2人ぼっちの世界
ここでは、青空が見えない。
ほんの数年前までは晴天など珍しくもなかった空も、現在では雨雲よりもなお暗い色となって日の光を遮っている。
そして、この日は特に夜かと見間違うほどの闇が世界を覆っていた。
当然だ。この旧レヌール王家がかつて治めていた大陸は、朝の時間帯から天気が不安定に陥っているのだから。既に、この日を迎えてからは何度も降ってはやみを繰り返していた。
魔物のみが蔓延っている今のご時世。雨を嫌う種族は、早々に思い思いの雨宿りが出来る住み家や隠れ家に身を隠し、湿気や水分を好む魔物はまるで踊るように雨に打たれ続けている。
そんな魑魅魍魎の生活区域から身を隠すように、1人の人影が森の木々の中に立っていた。
雨というものは、本当に便利だ。その者は素直にそう思う。大地に恵みを与える事は古代からの周知の事実なのだから。そして何より――――
――――外敵から身を隠す時にも、己の足音や香りを消してくれる。
勿論、それは自分自身もまたいつ外敵に近づかれるかもしれないというリスクを背負うことになるのだが。それを差し引いても、やはり今は雨が降っていることのありがたさを噛みしめずにはいられなかった。
人影の視線の先には、毒々しい紫色の巨大植物であるエビルプラントの群れ。遠目からでも、軽く5体はいる。この辺りは、彼らの縄張りなのだ。
僅かに視線をずらせば、グールの一種であるスモークグール。この種族は特に集団性が強いため、ここからでも7体は確認できる。実際の数はもっと上だろう。
僅かでも森から離れれば、獲物として自分に襲いかかってくるのだろう。やむを得ず、人影は森の奥を進みながら目的地へと近づいていく。
と、森を半分ほど突き進んだところで視線を感じた。まるでフクロウのような瞳に反して、両手には肉を容易く切り裂く爪の持ち主。魔獣のモーザだ。
こうなることを半ば予想していた人影は、特に驚く事もない。突如、爪で切り裂かれる瞬間に人影は伏せることで躱す。
フクロウのそれよりも、なお低い声で吠える魔物。モーザはなおも追撃をするために両腕を振り回す。だが、全く当たることはない。
人影はタイミングを見てモーザの背後に回り込み、適度な力で背中を押してやった。前のめりの体勢になっていた魔物は、あっさりと転んでしまう。
瞳に怒りを込めた魔物だが、人影から“何か”が己の頬をかすめていく事に気付く。恐る恐るかすめていった方向に目を向けると、背後にあった大木に小さな穴が開いていた。
なんだ。今、こいつは何を当てようとしたんだ?
全く理解できないモーザだったが、何か鋭いものが自分の目では見えないほどの速さで放たれた、ということだけは理解できた。魔物の心に恐怖が生まれる。
野性の悲しい性なのか、強いものには逆らえない。たとえ獲物を取り逃すことになったとしても、生存本能を優先するのは仕方がないことなのだ。
背を向けて、一目散に森の奥へ消えていくモーザ。それを人影は追わない。むしろ、逃げてくれてよかったとすら思っている。
よかった。魔物にも心がある。そして・・・・・・逃げるというのなら追ったりはしないよ。
人影は改めて森の奥を進んでいった。しばらくすると、巨大な古城へ向かう歩道へ出た。そのまま真っ直ぐに城へと向かっていく。
雨の音が激しい。周囲の音も聞き取りづらい。だが、先ほどまで魔物の遭遇を忌諱していたその者は、全く頓着することなく城の門にその身をさらす。
ギイ、と扉を開ける。中に入れば、壁が所々傷んでいる内装が目に飛び込んでくる。当然だ。ここは元々廃墟なのだから。かつてはレヌールという王家が暮らしていた白亜の城の名残。
だが、瓦礫の破片や埃のようなものは、意外にも見えない。日頃から使える部分は清掃し、最低限の手入れをしている結果だろう。そして、こんな大広間でも手抜きなく清掃が出来ているのは、同居人の生真面目さ故だ。
そう、同居人である。この世界で、唯一の同胞である彼女が左の扉から姿を見せた。彼女は帰ってきた人物と目が合うと、微笑んで駆け寄ってくる。
「お帰りなさい、リュカ」
「ただいま、アリス」
濡れそぼった雨具の合羽を脱ぐリュカ。衣服の上に絹のエプロンを身につけたアリス。
魔物だけが生きる、この人類が滅んだ世界。
絶望の世界に迷い込んでしまったアリスとリュカは、こうして今も生きていた。
夜の食事は山菜を中心とした料理だった。傍らには、野菜で作ったスープ。このメニューで、リュカは昼間アリスが何をしていたのかを察することが出来た。
「今日は山へ行っていたんだね。君のことだから心配ないと思うけれど、大丈夫だった?」
「ええ。強いて言えば、山登りの最中にエビルアップルとお化けキノコがいましたが、大人しく帰ってくれました」
「それなら良いんだけど」
それ以上は特に気にすることもなく、2人は食事を始める。特に警戒するほどの事でもない魔物達だったからだ。おおかた、目が合っただけで魔物達の方から逃げ出したという所だろう。
スープをすする。やっぱり、アリスの料理は美味しい。彼女がシスターであることが本当に有り難く感じる瞬間だ。
随分昔に、彼女から教えてもらった。修道院は基本的に自給自足なので、生活のための知恵や農作業などを利用して、全て身の回りの物は自分達で補う。
リュカとて、あの美しい自然に囲まれた村で野菜の育て方くらいは知っていた。しかし、アリスは7歳だった頃の時点で一通りの事は出来るようになっていたのだ。
この世界で暮らすようになってからというもの、アリスの知恵は本当にリュカにとっての支えになることばかりであった。気の遠くなるような年月が流れた今でも、彼は偶にアリスの知恵を借りたりすることがある程だ。
年月。そう、あれから――――8年の歳月が過ぎた・・・・・・
正確に言えば、8年という数字は曖昧なものだ。単に、空が僅かに明るくなる回数を数えていただけで。
この世界にも、昼と夜は存在している。夜は周囲が見えなくなるほどの闇。昼間は空が暗くなったとしても周囲は視認できる。その回数を日数の基準と決めたのだ。
勿論、日々の戦いに明け暮れたことは日常茶飯事だったために、何日か端折った事がある。そのため、この8年という時間は正確ではない。
アリスの山菜料理をかじりつつも、リュカはふとこれまでの事に思いを馳せる。
結局、この大陸には人はいなかった。
リュカはアリスと再会した後、彼女が最後に残していた2つのパンを片手に、もう一度大陸中を隅々まで探し回った。
父と共にこの地方へ船を下りたときのビスタ港。魔物が蔓延っているアルカパ。サンタローズに至っては、そもそも村その者は荒野と化している。
オラクルベリーへと続く橋は、もう使えない。子供達2人では、そもそも橋の修理など臨むべくもないからだ。いや、それ以前に人手も材料も足りなさすぎる。
体力が残っているうちに、思い切ってラインハットに向かい、改めて生存者がいないかを探してみた事もあった。そして、パパスがヘンリー王子を救いに行くために向かっていったという、古代の遺跡と呼ばれる場所にも。
だが、人がいる気配は全くといっていいほどなかった。
そして、2人には何時までも人捜しをしている余裕など、とうに無くなっていることに気づく。食糧の問題だ。
パンを食べ尽くしてしまった後は水で飢えをしのぎ、空腹に耐えながらアルカパへとどうにかたどり着いた。この時に、再び魔物達に取り囲まれてしまったとしたら、間違いなく命はなかっただろう。
しかし、どうにかその結末だけは免れることが出来た。アリスの記憶の中に、アルカパでビアンカに会おうとした彼女に、母親であるマグダレーナから聞いたことがあったのだ。
――――ちょうどビアンカが木イチゴを摘みに、町の外に出かけているんだよ。
つまり、アルカパからそう遠くない場所に木イチゴがある。2人は、藁にも縋る思いでそれらしい場所を探した。そして、それはすぐに見つかる。
あの時ほど、食事を貪るように食べたことはない。空腹感が消えていくまで、2人は木イチゴを食べ続けた。
ようやく落ち着き始めた頃、アリスは不意にその場に膝を突き、指を組んで祈りの姿勢になる。神よ。我らを見捨てることなく、この糧を与えてくださったことに感謝致します。
だが、それはリュカの目から見ればイマイチ格好が付いていなかった。なぜなら、アリスの口の周りには木イチゴの汁で真っ赤になっていたからだ。つい大笑いしてしまったリュカを、誰が責められようか。まあ、目の前にいたのだが。
顔を木イチゴと同じくらいに真っ赤にしたアリスに、リュカさんだって口が真っ赤ではありませんかと、負けじと言い返す。僕は気にしないからいいんだよとさらに言い返してやった。
拗ねるアリスに、また笑うリュカ。そのうちに、アリスも笑った。
そんなやり取りがあって、何時しか2人の心には恐怖や不安は薄れていった。まだまだ採れそうな木イチゴを道具袋の中に入れて保管し、再び辺りを見回す。
よくよく見れば、その森は木イチゴだけではない。むしろ、その森は人工的に果物を育てている果樹園でもあったのだ。まだここに人が生きていた頃、アルカパの人間達が地元の産地として作ったのだろう。
一時期はここでシスターとして奉公に出ていたというのに、この辺りの仕事には全く携わっていなかったので気づけなかったのだ。いや、もしかしたら当時の彼らが魔物との戦いに備え、食料の確保のために育てていたのかもしれない。
勿論、年月が過ぎた今では人が手入れをしていないこともあって、木々には余分な枝や芽が目立つ。人が収穫をしていないこともあるせいか、他の魔物達の食べかけなども見受けられた。
それを差し引いても、人間が2人生きていくには充分な糧が見つかった事に、2人はようやく涙を流して安堵の声を出した。本当に良かった。これで飢えなくて済む。
そして、そんな2人もようやく腰を落ち着ける場所を見つけることが出来た。それが、レヌール城である。
忘れもしない、ビアンカを交えてのお化け退治の事件。エリック王とソフィア王妃の、美しくも悲しい別れを・・・・・・
あの勇ましい王と、穏やかな王妃の魂は今でもこの城を守り続けている。その加護のようなものかは分からないが、この城にはあの時のまま清涼な空気が常に漂っているのだ。それこそ、邪悪な心を持つ魔物が近づけないほどに。
その後も、リュカとアリスはこのレヌール城を拠点とし、知恵や経験を子供なりに模索しつつも生き延びてきた。
初めのうちは、他の大陸から人が来るかもしれないと考え、定期的にビスタ港で船の到着を待っていたこともあった。大きな大陸なので、誰かが不審に思うはずだと信じていたのだ。
だが、そんな習慣も2年を過ぎる頃には取りやめてしまった。誰も来ない水平線を何時までも見続けていても仕方がなかったから。
木を切って、筏でも造って修道院のある大陸へ向かおうという計画もあった。距離的には橋一本分しか離れていないため、地図上では可能かもしれないと踏んだのである。
だが、実際に2つの大陸を分かつ滝を見て、それも無駄だと悟ったのだ。その滝はあまりにも大きすぎて、僅かでも近づこうものなら瞬く間に勢いに流され、滝壺に真っ逆さまになるだろう。
ならばと滝から距離を取って大回りをすればいいんじゃないかという意見を出したものの、それも潮の流れで難しいのだそうだ。あらぬ方向へ筏が流れてしまえば、二度と戻れなくなるだろう。何より、それをするには最低でも10キロ以上は筏を操り続けなければならない。
結局のところ。リュカとアリスはこの大陸に留まる以外に行き場などなかった。行けるとしても、関所を通じでラインハットの廃墟へ通行可能のみという、半ば孤立した大陸の生活を強いられているのである。
食料は備蓄など望むべくもない。かつて残っていたであろうアルカパの民家などに存在していた食料は、とうに腐ってしまったか魔物達の餌になっている。
果樹園が絶えないうちに供給源を確保しなければならないと思ったアリスは、レヌール城のすぐ傍に自家製の畑を作ったのだ。野菜の種は何度かアルカパの町へ入り込み、居座っている魔物達に見つからないように失敬させてもらう。
食べ終わった果物も使えそうなものは新しい果樹園の種子として利用し、新しい木の実として植える。畑からはできる限り成長の早い野菜を育て、青菜も摘む。
そして、現在。この城には、2人が慎ましく暮らすには問題ない食料を難なく調達できた。
「リュカ? もしかして、口に合いませんでしたか?」
言われて我に返ると、目の前の席に座っているアリスが心配そうに見つめていた。この数年間で大人により近づいた眼差しが、こちらに向けられている。
気恥ずかしくなり、リュカは無理矢理取り繕った笑い方をしてしまう。
「ごめん。ちょっと昔のことを考えていたよ。ふとしたことで思い出しちゃってさ」
「ああ、確かにそうですよね・・・・・・」
シン、と静まりかえる旧王家の食堂。元々2人だけなので、どちらかが黙ってしまうとすぐに静寂が訪れてしまう。
しまったな、と思うリュカ。昔のことは、できる限り蒸し返さないようにしようと暗黙の了解で決めているはずなのに。
「それでも」
と、アリスはリュカを見据えて言った。その瞳には、何処にも迷いは見られない。
「私たちは諦めません。そうですよね?」
「・・・・・・うん。絶対に帰るんだ。分かっているさ」
揃って笑うと、2人は食事を再開する。アリス特製のパンは、いつもながら美味しかった。
浴室のドアに鍵をかけたアリスは、身につけている衣服に手をかけた。
窓を覗けば、向こう側に広がる大陸の大自然が一望できる。城の5階から眺める風景というものは、本当に見晴らしが良いので飽きることがない。
女性用の布の服を丁寧にたたみ、上下共に純白の下着をスルリと脱ぐ。
一糸纏わぬ裸になったアリスはしっかりと身体を洗うと、熱の籠もっている湯船につかる。
ここに来た当初は、水道など当然ながら使えなかった。これは井戸の水を汲み取り、ここまで運んだものである。過去のレヌール王家の者は使用人に水を運ばせていたのだろうが、自分達がやるとなると少々不便にも思えてしまう。それだけここから見える風景が気に入っていたのだろうか。
風呂というものは一般的に、汲み取った水を外か屋内に設置されている暖炉に似た設備で熱するのが基本だ。アルカパの一般家庭や教会もその手法で湯を沸かしている。
レヌール城は基本的に水道式で、冷水とお湯を自由に切り替えることが出来る。当時は一般的に普及していなかったシステムだが、王家の居住である城には既に取り入れられてあった。
しかし、今は当然ながら使うことは出来ない。水道が機能するための設備など、とうの昔に壊れてしまっている。
そこで、浴室の隅に簡易的ながら湯を沸かす目的で作られた暖炉を作った。同じようにあり合わせの機材で煙突を造り、どうにか湯沸かし器としての機能を実現できるようになったのである。
リュカからは、そこまで拘らずに水浴びでいいんじゃないのと呆れられたものだが、アリスとて女の子である。風呂には温かいお湯。これだけは譲れなかった。
「昔のことを思い出した・・・・・・ですか」
アリスは、今日の夕飯にリュカが言っていたことを思い出す。
思い出した、などというものではない。元の世界のことなど、一日だって考えなかったことはなかった。
大恩ある修道院の司祭、ヴェラ。先輩であり、指導者のリディア。サンタローズで世話になった、神父のグレン。そして自分を庇ってくれたミラン。逞しくも優しいパパスに、そんな彼を支えるサンチョ。アルカパで仲良くなったジゼル。
その他にも、あらゆる人間の笑顔が浮かんでいく。この世界には、もういない。
涙は流れない。もう、出し尽くしてしまっていた。それでも、希望だけは捨てない。
覚えている。私たちは、あの色とりどりの世界を覚えている。あの世界を覚えている限り、あの偽王妃に逆らい続けることが出来ている。
あの偽王妃は、きっと私の事をとうに野垂れ■んだとでも思っているのでしょう。そうだとしたら、残念ですね。私たちはこうして出会い、力を合わせて今も生き続けています。
「・・・・・・さて」
流石に、少し長風呂になってしまっただろうか。湯船から出ると、身体を拭きながら浴室を出た。
古ぼけた鏡を見て、自分の顔を確認する。少しだけ赤らんだ顔は、血行が良くなっている証拠だ。
身体を拭き、寝間着用の衣類を身につける。衣服の類いは、全て修道院で腕を培われたアリスの手作りであった。中には彼女から裁縫を教えられたリュカが作った衣服もあったが、それは全て彼自身が身につけている。
特に下着の類いは、近頃は良くデザインに拘りを見せるようになってしまった。リュカにも作るところは見せることのない、年頃の乙女のささやかな洒落っ気である。
修道服ばかりを着ていると、下着くらいしかオシャレできるところが無いのよね。これはかつて修道院にいた頃に、とあるシスターが口にした不満である。その時は今ひとつ気持ちが分からなかったが、今ではなんとなく理解できた。
脱いだ衣服をまとめて脱衣所を出ると、そこは王の寝室。一般の家屋が丸々入りそうな大きさの部屋の中央にベッドが二組並べられている。王と王妃のベッドだ。前のベッドはシーツや布団も、虫食いや風化で使えたものではなかったのである。
そこで使えそうな布団や綿などをアルカパから拝借し、こちらで新たに作り直したのだ。ベッドの土台そのものはまだ使えたので、最低限の部分を修復して今に至る。
「上がりました。次はリュカさんの番ですよ」
自分の使っているベッドで読書をしていたリュカは、アリスの姿を見ると手元の本を閉じた。レヌール城の書庫で見つけた本なので古びてはいるものの、読む分には何ら問題は無い。
本のタイトルは、世界樹の詩。かつて世界のどこかに存在していた世界樹という巨木を中心に、天空の勇者の存在や出会った仲間達と共に歩く長い道中が、学者の推論を元に記されている。
文字を一通り覚えたリュカに、アリスがさらに知恵や発想力を養ってもらうために薦めた本だ。他にも彼が気に入った本がいくつかあるのだが、これはそのうちの一つである。
「分かったよ、アリス。これって久しぶりに読んでも、やっぱり飽きないよね」
「はい。私も修道院にいた時に読んだことがあるんです。あの頃はまだ難しい部分は読めなかったのですが、とても面白かったことは良く覚えているんですよ」
「著者の意見や願望が混じっているような表現が、かえって本に個性を出しているって感じかな。その人と話をしているみたいな気がする」
「それが本の楽しさというものですから。私も同じですよ」
本当に、リュカは大人の男性に近づいている。心を穏やかにする眼差しは少年の頃のまま、凜々しさや逞しさは日に日に目立っていた。
そして、アリスも。
浴室に入っていくリュカを見送ると、アリスは自分のベッドへ腰を下ろす。こちらは、かつて王妃が使っていたベッドらしい。
2人のベッドの間には、新たに設置しているカーテンと小さな棚が用意されている。その棚の上には、小型のランプが火を点してあった。
これはごく微量の魔法力を使うことで、長い時間を照らし続けることが出来る日常的なアイテムである。城の倉庫にまだ使われていない予備が残っていたのだ。よほど魔力に縁の無い人間でも無い限り、誰でも使えるという便利なものなのである。
アリスはベッドの傍らに置いてある一冊の本を手にする。なんとなく、最近は就寝する前に本を読むのが日課となっていたのだ。
タイトルは、魔術論。学者の入門書のようなもので、呪文を始めとした世界中の超常現象を追求する学問書である。あらゆる呪文理論、古代より失われた魔法の解明や、その公式が記されている。呪文の研究をしている者なら必ず頭に入れておかなければならない謎や知識を、アリスは目を細めて解読していく。
単純に知識を深めるリュカに師事しつつも、彼女はこうして独自に魔術の研究を続けているのだ。
勿論、目的は元の世界へと帰るためだ。8年も過ぎた今もなお、アリスはあの偽王妃が放った言葉を手がかりとして、具体的な帰還方法とその理論を解明しようとしている。
とりあえず、この8年もの間でアリスが分かっていることと言えば・・・・・・
この世界は、間違いなく元いた世界とは10年以上も先の未来。つまり、アリス達が姿を消してそれほどの年月が経った後、元いた世界は今のこの滅んだ世界と全く同じ光景になってしまうという事。
そして、その原因はあの魔物に支配されたラインハット。自国の権力を使って我が国の領内のみならず、大陸中の人間に手を伸ばすようになる。
まずは王族の名において圧政を敷き、人々が生活できないレベルまで重税や理不尽な法を押しつけた。反対に、魔物達や悪党は住みやすい環境に整え、法を使って優遇する。反対する者は、当然ながら不敬罪として処刑したのだ。
さらに港の使用を禁止したために、市民達は海外へ逃げることも出来ない。彼らに対し、魔物が我が物顔で人々の生活を蹂躙し始め、誰も守る者はいない。そんな安息のない日々に、人間達は立ち上がった。
そう。クーデターが起きたのだ。ラインハットの壁に残った傷や、今までに残された顔も知らぬ者達の手記などを読み解いた結果、やっと分かったことである。
始めに事を起こしたのは、アルカパの人々であった。彼らは持ちうる限りの腕に覚えのあるものを集め、関所へと押しかけていった。途中、サンタローズの村人達もそれに加わり、共に向かう。
当然のように抵抗するラインハットの番兵達だが、ついにそこで犠牲者が出たのだ。
ラインハットはこれを宣戦布告として受け止め、これまで雇っていた夜盗や魔物達を差し向け、交戦を開始。アルカパの人々は必死になって奮戦するが、もとより兵力からして差がありすぎた。
瞬く間に討ち取られ、アルカパの市民達は全滅。そして、サンタローズの村人も。
そんないたたまれない事実を知った時、アリスはなんとも言えない気持ちにとらわれたものだ。特に教会で世話になったグレン神父様やシスター・ジゼルはその時に・・・・・・
そして、その後のラインハットの行動は言うまでもない。ついに火蓋が切られた以上、最早容赦をする必要は無くなった。偽王妃は部下に命じて、今度は南の都会であるオラクルベリーや修道院を襲うように命じたのだ。
しかし、その辺りでほぼ全員の人間の兵士達が相手側へ寝返る。最早、この時点で彼らは己の国に完全に見切りをつけたのだ。
長年の間続く、大都会と修道院の抵抗。ラインハットも橋を壊すなどの妨害工作をしたうえで、空を飛べる魔物達を中心に攻め込んでいく。
・・・・・・ここまでが、この世界で起こった歴史である。
そして、ここからはアリスの推測だ。自分がこの世界へ流れた時に見た、あの修道院の崩壊。あれが神へ使える者達の最後だったのだ。そして、人類の敗北の瞬間。
「・・・・・・」
あの物心ついた頃から存在していた神聖な場所が崩れ落ちた光景を、アリスは忘れることが出来るのだろうか。とうに受け入れた筈の現実なのだが、やはり心は沈んでしまう。
「アリス。まだ起きていたのかい?」
ふと気づくと、リュカが頭をタオルで拭きながら浴室の前に立っていた。どうやら、長く物思いにふけってしまったらしい。
「すみません・・・・・・少し本に集中してしまいまして」
さっきとは逆のやり取りだ。2人とも、どちらからともなく笑ってしまう。
「・・・・・・それでは、そろそろ休みましょうか」
「うん。おやすみ」
アリスはカーテンを引いて、リュカはランプを消す。それで、完全に寝室は暗闇に包まれた。
間もなく、リュカの寝息がカーテン越しに聞こえてくる。アリスも眠気に身を任せ、ゆっくりと目を閉じた。
意識が途切れる少し前に、アリスはふと考えてしまう。
――――この世界に来てから、自然と2人で眠るようになってしまいましたが・・・・・・そろそろ別々の部屋にした方が良いのでしょうか・・・・・・?
アリスは15歳。リュカは14歳。そろそろ微妙なお年頃である。いや、むしろ遅すぎるくらいだ。思春期を迎えている今、そういう事も意識するべきだろう。
しかし、今はこういう環境で生きている身だ。何かあった時のためにも、すぐ合流できるようにしておくのは大事。ちゃんとカーテンだってかかっているので、男女のプライバシーに関しても問題は無い筈。
そうです。大丈夫・・・・・・ですよね?
今ひとつ自分の結論に自信が持てないまま、アリスは眠りに落ちていった。
そんな日々が、今の2人の日常であった。
懸命に生き抜き、彼と彼女がようやく手に入れた生活。この大陸に残されている限られた遺産を、2人は大切に使って生きていた。
この暗闇の世界の中、あの日からずっとお互いを離さずに。もし離してしまえば、きっと自分の一部もまた消えて無くなってしまうだろうから。
そして、この日も。
リュカは食料確保のために、今や住まいとなったレヌール城を出ていた。
今日のアリスは、城の裏にある自家製の畑で収穫作業をしている。魔力を使って土壌を徹底し、品種改良をしていることもあって、ある程度の気温や日差しが必要な野菜でも融通が利く。昼食は茄子の炒め物とトマトスープだろうか。
手には、バケツと釣り竿。釣り竿の方は手作りであるものの、良く手に馴染む。釣りの方法はアリスも知らなかったので、2人して城の書庫で専門の本を探したものだった。
彼がいるのは、廃墟と化したビスタ港。人が到底住める場所ではないが、やはり港と呼ばれる所以なのか、船を迎える以外にも釣りをする事を想定して作られている箇所がある。
リュカはいつも自分が使っている、波止場の隅に腰掛けた。釣り用の餌は近くの森にいくつも住み着いているので、探すまでもなく捕まえる。
釣りを始めると、後は魚との勝負だ。魚という生き物は、狙って捕ろうとするとなかなか捕まらない。彼らは外敵の捕食する意図を敏感に察知する能力があるからだ。
だからこそ、こちらもできる限り心を落ち着けたうえで、どうやって魚を誘い込むかという知恵が要求される。これを自然と出来るようになるまで、本当に苦労したものだ。
ふとリュカは、釣りを始めて間もない頃のことを思い出した。あの頃はまだ釣りというものを本当に良く分かっておらず、釣り針の先に餌を用意することすら知らなかったものだ。かつて父と旅をしていたとき、船乗りの男がそれをしている姿を見たことがあったが、その時は船を動かすための作業だろうと思いこんでいたほどに。
そろそろ魚料理を食べてみたいと思い始めた頃、アリスに思い切って相談してみたのである。ようやく自力で野菜が取れ始めた頃だったので、贅沢を言ってしまったかと思ったが、食べたい物はしょうがない。
だが、そこでアリスは申し訳なさそうに言ったのだ。自分も、実は釣りの経験などありませんと。
そもそも、アリスはシスターだ。肉類や魚類は基本的に食することを禁止されている。ただ、鶏肉は例外なので今でも希に食用の鳥を選んで捕っているのだが。
ただ、捕ってくれば調理なら出来ると言ってくれたので、その日から仕事の合間に2人で釣りの勉強を始めたのである。
港で捕ってみるのはどうでしょうかと提案したのは、アリスであった。リュカはそれに賛同し、手作りの釣り竿を使って生まれて初めての釣りを始めようとする。
そこで、素人ならではのチョットしたハプニングが起こった。その場にはアリスもいて、彼の釣りを後ろから見守っていたのである。釣り竿を振りかぶり、釣り糸を遠くに投げる基本的な動作。その際、釣り針がアリスのスカートの裾に引っかかったのだ。
アリスの悲鳴が背後から聞こえ、慌てて振り返ったリュカが見たものは――――
「・・・・・・っ」
そこまで思い出し、リュカは1人でつい赤面してしまった。何を考えているんだ、僕は。
頭を振り、あの時の“絶景”を意識の外に追い出す。できる限り、釣り糸に集中する。
しばらくの間、波の音と潮風を浴びる時間が続く。周辺には魔物の気配はない。いたとしても、リュカやアリスを見ればすぐに逃げ出すだろう。この8年間の間で、2人の存在はかなり警戒されているからだ。
それでも、彼らに襲いかかってくる魔物達は数多くいる。稲妻のような外見をしたデススパークや、呪いの人形であるミステリドール。彷徨う鎧やデスパロット。元々は西側の極一部にしか生息していなかった魔物達も、近年になってからはこの周辺にも姿を見せるようになった。
だからこそ、こうして釣りをしている時間は本当に有意義だ。なにしろ、こうして静かに待ちの体勢に入っているので、近づいてくる魔物達がいればすぐに分かる。
だが、今近づいてくる足音は、そういった魔物ではなかった。僅かに振り向いて、予想した人物と目を合わせる。
「リュカ。釣れていますか?」
アリスだ。今日はいつもの作業着を兼ねた修道服ではなく、桃色を基調としたワンピースの服だ。彼女が手がけた私服の一つである。今はプライベートの時間らしい。
「やあ。野菜はもう取り終わったの?」
「はい。すぐに調理できるように準備しておきました」
アリスはそっと近寄ってくると、彼の隣に腰を下ろした。釣りをしない彼女は、普段はこの場に来ることはないのだが。
それを訊いてみると、アリスは少しだけ曖昧に笑った。
「いいえ。今日は、少しだけ気分転換がしたかったんです」
「・・・・・・?」
何処か、今日は表情が硬い。朝のうちは何でもなかったはずなのに。
とはいえ、あまり深く訊いてほしくはなさそうに感じた。そう思い、リュカは傍らのバケツを見せる。
「今日は、まだ一匹しか捕れていないんだ。今日は仕事の日なんだけど、ごめんね」
「いいんです。食べるのはリュカだけですから」
「捕ってくれば、いつもアリスに料理させちゃうからさ」
「好きでやっていることです。私も、料理の腕を鈍らせたくはありません」
反応が薄い。やはり、どこか心ここにあらずといった感じであった。
思い切って訊いてみようか。そうリュカが口を開きかけた時。
「さて」
スッと、アリスがやおらに立ち上がる。自然と見上げるようになったリュカの目には、アリスがこちらを見下ろしてニコリと笑っていた。
「今日は、私も手伝わせてください」
「え・・・・・・手伝うって、釣りを?」
正直なところ、意外な申し出であった。まさか、アリスの方からそんなことを言い出すなんて。
「いいえ。もともと釣りの技量は私には無いようですので。ただ、食卓を少しでも華やかにさせたいと思ったんです」
失礼しますと一言断り、彼女は道具袋を持ったまま廃屋となっている港の小屋に入っていく。それほど間を開けずに出てきた彼女は、一本の細身の槍を持っていたのだ。
だが、リュカはそんなアリスの姿を見て、思わず口を開けたまま固まってしまう。それも無理はない。
今、アリスは水着を身に着けていたのである。それも、下着と似たような露出の白いビキニを。
彼女の絵画から出たような白い肌。それよりもなお純白のトップスと紐のボトムで、彼女の果物のように艶めいた乳房と、官能的な股間や臀部をピッタリと隠している。さらに日頃の戦いで鍛えられている引き締まった腰回り、健康的かつ女性らしい張りのある肌といった、女性の美の集大成が、リュカの目の前にいた。
思わず、自分が釣り竿を持っていることも忘れて、呆けたように見つめてしまう。そんな反応に、アリスは少しだけ恥ずかしそうに言った。つい、自分の身体を抱きしめる格好をしてしまう。
「これは水着ですから……それに、こういうタイプの方が水の抵抗は少ないんです」
「え、ああ……ごめん。変な意味で見ていたわけじゃあ……」
できる限り自然に返したつもりだったのだが、どういうわけか声がつっかえてしまう。アリスは、そんな彼を咎めなかった。
「よ、ようするに……素潜りなんだね」
「はい。ちょうど、使いやすそうな槍を確保していたことを思い出したので」
手に持っているのは、鉄の槍。ただし、それは従来のモノよりも全体的に細い。なんでも、女性兵士用に作られた武器らしい。
打撃の重さよりも、速さを重視した武器。これならアリス向きだろうし、海中でも簡単に使えそうである。
「もしかしたら沖の方まで行くかもしれませんが、あまり無理はしないつもりですので」
「待ってよ。それなら僕も」
「リュカ。今日は水着を持っていましたか?」
あ、とリュカは思い出す。当然だが、今は釣り道具しか持っていない。まさか、裸で入るわけにもいかないだろう。
「大丈夫ですよ。手ごたえがないのなら、すぐに切り上げます」
「そうじゃなくて……」
「?」
どうせなら、アリスと一緒に泳ぎたかったな。そんな内心をしまいこみ、リュカはしぶしぶ釣り竿を握る。
「何でもないよ。でも、もし魔物が来るようだったら、こっちからも魔法で援護するね」
「はい。よろしくお願いします」
アリスは、まるで人魚のような軽やかな動きで、海の中に飛び込んだ。
彼はつくづく思う。魚を食べるのはダメでも、狩りをするのは許される。宗教というのは、いったいどういう理屈で通っているんだろうか。神様の教えというのは、自分には理解できそうにない。
プハ、とアリスが海面から首だけを出す。濡れた銀色の髪が、彼女を妙に艶めかせていた。
「それじゃあ、行ってきますっ」
手を振りながら、彼女は再び潜っていった。リュカも同じように手を振ることで応える。
やがて落ち着いた頃、リュカは少しだけ額に手を当てた。そうしなくとも、顔が火照っているのは分かってはいたのだが。
別段、海の魔物に関しては心配していない。リュカはアリスの力を信じているし、自分だっていざとなれば私服のままでも海に飛び込むつもりだ。
だから、頭によぎるのはさっきの彼女。8年間の間に、すっかり大人の肢体に近づいたアリスの素肌。
彼女は水着だからと言っていたが、リュカからすれば下着と変わらない。うっかり女性のプライバシーを覗き見てしまったかのような、背徳的な気持ちにさせられてしまう。
いや、こんな考えはアリスに失礼だ。彼女はリュカ自身のために、あくまでも魚を捕りに行く手段として水着に着替えただけだ。こんな考えをしていることを気づかれたら、アリスに軽蔑されてしまうかもしれない。そして、2度と自分の前では水着になってくれないかもしれない。
いや、そうじゃなくて。
「まいったな……」
自分の心が、今一つ定まらない。そんな己の心の変化に振り回されつつも、世界の時間は平等に過ぎ去っていくのであった。
――――遥か海の果て。
――――同じ闇の空の下で、強大な魔が世界を蝕んでいることなど、知る由もなく。
つづく