポワンはクスリと笑った。
「それでは、皆様方。名残惜しいですが、時間がやってきます。どうか、お元気で」
「はい。さようならポワン様。ベラ」
「お元気で。皆様のことは、決して忘れません」
リュカとアリスが、別れの言葉を伝える。ポワンは微笑み、ベラは手をかざしてお別れを返す。
「さようならリュカ。アリス」
ベラの言葉が聞こえると同時に、リュカとアリス、プックルの視界が白く染まっていく。白い世界に溶けていくように、妖精の世界が消えていった。
いや、消えているのは自分達の方か。彼らは不思議と落ち着いた気持ちで、世界から切り離されていく感覚を受け入れることが出来た。
2人は、まるでそれが当然であるかのように手を繋いだ。どちらかが消えたりしないように。この白い世界に取り残されないように。
子供達は、足元がフワリと浮く感覚を覚える。そして、再び固い感触を踏みしめた時、自然と瞼が重くなった。
目を開けた。視界には、薄暗い見慣れた地下の部屋。一日も離れていないはずなのに、なぜだか自分の部屋が、どこか見知らぬ場所に見えた。
帰ってきた。僕たち、私たちは、帰ってきたのだ。
そして――――妖精の世界はあった。季節を司る世界は。そして、あの雪の中で戦い抜いた冒険も。
リュカの自宅を出た時、すでに夕暮れの時刻は過ぎていた。地平線の奥には茜空が消えかかっており、夕餉の準備が村の中に漂っている。
サンチョが台所で調理を始めているのを尻目に、玄関の前でアリスはリュカと向き合っていた。
2人が地下室から姿を見せたときは、サンチョに大層驚かれたものだ。いつ2人で地下室に降りたのか全く気づきませんでした、と。そして、アリスの姿を見て、すでに夕暮れの時刻なのですからと、帰宅する事を促されたのだ。
承知しております、とその言葉に素直に従うアリス。遅くまでいて申し訳ありませんでしたとサンチョに謝罪すると、2人は外に出たのだ。
リュカとアリスの2人の顔は、当然ながら疲労が濃く出ていた。それでも、お互いを見つめる目は穏やかなものである。困難や苦痛もあったものの、今は達成感も同じくらいに覚えているからだ。
長い冬の時間は、もう終わった。明日からは、温かい風が吹く春の時期が近づいてくる。きっとポワン様がそうしてくれるはずだから。
「じゃあ、また明日だね」
「はい。また明日です」
そして、2人は言った。
「また明日、一緒に遊ぼう」
同時に口にした言葉。ポカンと2人が間の抜けた顔になって、なんだか可笑しくなった。
しばらく、2人で笑い転げる。家の中から、何事かとパパスとサンチョが覗いて来るが、それも全く気にならなかった。
やがて、アリスは教会へと向かう。その背中を見送るリュカ。
彼女は何度もこちらへと振り向き、手を振ってくれる。その度に、リュカも手を振り返した。
暖かな風が吹き、木々が揺れる。どこからともなく美しい音色が聞こえたのは、きっと気のせいなどではない。
妖精が告げる、春の兆し。冷えた世界を温める季節は、たった今この世界に流れる。夜が明けた時、人々はきっと笑顔で朝を迎え入れるだろう。
空を見上げれば、群青色の夜に浮かぶ小さな星々が輝いていた。訪れない春を思い焦がれながら、必死に村の人々と力を合わせて働いた日々。友達とのすれ違いと、仲直りしたときの笑顔。そして、神秘的な妖精の世界に住む、妖精達の悲願。
その一つ一つが、夜空の向こうに溶けて消えていく。それをジッと見送りながら、アリスは今宵の空に向かって、指を組んで祈りを捧げる。
全知全能なる神よ。私は今も、こうして元気でいます。
祈りは届く。人々を見下ろす星々と共に。
つづく