薄暗い地下室に、2つの影があった。
1つは少女で、1つは魔物だ。
日の光が入らない部屋の中であるはずなのだが、光源は少女の足元から発せられていた。
世界のいくつかに存在しているという、空間の歪み。足を踏み入れれば、特定の土地に移動する現象が起きるのだという。人はそれを旅の扉と呼んでいる。
それだけならば、特に問題は無い。入ったところで身体に害など無く、放り出されたところで同じ旅の扉から戻ってくればいいだけなのだから。
だが、この場においてその理屈は全く通用しない。少女は足元に存在している旅の扉を、まるで奈落の底であるかのように怖気を感じていたからだ。
いや、実際に奈落の底だ。なぜなら、この旅の扉に限って言えば、この世のどこからも少女を消してしまうかもしれない空間の狭間と化しているのだから。
「あ、くう……」
苦しげに呻いている少女に向かって、魔物は冷ややかに言う。
「お似合いだな、小娘」
「うあ……」
魔物の声には、嘲りしかない。少女と似たような背丈ではあるものの、少女の喉を掴む力には万力のような力が込められている。
少女はどうにか足元を動かそうとするものの、足場を踏んでいる感覚は無い。魔物の腕によって宙ぶらりんの格好になっているからであった。魔物がごく僅かでも喉を掴んでいる腕を下ろせば、少女は瞬く間に空間の歪みへと呑み込まれてしまうはずだ。
そんな少女に、魔物は冷酷に言い放った。
「人間の小娘風情が、よくもまあ頑張ったといいたいところだ。だが、死に急いだだけだったな」
指先が皮膚に、幼い肉に食い込んでいく。最早、呻き声すら出ない。
そして、抵抗が消えていった。痙攣する四肢は、少女が意識を失いかけていることの証明。
魔物は、つまらない玩具を捨てるように手を離す。少女は河に投棄されるゴミのように、旅の扉へ姿を消していった。
悲鳴はない。それを発するべき少女は、文字通りこの世から消えていたのだから。
今や旅慣れたといっても過言ではないアリスにとって、山々を越えることはさほどの苦にはならなかった。
夏の季節がいよいよ本格化してくる時期。この大陸の全ての緑が生い茂る中を歩くのは、大の大人でも辟易してもおかしくはない。だが、7歳の少女は真っ直ぐに前を見据えたまま歩みを止めなかった。
勿論、大地を歩いているのはアリスだけではなかった。隣には先輩であるシスター・ミランが同じように肩を並べているし、何より周囲にはそんな2人を守るようにラインハットの兵士達が囲んでいる。
途中、肉食植物の笑いぐさやサボテンのモンスターであるダンスニードルが視界の隅に映った。しかし、彼らはそれを無視して歩みを続ける。屈強な兵士達の人数が分からないほど、魔物達も愚かではなかったからだ。
なにより、ダンスニードルが浜辺の砂に穴を掘り、そこに埋もれて日光浴を楽しんでいる姿などを見れば、こちらも戦う気が失せるというものであった。
彼らと彼女らが向かうのは、ラインハットの城。これから王妃に相対し、サンタローズの一件にて正式に話し合いをするために。
そして、パパス親子の濡れ衣を晴らすために。必ずあの親子を探し、事の真相を明らかにしなければならない。
第一王子であるヘンリー王子が何者かに誘拐された。なるほど、それは確かに国を揺るがす一大事だ。だが、それにパパスのような男が犯行に関わったなどとは、アリス達はおろか村の全てが信じなかった。
やがて、一行はかつて旧レヌールとラインハットの国境であるヘルライン河に存在する関所へとたどり着く。
地底通路によって河を越えることが出来るこの関所で、彼らは夜を明かすことにした。大所帯になるので関所の責任者が嫌な顔をするのではないかと思ったアリスだが、当の兵士達はみんな慣れているといった様子である。
さらに一日半ほどかけて、河に沿ったまま北へ向かう。森を横切り、遠くには山脈が見える。この辺りは、アリスもさほど知らない風景であった。
その山々に囲まれるようにそびえ立っている、巨大な城。それこそが、ラインハットの城であった。
軍事国家として長年の歴史を持つ大国。その威光に守られし国民は、遠目から見ても一目で分かるほどに活気に溢れている様子であった。
まるでお祭りだ。アリスとミランは浄化の様子を見た際に、真っ先に思った感想がそれだった。アルカパも地方都市として賑わっている方ではあったが、このラインハットはそれすらも比較にならないほどに人の姿で埋め尽くされている。
兵士や技師達の住居であろう住宅の通り。その隣には商人や職人達が露店を開き、世界中の見たこともない伝統工芸や果物を売っている。きっともう少し近くに寄れば、果汁の香りや工芸品特有の雰囲気でいっぱいになるはずだ。
だが、残念ながらアリス達はここに買い物に来たわけではない。興味を押し殺して、前に進むことにする。
狭い路地を埋め尽くして、縦横に流れる人混み。見たこともない衣装や人種が、例外なく売り物を覗き込み、時には購入している。
「これでも、いつもよりは大人しい方なんですよ」
アリスを守るように歩いている兵士の1人が、そう教えてくれた。これで人通りが少ない方だというのなら、普段はきっと人が通ることすら出来ないほど埋め尽くされているのではないだろうか。
兵士達は流石に慣れているのか、動じた様子もなく人の流れに踏み込んでいく。アリスとミランは埋没するように先を進む。幸い兵士達が盾になってくれているので、特に苦もなく通りを抜けることが出来た。
整備された敷石の道を、一行はゆっくりと歩いていった。こちらは、うって変わって静かである。どうやら、この辺りは城下町と城の境目らしい。
道はやがて深い堀を越える跳ね橋に続いた。巨大な鋳鉄の門はアリスが見たこともないほど鮮やかな赤で塗られており、全面に止めつけられた銀色の模様は、一つ一つが恐ろしいほどに精密な草花や鳥の彫刻であった。
おそらくは、これがラインハット王家専用の紋章なのだろう。デザインは兵士の鎧に彫られているそれとは違う。草や花は、要するに民草という意味だろう。ならば、羽ばたいている鳥は王家の象徴ということか。
アリスがそれとなく兵士に訊いてみると、その兵士は感心したように目を瞬かせた。まさか、7歳の少女が一目で紋章の意味を察するとは。
「その通りですよ。鳥は大空を飛ぶ。しかし、大地無くして飛び上がることは出来ない。だからこそ、王家は多くの民の存在により王家たらんとすることが出来る。そのため、空を飛ぶ資格のある者は決して大地である人々への礼節を忘れてはならないと」
民への忠誠。王家としての誇り。
なるほど。軍事国家と聞くと、どうしても軍事中心の国として民から財産や力を徴収する事に躍起になるというイメージを浮かべてしまいがちだが、ことラインハットにおいてはそうでは無いらしい。国民への礼節を忘れず、人の上に立つに相応しい国であれるように。
――――だからこそ、そんな一国の誇りを汚すかのような権謀術数が生まれているというのなら、誰かがそれを必ず正さないといけない。
アリスは内心で、改めて己の肩にのしかかっている役目の重さを実感した。だが、めげてばかりもいられない。
思い出すのは、リュカやビアンカと共に戦った、あの日々。どんな困難でも、血を流して立ち上がったのだ。その過程で出会った、魔物の親分。季節を担う村長や女王。
そして、過去の亡霊となった国王と王族。苦難の時の中で出会った、清廉な心の王と王妃の姿。
そうだ。絶対に怖じ気づくわけにはいかない。自分はもう、すでに国や季節を担った者達と対面しているのだから。
虚勢なんかじゃあない。アリスは心からの笑みを意識して、柔らかい表情を作る。
「ご立派です。素晴らしい精神を持って、日々任務に励んでいらっしゃるのですね。私も見習わなければ」
「お褒めに預かり、こちらも恐縮です。では、こちらへどうぞ」
隊長のビルはアリス達を含めた列を先導する。門番の兵士達に何事かを小声で話すと、彼らは素直に道を空けてくれた。
清潔ながらも、飾り気のある通路を歩く。途中、数々の陶器に飾られた花からいい匂いが漂ってくる。広々としたホールを抜け、複雑な回廊を進み続けた。
迷路のような通路に、1人だったら迷子になっていただろうと思ったのは決してアリスのせいではないはずだ。それでも彼女はできる限り周囲の歩幅を合わせつつも、道順や通路の特徴を脳内に記憶することに努める。
宝石を塡めこまれた燭台の並んだ階段をあがっていくと、王の謁見室に出た。階段の先にしつらえられた玉座。どういうわけか、今は空席のようだが。
そして、その真横に1人の妙齢の女性が立っていた。金糸を縫い込んだドレスを身につけ、目つきは鋭くこちらを見下ろしている。整った容姿で、知的な美人という印象を誰もが持つであろう王妃であった。
確か、名前をロザミアといったか。
笑えば美人になりそうなのですがなどと、アリスはつい場違いにもそんなことを思ってしまう。
さらに、階段の下で直接ビルと対峙するように立っているのが、比較的若い男であった。中年間近のような容姿だが、壮観な顔つきが印象に残るタイプである。上質な制服と皮のマントを羽織っており、いかにも上官という出で立ちだった。
「ただいま戻りました、アルダン将軍」
「うむ、ご苦労。しかし、この様子はどういう事か説明してくれるな。見慣れない女性がいるようだが」
アルダンと呼ばれた男は、ミランとアリスを一瞥する。いくつもの修羅場をくぐり抜けたような視線が2人に突き刺さるが、怯むような真似を見せるわけにはいかない。
「はっ。実は、少々長くなりますが……」
と、ビルは一言断って、アルダンの傍で何やら話を始める。事情を全て聞いた将軍は、少しだけ呆れた顔をすると、了解したように引き下がった。
苦笑いしながら、お前らしいと告げるアルダン。そして、改めてアリス達に向き直る。今度は、うって変わって柔らかな笑みを浮かべていた。
「どうも、初めまして。私は、この城にて将軍の立場である、アルダンと申します。遠路はるばる、我がラインハット城へとご足労いただき、誠に恐縮です」
片手でマントを持ち上げ、会釈をする将軍。貴族としての礼節が身に染みついていると思われる、優雅な礼であった。動揺しながらも、アリスとミランはスカートを持ち上げて礼を返す。
「お、お初にお目にかかります、将軍様。私はサンタローズのシスター、ミランと申します。この度は、恐れ多くもこのような場に立つことになり、誠に恐縮であります」
「並びに、サンタローズのシスター見習いである、アリスと申します。見ての通りに幼き者がこのような場へ立つこと、汗顔の極みにございます」
「これはこれは、ご丁寧に。ですが、今現在の限りにおいて言わせていただければ、我々は貴女方サンタローズの方々に対して、限りなく平身低頭なる態度であるべき立場。どうぞ、この理不尽なる命令ひとつも阻止できなかった無能なる将軍に、どのようなお言葉、処分でも受け止める覚悟です」
と、ここでアルダンの表情が申し訳なさに変わる。苦痛に顔を歪ませているその表情は、まるで彼こそが故郷を荒らされてしまったかのような錯覚を受けてしまう。
立場上、申し訳ない表情を作るのではない。彼は心から、サンタローズの焼き討ちなどという命令を飲まざるを得なかったのだ。
ラインハットの上層部にも味方はいる。その事実を再確認し、アリスとミランは幾分緊張を解くことが出来た。
「いいえ、どうか頭を上げてくださいませ。察するに、どうやら将軍様は今回の命令を止めようと尽力していただいたご様子。感謝こそすれ、怒りなどを覚える道理がありません」
「シスター・ミランの意見に同意です」
アリスも、ミランに習って言葉を続ける。こちらは、あくまでも王妃から事情を聞くために村の代表者として来訪しただけなのだ。将軍を糾弾しに来たわけではない。
「いえ、そのような情けなど不要であります。全ては私の……」
なおも、将軍は謝罪の姿勢を崩さない。そこへ、玉座の傍から高圧的な声がかかる。
「アルダンよ」
「――――はっ!」
王妃の声だ。将軍であるアルダンは、すぐさま頭を垂れる相手を頭上から見下ろす主に切り替える。
「今ここでする話ではなかろう。詳しい事情はビルから聞く。それまではその平民を一旦下がらせるが良い」
「な――――お待ちください、王妃様。あの方達はサンタローズの代表者で、私がこちらへ赴いてほしいと頼んだだけなのです」
「弁えるがいい。たかだか隊長の身分で、妾の言葉に口答えか?」
その高貴な声でありながらも、どこか苛立ちが混じった言葉であった。抗議をしようとしたビルは、その鶴の一言に口を閉ざしてしまう。
「王妃の仰るとおりだ。お前の言い分も聞くが、今は王妃様のご意志を優先するがいい」
「……それはご命令でしょうか、アルダン将軍?」
「命令だ。2度は言わん。こちらが発言を許可するその時まで、その口を閉じておくのだな」
「申し訳ありません……出過ぎたことを申しました」
場の空気が重くなる気配を察したアルダンは、臣下らしく王妃の言葉を優先する。勿論、ビルに咎める言葉を発しておくことも忘れない。
「お2人方、どうか今はご無礼を。王妃様のご命令なのです」
そう言うやいなや、アルダンはアリス達が来たばかりの階下に押し出すようにして退出させようとする。
流石に抗議をしようとしたアリスだが、それはミランに止められた。目を合わせると、今は大人しく従いましょうと咎められてしまうだけ。
当然だ。この場では、修道女でしかない彼女達が何よりも立場が低い。隊長のビルがこのような形で封殺されてしまったのなら、むしろ自分達の抗議など耳を貸してくれるわけもないからだ。
仕方が無く、アリスは黙ってミランと共に階段を降りていく。去り際に1度だけ振り向くと、頭を垂れたままのビルが申し訳なさそうにこちらを見ているのが目に映った。
2人に出来たことは、せめて無理にでも微笑みを返すこと。そして、その顔に僅かでも了解していますという意味を込めることだけであった。
サンタローズの代表者が2人、階下に姿を消していくのを兵士達が見届けると、謁見の間であるこの場には重苦しい空気がグッと増した気がした。
この場には、正真正銘ラインハットの関係者しかいない。だからこそ、ここからは国の人間同士が話し合う場となったのだ。
「さて、兵士隊長のビルよ」
虚偽は許さぬ。その意思がありありと込められている声であった。自然と、他の兵士達の背に汗がじっとりと浮き出る。
「此度の成果、そなたの口から説明して貰おうかの」
豪勢な螺旋階段を降りきった2人は、アルダン将軍の計らいで城の客室に招かれることになった。一方的に無碍にされた形となったのだから、ある意味では当然の配慮だったのかもしれないが。
一階の室内は、城の客人専用というだけあって広い。ビアンカの宿屋のフロア2つ分とどちらが大きいだろうかなどと、アリスはつい好奇心に任せた失礼な考えがよぎってしまう。
内装も小綺麗で、ベッドや棚の上に置いてある花瓶に生ける華も上質。おそらくは、こまめに使用人が手入れをしてくれているのだ。
奥の窓際にはいくつかの新品の机や椅子が設置してあり、アリス達はそこの一角を借りることとなった。日差しが程良い暖かさを感じさせてくれる。
窓の外を眺めると、相変わらずの人通りが混雑な城下が映っている。国民達の賑わいがこちらにも聞こえてくるようだ。
とはいえ、そんな風景に心を奪われるのはもう少し後である。アリスは改めて、椅子に腰掛けたまま目の前に対面している男と相対した。
「……なるほど。お話は理解できました」
同じテーブルを挟んで相席しているアルダン将軍は、最後までシスター2人の話を聞いてくれた。先ほどのビルの説明は最低限の事情しか聞いていなかったので、この場を借りて改めて事情説明をする事になったのである。
こちら側の事情を伝えきったアリスとミランは、一息をつくために手元にある紅茶を一口飲んだ。ここに来る際に使用人が淹れてくれたものだった。サンタローズやアルカパですら出回っていない高級品らしく、嗅いだことのない芳醇な香りが心を落ち着かせてくれる。
2人がカップを置くのを待ってから、アルダンはどこか神妙に口を開く。
「実はですね。ここだけのお話ですが……我がラインハット内部にもパパス様の無実を訴える者は少なからず存在するのです」
「訴える方が、ですか?」
「はい。私もまた、状況証拠だけで犯人を決めつけるのはいかがなものかと王妃に訴えたのです。ですが……結果はこの通り。情けないことです」
ミランの何気ない言葉に、アルダンは頷いた。
話を総合すると、以下の通りになる。
パパスは今代の王、ベルギス王によってラインハットへと招かれた。その内容はといえば、前妻の息子であるヘンリー王子の教育係を務めて欲しいというもの。パパスはそれを承諾したものの、しばらくしてからパパスが急いで城の外へと走り去っていく姿を王妃や城の兵士が目撃したのだという。
後の調査によって、外に出るための扉が開いているところから、パパスはそこから出たということが発覚する。その扉は外部からは開けることが出来ない造りになっているため、外部の犯行とは考えにくい。
アリスは、なるほどと思う。疑ってみるには充分だと思った。疑うだけなら、だが。
「……あの、失礼ですが少々お訊きしても?」
アリスが疑問を言う前に、ミランが控えめに片手で挙手する。アルダンは嫌な顔もせず、どうぞと言った。
「ありがとうございます。つまり、パパスさんは外を走り去っていく姿を兵士様が目撃した、と?」
「ええ。確かに私は部下の兵士から直接聞き及んでおります」
「……兵士様は、そう仰られていたのですか?」
「間違いありませんよ」
ミランは、思わずアリスと顔を見合わせる。その反応の意味が分からずに、目を瞬かせる将軍。
「実は、将軍様……」
「はい」
「私たちは、ビル様からこう聞かされているのです。パパスさんは、王子を抱えて城から走り去っていった、と」
「……それは、真ですか?」
「はい。私たちは、それがどうしても信じられなかったので、その真偽を問うためにこの城へ……」
数刻の沈黙。どういうわけか、窓からも微かに聞こえてくるはずの城下のざわめきも遠く感じる。
「……妙ですね。私は王妃様から、そのようなことは一言も聞いてなどおりませんが」
アルダンの考え込むような反応に、アリスとミランは心の中で疑惑が広がっていく。
ビルは王妃が王子を連れて走り去るパパスの姿を見た。翻って、兵士はパパスが走り去る姿を見た。この違いは一体何なのだろうか。
もしや、王妃や兵士達の間で情報の食い違いでもあったのだろうか。いや、王子を抱えていたかどうかは今回の件で重要な要素だ。なにしろ、それが真実かどうかでパパスの立場が大きく変わってしまうのだから。そこを省略して話が伝わるなどあり得るのか。
しばらくラインハットの将軍は俯いたまま黙っていたが、やがて顔を上げる。思わず、アリスとミランは背筋を反らしてしまった。
「分かりました。この事に関しては、もう一度こちらで確認してみましょう。再調査をすれば、新たな事実が見えるかもしれません」
「あ、ありがとうございます!」
「心からの感謝を」
願っても無い言葉にアリスは思わず頭を下げ、ミランは落ち着いた物腰で手を組む。この辺りは、流石にシスターとしての年期の差が出てしまった。
「あ……」
自分の顔が熱くなるのを感じるアリス。慌てて、彼女の先輩に習って祈りの礼をとった。
「い、いえ。どうぞお気になさらず」
そう言いながら、アルダンは顔を背けて肩を震わせる。傍目にも、笑いを堪えているのが丸わかりであった。誤魔化すように、近くに控えている使用人に声をかけた。
「ああ、キミ。紅茶のおかわりを頼めるかな? お客様の分がそろそろ無くなりそうだ」
「承知致しました」
その女性の使用人は、慣れた手つきで手元のポットを使っておかわりを注いでくれる。
「お気遣いありがとうございます」
「いえ。仕事ですので」
ニコリと微笑み、使用人は引き下がった。
アリスはもう一度手元の紅茶を一口飲む。そのおかげで、心が落ち着いた気がした。
「失礼致しました……ところで、少々よろしいでしょうか?」
「はい」
少女はチラリと、カップに注いであった紅茶に視線を向けた。話題を変えたかったので。
「この紅茶、美味しいですね。どういった葉をお使いか、お訊ねしても?」
「おや、お気に召していただけましたか」
安堵したような顔で、アルダンと使用人の女性は朗らかに笑う。続けて――――
「――――マリアンジュという、この地方でしか取れない高級品です。そしてラリホー草をブレンドしているんですよ」
「……は?」
2人がその言葉を理解するのに、どれくらいの間が開いたのだろうか。今、この男はなんと言ったのだ?
言葉そのものは聞き取れたが、頭が全く理解に追いつかない。ラリホー草とは、強力な睡眠薬に使われる材料だ。睡眠誘導呪文の名が使われる所以である。
どういう事か。そう口に出そうとするが、そのタイミングで身体がゆらりと倒れかかる。
視界が歪み、周囲が不規則に揺れ始めた。立ち上がろうとした中途半端な体勢が崩れ落ち、椅子を巻き込んで床に倒れてしまう。不思議と、痛みは全く感じなかった。
いや、既にその感覚を感知できなくなっているのだ。
薄れゆく意識の中、アリスはミランの身体もまた自分の上に覆い被さるようにして倒れ込んだのが分かる。
ゆっくりと近寄ってくる、アルダンの足音。アリスの瞳に映ったのは――――ラインハットの将軍などでは無かった。
「さ、彷徨う鎧……」
蚊の鳴くような声で呟いた声に、己を見下ろす魔物は驚いたように足を止める。黒い靄の上に、重厚な鎧を身につけている姿のため、表情までは分からなかった。
「ほう。まだ喋れるのか。ただの人間の餓鬼と思っていたが、意外と博識だな」
死んだ兵士の怨念が宿っている魔物、彷徨う鎧。そして、その後ろからもう1体の魔物が姿を現す。
白骨化している身体。年季の入った鎧。兵士の死体が、魔族の力で蘇った存在。
手には槍を持っており、確か切っ先には毒が塗られていると以前に図鑑で読んだことがあった。
名を、骸骨兵。骨だけの兵士は、彷徨う鎧に従うかのように一歩後ろに立っている。
ようやく状況を理解したアリス。この魔物達は、アルダン将軍と使用人に化けていたのだ。
「魔物が、どうしてこのような場所に……」
「おっと、勘違いはするなよ小娘。俺たちは、別にこの城に潜入していたわけじゃあない。この国から直々に雇われた者さ」
「笑えない……冗談ですね」
王妃が魔物を雇う。そんな事実が信じられるわけが無い。しかも、こんな凶悪な魔物など。
「嘘じゃあない。今も、この国の将軍の代理として正式に働いているだけだ。まあ、後々に面倒が起きそうな事案があれば、俺たちの権限で潰していいことになっているがな」
つまり、と骸骨兵が言葉を引き継ぐ。
「お前達は、王妃の野望の邪魔というわけだ。罪状は不敬罪とでも言っておいてやる」
「つまり……これは王妃の仕業、だと?」
「おい。余計なことを言うな」
彷徨う鎧の鋭い声に、骸骨兵も失言に気づく。ぶらんと垂れ下がっている眼球が、気まずそうに横へ向いた。
「ふん。まあ、いい。王妃は慎重な方でな。将来的に邪魔になりそうな人間は早めに始末しろとのご命令というわけだ。運が悪かったな」
「……」
魔物の言葉など信じたくは無かったが、おそらくは嘘ではあるまい。アリスはそう思った。
つまり、ロザミア王妃は何らかの野望を持っており、それはきっと碌な事ではあるまい。少なくとも、魔物と手を組んでまでやり遂げたい何か。
そして、それを達成できる段階まで進んだから、こうして行動に出ているという事。そのため、この国の中で反抗分子になりそうな人材を影で粛正している、と。
さらに。この国の将軍に化けていたということは、おそらくは本物のアルダン将軍はもう……
アリスは奥歯を強く噛んだ。信じられない。人がこんな邪悪な魔物達と手を組んで、欲望のままに野心を燃やすなど。そんな人間が国の王族として君臨しているとは。
おそらくは、ビル隊長が任務を中断してまで命令に抗議をしたため、王妃から今後の反抗分子になりかねない者達として認定されたのだ。彼らを含めて自分達は早めに芽を摘まれるということか。
同時に、今後の兵士や民草に対する見せしめや処刑の前例を作るために。
こうなってしまった以上、ビル達の身も危険だ。助けに行きたい気持ちはあったが、今はそれが出来る状況ではない。
現に、骸骨兵が一歩踏み出し、まさに槍の切っ先をこちらに突きつけているのだから。
「ヒヒヒ……安心しな。殺したあとは肉を全部食ってやる」
「餓鬼の方は俺にもよこせ。久しぶりの新鮮な肉だからな」
それを最後に、刃がアリスの首をめがけて襲いかかった。これで、少女の命は潰える。
いや、筈だった。突然、力無く倒れていたアリスが槍の前に手をかざしたのだ。金属がぶつかり合う特有の音が、客室の間に響き渡る。
少女の手に持っているのは、ブロンズナイフ。太腿のホルスターに仕込んでいたナイフを抜いたのだ。意識を失っているミランが覆い被さってくれていたので、魔物達にも気づかれずに手にするが出来た。
「ヒャド!」
骸骨兵が動揺すると同時に、アリスは続けざまに呪文を放った。たちまち、氷の刃が白骨の身体を貫く。
さらに、その刃は骸骨兵の上半身と下半身を断裂させただけには留まらず、下半身を鎧ごと魔力の氷で覆った。
ヒャドを放った手の平を、アリスはグッと握りしめる。それこそ見えない腕で握りつぶされるように、骸骨兵の下半身は氷ごと砕けた。残った上半身だけが力なく床に転がっていく。
「うおおっ!」
気合いをもって、彷徨う鎧が巨大な剣を振り下ろす。またしてもアリスは手を振りかざした。
甲高い音と共に、アリスの手からナイフが弾かれる。カラカラと音を立てて床を滑り、客用のベッドの下へと滑り込んでしまった。流石に、力の差がありすぎたのだ。
だが、それでもアリスが立ち上がるまでの時間は稼げた。ラリホー草の効果で眠ってしまっているミランを横に寝かせ、身体を起こすアリス。
ジッと対峙する。剣を構えたままの彷徨う鎧と、膝を曲げていつでも飛び出せる態勢のアリス。しばらくの間の後、彷徨う鎧が声を出した。
「……仮にも聖職者風情が、戦士の真似事か?」
「情報が古いですよ。今の世の中では、シスターの嗜みです」
「ふざけるなよ。と、言いたいが……その手を見れば、冗談にも聞こえんな」
アリスの手は、赤い血に塗れていた。ナイフを弾かれたときに受けた傷ではない。ラリホー草を飲まされたと悟ったときから、ずっとブロンズナイフを握りしめていただけだ。彼女はずっと、痛みで睡魔を押さえつけていたのである。
少女は、腰に巻き付けてある武器を手に取った。その名を、茨の鞭。村を出たときから、護身用に持っていた武器だ。
王妃の野望とは何なのか。そのために何を企んでいるのかも分からない。だが、今はそれを知る時ではないのだ。
だから、まずはこの魔物を――――!
彷徨う鎧の剣が、唸りを上げてアリスへと襲いかかる。それに勝るとも劣らぬ敏捷さで、アリスの鞭が迎撃する。
こうして、戦いは始まった。人間の国に滲んでいく、果てのないほどの悪意と欲望。
正義が駆逐され、悪が蔓延っていくラインハットの歴史の過程にて。
シスター・アリスは、勝てないと分かっている戦いへと身を投じていくことになったのだ。
つづく