DRAGON QUEST Ⅴ ――聖女の足跡――   作:玖堂

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滅びを越えて……

 

 

 

 

 大きなベッドの上。大きな部屋にある、ひとつのベッド。

 

 その上に1人の女性が身を預けている。

 

 一目見て、素直に綺麗な人だと思えた。上品で整っている顔が、今は酷く疲れている。

 

 しかし、それでも彼女は笑顔を保っていた。これだけ疲弊しているというのに、それ以上の喜びが彼女を満たしているのだ。

 

 別の女性が近寄ってくる。その人は女性と同じように嬉しさに涙を流していた。そして、また別の女性も。

 

 よかった。おめでとうございます。

 

 口々に、疲れ切っている女性へかけられる、お祝いの喜びの言葉。女性は、そんな声をやんわりと受け取っていく。

 

 そこへ、始めに近寄った女性が、急いで部屋の扉を開け、慌ただしくその奥へ走っていく。

 

 すぐに、1人の男性が部屋の中へと入ってくる。その人は女性と同じくらいか、それ以上に喜びを溢れさせた笑顔で、こちらへと近寄ってきた。

 

 勇ましくも、優しそうな男性。その人は――――をそっと壊れそうな宝物のように抱える。そのまま、女性へ向き直った。

 

 でかしたぞ、と。女性もまた答える。――――のためです、と。

 

 この瞬間こそ、この2人が人生において最も幸福な時間だったのだ。

 

 

 

 

 ――――奇妙な夢の中をくぐり抜けて、アリスは気を失っていた状態から目を覚ました。

 

 倒れていた状態のまま、僅かに砂埃を吸ってしまったことで軽く咳き込む。いや、さっきまで気を失うほどの握力で首を絞められていたせいかもしれない。

 

 身体がいうことを聞かなかった。頭もクラクラする。

 

 手を口に当てようとすると、腕が拘束されていることに気づく。遅れて、両の手首を縄でしっかりと縛られていた事を思い出した。これでは動かないのも当たり前である。

 

「ここ、は・・・・・・?」

 

 どうにか息を整えると、まだ冷め切っていない意識のまま、アリスは周囲を見渡す。

 

 少なくとも、この場には誰かの気配はない。あの魔物も、どういうわけか姿を消していた。

 

 日の光が届かない、小さな暗室。部屋の向こうへと続く扉があるものの、今は全開のまま。奥へ向かう突き当たりの壁が、ここからでも見える。

 

 ――――あれ?

 

 ふと、奇妙なことに気づいた。あの王妃に姿を変えていた魔物に連れ込まれた時、部屋は扉が締め切ったままでも、僅かに明るかったはずだ。そう。あの旅の扉が光源になっていたから・・・・・・

 

「どうして・・・・・・」

 

 そう。何故、である。先ほどまであった旅の扉は、まるで始めから何も無かったかのように消えていた。中を覗き込むと、まるで人工的に作られた四角い囲いだけが残されている。その様子は、どこか涸れきった井戸を思わせた。

 

 何故だろうか。アリスはなんとなくだが、奇妙な違和感を覚えた。何かがおかしい。何かが・・・・・・

 

「痛っ・・・・・・!」

 

 途端、頭を押さえる。少しずつ、混濁した記憶が蘇ってきた。

 

 彼女はラインハットの城へ赴き、将軍や兵士達に姿を変えていた魔物に襲われたのだ。一度は逃亡できたものの、地下の聖堂で頭を殴られた。その後は、首を絞められて――――

 

 顛末を思い出し、ハッとするアリス。いけない。こんな所にいる場合ではないのだ。

 

 ミランを助け、ビル隊長と合流しなければ!

 

 頭の痛みはそのままだが、今は回復呪文をかけている時間すら惜しかった。自分がこんな所で無様に倒れている間に、ミラン達に何が起こっているのか分かったものではないからだ。

 

 手首はともかく、腕を動かすことは出来る。足に拘束はないので、しっかりと走れる。背中に結びつけてある道具袋も、そのままだ。

 

 アリスは自分が身につけている修道服のスカートを、拘束されたままの両手で捲り上げた。7歳にして健康的なホクロひとつない脚には、ラインハットに来るまでブロンズナイフを差し込んでいたホルスターが太腿に巻かれている。

 

 今は客室で失ったナイフの代わりに、道具袋から取りだしておいた果物ナイフが仕込んである。彼女はそれを取りだし、手首から先の動きで拘束している縄を切ろうと手を動かした。

 

 楽な作業ではなかったので時間がかかりそうだと思っていたが、割と簡単に縄は切れる。僅かな開放感を覚えつつも、アリスはナイフを手にしたまま部屋を出た。

 

 突き当たりは、本棚が並んでいる大部屋。おそらくは、城の図書室か何かなのだろう。今は、呑気に本を読んでいる場合ではなかったが。

 

 斜め先にあるドアへ向かう。ここがどこかは知らないが、先ほど窓を確認した限りでは、どうやら一階の中庭に通じるようだ。

 

 この時、アリスは未だに己の身に起きた事態を、正しい意味で把握し切れてはいなかった。だから、先ほど窓から外の風景を確認した時、酷く薄暗くなって見えていたのも、単に古い窓が変色しているだけなのだと思い込んでいたのだ。

 

 そしてドアを開け、中庭へ一歩踏み出した時――――愕然として、足を止めてしまった。

 

「・・・・・・え?」

 

 一瞬、目の前の光景は何かの夢なのかと、アリスは真剣に考えた。今、視界に映る万物の全ては、薄暗い闇で覆われていたのだ。

 

 先ほどまで青だった空が、今はドンヨリとした雲に覆われている。セピア調、と言えば良いのだろうか。見える世界の全てが薄暗く染まっており、何処か禍々しさすら感じられる。

 

 さらに目に飛び込んだのは、ラインハット城の外壁。至る所のガラスが割れ、外壁にも焦げた後やヒビが入ってしまっている。まるで、何か大規模な争いがあったかのようだった。

 

 おかしい。自分の覚えているラインハットは、少なくとも軍事国家として栄えがある立派な城だったはずだ。それが何故、あたかも廃墟か何かのように様変わりしているのだ?

 

 これは、いったい・・・・・・?

 

 それとも、自分が気を失っている間に何かが起きたというのか。それが何なのかは分からないが、どうやら慎重に動くしかなさそうだ。何より、あの魔物に出会うのはよくよく考えればマズい。

 

「・・・・・・」

 

 ここに駆けてくるまでとはうって変わって、アリスは慎重に中庭へと進んでいく。いや、そこは既に中庭と言って良いものか分からなかったが。

 

 ザアザアと、僅かな風に揺られて草が鳴る。中庭の隅に数本ほど生えている老木が、何故か酷く寂しそうに見えた。

 

 一目見て、明らかに人の手入れが行き届いていない。刈り込まれた芝生ならばさぞ見栄えのよい光景になっていただろうが、今はいくつもの種類の雑草が生い茂っており、自由に背丈を伸ばしている有様だ。

 

 木々にも蔓がまとわりついており、到底一国の城の庭とは思えない。まるで、使用人が長年の間放置していたかのように。

 

 おかしな話だ。今日の朝に通りがかった時は、庭師がこの辺りを彷徨いていた筈なのに。彼らは何処へ行ってしまったのだろうか。

 

 空をもう一度見上げる。やはり、淡い灰色のように淀んでいて太陽が見えない。

 

 さらにおかしい。アリスは、心の中に妙な違和感が生まれ始めていた。ただ、それをハッキリと言葉にする事が出来ない。

 

 不安に押しつぶされそうになるが、今はとにかくミランやビルに会うのが先だ。

 

 そう。きっとあの人達は生きている。魔物に囲まれているはずのミラン達を、必ず助けてみせる。

 

 中庭から城内に入ろうとしたアリスは、とりあえず今や古ぼけた壁に成り果てた城の内壁に設置してある扉へ手をかけた。まずは、内部に入らなければならない。

 

 できるだけ音を立てないようにしたつもりだったが、随分と金具が錆びているらしい。不快な音が室内に響いてしまった。

 

 緊張しながらアリスは内部を探るものの、そこにも人の姿はなかった。ここはどうやら食堂らしい。奥には厨房や、井戸も備えられてある。

 

 だが、内部は荒れ果てていた。机や椅子が周囲に散乱しており、隅々には果物のようなものが完全に干からびて捨ててある。まるで、暴動でもあったかのようだ。

 

 シスターの少女は口元を抑えて、どうにか奥の通路へと進む。元々はドアで仕切られていたようだったのだが、内側にドアの一部らしいものが砕かれた状態でうち捨ててられている。誰かが壊したのだろうか。

 

 通路の先を出ると、目の前には上へ向かう階段があった。ここで、アリスは少しだけ安堵を覚える。この付近は、自分もビル達と一緒に通った場所だ。

 

 この階段を使った先は、謁見の間へ繋がっているはずだ。だが、今はミランと合流する方が先である。アリスはできる限り道順を思い出しながら、目的の場所へと向かう。

 

 先へ進むと、もう一つの階段があった。この上に、あの客間があるはずだ。

 

 手元には、果物ナイフ一本。直接戦うには心許ないが、魔法を主体で戦うしかない。ここに来るまでに壁に掛けられている武具を見かけたが、アレは装飾用のレプリカだとビルに教えてもらったことがある。使うことは出来ない。

 

「・・・・・・」

 

 周囲に気を配りつつ、階段を上がるアリス。ミランはまだ、無事でいるだろうか。冷静に考えれば、無事でいる可能性は低い。だが、どうしても生きているという可能性を捨てたくはなかった。

 

 ようやく客間に足を踏み入れたとき、少女は目を見開いた。

 

「ミラン・・・・・・さん」

 

 無意識に、アリスは呟いた。

 

 あの先輩であるミランの姿は・・・・・・ない。それどころか、少し前まで、ミランを取り囲んでいたはずの魔物達も、こぞって姿を消していた。

 

 それだけではない。客間もまた、見る影もなく荒らされていたのだ。先ほど戦った戦闘跡というわけではない。ベッドは壊され、城下の光景が見えるほどの大きなガラスの窓もまた、全てが粉々にされている。アリスが落ちたとき、割れたのはあくまでも一枚だったはずなのに。

 

 魔物がいないというだけならば、まだ理解できる。ミランの姿が見えないというのも、考えたくはないが・・・・・・間に合わなかったということなのだろう。

 

 理屈だけなら受け入れられる。自分自身、窓から落とされてからかなりの時間が経っていると、頭の中では分かっていたから。

 

 だが、アリスが愕然としたのはそれだけが理由ではなかった。

 

 壁にはいくつもの切り傷や、穴が開いている。どういうわけか、自分が使ったイオの焦げ跡などは全く見当たらない。

 

 勿論、あの後に何があったのかはアリスにも分からない。だが、少なくともこの客間に人の気配は何処にもないことは確かだ。

 

 アリスは油断なく壁の傷跡に近寄り、そっと指でなぞる。これは、明らかに人為的な跡だ。

 

 ちょうど、丈夫な剣や槍で切り裂けばこうなるだろう。他にも何かを叩きつけたようなヒビや、くり抜いたような拳大の穴まである。

 

 どれも、自分には見覚えのないものばかりだ。となると考えられるのは、自分が突き落とされてから、誰かが魔物達と戦ったということだろうか?

 

 思いつく人間としたら、やはりビル隊長だろうか。そう考えるのが自然なのだが、なんとなく自分にとってはしっくりとこない。考えすぎだろうか。

 

 いや、そう信じなければ。

 

 客間には、静寂だけが残っている。アリスがここに何時までも立っていたところで、何も返ってはこない。後ろ髪を引かれる思いを残しつつも、少女は階段を降りていった。

 

 そして、その後もアリスの捜索は続く。

 

 始めは周囲を警戒しながら、ゆっくりと這いずるように移動していた彼女も、今では堂々と通路を歩きながら周囲を見回している。

 

 警戒心を失ったわけではない。アリスも、何となく自分の不安に気づいていたのだ。誰でもいい。姿を見せてほしいと。

 

 城に住み込んでいる学者の部屋。第一王子であるヘンリーの私室。王族の部屋すら、アリスは足を運んだ。たとえそれで兵士に見つかったとしても、だれかに会えるならそれでもよかった。

 

 だが、どこにも人の姿はない。それどころか、どこの壁や室内にも客室のように、切り傷や砕かれたような跡が残っていたのだ。瓦礫にまみれた通路もあり、そのたびに彼女は大きく迂回しなければ場内を歩くことは叶わなかった。

 

 アリスは暗い表情のまま、屋上の通路を歩く。中庭を中心に大きく囲う構造になっているラインハット城は、屋上がそのまま開けた通路のようになっている。ここから、城下やその向こうの山々に囲まれた草原の景色まで一望できる。

 

 こんな時でなければ、いつまでも眺めていたいと素直に思えたのでしょうね。アリスはそんな諦念のような感想を頭に浮かべてしまった。

 

 どうなってしまったのか。いったい、自分が気を失っている間に何が起きたというのか。

 

 そして、この空。相変わらずの灰色の空。雨が降るわけでもなく、ただ太陽をすべて遮っているだけの空。

 

 もはや、この城には誰もいない。失意と共に、そう結論をつけるしかなかった。

 

「あ……」

 

 と、そこで少女の目に見逃せない一つの物が飛び込んだ。それは、城を囲っている堀の隅に浮かんでいる物。今まで気づかなかったが、あれは……

 

「……あんな所に」

 

 アリスは、ハッと我に返り、今来た道を引き返していく。こうしてはいられない。まだ、確認していない場所があった。

 

 

 

 

 肩で息をしながら、堀伝いに城の周囲を回ってみると、そこにはアリスが屋上で見たものが浮かんでいた。

 

 水が流れている堀に浮かぶのは、堀の端に刺さっている杭で固定されている筏(いかだ)であった。城の関係者は、普段はこの筏を使って例の地下聖堂へ行っていたのだ。ただ、普段ではめったに使わない場所なので、今でもこうして筏だけが残されているのだろう。

 

 今の今まで忘れていた。もしかしたら、あの聖堂のどこかに誰かが避難しているという可能性もある。はやる気持ちを抑えつつ、アリスは早速筏を使うことにした。

 

 そっと上に乗ると、ぐらりと揺れた。沈みはしないだろうかと思ったが、どうやら充分に使えそうだ。初めて乗った筏は、危なっかしくて緊張する。固定していたロープを外すと、筏は勢いよく流れていった。

 

 橋の下に差し掛かったところで、アリスは筏を傾ける。そのせいで少しだけ修道服が濡れてしまったが、進行方向を変えることには成功した。オールがあればもう少しうまく曲がれたのだろうが、少なくともそれらしい物は無かったので諦めていたのだ。

 

 中に入れば、相変わらず薄暗い地下の聖堂が見える。内部を照らす魔法の篝火は相変わらず燃えているので、それだけが救いであった。

 

 聖堂の床によじ登り、筏を引きずり上げる。楽な作業ではなかったが、やろうと思えばどうにかなった。

 

 アリスは記憶を頼りに、壇上のスイッチを踏む。壁の一部が開き、アリスは今度こそその先へと進んでいった。すぐに突き当りに差し掛かり、左右の二手に分かれている。

 

 左側には、色が違う壁で閉ざされていた。おそらくは、どこかにここを開けるスイッチがあるのだろう。それらしい物は見当たらないので、まずは右方向へ向かうことにする。

 

 しばらく道伝いに進むと、先には階段があった。周囲に気を配りながら登っていく。2つの分かれ道に差し掛かり、アリスはまず奥の道へと進んでいった。

 

 すぐ先には、宝箱が2つ。しかしよく見ると、その古ぼけた宝箱には何も入ってはいない。箱を開けた状態のまま、放置されているのだ。おそらくは、ずっと前に誰かが中身を持って行ってしまっているのだろう。

 

 一度引き返し、改めてもう一つの通路へ。自分の床を踏みしめる音が、静寂の中に響いて聞こえる。不気味さが際立ってくるが、今は誰かがいないだろうかという期待と不安の方が強かった。

 

「……鉄格子?」

 

 突き当りに、何か金属のような物が光った。一瞬遅れ、それが牢屋だという事がわかる。

 

 アリスは、心なしか早歩きで近寄る。どうやら、ここは地下牢も兼ねているらしい。という事は、囚人がいるかもしれない。

 

 もし、誰かが捕らわれていたとしたら、この状況を説明してもらおう。相手がどんな凶悪犯だろうと、今のアリスには会う事に躊躇いなどなかった。

 

 だが、そんな淡い期待は瞬く間に海の藻屑となる。

 

 いくつもの牢屋が並んでいるそこは、すでに生きている人間などいなかった。確かに人間らしいものは存在している。だが、それは白骨という形であったのだ。

 

 もはや、腐敗臭すらもとうに無い、完全に風化した亡骸である。身に着けている物はほぼぼろ布に変わっていた。アリスとて葬儀では何度か見たことのある人骨。単なる屍であった。

 

「そんな……」

 

 人間だったころの名残でしかない、地下牢の世界。すべての牢屋を見て回ったが、どれも例外なくいくつもの白骨が固まって纏められてあるだけ。

 

 ここは、もはや地下牢のすべてを使った納骨堂に過ぎなかったのだ。

 

「ああ……神よ……」

 

 いったい、ここで何人の人間が苦しみ続けたことだろう。どれほどの者が、だれにも看取られることなくこの世を去ったのだろうか。それを思えば、アリスは涙を流さずにはいられない。

 

 どうか、安らかに。誰もが平等に、神の下へ誘われんことを……

 

 亡くなった者達の痛みを思い、シスター・アリスは祈りのために指を組む。鎮魂の言葉をささげる姿は、まさに一人の聖職者であった。

 

 弔いの言葉を終え、アリスは涙を拭いてその先を行く。そうだとも。何を弱気になっているのか。いま、ここには自分など比べ物にならないほど迷い、傷つき、この世を去ってしまった者達が眠っているというのに。

 

 あの亡骸の者達の魂に、背中を押された気がしたのだ。私たちはもう駄目だ。しかし、君は生きるのだぞ、と。

 

 先ほどまで、不安に怯え切っていた心はもう無い。シスター・アリスとはそういう少女なのだから。

 

 曲がり角の先に、もう一つの牢屋があった。そっと中を確認すると、やはりそこにも白骨が一組。

 

 この亡骸は、どういうわけか他の者達とは違ってドレスを身に着けていた。今でこそ色褪せてはいるものの、生前はかなり上質なものだったのだろう。

 

 これだけ身分の高い人間でも、罪を犯せば牢獄に入れられてしまうものなのだろうか。それとも、何か事情があってここに隠れていたのだろうか。

 

 どちらにせよ、アリスにできるのは祈る事。せめて、神の下では心穏やかに過ごせるように。

 

 時が過ぎた後、シスターの少女は先にある階段を上っていく。その先は直進で、再び上り階段があった。

 

「……これは」

 

 ふと、その階段の近くに足元のスイッチらしいものを見つける。何のスイッチなのかは予想がついていたので、特に触れることなく階段を上った。

 

 階段の先は、何か木の板のようなもので塞がれている。アリスは取っ手をつかみ、力を込めて押し上げた。

 

 顔を出すと、そこはラインハットの中庭だ。隅の、ごく目立たない箇所に通じていたのだ。

 

 中庭へと身を出し、周囲を見回す。やはり、このラインハットには誰もいないようだった。

 

 やはり、どう考えても答えは出そうになかった。なぜ、突如として誰もいなくなってしまったのか。なぜ、自分一人だけが残されているのか。

 

 アリスは思う。もう、ここにいても分かる事は無さそうだった。この分では、ミランやビルもここから姿を消しているに違いない。

 

 もしくは、あの地下の牢獄の中に混じってしまって……

 

 頭を振る。それは考えてはいけない事だ。だが、実際問題としてこれ以上ラインハットにいる意味は無い。

 

 一度、この城を離れよう。今度は、城下町を中心に探してみるしかない。

 

 そう考えながら、アリスはもう一度食堂の方へ足を運ぶ。あそこからなら出口に向かうことができるだろう。

 

 だが、その足は途中で動かなくなった。何か、硬いものに足首が固定されたのだ。

 

「痛っ……!」

 

 思わず、受け身も取れずに前のめりに転んでしまう。草むらの中にへたり込むアリスは、何事かと自分の右足に視線を向けた。

 

 ――――そこで、息をのむ。

 

 少女の白い足は、掴まれていたのだ。草が生い茂る土から這い出てきた、5本の指を持つ手によって。

 

 人間の腕。そうアリスが認識すると同時に、勢いよくその手の主が土から盛り上がって姿を現したのだ。

 

 かつて人間だったもの。まだ肉体がありながらも、腐敗したまま魔族として蘇った遺体。生前は人の良さそうな青年だったものは、今や片目や歯を失い、残った眼球をギロリとアリスに向けている。

 

 ――――魔物! 今まで、この城に隠れ潜んでいたのですか!?

 

 今まで気づけなかった。自分が城の中をうろついている間に、この魔物たちはこっそりと息をひそめて様子を窺っていたのだ。

 

 腐った■体。ボロ布を身にまとい、かつて鍛えた筋肉を使って足を掴んだアリスを宙づりにする。まるで、天地がひっくり返るような錯覚を受けた。上下逆さまになっているせいで修道服のスカートが全開になってしまっているが、脳の腐った魔物は全く頓着することはない。

 

「きゃあっ!」

 

 下着をさらしたまま左右に振り回され、思わずアリスは悲鳴を上げる。だが、アリスもただでやられているわけではなかった。

 

 脚に巻かれてあるホルスターに手をかけ、果物ナイフを抜く。振り回されている動きを逆に利用して身をそらし、足首を掴んでいる魔物の手を切り裂いた。

 

 腐敗している肉体には、ナイフの刃が易々と食い込んだ。手首を切り離し、アリスは地面に転がる。掴まれたままの手首は、気持ち悪さを押し殺しつつも、しっかりと剝がして捨てる。

 

 あらわになっていた純白のパンティをスカートで隠し、アリスは立ち上がった。それでも、状況は好転したわけではない。

 

 腐った■体は、次々と中庭の土という土から湧き出てきた。低いうめき声をあげながら、アリスを取り囲むように近寄ってくる。本能のままに、生者の肉を求めているのだ。

 

 アリスは、わずかに後ずさりをする。こんな数の魔物など、まともに相手などしてはいられない。

 

 瞬間、アリスはハッと悟る。勢いよく振り返ると、今まさに腐った■体が腕をアリスに振り下ろす瞬間だったのだ。

 

 ――――後ろ!

 

 振り向きざまに、アリスは呪文を放った。氷の刃は腐った死体を貫通し、そのまま壁に突き刺さった。それを皮切りに、幾体もの魔物たちがアリスへと飛び掛かってくる。

 

 シスターの少女は、初めからまともに戦う気などなかった。一人で不特定多数を同時に戦うのは愚の骨頂であると、少女は実体験から学んでいるからだ。

 

 飛び込むように、アリスは地下の通路へ通じる階段へ身を隠す。追おうとする魔物たちだが、少女が間一髪で出口を隠す板を閉めたことで、それもできなくなる。

 

 それでも、少女には安堵の息をついている暇などない。進んできた方角から、さらに幾多もの邪悪な気配や足音が迫ってきているからだ。

 

 見覚えのある魔導士やインスペクター。

 

 硬い甲羅に守られた、亀の魔物であるガメゴン。

 

 鋭い爪と嘴を武器にする怪鳥であるクックルー。

 

 アリスは階段を降り切ったフロアにあるスイッチを躊躇いなく踏む。重い音を立てて、壁の一部が下がった。

 

 その先は、聖堂の出入り口へと続く通路。この仕掛け扉は、やはりここに通じていたのだ。

 

 床を蹴り、全力で駆ける。向かいの通路からも魔物たちが押し寄せてきたが、こちらの方が早い。聖堂の壇上を迂回し、筏を水路に落とす。

 

 飛び乗ると同時に、追ってきた魔物の群れが聖堂へ押し寄せてきた。焦る気持ちを抑えつつ、アリスは水路の壁を蹴って出口へと向かっていく。

 

 橋の下へ出ると、そのまま筏は水の流れに沿って流されていく。アリスは、あえてそれに逆らわなかった。今はとにかく、魔物達から距離を取らなければならないのだから。

 

 そこで。筏の上で。

 

 アリスは、世界のすべてが変わり果ててしまっていた事に、ようやく気づいた。

 

 

 

 

 ――――上空には、太陽を覆い隠すような灰色の空。そして、魔物であるベビーミュートや、その上位互換であるドラゴンキッズが飛んでいる。しかも、その数は100を下らないと分かるほど。

 

 ――――城下町には、かつて人通りであふれていた活気ある人間の代わりに、骸骨兵やフクロウに似た猛獣のアウルベアーがうろつき、彷徨う鎧や魔界からやってきた怪鳥のデスパロットもいる。

 

 ――さらには、地面からなおも生まれ続けている腐った■体に、リンゴに擬態したエビルアップル。

 

 それ以外にも、数えきれないほどの魔物がこのラインハット全土を埋め尽くしていた。

 

 ありえない。アリスの脳は、真っ先に拒否反応を示した。

 

 こんなはずはないのだ。これは、何かの夢だとでもいうのだろうか。いったい、何が起きたらこんな地獄が生まれてしまえるのか。

 

 あまりにも現実味のない光景。それを目の当たりにしてしまい、茫然自失としたアリスは筏が水路の角にたどり着いたことにも、すぐに気づけなかった。

 

 筏が堀の壁に当たった衝撃で我に返ったアリスは、のろのろと水路から城の外部へつながる平地へ上がっていく。

 

 先ほどまでは、誰でもいいから会いたいと本気で考えていた。だが、こんな地獄を見たいわけではなかった。

 

 この国に、人間はいない。こんな世界で、だれが生きていけるというのか。

 

 ■された。みんな、このすべての魔物達に■されてしまったのだ……

 

 そして、今。

 

 さっきまで姿を消していた魔物達が、こうして蘇った。いや、眠りから覚めたのだ。

 

 魔物達は、ただ獲物である人間がこの国からいなくなったから眠っていただけで。

 

 だから。

 

 アリスという獲物が新たに見つかったことで、すべての魔物達が――――

 

 

 

 

 生き残った少女は駆け出した。後先を考えない、無我夢中の走りであった。

 

 どこへ向かえばいいのかもわからない。ただ、ひたすらこの国から逃げなくてはという気持ちしか心には無かった。

 

 絶叫を上げて走り去っていくアリスに、魔物達が気付く。すぐさま、獲物をめがけて襲い掛かってきた。

 

 応戦など考えない。戦うことなど論外であった。ただ、逃走という本能に従って平野を走り続けていく。修道院の訓練でも、これほどの長距離は走ったことがないというのに。

 

 走る。逃げる。激痛に耐える。

 

 魔物の横をすり抜けようとして切り裂かれ、巨大な腕で殴りつけられ、嚙みつかれ。

 

 それでも、アリスは戦わなかった。逃げること以外にできることなど思いつかなかった。

 

 とっくに息は切れ、酸欠になってもアリスは走ることをやめなかった。7歳の少女は涙を流し、絶叫を上げながら逃げ続けたのだ。

 

 そして、時刻は夕暮れに差し掛かる頃。

 

 アリスは全身から血を流し、意識を朦朧とさせながらも。

 

 ラインハットの関所へとたどり着いたのだ。

 

 

 

 

 もう、どんなに頑張っても意識が保てなくなってきた。

 

 息の仕方って、どうするんでしたでしょうか。今、私は息、しているのでしょうか……?

 

 足が動いているのかも判然としない。だけど、霞み始めている眼は確かに前へ前へと進んでいるのが分かる。

 

 喉の奥が乾ききっている。唾すら飲めない。両腕はだらしなくダランと下ろしたまま。みっともないですが、歩ければいいですよね。

 

 目の前には、上り階段。ぼんやりとした意識の中で、そういえばこの関所は川の東西を結ぶ地下通路があった事を思い出した。今、自分はそこを歩いているという事なのか。

 

 階段が、異様に長く感じる。それでも、足を動かさなければ。

 

 だが、足が上がらない。ただでさえ幾多もの傷にまみれて、神経も何本か断裂しているというのに。

 

 回復魔法も使えない。もう、とっくに魔法力は空だ。記憶が飛んでいるうちに、すべて使い切ってしまったのだろう。

 

 背中に回っている道具袋には……何があっただろうか。そんな当たり前のことすら、今はもう覚えていない有様である。走っている最中に何かを使ってしまった気がするが、判然としない。

 

 の、上らなければ……

 

 壁に体重を押し付け、両腕で足を持ち上げた。動かない足を一つ上の段に乗せ、そのまま壁にすり寄るように身体を上に動かす。

 

 2段目、3段目と出口へと近づいていく。だが、4段目には届かなかった。

 

 段差を踏み損ね、足をもつれさせたまま階下に全身を打ち付けてしまう。悲鳴も上げられず、冷たい通路の上に身を預けるしかなくなってしまった。

 

 瞼が重くなる。視界が暗くなってくる。何も考えられない。

 

 駄目です。今度こそ……もう……

 

 そして、アリスは意識を失った。

 

 

 

 

 フワリ、と身体が軽くなったような感覚がした。

 

 苦痛すら感じられなくなった身体から、まるで空を飛んでいるかのような解放感。

 

 周りがすべて真っ白な世界の中、彼女は空を思うがままに飛んでいく。

 

 久しぶりに笑った気がする。こんなに何も悩まずに、気ままに遊ぶのはいつ以来だろうか。

 

 それが、己の意思で空を飛んでいる訳ではなく、どこか別の世界へ向かう浮遊感だとは気が付かないまま。

 

 目の前には、何か白い世界。自分はさっきまでいた暗い世界から、白い世界へ向かっているのだ。

 

 その遠く。はるか向こうから。まるで太陽のように輝いている何かがある。

 

 行こう。あの輝いている世界へ。あの光を目指して。

 

 ……でも。

 

 彼女はふと、後ろを振り返った。

 

 なんでだろう。

 

 なんで、行けないんだろう。

 

 なんで、あの暗い世界が気になってしまうんだろう。

 

 少女は白い世界へ向かえない。行ってしまったら、もう2度と暗い世界へは帰れないから。

 

 暗い世界は怖い。痛くて、寂しくて。誰もいなくなってしまった世界だから。

 

 でも……帰りたい。

 

 なんでだろう。

 

 どうしてだろう。

 

 わからない。何も、わからない。

 

 どこへ行けばいいのか、全然わからない。

 

 ………………

 

 …………

 

 ああ、みんな……

 

 みんなに会いたい……

 

 ……

 

 みんな……?

 

 みんなって、誰のことなの……?

 

 みんなは、どこ……?

 

 …………

 

 ……

 

 

 

 

 全身に走る激痛の中、アリスは意識を覚醒することができた。

 

 目の前は、床。地下通路にうつぶせになったまま、ずっと意識を失っていたのだ。

 

「い、今の、は……」

 

 つい独り言を呟こうとするが、喉の奥が乾ききっていて、うまく言葉にならなかった。

 

 何だったのだろうか、今の夢は。いや、今の妙にリアルな感覚は単なる夢だったとは思えない。まさか、本当に神の下へ召される寸前だった……?

 

 いや。今、自分は生きている。なら、それでいい。

 

 身体を動かそうとすると、酷く痛む。指先を動かすことすら困難だったが、それでも全ての痛みを無視して右腕だけでも動かした。左腕の方は、本当に動かなかったからだ。そして、両足も。

 

 喉も乾いている。よくもまあ、こんな状態で衰弱死しなかったものだと思う。まして、こんな無防備なところを魔物に見つかれば、2度と目覚めることはなかっただろう。

 

 思うように動かない指先で、アリスは肩から脇に巻いている縄を解く。背負っている道具袋の中を探った。ほんの僅かだが休めたため、どうにかこれくらいの作業はできるようになったのだ。

 

 道具袋の中身は、薬草が1枚。毒消し草が1枚。あとは、食料と水。そして衣類が数点。ついでに、ボロボロになってしまった修道服。

 

「これが……最後の薬草……」

 

 手元にある、最後の回復薬。万感の思いを込めて、アリスは緑の葉の上に乗っている数種類の草を磨り潰し、飲み込んだ。

 

 神経の切れた足から、苦痛が感じられるようになる。冷えていた身体に熱が戻り、致命傷に近い傷に応急処置が加えられていくようだ。

 

 1枚の薬草の回復量では、これが限界であった。だが、それでもアリスはホッとする。全快とは程遠いものの、動けるようになっただけでも充分だ。これほど、薬草の存在を有り難いと思ったことはない。

 

 再び道具袋を身体に結び、階段の先を見上げる。ここからでも確認できる、灰色の空。今はとにかく、ラインハットから出なければ。

 

 相変わらず、一歩歩くごとに痛みを感じる。だが、それは神経が繋がっている証拠。フラフラとしながらも、アリスは着実に階段を上っていった。

 

 上り切った先は、やはり荒れている関所の内部。城と同じく壁も床も傷や穴だらけの状態。右手の方には見張りの兵士が使うであろう武器が並べられ、その隣には休憩用のために備えられている最低限のベッドや机がある。

 

 ――――助かった。アリスはようやく、心からの安堵を覚える。最低限の寝泊まりができる部屋があるのは有り難い。無断で使用するというのは神の教えとしてどうかと思うが、今はそんな事を言っている状況ではないはずだ。

 

 とはいえ、あまり喜べるわけではなかった事を思い知る。部屋の内部もまた、ろくに使い物にならなかったからだ。

 

 ベッドはひしゃげ、シーツも切り刻まれている。何より、周辺にはもはや見慣れた白骨の屍が転がっていたからだ。

 

 兵士の武装をしているその亡骸は、折れた鉄の槍を握りしめたまま、壁に背を預けた状態で尻もちをついている。首の無い亡骸もあり、とてもではないが一晩も眠れるような空間ではなかった。

 

 壊れかけた机の上にはグラスに入った水が注がれているが、とうの昔に腐りきっている。とても飲めたものではない。

 

 それでも、遺体を見てしまった以上は祈りの言葉をささげよう。この魂に、どうか安らぎを。

 

 アリスは痛む身体を無視して、何枚かに切れかかっていたベッドのシーツを全ての遺体に被せてあげた。

 

 何度か振り返りながらも、アリスは関所を後にする。しばらく歩いて、関所から武器の一つも借りていけばよかったでしょうかと思ったが、それはやめておこうと思った。あそこにあったのは、いかにも重そうな大剣ばかりである。槍には多少の心得があるアリスではあったが、それらはすべて周辺に折られたまま放置されていた。

 

 使いこなせないものを持って行っても仕方がない。結局、アリスは果物ナイフ一本のままで関所を出ることとなったのだ。

 

 ただし、河の水を補給しておくことは忘れない。少し舐めて、充分に飲めると分かったので、遠慮なく減っている水筒に補充しておく。食料が限られている以上、真水は余分に持っておいた方がいい。

 

 アリスが向かったのは、サンタローズの村。魔物達は相変わらずうろついており、明らかに村を出た時以上に数が増している。どうやら、この魔物の大量発生はこちらの大陸でも同じ現象が起きているらしかった。

 

 無数の棘を体中に持っている爆弾ベビー。

 

 白いイタチのようなガスミンク。

 

 鳥型の魔物であるピッキー。

 

 この辺りでは見ない魔物が明らかに増えている。アリスはできる限り見つからないように、草原と森の境目を縫って移動するしかなかった。

 

 どうにか苦労して、2日ほどの日数をかけた頃。アリスはサンタローズへとたどり着いた。

 

 ――――ああ、やはり……

 

 アリスは、項垂れるしかなかった。そこには、アリスが半ば想像していた通りの光景が広がっていたのだ。

 

 サンタローズの村は、完全に見る影を失っていた。確かにラインハットの兵士たちの行いで、村は半壊した。だが、今はそれすらも問題にならないほど荒れ果てていたのだ。

 

 村は、すでに何もない。ただ何か大きいものに踏み固められただけのような、草木も生えそうにない野ざらしになった荒野が広がっていたのだ。

 

 残っているのは、洞窟。そして、そこから流れる濁った川。それ以外の民家は、本当に何もなかった。

 

 もはや、魔物すらも近寄っていない。そんな、かつてサンタローズと呼ばれていた村だった場所を、アリスは鬱屈した思いのまま後にするしかなかった。

 

 ――――次は、アルカパの町……

 

 地方都市でもある大きな町。そして、幼馴染であるビアンカの町。

 

 会いたい。今すぐに会いたい。アリスはそんな一筋の願いと共に、引きずりそうになっている足を動かした。

 

 半日ほど経った頃、アリスは魔物達の包囲を躱しつつも町へ到着する。しかし、やはり結果は同じ。建物という建物は破壊され、どこを見回しても廃墟しか目に映らない。

 

 町の中には意志を持った巨大なキノコ型の魔物、お化けキノコ。そして呪いの力をもって生命を吹き込まれた巨大な蠟燭の魔物、ともしび小僧といった魔物達がこの滅んだ街を我が物としていた。

 

 ここにきて、アリスは悟る。これが、現実なんだとようやく本当の意味で受け入れることができたのだ。

 

 この大陸は、滅んだのだ。ラインハットだけではない。この大陸に生きていた人間は、すべて魔物に■された。

 

 あの時。あの魔物が口にしていた。ラインハット城の旅の扉の前で言っていた、あの言葉。

 

 ――――瞬間追放呪文、バシルーラ。その術式を旅の扉に……

 

 思い出す。あの時、意識を失っていた私は――――あの旅の扉へ落とされたのだ。空間の歪みの中、この世界へと追放されたのだ。

 

 元居た世界ではない。アリスが育った世界から、この滅びの世界へ。

 

 

 

 

 そう――――自分たちが生きていた時代から、ほんの少しだけ先の未来。つまり……ここは人間が魔物に敗北した世界。

 

 

 

 

 あの魔物が、ラインハットを牛耳ったために迎える世界。魔物に乗っ取られたかつての軍事大国が、この大陸を滅ぼした世界なのだ。

 

 それに気づく手がかりは、もう沢山見た。ラインハットの城にあった、あの壁に残っている傷跡や穴。地下の牢獄に収容されていた幾多もの亡骸。そして朽ち果てた関所。あれは、人間が最後に抵抗した戦いの名残。

 

 この世界でかつて生きていたラインハットやサンタローズ、アルカパの町の人間たちは、きっと抗うことを諦めなかったのだろう。そして、滅んだ。誰も生き残ることができなくて。

 

 誰一人として、この大陸には人間がいない。アリスは、この世界でたったひとりぼっちの人類であった。

 

「……いいえ、まだそうと決まったわけではありません」

 

 絶望感にさいなまれながらも、アリスはまだ希望を口にする。この大陸には、確かにもう人がいないかもしれない。ならば、別の大陸では?

 

 そうだ。そうとも。アリスの虚ろだった瞳に、だんだんと光が戻ってくる。自分は、なんて肝心なことを忘れていたのだろうか。

 

 修道院だ。そして、オラクルベリー。

 

 修道院なら、武や知恵に優れた者たちが大勢いる。オラクルベリーもまた、世界でも有数の大都会である。きっと、まだ生き残っている人間はいるはずだ。

 

 急ごう。魔物達に見つかってしまうかもしれないが、今は一刻も早く助けを求めなければ。

 

 アリスは最後の希望を胸に、全速力で走りだした。

 

 

 

 

 そして、2日かけ。疲労困憊になってアリスはこの場にたどり着いた。全身が薄汚れ、頬も僅かに痩せこけている状態であったが、それでもこの場に来ることが出来たのだ。

 

 そこでアリスが目にしたものは、彼女が全く予想していない光景であった。

 

「そ、そんな……」

 

 ――――オラクルベリーへと続く大橋が、跡形もなく破壊されていたのだ。希望へと至る橋が、完全に崩壊していたのである。

 

 何が原因で? そんなのは考えるまでもない。戦いのどさくさで魔物に破壊されたのだ。あの向こうへと人間が行かせないために。

 

 今度こそ、7歳の少女は絶望に膝をついた。

 

 既に体力も気力も限界で、最早今のアリスには行く当てもない。

 

 そんな時、遠くで異変が起こる。

 

「あ・・・・・・」

 

 ドォン、と遙か遠くから音が聞こえた。まるで、何かが爆発を起こしたような音。

 

 あれは、間違いなく修道院の方角だ。

 

 今まで、修道院でも魔物との戦いが起きていたという事だ。まだ修道院には生きている誰かがいて、必死になって抵抗を続けていたのである。

 

 そして、たった今。その者も■されてしまったというのか。

 

 うっすらと見える、地平線にほど近い位置から見える黒い煙。アリスの生まれ育った修道院が崩れていく。

 

 そして、ザワザワと蠢いてくる魔の気配。

 

 アリスは、最早感情すら見せないまま後ろを振り向いた。ほんの僅かな先には、自分を喰わんとする魔物達の軍制。その全てが、少女を逃がさんとばかりに取り囲んでいる。

 

 しかし、アリスは最早抵抗の意思すらなかった。むしろ、抵抗して何になるのかという自棄に心が占められている有様である。

 

 ここに至るまでに蓄積した多大な恐怖と疲労が、ついにアリスの心を折ってしまったのだ。最早、アリスには生きようという気力すら枯渇してしまっていた。

 

「――――――――」

 

 アリスの命を狙わんと放たれる炎。そして呪文。それを追うように、数多の異形の魔物達が少女へと襲いかかる。

 

 

 

 

「バギマアアアァァァァッ!!!」

 

 

 

 

 全てをなぎ払う竜巻がアリスと魔物達を分断させたのは、その瞬間であった。

 

 絶望に動けなくなっていた少女の心に喝を入れ、猛威を振るっていた魔の力を薙ぎ払う一撃。中級の風呪文、バギマだ。

 

 その瞬間、アリスは己の折れた心すら無視して立ち上がる。まさか、この声は……

 

 驚きから冷めやらぬシスターの視界へ、先ほどのバギマを追うように真横から少年の背中が割り込んだ。

 

「あ……」

 

「大丈夫、アリス?」

 

 目の前でこちらを振り向いた少年は、彼女の記憶している顔と同じように安堵の笑顔を向けてくれた。どんな相手でも心を和ませてくれるその瞳は、まさに己の自慢の幼馴染にしかない視線。

 

 いつの間にか中級魔法まで身に着けていた少年――――リュカは、また一回り大きくなったようにも見えた。

 

「リュカ、さん・・・・・・また、会えました」

 

「当たり前だよ。また会うって約束しただろ。それより・・・・・・」

 

 幼馴染みの少年は、歯を見せて笑った。それは、不思議とアリスがこれまで受けた苦痛や孤独を全て吹き飛ばしてくれそうな程に。

 

「アリスこそ、また会えて良かった!」

 

「は、はい・・・・・・はいっ!」

 

 彼は・・・・・・リュカは、生きていた。また、会えた。

 

 そして、アリスの窮地を救ってくれた。

 

 涙が溢れる。こんな時だというのに。今もなお、魔物に囲まれているというのに。

 

「リュカさん。私も戦います。終わったら・・・・・・沢山お話がしたいです」

 

「うん。僕だって、アリスと沢山話がしたい!」

 

 思えば、サンタローズの洞窟にて。アリスは魔物に襲われていたリュカの窮地を救ったことがあった。今度は、アリスこそがリュカに救われたのか。

 

「私は今、魔法は使えませんが……足手まといにはなりません」

 

 頼もしい幼馴染の隣に立ち、果物ナイフを構える。武器はたったこれだけだが、目の前の魔物の群れに立ち向かう勇気は、たったいま充分に貰ったばかりだ。今ならば、このナイフを十二分に使ってみせよう。

 

「僕は今、武器は持っていないけど。でも、魔法なら使える」

 

 頼もしい幼馴染の横に立ち、両手に魔力を込める。習得したばかりのバギマの力を、魔物の群れにもう一度叩き込んでやる。大切な友達を傷つけたお返しだ。

 

 互いの存在を確かめ合い、2人の少年少女は群れをなす魔物達の壁へと立ち向かっていく。

 

 聖なる竜巻と聖職者のナイフ。その2つが、この大陸を支配する魔の狼藉者を薙ぎ払う。

 

 魔物達の猛威は止まらない。数は増え続け、牙や爪は容赦なく押し寄せる。

 

 より苛烈になる戦場。それでもなお、最後の人類はどんな凄惨な姿になったとしても諦めることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――リュカさん。落ち着いて聞いてください。

 

 ――――なに、アリス?

 

 ――――ここは、私たちの世界ではないんです。

 

 ――――うん……そうみたいだね。

 

 ――――知っていたのですか?

 

 ――――なんとなく、だけどね。僕も、そんな気がしていたから。

 

 ――――はい……誰も生きていませんでしたから、ね。

 

 ――――そうだよね……ビアンカにも、会えなかった。プックルも、いなくなってた。

 

 ――――いったい、何があったのですか……?

 

 ――――ごめん。実は……覚えてないんだ。お父さんと一緒に、ヘンリーを助けに行ったところまでは覚えているんだけれど。

 

 ――――パパスさんは?

 

 ――――お父さんも、わかんない。気が付いたら、僕しかいなくなってたんだ。

 

 ――――そう、ですか。

 

 ――――アリスは、どうして?

 

 ――――はい。私は……

 

 

 

 

つづく




幼年時代編、これにて終了です。次回からは、乙女時代編に突入します。

ここで、一つだけ言い訳を。当初は青年時代と表現しようと思っていましたが、一般的には男性をさす場合が多いので、あえて乙女とさせていただきます。ご了承のほど、よろしくお願いいたします。
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