かつては屈強な男が身につけていたであろう、銀色の鎧。その怨霊が取り憑いたことによって魔物として生き続けている彷徨う鎧は、死後になってもその腕が衰えることはない。むしろ、魔物として人を襲い続けている経験や魔の力によって、その力はむしろ強化されている。
一歩前に出た足が鞭を構えるアリスの距離を縮め、鋭い剣が振り下ろされた。少女の脳天にそれが当たる直前、剣を握りしめた手に衝撃が走る。
タイミングを見計らって、茨の鞭が叩き込まれたのだ。腕力と握力の差こそあれ、やはり少女と屈強な兵士の魔物では剣を弾き飛ばすことなど出来なかった。
それでも、一瞬だけ剣の軌道をずらす事には成功する。そのおかげで身を躱せたものの、ヴェールの一部が切り裂かれた。
今度はアリスの左手から氷の刃が放たれる。だが、それは彷徨う鎧が左腕に装備している盾で、氷の刃を受け止められた。アリスのヒャドは瞬く間に結晶となり、風化していく。
盾を構えたまま、今度はさらに距離を詰めて剣を真横に一閃。反射的にアリスは背後へ飛ぶ。脇腹を切り裂かれ、決して少なくない血が床に飛び散った。
悲鳴を上げる余裕などない。一国の城として手入れを欠かしていない床が、アリスの血でボタボタと汚れていく。肩で息をしようとするものの、そんな暇を与えるほど彷徨う鎧という魔物は悠長ではない。
隙有りと言わんばかりに、距離を詰めながら剣を振るう亡霊の兵士。身体を無理矢理動かせて剣戟を躱すしか術はない。最早、鞭を振るう隙も見いだせなくなってきた。
そう。こと力や技量で7歳の娘が彷徨う鎧に勝てる道理などないのだから。
切る。切る。突く。裂く。
ざくり。何度目かの攻撃で、アリスの肩に裂傷が生まれる。身体のバランスを崩されたところに、今度は心臓への突き。
決めの一撃だ。彷徨う鎧は、これでトドメを確信した。
だが、目の前の少女に恐怖はなかった。この期に及んで、7歳の小娘が次の手への布石を残しておいたなど、誰が信じられるだろうか。
痛恨の一撃に対して、反撃の一撃。アリスの右手には、既に充分な魔力が構成されていたのだ。手の平は、真っ直ぐに彷徨う鎧の目の前に。
切り裂かれ続けながらも、詠唱を止めなかった呪文が発動する。
「――――イオ!」
瞬間、ラインハットの客間に爆発が起きた。凄まじい煙と爆裂が発生する中、彷徨う鎧が後方へ吹き飛ぶ姿が確認できた。一拍遅れて、重い鎧が床に叩きつけられる音。
力や技量では、今のアリスでは勝てない。ならば、頼れるのは魔法だ。これがあったから、アリスは形勢逆転が可能だったのである。
とはいっても、アリスとて無事ではない。覚悟をしていたとはいえ、至近距離で爆発が起きたのだ。少女の小柄な身体も彷徨う鎧とは反対方向に転がってしまう。
客室内が半壊とまではいかないものの、ガラスにはヒビがいくつも入り、床も焦げ跡。何より煙幕が室内に充満していた。アリスは心の片隅で、城の関係者に謝罪する。申し訳ありません。やむを得ない状況なのです。
爆炎の中で身を起こし、改めて鞭を握りしめる。アリスは警戒を解かないまま、未だに床に倒れているミランへと近寄っていく。傍にある城下を見回せる窓も、今は見る影もなかった。
「シスター・ミラン、シスター・ミラン。起きてください」
「ん、う……?」
肩を揺すると、意識を取り戻したのか頭を押さえて起き上がろうとする。本当は肩を貸してあげたいところであったが、煙幕の向こう側への警戒を緩めるわけにはいかない。
「ア、 アリス……これは一体?」
「良かった、目を覚ましてくれたのですね。実は今――――」
状況が掴めていないミランに説明をするのと、煙幕から銀の刃が突き出てきたのは全くの同時だった。
矢のような鋭い剣の突きが、ほとんど条件反射で首を反らしたアリスの頬をかすめていく。少女の目の下に一筋の赤い筋が生まれるが、刃は次々と幼いシスターの命を狙わんと振るわれた。
「あ、くっ!」
命を狙って切りつけてくる太刀は、前、横、頭上。背後に飛んだのは、生存本能故に。
間に合わない。胸元を斜めに切り裂かれ、修道女の衣服と共に喉の下が切り裂かれる。脇腹が裂傷を受け、頭を覆っていたヴェールに切れ目が生まれた。
たたらを踏みつつも、鞭を煙幕の中に振るう。苦し紛れの一撃など望むべくもなかったが、幸運にも僅かに手応えがあった。
だが、その鞭から伝わる感覚は同時に嫌な想像をかき立てる。それと同時に煙幕が晴れた時、アリスの予感が的中した。
少女の眼前には、この客間の半分を覆うように立っている魔物の群れ。先ほどまではいなかった彷徨う鎧や骸骨兵だ。そのどれもが、こちらに冷たい殺意をもって己の武器を構えている。
先ほどのイオに反応して、こちらへ駆けつけたのだ。いや、それよりも王妃はここまで魔物達を場内へ侵入させて……いや、雇っていたというのか。
中には、魔道のローブを纏った魔法使いの魔道士。天井にすらインスペクターという一つ目の怪物がこちらを見つめている。どれもこれも、一筋縄ではいかない魔物達ばかり。
アリスは、自分の顔が引き攣っていくのが分かる。きっと、彼女の背後で起き上がろうとしているミランも、きっと同じ顔をしているはずだ。
分かっていた。王妃が魔物を秘密裏に雇っているというのなら、たった2体だけであるはずがないということを。きっと、相当数の魔物が潜在的に隠れ潜んでいるであろうということを。
――――ですが、これはちょっとあんまりではないでしょうか?
思わずそう呟いてしまいそうになるアリスを、一体誰が責められるのだろう。そして、誰もその現実逃避のような嘆きに頓着する者など、この場にはいない。返事は骸骨兵の槍だ。
痛みに身体が悲鳴を上げる。アリスのスカートに包まれた太腿が切り裂かれ、左腕に至っては完全に深々と切っ先が突き刺さった。そして、それが意味するところは……
「アリス、私が解毒を――――ああっ!!」
「シスター・ミラン!」
未だにラリホー草の効果が続いているにも関わらず、アリスを回復させようとするミラン。だが、それも頭上に張り付いているインスペクターによって阻止された。一つ目の身体から伸びた幾重もの触手が、ミランの四肢を拘束してしまったのだ。
「あうう……っ!」
ミランはどうにか手足を動かそうとするものの、力は魔物の方が上だった。さらに何本もの触手が胴体や首にも絡み、獲物となったシスターは苦しそうに喘ぐしかない。
無理もない。ミランは修道院出身のアリスとは違って、旅をする上での最低限の護身術程度しか身についていないのだから。
危ない。このままではミランさんが!
茨の鞭を振るって、触手を切り裂こうとするアリス。だが、その瞬間に少女の身体が重くなった。
「――――あ」
受けたダメージよりもなお深刻な苦痛が発生する。まるで足元が歪んだかのような錯覚を受けた。骸骨兵の槍に塗られていた毒が、アリスの全身を蝕み始めたのだ。
彼女とてシスターだ。解毒呪文程度なら心得ている。だが、この一個小隊とも言うべき数の暴力は、それを許してくれるほど甘くはない。そんな隙を見せてしまえば、彼女が呪文を完了する前に誰かにやられてしまうのは明白だ。
だから、恐れるのは――――この毒が回りきる前に、この状況を脱することが出来るのかどうか。
頭がぼうっとしているせいか、視界が霞み始めてくる。そこを、茨の鞭を握りしめることで堪えた。先ほど、ブロンズナイフでも同じ事をしていたが、食い込んでくる茨で手を傷つけるのは痛みのベクトルが違う気がする。
だが、おかげで少しだけ気が紛れた。毒もダメージも相変わらずだが、とりあえず目だけはハッキリしている。
目の前には、彷徨う鎧が3体。1体が正面から飛びかかり、2体がそれぞれ左右から斬りかかってくる。
「イオ!」
再び放たれた爆裂呪文は、襲いかかってきた彷徨う鎧を確かに返り討ちにした。だが、それは僅かに押し返す程度でしかない。アリスが既にイオを使うことなど魔物達とて百も承知だったからだ。
己が持つ盾を使って、ダメージを最小限に抑えた彷徨う鎧。その後ろから、今度は骸骨兵の集団が槍の突きを繰り出してきた。
彷徨う鎧に比べれば力強さがやや欠けるものの、数に訴えた突きのラッシュは侮れないものがある。まして、切っ先は毒入りだ。アリスは茨の鞭を前面に振って牽制する。リーチの差なら、こちらが有利だ。
左右から、炎の閃光が襲いかかる。魔道士が放ったギラだ。一瞬の迷いもなく、アリスは片腕を盾にして、左側の魔道士へと飛びかかった。腕を中心にギラの炎を浴びるが、全身に直撃するよりはダメージが少ない。
飛びかかった勢いを殺さないまま、アリスは鞭を魔道士に叩きつける。だが、浅い。魔道士は僅かに怯んだものの、反応はそれだけであった。視界が炎に遮られてしまったため、勘任せで振るってしまったからだ。
今、攻撃の手を休めるわけにはいかない。続けざまに魔力を手の平に込める。
「ヒャド! イオ!!」
爆発。氷の氷柱。また爆発。交互に撃ち出される連続呪文で、アリスを包囲しようとしてくる魔物達の軍制を押し返す。いや、押し返そうとする。
だが、それにも限界が訪れる。何度呪文を放ったところで、決定的な決め手を得られない。
当然だ。相手も馬鹿ではない。どう見ても1度では到底倒せない相手ばかりである上に、ダメージを与えたとしてもその魔物は他の軍制の後ろに隠れて、じっくりと傷を癒やしてしまえばいい。
そこに、2体のインスペクターが触手を伸ばしてくる。それこそ鞭のように天井から真下のアリスへと襲いかかった。疲弊のせいもあって躱すための予備動作が間に合わず、全身に幾多もの攻撃を受けてしまう。
それでも、アリスは抵抗を諦めない。力任せに鞭を真横に一閃すると、茨の鞭は魔物の触手を断裂させた。切り離された魔物の一部は床に転がると、まるで神経が繋がっているかのように不規則に動く。なんとも気味の悪い光景であった。
ミランが拘束されている触手も、同時に切れた。奇妙な悲鳴を上げるインスペクターをよそに、先輩のシスターはその場に倒れ込む。首を絞められたせいか、顔色が酷く悪かった。意識はあるだろうか。
だが、そこで意識をミランに向けてしまったことで、アリスが抵抗できる時間は終わってしまう。まだ充分に動くことが出来る彷徨う鎧が、左右から切りつけてきたのである。少女は背中と脇腹を切り裂かれ、幼い柔肌から出た血が焦げかかっている客室の床に飛び散った。
追い打ちをかけるように、彷徨う鎧の前蹴り。小柄なシスターは吹き飛ばされ、ヒビの入っている大きな窓に背中を叩きつけられる。その衝撃でガラスが完全に割れた。
息が止まりそうになるほどの苦痛を覚えるが、攻撃はそれだけでは終わらない。魔道士が放ったギラは、アリスの眼前を真っ赤に染め上げた。茨の鞭が焦げて炭になる。
その最中、僅かに開いた瞳からの視界。天井から自分を見下ろしているインスペクターと一瞬だけ目が合った。その瞬間、その一つ目の充血した瞳が光ったのだ。
「ああ……っ!」
目を閉じようとするが、既に手遅れ。インスペクターは外敵に対し、目くらましのために眩しすぎるほどの光を放つ特技を持っているのだ。アリスの視界が真っ白になり、どこに何があるのかが全く分からなくなってしまった。
感じるのは、皮膚や衣服が焦げる嫌な匂い。そして全身が痛く、熱い。だが、そこで更なる追い打ちがアリスを襲う。
――――マホトーン。
魔物の声で、その呪文の名が聞こえた。魔法封じの呪文、マホトーンだ。
視界を取り戻そうとするアリスの脳内で、そういえば魔道士はこの呪文も得意なのだったと今更ながらに思い出す。しかし、悔しさを噛みしめる暇などあるはずもない。
身動きすらもままならなくなったアリスは、完全に取り囲まれた。そして、ミランもまたアリスと分断される形になってしまう。周囲が確認できるようになったアリスに待っていたものは、全てに決着が付いた光景であった。
負けた。あまりにも当たり前すぎる結果だ。多勢に無勢という言葉の通りに。
諦めるわけにはいかない。何とかこの場からミランと一緒に逃げ、ビル達と合流する。その後で、サンタローズに身を隠す。あの村なら、ビルの部下が村人達と一緒に待っているはずだから。
それは、どうやって?
そんな、当たり前の疑問。じっくり考える余裕がないにしても、あまりにも途方もない要求である。そこまで達成できる方法など、どう考えてもあるはずもなかった。
にじり寄る魔物達。威圧されそうになるプレッシャーに、奥歯がガチガチと音を立てる。一拍遅れて、自分が恐怖を感じているのだと理解した。
「あ……」
血の気が引いてきた。全身が寒さを感じる。じわりと視界が歪む。
戦える、などと思い上がっていた結果だ。これまでの冒険の経験から、きっと今回もなんとかなるなどと勘違いをしてしまったのだ。アリスは、悔やみと共にそう思った。そして、その結果がこのザマだ。
■される。このままでは、■されてしまう。
彷徨う鎧が剣を振りかぶり。骸骨兵が槍を構え。魔道士が魔法の詠唱を始め。インスペクターが触手を動かす。
彼らがアリスに襲いかかる寸前となったその時、魔物達の様子に変化が起きる。
「アリス!」
骸骨兵と魔道士の間をかき分けるように、ミランが姿を現した。アリスの窮地に、いても立ってもいられずに飛び出してきたのだろう。
戦闘能力のないミランでは、そんな真似をすればすぐに魔物達の餌食になるだろうに、何故か彼女は五体満足のままでアリスへ駆け寄ってくる。
何故と思うアリスだが、ミランの修道服が頭から濡れそぼっているのを見て、ようやく理解した。
「ミランさん……聖水を持っていたの、ですね……」
「喋らないで」
教会で清められた聖なる水、聖水。周囲に振りまくことで弱い魔物を遠ざける効果を持つ。そして魔の心を持つ者が触れると、微弱ながらもダメージを与えることが出来る。
しかし、それはあくまでも弱い魔物にしか効果はない。この場にいる彷徨う鎧のような魔物相手では、ほんの僅かだけ怯ませる程度だろう。
「あ、あ……に、逃げ」
案の定、魔物達はすぐにミランを追うようにして襲いかかってくる。構わずに回復魔法を使おうとしたミランに、逃げてと言おうとしたアリス。
「逃げなさい!」
先に言われてしまい、その言葉を最後まで言うことはできなかった。
最早、進退窮まったと悟ったミランは、アリスの火傷や怪我を負っている身体を掴み、何かを押しつけてくる。アリスはつい、その赤ん坊のような大きさの何かを強く受け止めてしまった。
その状態のまま、後方へ突き飛ばされる。いや、全身の力を使って押し出したのだ。一瞬何をされたかが理解できなかったアリスは、突如の浮遊感の直後に落下していく。
アリスは、割れた大きなガラスの穴から突き落とされたのだ。彼女を庇うため、ミランが逃がしてくれた。
全身の激痛など気にもならない。自分がさっきまでいたラインハットの客間に、無意識に手を伸ばした。
戻らなければ。守らなければ。そんな焦燥とは裏腹に、己の身体とは落下と共に遠ざかっていく。
――――ミラン、さん……!!
悲鳴のような声が、アリスの口から出る。何度もミランの名を叫びたかった。何度も、何度も。
「か、ぶっ……!」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。激しい衝撃を受けたと思った次の瞬間、彼女は呼吸すらままならない空間に叩きつけられたのだ。受け身を取ることもままならなかったものの、背中の痛みだけは思っていたほどではなかった。
四肢の動きが重い。息をしようとすると、ゴポリと気泡が口から出てくる。ここは――――水の中だ。
このままでは溺れてしまう。水の流れに四苦八苦しながらも、どうにか水面に向かって泳ぐ。傷に水が入り込むせいで余計に全身が痛むが、溺れてしまえばそうも言ってはいられない。
プハ、と少女の首が水面に姿を見せた。酸素を吸いながらも、周囲を見回す。どうやら、自分はラインハットの城を大きく囲む堀の水に落ちたらしい。河から入り込んでくる堀の水は、城の生活水として利用しているとビルから聞いた覚えがあった。
アリスは、ここで自分が手に持っている物を確認できた。これは――――道具袋だ。自分達がサンタローズを出るとき、旅に必要な私物や道具を入れておいたものだ。
簡易ながらもマジックアイテムとして一般的にも普及されており、見た目に反してかなりの物を入れることが出来る。そのため、遠征をする国の兵士や旅をする者の間では必需品なのである。
咳き込みながらも、アリスは堀の壁に敷き詰められている岩にしがみつくと、大きくそびえ立つラインハットの城を見上げる。正確には、ミランがいるであろうあの部屋を。
――――戻らなければ。ミランを、助けに行かなくては。
周囲を見回すが、この深い堀の上に上がれる場所は見当たらなかった。水の流れに逆らっていけば、もしかしたら城内へ出入りする専用の道もあるのかもしれない。いや、あるはずだ。生活水だというのなら、少なくとも日頃から使用人が水を汲むために使うはずだ。
アリスはこう見えて、泳ぎが得意である。身体の怪我を治せば、もしかしたらこの城を一周することも出来たかもしれない。だが、今はこうしているだけで全身の激痛が体力を奪っていく。まして、今は骸骨兵から毒を受けているのだ。
「ゴホ、ケホッ……はあ、はあ……」
刻一刻と奪われていく体力。目の前が濁り始めてきた。悩んでいる暇はない。
休まなければ。どこかで身を隠し、動けるように体力を回復させなければ。
呪文封じであるマホトーンの効果は、生涯続くわけではない。持って、あと2分もないはずだ。それさえ過ぎれば、ホイミもキアリーも使えるようになるだろう。
いや、その前にこの道具袋がある。ミランがあの状況で渡してくれた、今やアリスにとって命綱同然の道具袋。どこか人気のない場所を探して、中身を確認しよう。きっと、薬草や毒消し草も入っているはずだ。それまでは、できる限り動いてはいけない……
そう、何度も自分に言い聞かせる。涙が浮かぶほどに悔しかった。今すぐに慕う先輩を助けに行けない事が。
泣くな。アリスは自分を叱責する。そう思おうとしても、不安の声は次から次へと産まれてくる。
ミランは無事か。これからどうなってしまうのか。良くしてくれたビル隊長達は。サンタローズの皆だって、これからどうなるか分からない。
「おい、さっきの音はなんだ!」
「2階の客室からだ。ただ事ではないぞ!!」
やがて、ドカドカと音が聞こえた。堀を越える跳ね橋に、多くの兵士達が通り過ぎていったのだ。アリスは一瞬だけ助けを求めようとしたが、その声は辛うじて堪えることが出来た。
「……っ」
今やアリスにとって、城の兵士達は得体の知れない誰かとしか思えなかったからだ。あれだけの魔物が取り囲んできたということは、他にも兵士に化けている魔物がいるのかもしれない。
何より、言ったところで素直に信じてくれるだろうか。この国の将軍が魔物に化けていました。王妃が魔物を雇っています。あなたの隣にいる兵士も、もしかしたら魔物が化けているのかもしれません、などとは。
見つかるわけにはいかなかった。どうにか震える手で掴んでいた岩を手放し、水の流れを利用しながら移動する。取り出し口をしっかりと閉めている道具袋を丸太代わりに利用して、どうにか労力を最小限に抑えた。跳ね橋の下にいれば、上から見つかることはないはずだ。
「……あ、あれ?」
そこを見つけたのは偶然だった。跳ね橋の真下に、堀が大きな穴を開けていたのだ。T字路のような形で人工的に作られたことが分かるその洞窟のような何かは、人目に付かないようにどんよりと暗い影を落としている。
こんな所に、水路が……?
疑問に思うアリスだが、彼女とて城の造りというものをそれほど理解しているわけではない。このように人目に付かないところにあるということは、もしや何か意味のある隠し通路なのだろうか。
どちらにせよ、このまま人目にさらされるまで流れていくつもりはない。アリスは意を決して、光の届かない水路の方へと身を任せることにした。
「ええいっ、不甲斐ない! お前達のためにどれだけの金を払ったと思っておるのじゃ!!」
激しい罵倒にも、彷徨う鎧は玉座の広間の階下で頭を下げて項垂れている。
「たかだか小娘1人を始末するのに、ほぼ半数以上の数を使いおって! しかもまんまと逃がしてしまうなどとは、情けないぞ無駄飯ぐらいの傭兵め!!」
侮蔑の視線で見下ろしながらも、王妃は叱責の声を止めることはない。元々感情的な一面を持っているが、今の王妃は明らかに常軌を逸している。つい数週間前までの王妃を知っている者ならば、明らかに人が変わったと思うだろう。だが、あいにくとそんな人間は今、この場にはいなかった。
アリスが壊れた窓から逃がされた時点で、彷徨う鎧は雇い主である王妃にこれまでの経緯を報告する役目を受けるハメになった。元々アルダンに取って代わっていた事もあり、彷徨う鎧は気が進まないながらもこれまでの経緯を洗いざらい話したのだ。
当然ながら、王妃の反応は上記の通りである。誰が雇われ者の失態を、面白く聞き届ける主がいるというのか。
「恐れながら、王妃様。あの小娘は子供ながらに腕の立つ相手でした……まさか初歩とはいえ、爆裂呪文まで使うなどとは思いもせず……」
「それは貴様らが油断をしたことが原因ではないかっ!」
彷徨う鎧の苦し紛れの弁明にも、王妃は切って捨てる。続けて、苛立ちを隠さないまま話の続きを問いただした。
「して、お主よ。当然、追っ手は差し向けたのであろうな。そして、小娘を逃がしたシスターの始末は見届けたか」
「はっ。今頃はあの者達が滞りなく指示を出しているはずです。あの小娘も相当な手傷を負っておりますので、始末するのは時間の問題かと」
「愚か者め。だから貴様は甘いというのだ!」
これで少しは機嫌を直してくれるかもという淡い期待を、王妃は吐き捨てるようにして否定した。
「そのように他人任せな期待は捨てよ。妾は、反抗的な異分子というものが一番腹立たしいのだ」
「はっ。失礼致しました!」
「……む。いや、待て」
そこで、初めて王妃は何かを思い出したように笑みを浮かべた。ただし、それは残酷に小動物をいたぶる事を楽しむ意味で、だが。
「そうか……どうせなら、試してしまおうか」
試す。そう、試すのだ。
その小娘を使って。
「く、くく。クハハハハ!」
嗤ってしまう。そうとも。何を苛立っていたというのか、己は。
王妃は思う。そこまで小生意気な小娘が、まるで下品な野鼠のように我が城で狼藉を働いているというのなら、むしろ役立ててしまえ。
「よいぞ。よくぞ報告してくれた」
「は、ははっ!」
彷徨う鎧には、王妃の態度が急変した理由が分からない。だが、それを問いただすことはしなかった。彼にとって重要なことは、王妃が機嫌を直したという事実だけなのだから。誰も好き好んで叱責など受けたいはずがない。
「して、彷徨う鎧よ。その小娘は堀に落ちたと言っていたな」
「間違いございません」
「ならばこそ、放置しておけば“アレ”を見つけることは必然。抜かるでないぞ」
水路の先は、地下聖堂に通じていた。
意外にも明かりは奥の壁に魔法の篝火が設置してあり、周囲を見渡せる程度の光源が存在している。反面、空気は埃が漂っているせいもあって、陰湿な雰囲気を醸し出している。おおよそ、聖堂がある場所としては相応しくないとも言えた。
おそらくは、元々聖堂があるこの場所にラインハット城が建てられたのだろう。人が長い間出入りしていない事が一目瞭然であることから、今は誰も聖堂としての役目を果たしてはいないのだ。
仮にも聖職者であるアリスからすればなんとも寂しい話なのだが、今はその事実に感謝だ。人目のない場所なら、身を隠すにはうってつけである。
弱っている身体を苦労して動かし、水浸しになっている全身のまま埃の被ったタイルへ這い上がる。普段ならどうということのない作業だが、今のアリスには困難を極めた。
聖堂の冷たい壁に寄りかかると、大きく息をついた。シンと静まりかえった沈黙の中、水の流れる音だけが時間の経過を感じさせる。
きっとこの場が現役の頃は、当時の宗教家や政治家などが聖壇の前で高々と演説を行っていたのだろう。数百人ほど人が入れそうなこの聖堂では、さぞ信者や聴衆人が足を踏み入れていたに違いない。
ここなら、一息つけそうだ。アリスは濡れている道具袋の紐を解き、中身を確認した。
――――薬草が3枚。毒消し草が2枚。聖水が2本。
回復薬と解毒薬があったことに、アリスはとりあえずホッとする。早速使うことにした。簡単な手順で薬にして、飲み干した。
「は、あ・・・・・・」
身体を蝕んでいた毒が消え、傷ついていた身体や体力が回復していく感覚が分かる。あっという間に効果が出るところが、世界の人々に愛用されている所以なのだ。
おかげで、戦いによって焦げついて切り裂かれてしまった修道服以外は、全て本来の潤った肌に戻っている。
とりあえず体調だけは戻った事に安堵した。後は、他に何か入っていないだろうかと道具袋を探ってみる。武器は無いだろうか。
――――いくつかのパンや、非常食用の果物。それを切る目的で入れておいた果物ナイフ。そして、この大陸が記されている地図。数日分の下着や予備の修道服と衣類。
「これだけ、ですか・・・・・・」
文句を言っても仕方が無いのだが、アリスはそう独り言を呟かずにはいられなかった。とはいえ、無いよりはマシだと果物ナイフを使おうと決めた。
続けて、アリスは胸元に手をかけた。ずぶ濡れとなって幼い柔肌に張り付いている修道服を脱ぎ始めたのだ。衣服の上からでもスリップやパンティのラインが浮き出ているほどに、水が染みこんでしまっている。
身体を冷やしてしまえば、体温だけではなくて体力も奪われてしまうし、何より重い。脱ぐというよりは剥がすような手つきでアリスは下着姿になった。7歳の幼女の未成熟な肢体から、純白の下着が覆い隠しているはずの大事な部分を浮き上がらせる。
もし、この場にアルカパの悪戯少年達がいれば、目を皿のように見開いて鼻血の一筋もたらしていたのかもしれない。だが、あいにくと彼らはこの場にはいなかった。
両手で絞ると、大量の水が床に落ちる。それだけでも若干手に持っている重さが軽くなった。
「……」
少しだけ考え、どうせ誰も見ていないのだからと、スリップとパンティも脱いで一糸纏わぬ裸になった。絵画から出てきたかのような幼い裸身を惜しげもなく晒したまま、同じように下着を絞ると、やはり大量の水が床に落ちる。
湿り気のある下着やボロボロの修道服を道具袋に入れ、予備として入れてあった下着を身につけ、新しい修道服に袖を通す。身体は冷たいままであったが、衣服を着替えることが出来ただけでもホッとした。
毒も怪我も、アリスの身体からは消えている。だが、いま彼女の心にあるものは安堵ではなかった。
誰もいない。何処とも分からない聖堂の中、たった1人。
レヌール城での戦いを乗り越えて、克服したと思っていた自分の臆病さ。暗闇への恐怖。
今、この聖堂に存在している空間は、あの時と同じ恐怖を再び呼び起こしていた。
ガタガタと、小さな身体が震える。
カチカチという歯の当たる音が、脳髄の中に響く。
シスターの少女は知らず、周囲を見渡した。明かりはごく僅か。かつてあったはずの繁栄の名残が作り上げた、誰も来るはずのない聖堂。
アリスは声もあげずに歩き出した。何処か、通路のようなものが無いか探さなければならない。
今から水路を引き返して外に出ようかとも思ったが、すぐにそれをする気にはならなかった。そろそろ魔物達が自分を追って、ここを発見するかもしれないからだ。狭い堀の中、しかも水に流されながら戦うなどごめんである。だが、いよいよとなったらそうなる事も覚悟しておかなければならなかったが。
壁づたいに聖堂を一回りするが、それらしいものは見当たらなかった。落胆を覚えかけるが、まだ諦めるのは早いと気を取り直す。
今度は、中央へ足を運ぶ。そこには演壇が設置されており、それを囲うように4本のヒビ割れた柱が連なっていた。
「……?」
演壇に上がるための小さな階段の先には、どういうわけか足元に不自然な突起のようなものが存在していた。下手に触れるのはどうかと思ったが、アリスは思い切って突起を押す。
「な、何がっ!?」
途端、鈍い音がして奥側の壁の一部が天井に吸い込まれていく。なんと、これは奥の入り口を開くためのスイッチだったのだ。思わぬ仕掛けにしばし呆気にとられていたアリスだが、これで奥へいけるという事実が我に返させる。
――――もしかして、この聖堂は偽装……だったのでしょうか?
あり得る話だ。この地下は、元々がいざという時の非常用の通路の目的で作られているということなのだろう。同時に侵入者が簡単に内部へ入られないように、時のラインハット王がこんな手の込んだ仕掛けを用意した、と。
思わぬ発見と一国の歴史の掘り下げられた側面を目の当たりにしてしまったが、今の少女には何の感慨も湧かない。普段の彼女ならば、図らずも歴史が掘り下げられた発見に感動を覚えるはずだった。
しかし、こんな状況では。少女はただ、そういう事だったんですかと納得するだけ。
少女の中にあるのは、今どうなっているのか分からない先輩の安否。そして、ラインハットまで思いを共にしてくれた優しい兵士達。あの自然に囲まれた村人と、その中で暮らしていた幼馴染み一家の名誉のため。
あまり長居をしていたくはない。背後から追ってくるかもしれない魔物が心配だ。アリスは開いた入り口の奥へと進む。
いや、進もうとした。立ち止まってしまったのだ。
――――後ろがガラ空きだぞ、小娘。
冷たく、野太い声。振り向こうとした幼い修道女を嘲るその声を最後に、頭が割れるかのような衝撃を受けた。
「あ」
瞬間、目の前が真っ暗になった。足元が消えてなくなっていく感覚。
身体が全く動かない。糸の切れたマリオネットのように冷たい床に倒れ込んだ衝撃も、全く知覚できなかった。
こうして、アリスの意識は途絶えた。
カチャリ。そんな固い音が耳に届いた時、シスター・リディアは我に返る。
どうやら、少しだけぼうっとしていたらしい。体力はある方だと思っていたが、疲れが無意識の中で溜まっている証拠だ。今夜は少しだけ早めに休んだ用が良いのかもしれない。
「大丈夫ですか、シスター・リディア」
案の定、司祭であるヴェラから声がかかる。日課である清掃の手際が悪くなるなど、彼女らしくなかったからだ。
「いえ、申し訳ありません。集中力を欠いてしまいました」
無理をなさらずと咎める声に、リディアは大丈夫ですと返した。手に持っている箒を動かし、清掃を続ける。
修道院は、この日も忙しかった。継続的活動である祈りや学び、そして鍛錬。食料栽培や裁縫。さらに入信希望者や花嫁修業に対する講師役。言葉にすれば、疲れが出るというのも当然だろう。
今もなお、礼拝堂の掃除は数人規模で行っている。他の者は個室や外を担当していた。
「ヴェラ司祭。今日の予定は2件でしたね」
「はい。シスターが孤児を3名ほど引き取ってくると。何でも、旅の途中で魔物に両親を奪われたとか。本当にお気の毒です」
ヴェラが痛ましそうに言う。彼女はかなりの高齢ではあるものの、若い頃はシスターの鏡とも呼ばれていたほどの瀟洒な聖職者であった。先代の司祭にその才能を見込まれ、今ではその跡継ぎとして修道院の長を担っている人物である。
「魔物の活発化は、どの国にとっても悩みの種でしょう。私がまだ幼かった頃は、今よりも気軽に外を歩けていたのですが」
リディアもまた、昨今の魔物の活発化には思うところがあった。魔物との争いが後を絶たなくなり、こうして親を失った子供も年々増えているのだから。
「あら、これは」
礼拝堂の隅に設置している机を雑巾で丁寧に拭いていたリディアは、その隅に小型の絵画立てがうつ伏せになっている事に気付いた。どうやら、さっきの音はこれが倒れたせいらしい。
そっと正面に戻すと、飾られている絵が見えた。その絵は、彼女もよく知っている絵である。
「おやおや。そういえばこちらの机に飾ってありましたね。懐かしいものです」
ヴェラもリディアの横で目を細める。その繊細な絵には、シスター達が並んでいる姿が描かれているからだ。
そこいらの本と同じサイズで描かれている絵画。その中には、今とそれほど変わらないヴェラやリディア、その当時に修道院で働いていたシスター達が描かれていた。
暖かいタッチで描かれた、当時の修道院の同僚や仲間達。確か、何年か前に院を卒業した者が画家を目指すようになり、その仕事始めとして描き上げたものである。今でも、どこかの町で元気にやっているだろうか。
そして、絵画の中でリディアの前に立っているのは、背丈が彼女の腰回りまでしか無い1人の小柄な少女。大事そうに抱えている物はぬいぐるみではなく、聖職者の心構えが記されている聖書。
そんな少女の肩に、後ろからリディアの両手が優しく置かれている。この姿だけでも、彼女がどれだけアリスという少女を大切に思っているのかが理解できるだろう。
「アリスは、この頃から勉強を始めていたのでしたね」
懐かしさと共にリディアは言った。ヴェラも同じ気持ちで過去を回想しながら頷く。
「ええ。あの子は他のどの子よりも物覚えが早かったですからね。当時の教育者から、神童と呼ばれた事もあるほどでした」
「まだ7歳ですから見習いのままですけれども、あの子ならば既に一人前と呼んで差し支えないほどでしょう」
ただ、とリディアは苦笑いを浮かべる。
「村の男の子を助けるためとはいえ、洞窟に1人で入ってしまったと知った時は、正直なところ複雑な気持ちになりましたが」
当時、サンタローズから修道院へ送られてきた手紙に記されている内容を見て、彼女らは頭を抱えたものだった。
「・・・・・・まあ、その辺りの教育に関してはグレン神父も色々と気にかけているご様子。あの子はあの子らしく、立派に育ってくれることを神に祈りましょう」
リディアの言葉に、ヴェラは目を閉じる。
「そう、ですね。思えば、あの子も大きくなったものです――――あの時から」
ふと、脳裏が過去の情景を思い起こさせた。思えば、アリスとの出会いは本当に不思議なものだったのだ。
あの頃は、リディアがシスターとしての修行過程を終了する試練を受けようとしていた頃。この修道院より遙か南に位置する深い森の中にて、当時のヴェラとリディアは本当に驚いたものだった。なにしろ――――
――――誰もいない森の前、たった1人で意識を失っている赤ん坊に出会ったのだから。
周囲には親や保護者の姿など、影も形もなかった。そうなると、捨て子だろうか。疑問には答えが出ないまま、2人はその弱っている赤ん坊を拾い上げることにしたのだ。
ただの捨て子というのなら、そう珍しい話ではない。魔物が活発化し始めているこの世の中、旅人が襲われて赤ん坊だけが取り残されると言うことはよく聞く話だ。そうでなくとも、やんごとない身分の親が、やむにやまれず我が子を捨てるしかなかったという可能性もある。
だが、それにしては不自然な点もあった。赤ん坊の身はタオルでくるまれており、今でこそ薄汚れてこそいるものの、元々は上質な素材で出来ていたのである。つまり、ある程度裕福な家の生まれという事。
なにより、その森は人里とはかなり離れた場所なのだ。旅の人間とて用もなくこんな場所へはまず近づかない。いくら親が人目に付かぬ場所に赤ん坊を捨てたがっていたとしても、危険を冒してまでこんな場所を選ぶだろうか。
さらに、この近辺は到底赤ん坊が生きていける場所ではない。間違いなく、この子は捨てられてそれほど間がない筈なのだ。
そして、ヴェラやリディアは少なくともここを通りがかるまで、誰にも会った覚えはない。この子の事を捨てた誰かと、すれ違っていてもおかしくはないのに。
そんな現実の不自然さも。その時に覚えていた違和感も。
成長していく赤ん坊と共に時を過ごしていくうちに、僅かずつ薄らいでいった。
残っている事実は、あの子が誰よりも懸命に生きて。ヴェラやリディアに感謝の気持ちを向けながら神に仕えている事。
アリスという名前は、実を言うとヴェラを始めとした修道院の者達がつけた名前というわけではない。当時、彼女をくるんでいるタオルに、名前が縫われていたからだ。
どういうわけか、その名前はかなり解れていたものの、辛うじて文字だけは読むことが出来た。アリス、と。
身の回りの物に名前を縫ってもらうほど、このアリスという少女は愛おしく思われていたということなのだろう。つまり、よほどの事情が御両親に降りかかっていたに違いないと、修道院の者達はそう信じることにした。
そして、今。修道院は、今日も穏やかな朝日に照らされたまま毎日を過ごす。磨かれた窓から漏れる日差しは、今日も修道女達を優しく照らしていた。
「さあ、シスター・リディア。清掃の続きをしましょうか」
「はい、ヴェラ司祭」
過去へ振り返る時間を切り上げ、彼女達はそれぞれの仕事へと取りかかっていった。
遠い大陸で、その件の少女が命の危機に瀕していることなど知りもしないまま。
意識を失っていたのは、せいぜい数分程度だったらしい。
気がつけばアリスは、仰向けで胸ぐらを捕まれたまま、どこかへと引きずられているようであった。
誰に? 言うまでもない。自分の頭を殴った誰かだ。
苦労して首を反らすと、自分を掴んでいる相手の姿が目に映った。そして、ここは何処なのかを理解する。
記憶にある女性。何がそんなに可笑しいのか、品の良い美貌を今はイヤらしく歪めている王妃の顔。そう、王妃だ。
そして、今連行されている場所は城内の通路。小部屋のように本棚が並んでいる場所を素通りし、壁に埋まっている扉に手をかける王妃。
ここは、城の何処に位置するのだろうか。王妃は、何処へ向かっているのか。
――――私は、どうなってしまうのでしょうか。
何もかもが理解できないまま、アリスは不安と恐怖を覚える。自分の意識が戻ったことは王妃とて気づいているはずなのだが、どういうわけか彼女の足は止まらない。まるで、そんな事はどうでも良いと言っているかのように。
「う、ぐ・・・・・・!」
抵抗しようにも、アリスの両腕は動かない。今になって知ったのだが、少女の手首はロープで強く縛られている。気を失っている間に拘束されてしまったのだ。
扉の奥に連れ込まれる。そこで、王妃はようやくアリスから手を離した。離した、というよりは部屋の奥へ放り投げられたといった方が正しいが。
「もう起きたのか。将来は有望だったな、小娘」
「ぐっ!」
美しい顔に合わず、低い声でアリスを嘲る。少女の喉を片手で掴み、足が床に付かないように持ち上げた。
そのまま、日の光が当たらない部屋のさらに奥へ。数歩ほど進んだ先に、ボンヤリと光る何かが足元に輝いているのが分かる。
アリスも、知識としては知っていた。これは――――旅の扉と呼ばれている空間だ。
世界のいくつかに、何らかの理由で空間が歪んでいる箇所が存在しているのだという。足を踏み入れれば、特定の土地へ瞬間的に移動することが出来るのだ。
だが、何故王妃は自分をこんな場所に?
この旅の扉で、自分を何処へ行かせようというのか。
苦しげに首を絞められたまま、アリスは必死に思考を働かせようとする。その答えは、王妃自身の口から語られた。
「お似合いだな、小娘。まずは褒めてやる。人間の小娘風情が、よくもまあ頑張ったと言いたいところだ。俺の部下にも手傷を負わせるとは。だが、死に急いだだけだったな」
「うあ・・・・・・」
人間。そして、俺。確かに王妃はそう言った。つまり、この王妃も人間ではなく、あのアルダン将軍と同じ・・・・・・
王妃もまた、自分の失言に気づいて苦笑いをする。
「おっと、つい口が滑ったか。まあ、今更どうでも良いことだ」
ニヤリ、と口を三日月のように変える。全身が一瞬だけぼやけたと思った瞬間、王妃は全く変わり果てた姿へと変貌した。
アリスと同じ程度の背丈だが、大きな楕円形の頭部が不気味さを醸し出していた。口元は裂け、常に不気味に微笑んでいる顔である。
アリスはかつて、魔物に関する図鑑に目を通したことがある。世の中にはエンプーサという、魔力を込めた奇妙な踊りを使って人間達を翻弄する種族がいるのだという。目の前の魔物は、まさにそれと特徴がそっくりであった。
だが、すくなくともこの王妃に化けていた名も知らぬ魔物は、そこいらの魔物とは明らかに凄みが違っていた。それこそ、国を支配してしまえそうな力強さと禍々しさを感じる。
「そうだ。俺も、正真正銘の魔物さ。気づくのが遅すぎたな。ふん、どうせ貴様も末路だからな、土産として教えてやるとしよう」
さて、と魔物は世間話でもするかのように大きな口を開く。
「この旅の扉は、元々この城が管理しているモノだ。だが、俺はこの度の扉にちょいと細工をすることを思いついた。俺は元々魔道を研究することが趣味でな、人間が古来より失っている魔法をよく調べあげていたものだ」
アリスの首を絞める力には一切の加減がないまま、魔物の話を続ける。息をすることもままならないアリスだが、今は黙って魔物の話を必死に記憶するしか術がない。
「その過程で、俺はひとつの魔法を解析することに成功した。その魔法の術式を旅の扉に刻み込むことで、入った者をその魔法の餌食にする空間を造ることに成功したのだ」
魔法の餌食。つまり、この旅の扉は特定の場所へ移動する通路などでは断じてないという事。
その魔法とは、一体・・・・・・?
「バシルーラだ」
バシルーラ。聞いたことのない魔法だ。少なくとも、アリスの持つ知識の中にはない名前である。
その反応を予想していたのか、魔物はさらに話を続ける。
「知らないのは当たり前だな。これは――――相手を遙か彼方の土地へと消し去る呪文だ」
瞬間追放呪文、バシルーラ。そんな呪文が、遙か古代に存在していたというのか。こんな状況でなければ、思わず聞き入っていたに違いない。
「・・・・・・ふん。まあ、おしゃべりが過ぎたな」
そこで、魔物は話を切り上げた。これ以上は、流石に話をする気は無いらしい。ただ、最後通達のように告げる。
「光栄に思え。お前はその実験台に見込まれたぞ」
指先が皮膚に、幼い肉に食い込んでいく。最早、呻き声すら出ない。
「――――――――」
そして、抵抗が消えていった。痙攣する四肢は、少女が意識を失いかけていることの証明。
魔物は、つまらない玩具を捨てるように手を離す。少女は河に投棄されるゴミのように、旅の扉へ姿を消していった。
悲鳴はない。それを発するべき少女は、文字通りこの世から消えていたのだから。
そして、同じ頃。
修道院にて、あるシスターが気づいた。
彼女の視線の先にあるのは、礼拝堂の隅に設置してある机の上。
そこには、現在は画家になっている卒業生が残した、一枚の絵画。当時の修道院で働いているシスターが1人残らず描かれている。
「なに、これ・・・・・・?」
シスターは、眉根を寄せてその絵画を見つめた。
後ろからリディアの手が触れているはずの少女の姿は、元から何も無かったかのように消えていたのだ。
つづく