――――誰かの声が聞こえる。
至る所から聞こえる、嘆きの声。怒りに燃えた、雄叫びの声。涙と嗚咽が入り交じった、嘆きの声。
燃えさかる炎。かつて美しかった白亜の城が、炎に呑み込まれていく。
人が■ぬ。魔物が嗤う。
それでも、この城の主は。この国の王は。
誰よりも愛しい王妃に、誰よりも守りたい我が子を預け。
一度だけ妻の前で微笑むと、魔物の群れへ駆けていく。
妻はそんな夫の姿を見届けると、守りたい我が子を抱いたまま。
地獄の業火へと、姿を消した。
「これは、私たちの伝統行事のようなものです」
旅の支度を始めながら、アリスが口にした言葉はそれだった。
いつものように、この世界には魔物の気配が濃い。
魔物が蔓延りやすい山や森の中でも、とりわけ魔物の瘴気を感じる。この大陸でも実力で言えば有数の種族が集団で生活している区域が、このレヌール城の南に位置する森であった。
当初は己自身の力不足で、近寄ることにも神経を使ったものだ。しかし、8年も経てばリュカ達とて成長し、精進する。いつまでも逃げているだけの時期は終わらせなければならないのだ。
決して、自惚れたわけではない。自分達も強くなっているという自負はあるものの、魔物は年々強力になっていることは事実だ。
特に最近では、これまで大陸には存在しなかった種族の魔物達が、一部の地域を彷徨き始めている。
これは極めて恐ろしい事実であった。なにしろ、これまでの先住の魔物達とは比べものにならないほど強く、数年もの年月をかけて鍛え続けてきたリュカとアリスですらも、逃げるのが精一杯という有様なのだから。
その存在が確認されてからというもの、アリスとリュカは再び逃げるだけの日々を続けた。まるで、初めてこの世界へ迷い込んだ時のように。
だが、あの時とは違う。もう自分達は、無力な子供だっただけの頃では無い。
逃亡生活を続けながらも、2人は諦めなかった。リュカとアリスはさらなる戦闘経験を重ね、数ヶ月をかけてその魔物達と渡り合えるように努力を続けている。
状況によっては逃げを選択することもあるものの、2人は少しずつ新たなる魔物達に対しても勝ちを拾えるようになり始めていた。外を歩く際に、恐怖や警戒は解けてはいないものの、もう逃亡一辺倒だった頃よりはまだ余裕のある生き方が出来ている。
そして、この日。
今年も鎮魂の巡礼をしたいのです、とアリスは言ったのだ。もうそんな時期なのかと思うリュカ。
要はお墓参りということだろうか。彼はその当時、ボンヤリと思ったものだ。だが、言われてみればなるほどと思う。
あの頃の自分達は生きていくことに精一杯で、他者を思う余裕すら無かった。外を出歩ける程度に余裕が出てきたというのなら、定期的にこの世界で亡くなってしまった者達に礼を尽くすことは大事だろう。
彼女が悲しそうに言ったのを、今でも覚えている。いつまでも魂を彷徨わせるわけにはいきませんから、と。もしかしたら、修道女として弔いを先送りにしてしまっていることに、ずっと責任を感じていたのかもしれない。
そう決まった次の日。墓を作るための道具や、野宿のための準備用具を可能な限り道具袋に入れて出発したものだ。今や懐かしさすら感じる、2人だけの年に数度の行事。
そうして、たった2人きりの“巡礼の旅”を始めたのが、5年ほど前だっただろうか・・・・・・
そんな物思いにふけりながら、視線を戻す。
目の前には、修道服姿のアリスが歩いている。相変わらずの暗い空の下、彼女はしっかりと広い大地を見据えていた。
今年で何度目の巡礼になるだろうか。かつて人が生きていた場所を歩いて、祈りと鎮魂の言葉を捧げる。
もう、生きるために魔の手から逃げ続けるだけの日々は終わった。それこそ血の滲む困難を乗り越えて、身を守る術を身につけたのだ。ならばそれ以外の力や心は、今や失われてしまったかつての人類のために捧げよう。
――――彼女にとって、墓参りとは特別な意味を持っている。
そもそも修道女とは、人の魂や生命と密接な関わりがあるからだ。
子を出産する際も、修道女は神父や医師と共に立ち会う。そして、勿論この世を去る者がいるのなら、葬儀や祈りを執り行う。
アリス本人は、かつての世界で生きていた頃は葬儀や出産に参加する事はあった。見習いという立場上、本元に関わるような仕事を任せられることはなかったが。
ただ、その時のアリスは常にこう思っていたのだ。
これが、人の誕生なのですね。そして、これが魂の別れということなのですね、と。
当時のヴェラやリディアとて、何処まで理解していたのだろうか。アリスという少女が7歳の時点で、生命の儚さと力強さの両方を学び抜く素養を持っていたとは。
彼女が所持しているのは、肩に背負い込んでいる道具袋。そして肌身離さずに所持している一冊の本。聖職者の必需品である聖書。内容そのものは6歳の時点で暗記しているアリスではあるが、儀を行う以上は所持しなければならない。
2人は岩に近いほどに踏み荒らされた大地を歩く。かつては緑が溢れていた平原も、今ではすっかり荒野に近い有様である。この辺りは魔物が本能のままに暴れ回るせいもあって、自然が全く育たないのだ。雑草の一つも見渡す限りには見受けられない。
そう。どれだけ遠回りをしようとも、幾度かは避けては通れない戦いに遭遇する事も覚悟しなければならない。
命を授かった木彫りの人形であるパペットマンの集団。ミステリドールが刻一刻とどこからともなく現れる。
さらにデススパークの大群。モーザや彷徨う鎧の群れ。
たった2人の人間を相手に、こればかりはいっそ過剰と言える魔物の軍勢と呼んで差し支えない魑魅魍魎が、アリスとリュカを取り囲んでいく。
そんな中で、アリスはリュカにそっと話しかけた。
「待ち伏せでしょうか?」
「多分ね。この時期になると、いつもお墓参りをしているから・・・・・・いい加減に道順とかを覚えられたんじゃないかな」
「・・・・・・来年は、新しい道を考えておきます」
もっともな言葉に、アリスは内心で反省する。流石に、いつも同じ道のりというのは芸が無さ過ぎたようだ。
とはいえ、それをこれ以上言っても始まらない。現に、四方八方を囲んでいる魔物達は、2人との距離を確実に詰め始めている。
彼らの目には、純然な殺意。そして食欲。一目で、簡単に追い払える様子はないと分かった。
やむを得ませんか。アリスは思う。
この世界では、一度争いが始まってしまうと際限が無い。まるで空気感染をするかのように魔物達が湧いて現れるので、どこかで逃げ出さないと身が持たないからだ。こちらとて、休み無しで何日も戦えるわけがない。
――――なにより。いつまでも様子見を許してくれるほど、甘い者達ではないのだから。
濃厚な瘴気の香りが、鼻をつく。魔物達の“狩り”が始まった合図だ。
続いて、積み木が音を鳴らすような音が発せられる。何かが外れる音だった。
連続で5度。パペットマンの集団が己の関節を外し、こちらへ飛ばしたのだ。不気味な笑いを象った人形の一部が、アリス達へ襲いかかってくる。
2人は、身体を反らすことで躱した。木製の腕や顔は手応えが無かった事を悟るやいなや、上空に放物線を描いて、元の胴体へと戻る。
リュカとアリスが分断したところで、上空から飛び上がったミステリドールが降りかかってくる。3体の人形は2人を潰すかのような勢いだった。
それでなお冷静なままのリュカは、背中に背負い込んでいる鞘から一本の剣を抜く。居合いの要領で、銀色に輝く光を残滓にミステリドール達を両断した。
手に持つのは、鋭い鋼鉄で作られた鋼の剣。本来ならば大の大人でも振るうことが難しいほど重量のある武器なのだが、今のリュカには問題なく扱えている。伊達に年月を重ねて戦闘を経験してはいない。
さらにパペットマンが追撃をしかけてくる。今度こそ、幾多もの腕や足が彼の骨を砕くだろう。
だが、リュカは冷静だった。鋼の剣は木製の攻撃を受け流し、時には切り裂く。たった一呼吸の間に、身体を構成できなくなったパペットマンは破片となって地面に転がったのだ。
一方で、アリスに襲いかかってきたのはモーザと彷徨う鎧。鋭い爪を振りかざしてくるモーザに、彼女は左右に半身を反らすことで避ける。そこへ、背後に回った彷徨う鎧の剣が、重量を持って振り下ろされた。
そこを狙い澄ましたように、腋の下から後ろ向きに指を差す格好で魔力を放つ。振り向くこともしないまま、アリスはヒャドの刃を彷徨う鎧の兜に直撃させた。
その命中した場所を中心に、彷徨う鎧の全身が氷で覆われる。実践で鍛えられた彼女の魔力は、今や彷徨う鎧を拘束させる程までコントロールし、威力も上昇しているのだ。
だが、それがどうしたと言わんばかりに、彷徨う鎧は数を増やす。四方から襲いかかってくる新手は、全く怯む様子が無い。
丸腰ではそろそろ厳しい。アリスは腰に備えている武器を手に取ると、勢いよく抜き放った。丸めて固定していた武器が解放され、周囲の魔物達を鋭い一撃で弾き飛ばす。
チェーンクロス。長い鎖の先端に重りが取り付けられた、鞭の一種である。
続けて狙うのは、モーザの群れ。切りつけてくるモーザの腕に一撃を叩き込み、返す一振りで3体ものモーザの頭に追撃を加えた。うち1体は失神したのか、己の巨体を仰向けに倒してしまう。
加勢するように、複数のモーザが前に出る。一斉にバギの呪文を唱えた。数多もの竜巻がアリスとリュカを取り囲む。
それでも、2人は怯まない。密集しようとする竜巻の隙間をかいくぐり、チェーンクロスでモーザ達を一閃する。リュカもまた、彷徨う鎧やミステリドールを次々になぎ倒していく。
息一つ切らせることもなく、2人は魔物の群れを圧倒する。取り囲んでいる魔物達は、数歩ほど後ろに下がった。
人間の圧倒的な力の差に怯んだ――――わけではない。周囲の魔物達の中で、前に出た種族がいるからだ。
青い稲妻のような姿の魔物、デススパークだった。アリスとリュカに向かって、一斉に呪文が放たれる。
中級閃光呪文、ベギラマ。この魔物が最も得意とする攻撃呪文だ。四方八方から巨大な閃光を撃たれ、2人は巨大な炎に呑み込まれる。
このあおりを受けたくないが故に、魔物の群れは下がったのだ。これで、人間2人の丸焼きが出来上がった。
いや、出来上がるはずだった。
燃え広がったと思った炎は、まるで何かに吸い込まれるようにして、爆心地の中央へ消えていく。そこに立っていたのは、火傷一つも負っていないアリスとリュカであった。
彼女が目の前にかざしている手の平には、魔力の塊。デススパークが放ったベギラマの残滓だ。もはや蝋燭程度の炎にまで縮小されたそれを、彼女はもみ消すように握りつぶした。
自慢のベギラマを封殺されたデススパークが、怯むように身をよじらせる。アリスは何の感情も読み取れない表情で、握った拳を解く。そして、僅かに呟くと真横に一閃した。
――――ヒャダルコ。
瞬間、デススパークが真っ白な氷の彫像に変わる。ぐらりと氷漬けになったデススパークだったものが地面に倒れ込み、そして音を立てて地面へと転がった。
「・・・・・・続けますか?」
一言。たったそれだけの言葉に、どれほどの意味が込められていたのか。
魔物達は、基本的に人間の言語など理解はしていない。だが、本能的に最低限の意味は理解したはずだ。
今度こそ恐怖による後ずさりを始め、1匹、また1匹と2人に背を向けて走り去っていく魔物達。だが、ほとんどの者達は未だに食欲を満たすことを諦められないのか、その場に留まっている。
隣でリュカが鋼の刃を光らせ、さらなる警告を加える。その恐ろしさを間近で見たミステリドールやパペットマンは、森の中へと去っていった。
トドメは、アリスが手に魔力を集中させることで刺すことが出来たらしい。誰だって、デススパークの二の舞はごめんだ。
しばらく威嚇の体勢を崩さなかった2人だが、最後の1匹が地平線の向こうへ消えていったのを見届けると、ようやく息をついた。
「・・・・・・もう、充分でしょう」
アリスは指を鳴らす。瞬間、デススパークの氷漬けが溶かされる。気絶から立ち直ったデススパークは、何が起きたのか分からないような様子で周囲を彷徨きだす。ついでに、初めにヒャドで拘束された彷徨う鎧も。
やがてアリスと目が合うと、まるで怪物でも見たかのように顔を引き攣らせ、我先へと逃げ去っていく。彷徨う鎧は表情が分からなかったが、やはり真っ先に逃げ出していた。
彼女は魔物の背中を見ても何も言わない。ただ黙って見送るだけであった。そこへ、リュカが静かに訊いてくる。
「アリス。怪我は?」
「大丈夫です。リュカの方は?」
「こっちも平気だよ」
彼は目の前で腕を軽く動かす。実際、かすり傷一つも受けている様子は無い。それも当然だった。彼らにとって、この程度の戦いなど日常茶飯事なのだから。
「それなら良かったです。では、参りましょうか」
2人は、さらに荒れ果てた荒野を歩いていく。視界の隅に映る木々が、かつてこの地に緑があった事実を物語っていた。
半日かけてたどり着いた先は、やはり荒れ果てた建物が並ぶ土地。今や廃墟と化したレンガや腐りきった木材が、見る者にどうしようもない寂しさと哀愁を抱かせる。
ここが、かつて地方都市として栄えたアルカパであった。人が生活していた名残すらとうの昔に失われ、今では魔物達が雨風を凌ぐために住み着いている集落と化している。
ここには、ビアンカやシスター・ジゼルをはじめとした数々の出会いがあった。今でも思い出せる、あのしっかり者の女の子とその両親。人当たりがよくて優しいシスター達や神父。
あの頃は、まだこの世界に生き残っている人間がいないかと希望を求めていた。どこかに、まだ震えて身を寄せ合っている人間が隠れていないかと、リュカと共に大地を走り続けていた。
ジゼルの日記は、その時にこの町で見つけたものだ。鍵のかかった机の引き出しにしまっていたが、アリスが発見したときには既に机ごと壊れていた。知っている人の名前が書かれた本を見つけた時、彼女の驚愕は察するに余りある。
そんな当時を思い出しつつ、アリスは道具袋から花を取りだした。墓に供える種類としては定番なもの。だが、上手く面倒を見て育てているので、見本のように美しい色を彩っている。
2人は町の廃墟の影から数歩離れた場所まで移動する。そこには、目立たない場所に木の板で作られた十字架が、荒れている地面に突き刺さっていた。
数ヶ月前に訪れたときよりも、やや風化が進んでしまっただろうか。次に来るときは、作り直す木材も持ってこようと思う。
アリスはそっと、花束を墓前に供えた。この土の下には、当時の自分達ができる限り埋葬した町の人々の亡骸が埋まっている。勿論、教会で変わり果てた姿になっていたジゼルも一緒に。
魔物達の耳には入らないように、控えめな声で。しかし何よりも思いのこもった祈りの言葉を、アリスは指を組んだまま告げた。
「我らにその魂を全知全能なる神の元へ任せることを許し給え」
天に向かって歌うかのような声色。その声は、まさにこの世でたった1人の聖職者の姿。
「現世よりの罪を清め、その魂に安らかなる安息を願う」
信仰心とは、神の使いとして人に教えをもたらす心。正しくあれ。あらゆる困難に屈する事なかれ。
「この魂に、我らの神より哀れみを。我らは主神たるmasterの身心のままに」
祈りを終えて、十字を切る。
アーメン。そうあれますよう。
シンと静まりかえる。遠くで魔物達が蔓延る声も、どこか遠い。シスターの少女は、儀礼通りにそっと腰を曲げる。これで、祈りの儀は完了した。
ふう、とリュカは息をつく。
「アリスの祈りって、やっぱり凄いと思うよ。僕が同じ祈りを言うのとじゃあ、重みが全然違うっていうか」
「そう言ってくれるのは、素直に嬉しいですね。なにしろ、私は見習いの過程を正式に終わらせていないままですから」
2人はアルカパの人々が眠る墓を前に一礼すると、そっとその場を去った。いつまでもここにいては、街の中で蔓延っている魔物達に気づかれる。戦っても負けることはないだろうが、無闇に争うことはない。
その足で、アリスとリュカは南東の岬にあるビスタ港へと立ち寄った。ここはむしろ、アリスよりもリュカの方が思い入れのある場所だ。
日頃は、釣りの場として訪れている港。その機能が蘇ることは、もうない。船を迎える者はいない。船だって、もう来ることはないのだ。ただ腐った木材で構成された廃屋だけが寂しく残っている場所。
港を監理していた中年夫婦の姿。この大陸にパパスと共に足を踏み入れたとき、真っ先に出会ったのがあの夫婦であった。
――――良く生きていたんだね、パパスさん。
――――わっはっは。痩せても枯れてもこのパパス、おいそれと死ぬものか。
あの楽しそうな声は、リュカの耳にこびり付いている。あの時はお父さんの友達なのかなとボンヤリ思っただけだったけれど、今となっては何という意味のあるやり取りだったのだろうか。
そんな日々も、あの人も・・・・・・今はもういない。
祈りの言葉をアリスが告げている中、リュカはずっとそんな事を考えていた。やがてそれも終わったと察し、彼は彼女の横へ並んで歩いていく。
2人は、何も言わずに荒野を歩き続ける。こういう時なので、話を盛り上げようという気などお互いに無かったということもあるが。
くすんだ空が、次第に闇を増していく。遅れて、もう夕暮れの時刻だということに気づいた。思っていたよりも、移動に時間がかかったらしい。
「・・・・・・行こう、アリス」
「はい。急ぎます」
心持ち早めに足を動かした。途中、魔物の群れと何度か遭遇したものの、ドラキーや無数のトゲを持つ爆弾ベビー程度だ。彼らなら、むしろあちらの方から逃げてくれるので、2人は一切自分達の歩みを気にする事はなかったという。
日没になり、完全に周囲が夜の闇に切り替わった頃、ようやく2人は目的地へたどり着いた。途中、アリスが道具袋から手製の松明を取りだしているので、道に迷うことはなかったのである。
さらに、雨も降り始める。空が元々淀んでいるので、雨雲なのかそうでないのか見分けがつかない。刻一刻と、2人の衣服は濡れていく。
さらに走り続ける。やがて足元には水が跳ねる音が聞こえるようになり、雨水が染みこみきれない固い大地は至る所で小さな湖を作っていく。
松明の火が周囲を照らし続けている。ここもまた人工物など見当たらない、荒野の一つ。ただ一つだけ違うのは、遠くから流れている川。そこだけが静寂に包まれた暗さから、僅かに照明の光を反射している。
サンタローズ。かつて、アリスとリュカが出会った思い出深い村。確かにあったあの美しい自然に囲まれた小さな世界も、今や影も形もない荒野。建物や自然も、とうの昔に文字通り潰されている。
ただ、あの時の情景を思い出させてくれるのは、この川。洞窟こそ入り口付近の大部分が数年前に崩落してしまったが故に、内部に入ることは叶わなくなってしまった。だが、岩の瓦礫の隙間からは、今もなお洞窟内部から流れている川の水が絶え間なく流れ続けている。
もちろん、今はもう水浴びをすることも、まして生活水として利用することも出来ない。長い年月の末にかつての清涼な水は濁りきり、到底飲めるものではなくなってしまった。周辺の魔物達が日頃から水を粗末に扱っており、泥や毒が入り交じってしまっているからだ。
だが、今となってはそんなことは関係がない。水は飲まなければいいわけだし、近寄らなければ毒にかかることもない。
2人は、びしょ濡れの格好のままで洞窟へと入った。すぐ先には崩落のために完全に壁が出来上がっているが、その手前側だけでもちょうど横穴程度の広さがある。
洞窟の中や周辺に、魔物の姿はない。2人と同じように雨宿りをする魔物がいてもいいはずなのだが、それすらもいなかった。
「また、恐がらせてしまいましたか」
「いいんじゃないかな。戦わなくて済んだんだから」
2人はキャンプの準備をしながら、そんなことを言う。
たき火が燃える。それを挟むように立つと、2人は互いに背を向けた。手早く濡れそぼった衣類を脱ぎ、身体を拭いて着替えを済ませる。
2人の格好は、戦闘用の衣服ではなかった。村人が身につけるような布の服である。男性用は白のツーピースに対し、女性用は薄い桃色のワンピースタイプである。
旅用の毛布を2人で羽織り、身を寄せ合ってたき火の前に腰掛けた。もう、こういう行為も慣れたものだ。
暗い洞窟の中に、人間2人の姿が浮かび上がる。この世界に生きている、いるはずのない人間。
パチパチと、燃え上がる炎の音が聞こえる。外の雨は激しさを増し、たき火の照明が届かないほどだ。
無言のまま、アリスは身体をもう少しだけ彼に押しつける。リュカも黙って、そっと筋肉のついた腕で肩を抱いてくれた。
8年の間に背が伸び、すっかり鍛えた大人の身体になった青年。きっと彼は、まだまだ成長するのだろう。
そして、リュカも同じ気持ちだ。
この8年で背が伸び、匂い立つような色香を纏わせている彼女。その憂いを帯びた瞳は、見る者を虜にさせる儚さを感じさせる。かつての少女としての面影が消え、これから先も芯の強い大人の女性として生きていくのだろう。
とはいえ、それでお互いに恋愛感情があるかは話が別だ。2人はずっと、お互いに暗闇の中で手を離さないようにしながら生きているというだけだ。もしどちらかが手を離せば、自分の中の一部も、その人と共に闇の中へと消えていくのだから。
そんな、ある意味で達観したお互いの認識。だけど、今はどうなんだろうか。しばらくリュカは考えてみたが答えは浮かばない。
――――今の僕は、アリスのことをどう思っているのだろうか・・・・・・?
たき火の前で2人きり。彼ら2人にとっては、特に珍しくもないこと。一緒にいることが当たり前すぎて、恋愛とは程遠い関係になってしまっているんだろうか。今ひとつ、それがハッキリとしなかった。
代わりに、別のことを口にした。
「・・・・・・どうしたの。何だか、さっきから黙っているけれど」
いわれて、自分がずっと無言のままだということに気がついたアリス。確かに、いつもならこういう時くらいは適当な話でもして気を紛らわせているはずなのだが。
「ごめんなさい。少しだけ、これからの事を考えていました」
「これから?」
「はい。もちろん、明朝に向かうラインハットの事ではありませんが」
あの国にも、もちろん鎮魂が必要だ。あの国が変わってしまったことで、自分達の運命はねじ曲がった。あらゆる意味で因縁のある、始まりの場所。
だが、あの国の者は同時に被害者でもある。全ての原因は、あの王妃に成り代わった魔物の仕業なのだから。アリスを次元に迷わせ、リュカ親子もまたそんな因果に巻き込んだ張本人。
だからこそ、その国で懸命に生きた人々に罪はない。あの活気のある軍事国家として支えられ、民もまた生きる希望に満ちあふれていたときの顔は、今でも覚えているのだから。
「実は・・・・・・僅かだけ、おかしな想像をしたんです。気の迷いや、考えすぎだと思うのですが」
「なんだい?」
「この世界のことです」
アリスはどこか言いづらそうだった。自分自身、己の考えに自信が持てないのだろう。あるいは・・・・・・
「リュカ。私が随分前に言っていたことを覚えていますか? 私たちが迷い込んだ頃に考えていた、この世界に対する仮説です」
そう。あの生きる糧すらも満足に手に入らず、この大陸を子供の足で彷徨っていた時。アリスはリュカに自分の考えを告げたことがあったのだ。
この世界は、自分達の未来の時間軸。あのままラインハットが偽王妃によって牛耳られ、人が全て滅んだ世界。それは、あのジゼルの日記帳でも記されていることだった。
だが、それがどうしたというのだろうか。確かに、かつてはリュカとて悪夢のような気持ちに苛まれたものだ。
しかし、辛うじて絶望まで落ちなかったのは、ずっと手を取り合ってくれる少女が傍にいたから。だからこそ少しずつ現実を受け入れ、この世界で生き続けようと思っている。
「確かに、この世界が未来の世界というところまでは、間違いではないでしょう。ただ・・・・・・最近になって、私はどうもそれだけではないような気がするのです」
「・・・・・・」
「もっと言ってしまえば、予感はあったのです。ですが、私はその結論を出すことを、ずっと先延ばしにいていました。もし口にしてしまえば――――きっと“終わってしまう”のだと」
何が終わってしまうのか。黒髪の青年は、あえてその事に触れなかった。アリスから目を逸らし、彼女と同じように何の感情も読み取れない瞳で、篝火を見つめる。
アリスも喋りすぎたと思ったのか、それ以降は口を閉ざす。俯く姿は、どこか悲しそうだった。
「・・・・・・申し訳ありません。少しだけ、疲れているようです。こんな事を口にしてしまうなんて」
「・・・・・・別に、構わないよ。アリス・・・・・・」
呟くリュカの唇が、何処か震えているように見えるのは気のせいか。その疑問を封じるように、彼はアリスの肩へ回している腕に、そっと力を込める。
「明日は、ラインハットに向かうんだ。今のうちに、ちゃんと休まないとね」
「はい・・・・・・」
痛くならないように、けれど離さないように。
アリスは黙って、彼の肩に頭を乗せた。8年間、ずっと支えてくれた逞しい身体になったリュカ。そんな彼に向かって、何を言い出したのだろうか、自分は。
――――もう、今更だ。アリスにとっては、些細なことに過ぎないというのに。
「リュカ・・・・・・すみません。私・・・・・・」
本当に疲れているようだ。今日は遠慮なく、このまま眠ってしまおう。
大丈夫だ。魔物が来れば、すぐに目を覚ませる自信もある。
「ああ、おやすみ」
リュカの体温が、篝火の熱よりもなお心地よい。アリスの瞼は、ゆっくりと閉じられていった。
また、誰かの声が聞こえる。
真っ暗だ。目が見えない。だけど、声だけは聞こえる。
目の前から聞こえる声は、どうやら女性のようだ。疲れているせいか、言葉が途切れ途切れだ。
何を言っているのか、よく聞き取れない。女性の声が小さいのか、それとも単に自分が難聴になっているだけなのか。
他にも、ザワザワと木の枝が揺れる音がする。しかも、自分達の周りから沢山。もしかして、ここは森の中なのだろうか。
ボンヤリした頭でそんなことを考えていると、僅かだけ女性の声が認識できるようになった。今度は、よりクリアな声が。
――――・・・・・・か、この愚かな母を許して・・・・・・マチ・・・・・・
え、と声が出た。この肉声を耳にしている己自身から、疑問の意味がこもった声が。
母。女性の声は確かにそう言った。マチ、というのは最後までよく聞こえなかったが、おそらくは子供の名前。
と、いうことは・・・・・・この母親らしき人は、子供に向かって声をかけているのか。そして、それを意識のある己が聞いている。つまりはそういう事なのだ。
女性の声は震えていた。その声も、やがて遠くなっていく。
正直なところ、何も見えないのがもどかしい。せめて、今がどういう状況なのかが分かれば、いま自分がどうなっているのかが確認できるというのに。
――――・・・・・・
あ、と声が出る。
遠く。何処までも遠くの先で。
ボンヤリと、何かが光った。
火食鳥(ひくいどり)にとって、人間とは前菜のようなものであった。
多少知恵の回るものもいるが、基本的には他の肉食系統のような魔物の餌。己にとって、食べるに値しない存在である。
火食鳥の主な主食は、炎。何から生まれる炎なのか、どれだけの規模の炎なのか。それによって旨味は大きく異なる。
人間もまた、炎を生み出す。それを利用して食事や道具を作る。だからこそ、炎を扱っている人間を積極的に襲ったこともある。お前達ごときが、炎を軽く扱うなと。
だが、それもこの十数年前でそんな日常も終わりを告げる。この世界には、そんな人間も絶滅したからであった。人間という種族は、我ら魔物達に負けたのだ。
だからといって、日々が退屈になったというわけではない。魔物にとって、人間との争いを終わらせることは喜ばしいことだ。これからは本能のままに、魔の世界を謳歌すればいいのだから。
だが、8年前から魔物達の間でまことしやかに囁かれた。この大陸に、人間の生き残りが存在していると。
食欲旺盛な魔物達はその話を知るやいなや、大陸の隅々を探し回った。新鮮な人間の肉はどこか、と。
その過程で、何体かの魔物達が負傷して住み家へ逃げ帰ってくるという事態が起きるようになる。おそらくは、人間達に返り討ちにされたのだ。
奴らは必要のない時は極力命を奪わないようにしているらしいが、火食鳥たちからすればどれがどうしたと言いたい。無様に隠れ潜んでいた弱い人間風情が、今や世界を支配した魔物達に牙を剥くこと自体、煩わしいというのに。
そして、今。
その人間達は、あろう事か我らの前へのうのうと姿を見せた。馬鹿な奴らだ。
容赦などしてやらん。骨の髄まで、燃やし尽くしてくれる――――!
アリスとリュカの戦場は、すでに激戦区と化していた。
火食鳥が放つ火炎の息。ゴーレムが放つ、大地を抉る巨大な拳。リザードマンが繰り出す剣の一閃。空から急降下をしかけてくるバルーン。
この全てを、世界最後の人類は受け止め、躱し、切り裂いていた。
このラインハット大陸における東よりの地域は、レヌール城やサンタローズの周辺に生息する魔物達など比べものにならないレベルの群れが生息している。世界から人がいなくなって以降、魔物の生活区域が大幅に変化しているためだ。
2人が幼い頃には影も形もなかったほどの恐ろしい力を持った魔物達。たとえ1対1だったとしても、隙を見せれば命に関わる相手だというのに。
龍人族の剣士、リザードマンがアリスに向かって袈裟懸けに切りつけてくる。まともに受け止めれば、力で劣るアリスが不利だ。ならば、技量で勝負するのみ。
手に持っている鉄の槍で剣の側面を打ち払い、軌道をずらす。そのまま真横へ振りかぶり、リザードマンの長い首に傷を与えた。
だが、浅い。首を刈るには程遠かった。リザードマンは左腕に装備している盾でアリスの顔面を殴りつける。
一瞬早く、アリスは片腕で攻撃を受け止めた。決して無視できない痛みが肘から手首まで伝わる。だが、それに構ってはいられない。
カウンターで突きを放った。無理な体勢から放ったために簡単に横へ躱されたが、そこからスピードを武器に突きや切り付けを繰り返す。
だが、そこはリザードマンも剣士。剣で打ち払い、盾で防ぐ。それでも、状況はアリスが有利になった。
相手は剣。こちらはリーチのある槍。ある程度の距離が生まれ、そこへアリスが呪文を放った。
「イオラ!」
中級爆裂呪文。リザードマンはたたらを踏むが、まだ倒すには至らない。
そこへさらに踏み込もうとするアリスだが、そこを土人形であるゴーレムの腕に阻まれる。人間をたやすく踏み潰してしまいそうな脚が、地響きを起こしてアリスの前に立ちはだかったのだ。
成人男性が5人分ほど加われば、これほどの大きさになるのかと思うほどの巨体。丸太を上回るほどの腕を振りかぶり、足元にいるアリスへと下ろされる拳。
――――ですが、モーションが大きすぎですよ。
修道女は後方へ倒立回転で跳び、その一撃を躱す。ゴーレムの腕が地面にめり込んだ瞬間を狙い、ステップを踏むように魔物の腕を蹴る。
飛び上がり、ゴーレムの目の前まで身体を晒したアリス。そのまま、上段から真下へ槍を振り下ろした。土人形の頭を鉄の槍が切り裂かれる。
浅くない切り傷を作り、そこへ再び呪文を放つ。爆音と共に、ゴーレムの頭が半分ほど消し飛んだ。
だが、それでアリスも油断したわけではない。宙を飛び回るバルーンが、アリスの背後を狙って急接近してきたのだ。小柄の割に突進力のある体当たりを喰らえば、確実に大きなダメージを受けてしまうだろう。
だが、それは地上にいる相棒によって防がれた。身を切り裂くほどのバギマは、空を飛んでいる魔物と相性がよい。あっという間に全身を覆う竜巻に呑み込まれたバルーンは、遙か高い大空へ回転しながら吹き飛んでいった。
そこで、再びリザードマンが斬りかかってくる。だが、そこで立ち塞がったのがリュカであった。鋼の剣で応戦し、金属音を打ち鳴らして互いに剣を振るう。
着地と同時にアリスが目にしたものは、火食鳥の口から放たれる炎の噴射であった。生き物を焼き尽くす火炎の息は、アリスの全身を呑み込もうとする。
そうなる一瞬前に、アリスは呪文を放つ。それは、全てを凍てつかんとする氷の呪文。
火炎の息とヒャダルコが、互いに相殺された。打ち消しあった影響で、周囲に水蒸気が生まれた。まるで、煙幕のようにこの場にいる全ての者達の視界が真っ白になる。
リザードマンは周囲の気配を探り、油断なく構えを整えた。目だけではなく、耳にも神経を集中させて人間達の動きを捉えようとする。
龍人属の感覚が、近くの気配を拾った。何か重い物を切り裂く音が、すぐ近くで聞こえてくる。やや遅れて、それが崩れ落ちる音。
ゴーレムがやられたか、とリザードマンは瞬間的に悟る。おおかた、背後から一気に接近されて、というところだろう。
直後、甲高い悲鳴。烏の鳴き声に似た断末魔。今度は火食鳥か。
だが、そこまでだ。獲物の位置は掴んだ。感覚を研ぎ澄ませたリザードマンは、確信を込めて剣を振り下ろす。その渾身の一撃に、金属を破壊する感覚が確かに伝わる。
しめた。リザードマンは思った。あの女が持っていた鉄の槍だ。つまり、今は丸腰!
もう一撃。これは僅かに肉を掠めただけ。だが、これで間合いは掴んだ。さらに踏み込み、目の前の敵を今度こそ――――
「たあっ!」
そうはさせないとばかりに、リュカが鋼の剣でリザードマンに斬りかかる。それを予想していた魔物は、もう片方の盾で一撃を防ぐ。もとより、相手が2人がかりだという事は分かりきっている。
ここで、完全に煙幕が晴れる――――直前に、リザードマンの首に鉛のついた鎖が巻き付いた。アリスの放ったチェーンクロスだ。この女は、まだ武器を隠し持っていたらしい。
あらぬ方向に力が込められ、リザードマンはたたらを踏む。そこを見逃すリュカではない。
一閃。リザードマンの首が飛んだ。血しぶきを噴き、地面に転がる首と共に龍の剣士は絶命した。
残心の後、ゆっくりと息を吐く2人。周囲に魔物の気配がないかを確認すると、アリスとリュカは頷き合い、足早に北の山々へ走り出す。
今の戦いで、他の魔物達にこちらの位置を知らされる。次に同じレベルの魔物に出くわしたら、勝てる保証など何処にもないのだ。
2人が向かうのは、丸太のような太い樹木の根に囲まれた小さな洞窟。天然の岩祠を守るように古代の人間が植えていたのだろう。それでも人が入るには充分な隙間がある。
アリスはできる限り枝に躓かないようにしつつ、朽ち果てた洞窟の中に入った。遅れて、リュカも入ってくる。彼が息を呑んだ気配がして、アリスは振り向いた。
「リュカ・・・・・・大丈夫ですか?」
「・・・・・・大丈夫だよ、気にしないで。本当は、何時かは向き合わなきゃあいけないって思っていたから」
「そうですか。ですが、辛くなったらすぐに言ってくださいね」
「ありがとう。僕、もう逃げるようなことはしたくはないんだ」
そう言うリュカの声は、何処か震えていた。無理もない、と思う。
ここ、古代の遺跡と呼ばれる祠は、リュカにとってあまり近寄りたくない場所なのだから。
実は、この“鎮魂の旅”を始めるようになった時、リュカはこの土地に近寄ることを極端に恐れた事があったのだ。今回のようにアルカパやサンタローズと続き、ラインハットへ足を運んだ後に、アリスは何気なくこの遺跡にも行きませんかと提案したのだ。
瞬間、リュカはアリスが驚くほど顔色を青くした。まるで、全身が氷の中に閉じ込められたかのように震え始めたのである。血相を変えたアリスが介抱し、ようやく落ち着かせることが出来たのだ。
――――う、ああっ・・・・・・!
――――リ、リュカ・・・・・・!?
――――アリス・・・・・・ッ! ごめん、僕は・・・・・・!!
それ以降、アリスはこの遺跡に立ち寄ることはしなかった。リュカも自分から行こうとは決して言わず、いつの間にか2人の間では古代の遺跡の話はしないことが暗黙の了解となっていたのである。
しかし、今回の旅の際、リュカはとうとう自分からここへ行こうと提案したのだ。この数年間の間に、彼も心が決まったのだろう。もしくは、強力な魔物と日頃から戦い続けているせいで、未知の恐怖に立ち向かおうという勇気が少しずつ鍛えられたせいなのかもしれないが。
何はともあれ、リュカ本人が己の中に生まれている謎の恐怖を克服したいというのなら、それを否定する理由は何処にもない。2人は数年の年月を経て、この古代の文明が残した遺跡に足を踏み入れたのである。
ヒビの入った石の通路。その床の下に、二股に分かれた小さな水路がある。人の出入りがとうに無くなった今も、絶えず流れ続けているのだ。きっと、山から流れる川と連動するように出来ているのだろう。
黴(かび)と埃の入り交じる中、リュカはポツリと呟いた。流水以外は特に音がしないので、小さな声でもアリスの耳に届く。
「できれば、ここには来たくはなかったんだ。ここは、僕にとっての始まりの場所だから」
「そう、でしたね。以前、聞いたことがあります」
「うん。僕は“ここで目覚めたから”」
そう。リュカは、この誰もいない古代の遺跡の入り口で意識を覚醒したのだ。
誘拐されたラインハットのヘンリー王子を追って、パパスと共にこの遺跡を探した所までは記憶している。だが、その後のことは何も覚えてはいなかったのだ。
唐突に目覚めてみれば、自分はこの場に倒れていて。尊敬している父はいない。ヘンリーもいない。そして、ずっと一緒についてきてくれたプックルもいない。
何故。何故。何故。
その未知の恐怖は、6歳だったリュカにとってどれほどの絶望だったのだろうか。得体のしれない孤独感と恐怖に混乱しつつも、リュカは必死になって走り回った。遺跡の中を、何度も何度も。声を出しても、誰の返事もない。
失意の中で外に出れば、空はすべてを覆い隠す暗い灰色。この時点で、彼は頭がおかしくなりかけていたのだ。
疲弊しきっている身体を無視して、ラインハットへ走るリュカ。だが、兵士たちも城下町の人々もいない。あるのは、血のような何かが広がっている、朽ち果てた建物ばかり。
世界が変わってしまった。そう悟るのに、少年であった彼でもそう時間はかからない。
空腹とあらゆる苦痛に耐えながら、リュカは人を求めて歩き続ける。そして、後に出会った。この世界で、まだ息をしている“同胞”に。
「何かが、ここであったんだ。僕だけが残されて、みんなが消えてしまうような、何かが」
自分に言い聞かせるような口調。もちろん、アリスはそのことを指摘しない。
「リュカ。辛くはありませんか?」
修道女が気遣うが、リュカは少しだけ笑ってかぶりを振る。少しだけ頭痛をこらえるように、こめかみを手で抑えていた。
「実はさ、アリス……君には聞いてもらいたくて」
「……はい」
「今、こうしてこの場に立って……少しだけ、思い出せそうなんだ。全部は、さすがにまだ無理だけれど」
それでも、戻りかけているのだ。失われた、リュカの記憶が。
それはアリスもなんとなく察していた。彼が何を伝えようとしているのかを。
「やはり、リュカ・・・・・・貴方は」
「うん」
意を決したように、リュカはアリスを真っ直ぐに見つめる。
「僕は1度・・・・・・■されたんだ」
――――――――。
その瞬間だけ、2人の周辺から音が消えた。空気の音も、水路からの音も全て。
アリスは、何も答えない。表情も変えない。まるで、察していたというような表情のままで。
「うん・・・・・・思い出してきたんだよ。僕はお父さんと一緒にヘンリー王子を見つけたんだ。お父さんが牢屋を破って、王子と一緒に出たときに・・・・・・」
「・・・・・・」
「魔物の、追っ手が来たんだ。だからお父さんがその場に残って、僕はヘンリー王子とプックルと一緒に、急いでここまで来た。だけど・・・・・・誰か、誰かが立っていて、それで・・・・・・」
頭痛が酷くなってきたらしく、顔を歪めて頭を抱えるリュカ。それでも、彼の口は止まらない。
「・・・・・・そうだよ。僕たちはあっという間にやられちゃって、そこに、お父さんが助けに来てくれたんだ。でも、僕は人質に取られて、鎌を喉に突きつけられて・・・・・・その後は、後は・・・・・・」
その後、の続きをリュカは話すことはなかった。もういい、苦しまないでほしいと、アリスはリュカに駆け寄ったのだ。そっと、彼の身体を己の腕で抱き留める。
そうです。それ以上は思い出せないというのなら、無理をしなくて良いのですから。
「もう、分かりました。だから、もういいんです」
「アリス・・・・・・でも、僕は・・・・・・」
擦れた声のリュカに、アリスは背中を優しく叩くことで答える。
「ありがとうございます。ずっと、辛かったんでしょう? そんな記憶を抱えたまま、ずっと私にも話せずに」
「お、思い出したのは・・・・・・去年の今頃だったんだ・・・・・・だけ、ど」
だけど、今の今まで言えなかった。自分が命を落とす瞬間など、記憶を失って当たり前のことだから。なにより愛する父親や、友達になれるかもしれなかったヘンリー王子が、目の前で失われてしまったなどという可能性を、どうしても認めたくなかったから。
リュカは、ずっとそれから目を逸らし続けてきた。生きていてほしいという願望。もしかしたら■んでしまっているかもしれないという絶望。その二律背反が彼を苦しめ続けているのだ。
今のリュカは、暗闇で置き去りにされてしまった子供そのものだ。どれだけ逞しく成長しようとも、心まではそうはいかない。
「思い出すだけで、怖かった・・・・・・本当に痛かった・・・・・・悲しかった」
「はい」
胸元が、じわりと濡れるのが分かる。身体が震え始める彼を、アリスはほんの少しだけ強く抱きしめた。
「よく頑張りましたね、リュカ」
そっと彼の顔を上げさせてあげると、瞳が濡れそぼっている彼の顔が目に映る。泣きじゃくる子供をあやすように、彼女は優しく頭を撫でた。
「もう、私たちの旅も終わりです。ですから、帰りましょう」
「アリスぅ・・・・・・」
「帰るんですよ。私たちの家へ」
もう一度、聖職者の女性は彼を抱きしめた。今度は、彼の腕もアリスの腰に回る。
嗚呼、それでも。
それでも、生きねばと思ってしまう。
「お父さん・・・・・・サンチョ・・・・・・プックル・・・・・・」
何度も思う。今日も自分は生きていると思えるのは、自分と同じ人間が傍にいるからだ。
銀色の髪で、穏やかな瞳で自分を見つめている。少女の面影が消え、大人の女性へ近づいている1人の女。
ずっと、ずっと。自分だって寂しくて苦しいはずなのに、自分の前ではいつも頼もしいお姉さんとして振る舞って。
いつの間にか、自分はそんな彼女から目が離せなくなっていて。
「きっと、僕はあの時に■んだんだよ・・・・・・何かがあって、この世界に迷い込んじゃったんだ・・・・・・」
「何が起きたのか、なんて今の私たちには些細なことです。その何かのおかげで、私たちはこうして会えたのですから」
それがなければ、私こそひとりぼっちで生きていかなければいけなかったんですよ、と。彼女はこの出会いを肯定する。
諭すように、宥めるように。
「私たちは、これからも生きていくんです」
こくり、とリュカは頷く。
それでも、彼の涙が止まるのは随分と時間がかかってしまった。
それから2人の心が落ち着いた頃、簡素ながらも鎮魂の祈りを捧げる。もとより、彼女らはそのためにここへ来たのだから。
僕だってそうだ。リュカは思う。アリスと一緒に、祈りを捧げながら。
確かにいた。この世界にだって、きっと僕の知っている色々な人が生きていたはずなのだ。
洞窟を出た頃には、既に夕方に差し迫る頃だった。洞窟の中で一晩を過ごすことも考えたが、早朝にここを出たとしても、どのみち野宿をすることには変わりない。
帰路についた2人は、一様に無口だった。様々な思いが、頭を駆け巡っていたからだろう。
野宿の後も夜通し歩き続け、ラインハット跡地が見えるようになった頃、リュカはアリスの手を取った。唐突に無言で捕まれた形になったが、アリスは特に嫌な顔もせずにそっと握り返すだけ。
この、2人の間に流れている空気を、2人はこれまで知らなかった。この8年間、ずっと生きるために必要だった行為が、今日はどこか特別な何かのように感じる。
吐く息が白い。それでも、頬は汗が出そうなほどに熱い。帰路についている状況でなければ、もっと抱きしめ合いたいくらいだった。
お互いの足に合わせ、ゆっくりと荒野を歩く。手から伝わる温もりが、夜の冷たさから守ってくれているよう。
遠くから聞こえるのは、野生動物の鳴き声。そして魔物達の遠吠え。
そんな人間の脅威となる存在を横切るのも、もう慣れた。自分達もまた、この世界の一部として根付いてしまっているのだから。
何より、今の2人の耳には届かない。
「ラインハットに着いたら、食事にしましょうか。材料はまだ充分に余っていますので」
「そうだね。あの近辺の魔物も最近は大人しくなったみたいだし」
ラインハットの周辺は、未だに子供時代と変わらないレベルの魔物が相変わらず生活している。数年前から、2人の姿を見るとすぐに逃げ出すようになったのだ。
今や、あの滅んだ城は雨風を凌ぐ休憩地点として利用している。あと、ラインハットの関所もそうだ。
特に城に至っては広い台所も残っている。壊れたところは何年か前に修理済みなので、野宿よりも快適な一晩が過ごせるのだ。
そして、温かい食事を2人で食べた後。その後は――――
2人が、緊迫感とは程遠い空気を纏い始めた――――その時、不意に大地が揺れる程の轟音が鳴り響く。
「うわ!」
「きゃあっ!」
共に驚愕の面持ちで、自分達が進んできた方角を振り返るアリスとリュカ。轟音は、さらに断続的に響いており、それが刻一刻と大きくなっていった。
必然、大地を揺るがす衝撃も強くなっていく。訳も分からないまま、アリス達は立つことすら覚束なくなってくる。そんな中で、変に頭の冷静な部分が素直な感想を思い浮かばせた。まるでこの地響きは、生き物が歩いているようだと。
そう。あのゴーレムを数倍ほど巨大化した2足歩行の何かが、大地を踏みしめて歩けばこうなるだろう。
――――そんな、アリスの思いつきで生まれた感想が、まさか正解だったなどとは当人にも理解できなかっただろう。
やがて、古代の遺跡の入り口である洞窟が――――建物よりもなお広い足で踏み潰された。
姿を見せたのは、まさに山を思わせるような巨体の怪物。巨人と呼ぶことすら生ぬるいほどの、純然たる化け物。凝然としながら、たった2人の人類はその場に棒立ちになるしかない。
あの存在感は、手傷を負いながらも戦った火食鳥やリザードマンの群れが、我先にと背を向けて逃げ出すほどの脅威だったからだ。
全身が黄銅色に似た体毛で覆われているその純然たる怪物は、遙か遠くに立っているアリスとリュカを、確かに視界に捕らえた。
そして――――大陸の端から発せられた声は、2人の全身に衝撃波となって襲いかかる。
「ブウウゥゥゥィィ・・・・・・ッ。まさか、まだこの辺りにも人間が生きておったとはなぁ・・・・・・!」
この瞬間こそ、人類が滅亡するカウントダウンが始まったのだ。
つづく
この場を借りて、ちょっと解説。
大体予想がついている方もいらっしゃったかと思いますが、空を灰色にした犯人登場。
ついでに、サンタローズを跡地にしたのもこいつです。といっても、当人は潰したという認識すらありませんでしたが。なぜなら、その時点で既にアルカパもろとも滅んでいたので。
ついでに、こいつは子供さらいの教団や偽王妃一味とは全く違う系統で生まれた魔物なので、魔物だけの国と化したラインハットもついでのように滅ぼしています。