大陸各地で、春が訪れた。アルカパにも、サンタローズにも。海を越えて大陸へ足を運ぶ商人の口からも伝えられた。
特にサンタローズに至っては、不可思議な出来事が相次いで起きていたため、喜びもより大きい。騒動の原因であるベラが妖精の世界へ帰ったからだ。
自然と、村の大人達も忙しくなる。野菜の苗を植えて、洞窟から流れる天然の清水には多くの主婦達が洗濯に勤しむ。商品が取り入れられなくて困っていた食料品店の老人も、アルカパから新しい食材が入るようになって、ようやく商売の息を吹き返す。
アリスが提案した育苗用の鉢も、一気に使われることになった。使い始めて間もなく陽気の回復を迎えたため、農家達の手で次々と苗が畑に定植されていく。
作業には、アリスやミランだけではなく、リュカも手伝うようになった。鍬を使い、苗を運ぶ。川から水をくみ上げ、水やりを繰り返す。
泥だらけになっても、2人は良く笑う。それと同じくらいに、よく働いた。村中を回って仕事を探し、それが子供でも出来るような仕事なら率先して手伝っていく。
そんな子供達に刺激を受けて、大人達はますます働く。今まで家に籠もりがちだった分、しっかりと野菜を育てなければ。商売をしなければ。
そして、春が真っ盛りになった頃。いつしかリュカは、プックル以外にもシスターの少女と一緒に村を走り回る姿が目撃されるようになった。長い冬の間、お互いにすれ違っていた頃から考えれば、本当に良い進歩である。
村の者達は、そんな子供達の姿を遠目に見ながら、今日もまた畑仕事に精を出す。それが今の、サンタローズの日常であった。
そして、日常の変化と言えばもう一つ。リュカの自宅にて。
「これが、僕は羽ペンを持っています、という意味です」
「これって、さっきのとは少し違うね。普通の万年・・・・・・なんとかって言うのは違うの?」
「万年筆、ですよ。羽ペンは、もともとガチョウや烏の羽からも作られます。太い字や細い字を書く時で、それぞれ使うペンを分けるのが特徴ですから。今は耐久性・・・・・・少しくらい強く使っても壊れない万年筆の方が便利なのですが、まだ沢山の人にはお金が高いせいで広まっていないんです」
「そんなに高いの?」
「はい。ですので、お金持ちの人だけが使うものと思ってくれれば良いかと」
万年筆は、修道院にいた頃に司祭のヴェラが使っているところを見たことがある。その時の成り行きで、同じ説明を受けたことがあったのだ。
「続けますよ。次は、私は羽ペンを貸してほしい、という意味です。主語はここですよ」
開いた本の一部を指さし、リュカにも見えるように寄せる。肩を並べて椅子に座っている彼は、一言も聞き漏らすまいという目で、指摘された部分を理解しようとしていた。
良い傾向ですね、とアリスは思う。初めに比べて、基本的な文なら読み書きが出来るようになってきている。
実際、リュカは理解力が高い。一般的には日常会話程度の読み書きならば、5歳程度で身につけられるものだった。今までは父親の旅についていっているため、一つの場所に腰を落ち着けることがなかったのだ。
だからこそ、机に向かって勉強をするという経験が同年代の子供に比べて少なかった。父親のパパスも、その辺りに関しては色々と思うところがあったのだろう。アリスが勉強を教えたいのですと言うと、彼の安堵と感謝は初めて見るほどであった。
現に、この食卓の机を借りて勉強している我が子に、向かい側に座って本を読んでいながらも、時折視線を向けてくるのだ。アリスはその事にあえて気づかないフリをしつつも、彼の期待に応えるために勉強を教え続ける。
しばらくは語学の基礎を教えつつも、時折休憩を挟む。サンチョが入れてくれたお茶を飲むと、リュカは少しだけうつらうつらと船をこぎ始めた。
少し、長く勉強してしまいましたしね。アリスはそう思うと、今日はもう休んでくださいと言っておく。いつもはもっと沢山教えてとせがむ彼も、今だけはそれに素直に従った。目を擦りながら、2階への階段を上っていった。
春の風が心地よい。つい眠くなってしまう気持ちも分かる。
「それでは、私はこれで」
本を片付け、食卓の隅に置いておく。この本はいつかリュカが読むかもしれないからと、サンチョが購入したものである。アリスはそれを教材として使わせて貰っていたのだ。
「おや、アリスちゃん。もう行ってしまうのですかな。せめてお食事でもご一緒にと思っていたのですが」
「お心遣い、ありがとうございます。お気持ちだけ受け取っておきますよ」
「いやいや、アリスちゃんの家庭教師は本当に私たちにとっても嬉しい限りだよ。また明日も、せがれに勉強を見てやってほしい」
「もちろんですよ、パパスさん。私も、勉強を教えるのは好きですから」
こうしてリュカの家に出入りをするようになってからは、サンチョやパパスとの交流も増えるようになった。優しく、気配りが上手なサンチョ。頼もしく、博識なパパス。本当に良い家族だと思う。
そして、アリスは教会へ戻る。昼食の時間が近い。そろそろシスター・ミランを手伝わなければ。
その後はシスターとして、祈りの時間。休憩を挟み、再び村の仕事への手伝いに出かける。そして茜空に変わる頃になれば夕食の準備。
最後に、夜はあらゆる分野の勉強。近頃はリュカの猛勉強に影響されて、アリスもまた上の段階を学ぶことにしているのだ。
自分よりも一回りは年上になってから勉強する内容に、7歳の少女は手をかけている。そんな姿に、ミランは少しだけ心配そうな様子であった。
「あの、グレン神父。最近のアリスは、少し根を詰めすぎでは?」
「まあ、そうかもしれん。だが、あの子はああ見えて自己管理をしっかりしておる。なにより・・・・・・」
「なにより?」
「・・・・・・“あの”修道院のお墨付きであるからの」
「・・・・・・」
その言葉にどれほどの意味があったのか。シスター・ミランはあっさりと黙り込んでしまった。
そんなやり取りがあったとはつゆ知らず、アリスは次の日もリュカに勉強を教えに行く。この日は算数を教えた。少年が加減乗除を出来るようになる日も近いようだ。
そして、夜。リュカは得意げに、食事時にアリスに習った算数の公式を披露してみせる。パパスとサンチョからは、涙を流しかねない勢いで賞賛されたことは言うまでもない。
そんな忙しくも平穏な日々が、しばらく続いた。
短い春が過ぎ去り、世間は早くも夏の話題に移り変わり始めている。人々はすでに家の物置から夏用の服を引っ張り出し、汗を流しながら仕事に精を出していた。
汗水を畑に飛び散らせ、鍬を振るう男達。水を汲んで夫を支える妻達。暑い季節は、いつだって雑草の悩みが後を絶たない。草むしりをこまめに行いつつ、定植作業を続ける。
この日、アリスは農家の仕事を手伝っていた。老婆の代わりに、水の入った桶を川から運んでいる。坂を上がると、畑には夫である老人とリュカが、畑に肥料を蒔いていた。別の野菜の追肥だ。
作業は小一時間ほどで終わった。2人とも、顔のそこいらに泥の跡があったが、全く気にせずに笑ってしまう。お互いの顔が、本当に可笑しくて。
「なんだよ、アリス。鼻の先に泥がついてて、モグラみたい」
「リュカさんも鼻の下についていて、髭みたいです」
いつしか、老夫婦も混ざって一緒に笑ってしまった。青空の下、穏やかなサンタローズの村は、今日も暖かい日差しが差している。
仕事は定植が終了次第、終了となった。時間が余ったので、2人はサンタローズを流れる川へ顔を洗うことにした。いつまでもこんな顔ではみっともない。
冷たい水が、熱い日差しの中では心地よい。自然と、そのまま涼むことにする。
「・・・・・・リュカさん。覚えていますか?」
「うん。妖精の世界。僕たち、あんな不思議な世界へ行ったんだよね」
僅かに吹く風は、すでに夏の気配。しかし、2人にとっては冬の寒さから解放される春の息吹の方が、なんとなく好きだった。
「言えませんよね。きっと、誰も信じてくれないでしょうから」
「でも、僕とアリスは覚えている。知っている人がいるなら、それは間違いなく夢じゃあないって信じられる」
「そう、ですよね」
ずっと、こんな日が続けば良いのに。リュカはそう思った。そして、アリスも。
「坊ちゃん。ここにいらしたのですね」
汗を額に浮かばせながら、サンチョが坂を下りてやってくる。リュカはアリスを困ったように見てきた。アリスは微笑んで頷く。
リュカはサンチョに駆け寄ると、何かを話しながら歩いていく。自宅に何か用があるらしい。
1人になってしまえば、涼んでいてもつまらない。アリスは一度教会に帰ることにした。今のうちに、午後のリュカの勉強内容を確認しておこうと思ったのだ。
教会の扉を開けると、ちょうど見慣れた男性と鉢合わせをした。相手もアリスを見て、目を瞬かせる。
「おお、アリスちゃんか。今帰りかな?」
「パパスさん。お祈りをしていたのですか?」
珍しい、と思った。ずっと家で調べ物をしていたパパスが、わざわざ教会へ来るなんて。
「そうなのだ。実は、これから少し出かけることになったのだよ。急な仕事だが、断るわけにもいかないからね」
仕事。ということは、またしばらくの間は家を空けるのだろうか。
「そうですか・・・・・・色々とお忙しいのですね」
「いやいや、アリスちゃんには負ける」
アリスの僅かな落胆の気配を察したのか、パパスは冗談じみた態度を取る。
「もしかして、リュカさんもですか?」
「それは、まだリュカには訊いていないからなんとも言えないね。ただ・・・・・・私としては一緒に来てほしいとは思っている」
少しだけ言いづらそうなパパス。無理もない。アリスとリュカの仲が良いことはみんなが知っているのだ。
しかし、パパスにも言い分はあった。どうやら、新しい仕事先は隣国のラインハットにあるのだという。リュカはラインハットの国をよく知らないため、これを機に見識を広めてほしいと思っているのだ。
「そう、ですか」
正直なところ、アリスとしては村に残ってほしいと思っている。せっかく仲良くなったリュカと離ればなれになるのは嫌だった。それは当たり前の感情である。
その反面、自分だけのわがままでリュカを引き留めるわけにもいかないという理性があることも理解していた。リュカには大好きな父親がいる。傍にいた方がきっと親子のためなのだろう。
「すまないね、アリスちゃん。もうしばらくの間だけ、我慢してもらえないかな。何しろ、どうしても断れない仕事なんだよ」
アリスは俯くと、ゆっくりと頭を振った。目を合わせたくない理由は察していたが、パパスはそれをあえて口にはしない。
「・・・・・・あの、また帰ってきてくれますか?」
「それはもちろんだ」
そこは、ハッキリと言っておく。パパスとて、リュカの友達を悲しませたくはないのだから。
「仕事が終われば、また帰ってくるとも。ただ、ラインハットは少し遠い場所だ。だから少しだけ長く家を空けてしまうから、どうか分かってほしいのだよ」
「はい、分かっています」
アリスとて、ラインハットが遠い場所にあることは知っている。この大陸を分ける大河を挟んだ関所を通り、そこから北東へ向かった先に位置する城。歩いていけば、片道でも1日以上はかかるだろう。
申し訳なさそうな顔をしたパパスが、教会を去っていく。その姿を、アリスだけではなくミランまでもが切なげに見送っていた。
「仕方がない、ですよね。パパスさんは本当に色々な人から頼りにされるお方ですもの」
「そうですね。村の人で、パパスさんを嫌っている人なんて、1人もいませんから」
「しかし、今度の仕事というものは一体何なのでしょう。聞けば、かなり国の中でも偉い人からの頼み事だとか」
「本当ですか?」
仕事の内容までは知らないアリスが驚く。いや、詳しい内容を知らないという意味では、ミランも同じなのだが。
アリスはつい考えてしまう。一体パパスさんとは何者なのだろうか。
昼食を取った後、パパスはリュカと共に出発することになった。サンタローズの出入り口の前で、自然と村の者達が見送りをする形になる。
大人達が非常食用のパンや飲み物を渡してくるが、パパスはすでに自前の携帯食を荷物袋に入れているため、受け取ることはなかった。誰もが皆、また続くパパスとの別れを惜しんでいる。
そして、子供同士の別れ。リュカとアリスも寂しさの色を隠せてはいなかった。アリスはどうにか笑おうと表情を作る。
「もう、一緒に算数を教えることもできませんね」
「大丈夫だよ。お父さんの仕事が終わったら、また帰ってこられるから」
「プックルも、しばらく撫でてあげられませんか」
「ふにゃあ」
また来るよ、といわんばかりに鳴くプックル。と言いながらも、やはりプックルもお別れの気配を感じているのだろう。どことなく、鳴き声に力がなかった。
フワリと、暖かい風が吹く。お互いの瞳を見つめ合い、黒と白銀の髪が靡いた。
分かっている。これは一時の別れだ。リュカはパパスと共に、ほんの少し遠くへ仕事に行くだけ。そうと頭では理解していても、やはりそれが一つの別れであることに変わりはなかった。
「リュカさん。私は、会える日をちゃんと待っています。帰ってきたら、また沢山のことを教えてあげますから」
「うん。アリスの勉強、凄く分かりやすかったし楽しかった。かけっこだって、いつもプックルが一番だったけれど、アリスにも負けたくなかった」
「いつもというわけではありませんでしたが、私がリュカさんより早かったこともありましたね。それでも、私が最後の方が多かったですけれど」
村を見回せば、すぐに思い出せる日々。笑って走り回る姿が浮かんでは消えた。
僅かに遠い目をするリュカに、アリスは自然と手を回す。彼が気づいた時、少年の身体は少女の腕に抱きしめられていた。
「あ」
「・・・・・・」
アリス自身、意識した行動というわけではない。だが、この時は何かの衝動に駆られ、どうしてもそうせずにはいられなかった。リュカは、嫌がるそぶりは微塵も見せない。2人はほんのりと頬を染めて、それでもお互いの温もりを感じ合った。
やがて、そっとアリスは腕を放す。そこでリュカは、自分もまたアリスの細い腰に手を回していたことに気づく。内心で動揺しながらも、意識して手を放した。
「それでは・・・・・・行ってらっしゃいませ。リュカさん」
「うん・・・・・・行ってきます。アリス」
父親の横をしっかりと歩いていくリュカの背中を、村の全てが最後まで見送った。そして、いつしか2人が草原の向こうへと消えていく。
サンタローズの人々が、名残惜しげにそれぞれの生活へと戻っていった。そして、最後まで残っていたアリスもまた、ゆっくりとその場を去っていく。
これから、仕事の時間だ。そして鍛錬や勉強も手を抜けないのだから。
きっと一回り大きくなって帰って来るであろう、大切な友達に釣り合うように。
「本当に、アリスちゃんと仲良くなったのだな、リュカよ」
背中の向こう側には、もうサンタローズの建物は見えなくなっていた。さらに先へと向かう道中、パパスに言われた言葉がそれである。
「うん。アリスって、色々なことを知っているから」
それに、と続ける。
「強くって、とっても優しい女の子なんだ」
「フニャン」
リュカの言葉に、足元を歩いているプックルが続けるように鳴く。当たり前だ、と言っているかのように。
「そうか」
パパスはニヤリとして、息子の頭を撫でる。素敵なガールフレンドが出来るのは、父としても喜ばしい限りであった。
「安心しなさい。アリスちゃんとはすぐに会えるさ。今までの船旅とは違って、そう長い仕事にはならないはずだ」
「そうなの?」
思えば、物心ついたときからリュカはいつも船に乗っていた記憶が多かった。その印象が強いせいか、彼はよく誰に出会ったかを覚えていないことがままある。
「この仕事が終わったら、お父さんは少し落ち着くつもりだ。お前には色々と寂しい思いをさせてきたが、これからは遊んであげられるぞ」
「本当?」
「ああ」
顔を明るくさせるリュカに、パパスは微笑みを深める。つられて、プックルもひと鳴きした。
仕事に区切りをつけたら、どこへ行こうか。釣りでも教えてみようか。父はつい、そんなことを考えてしまう。
「あ、そういえば」
と、リュカが何かを思い出したように腰のポーチをまさぐる。取りだしたのは、2つの小さな袋であった。小さな紐で口元を縛られていて、その紐はちょうど首飾りのように大きな輪ができている。
「これ、お守りなんだって。お父さんにもあげるよ」
「ほう」
息子から受け取り、その手の平よりも小さいお守りをジッと見つめる。
袋には小さな刺繍が施されており、男性と女性の顔の形が並んで縫われてあった。どちらもこちらに向かってニッコリとした笑顔である。おそらく、子供が覚えたての技量で作ったものに違いない。
息子は先ほど、お守りなんだってと口にした。つまり、これがお守りとは人づてに聞いたという事。となると、アリスが気を遣って作ってくれたということだろうか。
何にせよ、初めての息子からのプレゼントだ。受け取らなくては父親の名が廃る。
「ありがとう。大事に持っておくとしよう」
「うん。僕とおそろいだよ」
リュカは早速、自分の首にかけていた。パパスも同じようにする。
「さあ、先を行こう。大河にある関所を越えた後で、野宿の準備をするぞ」
「うん、あと3時間だね。頑張るよ」
今現在の太陽の位置と、地図上の距離を暗算で割り出した事に、パパスは驚く。少し前までは、自分の名前すら書けないと思っていた息子が。
「それも、アリスちゃんが教えてくれたのか?」
「そうだよ。速さと時間と距離の中で、どれか2つさえさえ分かれば、どれでも計算できるんだって」
そう言うと、リュカはズンズンと力強く大地を踏みしめていく。それを横で歩きながら、パパスは眩しげに目を細めた。
――――マーサよ。お前の息子は、良き出会いに恵まれたよ。
リュカとの別れから、一週間が経った。村は少しずつ夏の収穫に向けて余裕が出始め、日中は最低限の仕事に留める者も増えてくる。村人が総出で畑仕事に精を出したのだ。今年は、きっと余裕で冬を越せるだろう。
この日、アリスは教会にある何枚かのシーツを洗濯していた。初夏の太陽が洗濯物を暖かく乾かしてくれる。汚れが落ちたのを確認し、今度は周辺の掃除をする。
「これから、もっと暑くなるのですね」
一緒に箒を持って畑のゴミを集めていたミランが、眩しそうに手を額にかざした。アリスは箒の手を休めないまま言う。
「はい。野菜が育つのは良いことです。しかし、その代わりに雑草も生えてしまいますので」
「雑草も1つの命なのですけれど」
それを言ってしまえばキリがない。アリスは曖昧に笑うと、別の話題を口にする。
「そういえばサンチョさん、昨日から家を出てしまいましたね」
「そうでしたね。何でも、ラインハットへ向かったとか」
昨日の朝の事だ。ミランが見回りをしている時に、どこか浮かない顔をしたサンチョに会った。旅の支度をしていたので、どちらへと訊ねたのである。
「あの時のサンチョさん、本当にどこか思い詰めたような顔をしていましたから。少しだけ心配です」
何があったのだろうか。アリスは少しだけ気になった。もしその場に自分がいれば、一緒について行っても良いでしょうかと頼んでいたのかもしれない。
なんとなく、パパス一家がいないサンタローズは、どこか寂しく思えた。ここは相変わらずの静かで人情のある村だというのに。それだけアリスにとって、リュカ達の存在が大きかったせいだろうか。
その後もアリスは、1人のシスター見習いとして仕事と勉強、鍛錬を繰り返す毎日を送り続ける。
そして、この日。日常に1つの変化が訪れるようになった。アルカパへ足を運べるようになったのだ。
何故かというと、グレン神父の気遣いだった。仕事に打ち込んでばかりのアリスに、アルカパへ向かう用事を作ってくれたのである。具体的には、簡単な報告書の資料を教会に届けるだけの簡単なお使いだ。
急ぎではないぞ、と一言告げて送り出してくれたグレン神父に感謝しつつ、アリスはサンタローズを出る。隣には、護衛の意味をかねてミランも一緒だ。
「こうして、村の外に出るのも久しぶりです」
ミランがそう言うのも無理はない。彼女はアリスが来るまで、唯一の村のシスターとして働いていたのだ。基本的に毎日の生活の中で、村から出ることはなかったのである
「はい。私はお化け退治が終わって、サンタローズに帰ったとき以来ですよ」
「以前話していただいた、レヌール城の事でしたね。アルカパにはビアンカさんも暮らしていますので、会いに行きたいのではないですか?」
「勿論です。リュカとの事も、色々交えてお話がしたいです。それに、神父様やシスタージゼルとも」
ジゼル。姉御肌な一面のある、シスターの先輩。ミランとはまた違った存在感のある彼女は、今でも元気にやっているだろうか。
「なんだか、私の知らない間に色々な出会いがあったのですね。私、少しだけ拗ねましてよ?」
プクリと、頬を膨らませるミラン。その顔が、年上のはずの先輩シスターを、自分と同じくらいの年代の少女に見せてしまう。
可愛いとでも言ってしまったら、神罰が下ってしまうのだろうか。子供心にアリスはそんなことを考えてしまう。
記憶にあるアルカパへの道を辿り、2人はアルカパの町へ到着した。以前は夕暮れの時刻にたどり着いたものだが、今は動物を目当てに立ち止まることも、ことさらゆっくり歩く必要もなかった。そのため、午後を少しだけ過ぎた頃にアルカパの出入り口を潜る。
「お、アリスちゃん。久しぶりだね」
好青年の番兵は、今日も相変わらず村を守っているようだ。記憶の中の彼と、何も変わっていない。
「お久しぶりです、番兵さん。冬の時以来ですね。町は相変わらずでしょうか?」
「あはは、もちろんだよ。あれからも、ずっと見ての通りさ」
番兵が言うとおり、町は相変わらず人々が忙しそうに歩いている。むしろ夏が訪れたことで、より人や物の行き来が盛んになっているようだ。
「凄いですね。都会は、どこでもこの季節はこうなのでしょうか」
「他の町のことはよく知らないけれど、少なくともアルカパでは毎年がこんな感じだよ。他の国の商品も多く扱っている店もあるしね」
そういうものなのか。アリスはそう納得する。
番兵と別れ、アリスは教会へと向かう。途中、顔見知りの待ち人に挨拶をしておくのも忘れない。
教会の中に入ったアリスを、神父達は喜んで歓迎した。ミランのことも紹介すると、その場にいた同年代のシスターとは何人か気が合ったようだ。早速お茶のもてなしをするため、2人を食卓まで案内する。
しばらくは女性同士で他愛のない話を続けているうちに、ジゼルが見回りから帰ってくる。彼女はアリスの姿を見ると、喜んで抱きしめてくれた。
「その髪型、まだしてくれているのね」
「はい。ジゼルさんがしてくれましたから」
「嬉しいことを言ってくれるじゃない。でも、どうせだったら色々な髪型も見てみたいと思っているのよ」
「それじゃあ、今度は思い切って伸ばしてみます」
「そうね。今度はロングヘアにしてみるとかどうかな」
「あ、ジゼルばっかりズルいわ。私はアリスにはセミロングも良いと思っているのよ」
他のシスターが口を挟む。そこでまた、笑いが起きた。
ミランも含め、すっかりおしゃべりの時間を満喫するシスター達。頃合いを見て、アリスは書類を神父に渡すことに。
「シスター・アリスよ。そして、シスター・ミラン。今後とも、お主らに神のご加護を」
2人とも、厳かな声で肯定の言葉を告げた。この時は、しっかりと修道女としての自分として己を律する。
かつての同僚や上司に見送られ、2人は教会を後にする。そして、今度はミランに断りを入れて、ビアンカの住む宿屋へ向かった。扉を開けると、こちらに駆け寄ってきてくれたのは見覚えのある婦人であった。
「おやおや、誰かと思えばアリスちゃんじゃないかい。久しぶりだねえ」
「マグダレーナさん。お久しぶりです」
ビアンカの母、マグダレーナ。彼女もまた相変わらずで、貫禄のある笑顔を浮かべていた。
「それで、今日はどうしたんだい。もしかして、泊まってくれるのかい?」
「いえ、実は教会に用事があっただけなのです。ここには、久しぶりでしたので挨拶だけでもと思いまして」
「おや、そうかい。そりゃあ残念だねえ。実は、ちょうどビアンカが木イチゴを摘みに、町の外に出かけているんだよ」
「あ、そうだったのですか・・・・・・」
すまなそうなマグダレーナに、アリスも落胆する。久しぶりに顔を見たかったのに。どうやら、タイミングが悪かったらしい。
そうなると、いつまでもここにいてはマグダレーナの仕事を邪魔してしまう。現に、他のお客様らしき家族連れが、受付の前でこちらを見ていた。どうやら、チェックイン待ちらしい。
申し訳なさをお互いに覚えつつ、シスター見習いは宿屋を去ることにした。足早に客の相手をするマグダレーナの姿が、心に痛いアリスだった。
すぐ外で待っていたミランに声をかけ、歩き始める。買い物で忙しそうな町の人々の中をくぐり抜けつつ、町の出入り口へと向かった。
番兵に最後の挨拶をしようとすると、彼がこちらに気づいた。アリスとミランよりも先に声をかけてくる。
「少し良いかな、アリスちゃん。ミランさんも」
「はい?」
武装している青年の顔が、どこか硬い。さっきまではこんな顔をしていなかったというのに。
アルカパの番兵は、どこか言いづらそうに指をさす。その先は、サンタローズの方角だ。
「あれ、村の方角だと思うんだけど・・・・・・何だと思う?」
「あ・・・・・・」
「え・・・・・・」
2人のシスターが絶句した。
あのサンタローズがあるはずの地域から――――いくつもの黒煙が空へと昇っていたのだ。
なんだ、あれは。少なくとも、火を使うような催し物はサンタローズの村には無いはずなのに。
初夏の季節。だというのに、アリス達は背筋が寒くなるのを感じた。マズい。何かは分からないが、ものすごく不吉なことが今、サンタローズの村で起きている。
「――――急ぎましょう!」
真っ先に駆けだしたのは、ミランだった。彼女は脇目も振らず、いつもは物静かな顔を強ばらせて走っていく。アリスもまた、それを追うように走り始めた。
心臓の音がうるさい。息が切れるほど走っているのに、身体はちっとも温かくならない。
心の中で感じる。焦りの気持ちが大きくなっていく中、どこかで諦念の思いが生まれていることを。きっと、それはミランも同じなはずで。
――――予感があった。あの穏やかで美しいサンタローズは、もうどこにも無くなっているのだということを。
そして、肩で息をしつつもたどり着いた2人。
アリスとミランが見た光景は。
まさに、地獄への入り口だったのかもしれない。
つづく