DRAGON QUEST Ⅴ ――聖女の足跡――   作:玖堂

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最後の安らぎ

 

 

 

 

「あ、あれは・・・・・・一体」

 

 灰色の空にも届こうかと錯覚してしまいそうなほどの巨体の怪物。その絶望的ともいえるほどの威容に、アリスは息を呑んだ。

 

 なんだというのか、あの怪物は。アリスの知識の中に、あのような魔物など何一つ該当しない。

 

 ただ一つ分かっているのは、あの怪物は自分達を視界に入れている。獲物として狙いを定めているという事だけだ。地響きを鳴らしながら、両腕をだらんと下げて真っ直ぐに歩み寄ってくる。

 

 だが、その緩慢な動きは決して怪物の慢心によるものではない。奴はその巨大な大口を開き、その喉の奥から火柱を思わせるほどの激しい炎を放ったのだ。

 

 ラインハットの辛うじて残っている残骸もろとも、全てを焼き尽くす地獄の炎。木々や山が炎に呑まれ、意思を持つかのような勢いで瞬く間に燃え広がっていく。

 

 グラリ、と黒ずんだレンガの一部が地面の上で崩れていった。その時、砂も燃えたのだ。

 

「アリス!」

 

 リュカの叱責の声に、彼女はようやく我に返る。その声で初めて、自分が放心していたことに気づいたのだ。

 

「だ、大丈夫です・・・・・・!」

 

 動揺してしまった意識に反して、身体は反射的に動く。両手に魔力を込め、全てを凍りつかせる呪文。

 

 従来のそれとは大きく威力が異なる、彼女自身の魔力の象徴を司る氷の閃光。名を、ヒャダルコ。

 

 これまでのように、どこかで魔物達の命を気遣って押さえつけていた呪文とは明らかに違う、アリスの本来のヒャダルコ。その凝縮された猛吹雪が名も知らぬ怪物の右足に直撃する。

 

「ぬうっ・・・・・・!?」

 

 だが、怪物は怯まなかった。ほんの僅かだけ己の足に視線を向けたものの、膝小僧のような部位が僅かに凍るだけ。

 

 何事もなかったかのように、怪物は前進を続ける。いけない。今のはかえって挑発するだけだったのかもしれなかった。

 

「逃げよう!」

 

「は、はい!」

 

 腕を引かれ、必死になって走るアリス。後ろを振り向く余裕など無い筈なのだが、どういうわけか怪物がすぐ背後に近づいているような錯覚を覚えてしまう。

 

 まだか。まだたどり着かないのか。2人の心にはその焦燥しか無かった。火食鳥たちの大群に追われたときでも、こんなに足を必死に動かさなかったのに。

 

 燃えさかる火が周辺を焼き尽くしている中に飛び込み、リュカは城の中へと入っていった。朽ち果てた扉はとうに燃え尽き、割れていたガラスも溶けている。

 

 なおも外では崩れ落ちる音や衝撃が伝わってくる中、未だに火の手が回っていない通路を走る。息を切らせながらも、アリスは言った。

 

「リ、リュカ・・・・・・関所へ向かった方がよかったのでは・・・・・・?」

 

「ダメだよ、間に合わない! あの怪物の1歩は、僕らの100歩分は大きい!!」

 

「そ、それはそうですが・・・・・・」

 

 廃墟の城を取り囲む、小さな水路が見える。そうだ。あそこなら、地下の聖堂へ隠れることが出来る――――

 

 ほんの一瞬だけ生まれた希望は、瞬く間に失望へと変わる。城下と城の出入り口を繋ぐ水路の壁の一部が、既に衝撃で崩れ去っていたのだ。そのため、出入り口が完全に埋もれてしまい、もはや中に避難するどころではない。

 

「アリス。城の中に入ろう!」

 

「・・・・・・っ。やむを得ませんか!」

 

 もちろん、ここでは袋のネズミだ。そう理解した上で、2人は燃えさかる城の中へ入っていく。

 

 もう、応戦するしかないのか。だが、あんな怪物を相手にどうやって?

 

 生半可な魔法が通じる相手ではない。実際、アリスの渾身のヒャダルコも効かなかったのだから。

 

 そして、怪物が吐いた炎の一撃は、そこいらの魔物のブレスなど比較にもならない一撃だ。それが意味するところはつまり、それだけの実力の差がある相手ということ。

 

 遠くで再び炎の閃光が山を焼く。地響きが大地を揺らす。あの名も知らぬ怪物が、すぐ傍まで迫っている証拠だ。

 

「――――ああっ!」

 

「アリスっ!」

 

 とうとう炎が追いついてきた。レンガの壁を当然のように溶かす炎が、真横から彼女の身体を染め上げていく。僅かに前を走っているリュカはあおりを喰らっただけなのでまだ余裕はありそうだが、修道女の方は一瞬だけ意識が飛んだ。

 

「・・・・・・っ」

 

 それでもまだ足を止めずにいられるのは、これまでの経験による物か。それとも、彼に腕を引かれているからか。

 

 壁が崩れ落ちて、向こう側の通路が開いている。瓦礫の上を飛び越え、さらに奥へ。

 

 背後の天井を、怪物の足が貫く。人間が長年をかけて築き上げた建築物など、怪物にとっては障害にもならないようだ。

 

 もう一刻の猶予もない。身を隠す場所は。身を隠す場所は。

 

 2人は心から願った。どこでもいい。どんな奇跡にでも縋りたい。今まで自分達が調べていないような、都合のよい隠し通路でも現れてくれないだろうか、と。

 

 半ば、恐慌状態に陥る2人。もはや、どこを走っているのかすら理解できなかった。

 

 もう、だめなのだろうか。そんな、生きることを諦めようという諦念すら覚え始める。

 

 だが、辛うじてそれを堪えることが出来ているのは、今もなお生きようと腕を引いてくれている、頼もしい腕があるからだ。あの時のような、この世界に来て絶望していた頃とは違う。

 

 一度は乗り越えた絶望。ならばこそ、絶対に諦めません――――!

 

 その持ち直した心に、きっと何かが反応した。そう思わせる変化が、2人の前に生まれる。

 

 ――――視界に、光が映った。

 

「あ!」

 

 驚きの声を発したのは、果たしてどちらだったのか。

 

 今、2人の目の前に現れた光は――――

 

 

 

 

 また、夢を見た。

 

 アリスは思う。もう何度目かの同じ夢。

 

 彼女の心に動揺はない。もう驚きなど、とうに通り越しているのだから。

 

 燃えさかる城。顔の見えない王様が、王妃様に逃げろと訴える。同じように顔の見えない王妃は己の子供を抱いて、永遠の別離へとお互いに向かっていく。

 

 もう、見慣れた夢。この世界にきてから、何度も見た。

 

 だが、この夢に限っていえば、新たな驚きを覚えさせる内容だったのかもしれない。いつもは断片的に見えている夢も、今だけは途切れることもなく続いているのだから。

 

 アリスの視界は、馬に乗って大地を駆け抜ける王妃の姿を映している。後ろに数頭もの馬に乗っているのは、おそらくは従者なのだろう。

 

 遠い山々の向こうで、城から放たれている炎の煙。それを振り返ることも出来ないまま、王妃は涙を堪えて馬を走らせる。

 

 たき火を囲んで、何度も野宿をする一行。やがて、その王妃が連れている人達も1人、また1人と姿を消していく。

 

 王妃達を追っている魔物の襲撃で襲われた者。戦いに明け暮れた毎日に疲れ果てて、自ら国の外へ去っていた者。王妃は、その全ての者達を例外なく黙って見送った。

 

 失った命には涙を流し。背を向けて去っていった者達には頭を下げて。

 

 王妃の周りには僅かな人しか残ってはいない。乗っていた馬も、どこかで息絶えた。

 

 それでも、王妃達はその美貌を血や埃に染め上げたまま、その場所へとたどり着く。

 

 遠くからは、微かに誰かが戦っている声や爆音。彼女達を追っていた魔物達と、従者達が戦っているのだ。王妃の元へは行かせまいと、森の入り口で奮戦してくれているのだ。

 

 そこは、名も無き森。その奥深くに、一つの小さな祠があった。

 

 中に奉られているかのように存在しているのは、空間の歪みから生まれた旅の扉。その光り輝く渦に、王妃は近寄っていく。

 

 変わらず腕の中に抱いているのは、我が愛しい子供。かけがえのない夫との、愛の結晶。

 

 我が子を目の前に掲げる王妃。赤子特有の無垢な瞳に、己の悲しげな顔が映る。

 

 ――――マチュ・・・・・・私の可愛いマチュ・・・・・・

 

 聞こえた。確かに、王妃の声が聞こえた。マチュ。それが、赤ん坊の名前。

 

 王妃の言葉は頬を伝う涙のように続いていく。

 

 ――――もはや、魔物達の侵攻は止めることは出来ません。王家の統括も、私たちの代で終焉を迎えることとなりましょう。我が夫も、おそらくは今頃・・・・・・

 

 どうか、母の言葉を聞いてほしい。そう赤ん坊へ訴える女性に、アリスは胸の奥に熱い者がこみ上げてくる。どういうわけかこの光景を見ていると、何かしなければという思いにとらわれるのだ。

 

 いや、正確にはその衝動は王妃が王と分かれる前から、ずっと感じていた。身体が震えるまま、アリスはその先を見届けることしか出来ない。

 

 こんなに近くにいるのに。触れることも叶わない。その事実が、あまりにももどかしかった。

 

 ――――王族としての務めを、私は果たすことが出来なかった。ですが、せめて1人の母として・・・・・・出来る事をしなければと思っています。

 

 王妃は今もなお輝き続けている旅の扉に、そっと近寄る。何かを呟くと、その祠の全てを囲うほどの魔方陣が地面に浮かび上がった。王族というからには、生まれ持った魔力や英才教育も相当なものなのだろう。王妃が卓越した魔法使いだったとしても、不思議ではない。

 

 アリスの見たこともない魔方陣。それが縮小されるように、中央にある旅の扉へ溶け込んでいく。

 

 ――――これで、準備は出来ました。魔力が、持たないせいで・・・・・・私が共に行けるほど残ってはいませんが・・・・・・母の名にかけて誓います。私も、すぐに後を追うと。

 

 息が荒い。話の口ぶりからして、相当な魔力を使ったのだろう。しばらくは休まなければ同じ魔法は出来そうにない。

 

 最後にグッと最愛の子を抱きしめると、膝をつく。手前には、奇妙に魔力の籠もった時空の狭間。

 

 もう一度だけ、言って聞かせるように語りかける。赤ん坊は、これから何が起きるのか理解できておらず、首を傾げているだけ。

 

 ――――ああ、少しだけ1人にさせてしまうけれども・・・・・・どうか、この愚かな母を許してね・・・・・・マチュ・・・・・・

 

 必ず会いに行く。その全ての想いを込めて、王妃はそっと最愛の赤ん坊を旅の扉の光へと捧げた。それはまるで、母が子をベッドへ寝かせるかのように優しく。

 

 こうして、全ての想いを込めて。

 

 母親は、我が子を託した。

 

 

 

 

 修道院へ行きましょうと提案した時、リュカは迷い無く頷いた。

 

 この大陸ではリュカは不慣れだろうし、何よりもまず腰を落ち着ける場所といえばそこが一番近い。何より、アリスの育った場所なのだから。

 

 この辺りもまた、先ほどまでいた大陸と同じく、雑草すら生えていない荒野の国であった。後ろには枯れ果てて変色したままの木々。さっきまで、アリス達がいた場所だ。

 

 その木々の中心部には、かつてはそれなりに神聖な趣があったのだろう祠が、寂しく崩れ落ちている。奉られていたであろう旅の扉は、まるで風前の灯火のように消えかかっていた。

 

 旅の扉。そう、あの怪物に追われていたとき、周囲が真っ白になったのは、まさにあの旅の扉だったのである。かつて、あの偽王妃がアリスを落とした空間の狭間。

 

 突如、足元が揺れたと思うと視界の全てが白くなった。気がつけば、この祠跡へと倒れていたのである。

 

 未だに混乱が続く中、現状を確認する。周囲を見回したところ、すぐにこの場所がどこなのかを察したアリス。リュカの目には、遠くの山々を奥から、微かに塔のような物が建っているくらいしか分からなかったが。

 

「あれは、神の塔です」

 

「神の塔?」

 

 オウム返しに訊くリュカに、アリスは共に歩きながら説明した。

 

「古くから、修道女が試練として登る風習のある塔のことです。修道院のヴェラ司祭も、かつては神の塔へ挑んだことがあるのですよ」

 

 もっとも、今では魔物が爆発的に増えたために、そういった風習はなくなっているそうですが、と付け加えておく。

 

 アリスはもう一度振り向いた。旅の扉として機能していた光は、もう放たれていない。それでも、自分達がこの場に立っていることは紛れもない事実だ。あれは、確かに旅の扉の効果によるもの。ラインハットにあったものは、元々この場に繋がっていたのだろう。

 

 なぜ、あのタイミングで旅の扉が復活したのか。8年間もの間、一度だって光ったことなど無かったのに。

 

 しばらく頭を働かせてみたが、結論は分からないの一言だ。アリスは頭を振る。

 

 原因を考えていても答えは出そうにない。まずは、これからのことの方が肝心だ。何はともあれ、あれほどの危機から逃れることが出来たのだ。何が原因であろうとも、それをまず有り難く受け入れよう。

 

 なにしろ、あの正体不明の怪物がラインハットで今も暴れているはずなのだ。おそらくは、姿を消した自分達を探すために。

 

「・・・・・・何者だったんだろう、あの魔物は」

 

「私も、心当たりはありません。少なくとも、私がこれまで読んでいた図鑑の中にも、あれほどの巨大な魔物など見たことがありませんでした・・・・・・」

 

 ラインハットの方角を気にしながら、警戒を色濃く残しているリュカ。そして顔色を青くしたままのアリス。それほどまでに、あの魔物は強大かつ恐ろしかった。

 

 今更になって、背筋が凍りつくような悪寒に襲われる。本当に間一髪だった。あと少し旅の扉が発動するのが遅ければ、今頃2人とも命はなかっただろう。

 

 それを考えれば、あの怪物から距離を取れたことは本当に幸運だった。あまり油断は出来ないだろうが、大陸規模で離れてしまえば今のところは安全ということだから。

 

 今後の事を踏まえ、アリス達は修道院へと向かう。距離を考えれば野宿をするかどうかという微妙なところだが、幸いにして道具袋は今もリュカが背負っている。

 

 相変わらずの荒野の世界に風が吹く。修道女の衣服を身につけているアリスのヴェールがフワリと揺れた。彼女は反射的に、銀糸の髪ごと切り傷のついたヴェールを抑える。

 

 2人とも埃まみれというだけではなく、身につけている衣服が十数カ所も切れていた。もっとも、肉体そのものに大した傷がついたわけでもなし、気にすることはない。実際、それどころでは済まない相手だったのだから。

 

 突如、ガサリという音が2人の耳に届いた。一瞬だけ警戒して、傍の草むらに顔を向け――――すぐに安堵の息を吐く。

 

 何のことはない。魔物のクックルーだ。愛らしさすら感じる通りすがりの魔物である。

 

 2人の人間と己の実力差を肌で感じ取ったのだろう。怪鳥の魔物は仰天したように後ろへひっくり返ると、一目散に背を向けて逃げ去っていく。

 

 アリスとリュカは、それ以上の関心を向けることもなく先を急ぐ。この周辺を生息地域としている魔物達は、警戒する必要はなさそうだ。こんな状況だが、それだけが不幸中の幸いだろう。

 

 そう。言葉にこそ出さないが、この辺りを再び歩いているということは、本当にアリスにとって懐かしい気持ちが生まれてくる。

 

 物心ついたときから、アリスは修道院の修行者として育ってきた。この辺りはアリスに限らず、シスター達の庭のようなものだ。

 

 今でこそ荒野になってはいるものの、岩の場所や山の位置などは彼女が幼い頃から知っている風景と同じ。6歳になる前の頃から、本格的に護身術や武具の使い方を教わり、その鍛錬のためにこの地域で武器を振るっていたものだ。

 

 当時から司祭代理を務めることもあったリディアは、ほぼ全ての武具を使いこなし、使える魔法も一流であった。そんな彼女はアリスに魔法の才を見いだし、さらにナイフと鞭、そして槍の技量を伸ばすようにアドバイスをしてくれたのである。

 

 あいにくと、アリスは当時まだ7歳であった。見習いの域を出ず、教わったものは基礎のみ。今現在の技量は当時の先輩方のそれを覚えている限り再現したに過ぎず、それ以外は全て自己流である。

 

 アリスにとって、ヴェラやリディアの背中は大きかった。あの方達ならどんな困難からも人を助け、そして導ける存在なのだと信じて疑わなかった。そして、それは今も心の中に残っている。

 

 そう。だからこそ――――かつて修道院だった聖堂の光景は、嫌でも現実を直視させられてしまった。

 

 アリスの故郷である修道院は、レンガ造りの内装が見えるほどに半壊している。かつては数多くの信者が100人近くは入れそうなほどの祈りの間が、今では見る影もない。規則正しく並んでいたであろう木製の長椅子は、いくつもM字に折れ曲がっており、中にはもはやイスの脚や背もたれの一部が破片となって床の至る所に転がっている。

 

 最奥の聖壇へ続く赤い絨毯は大きな焦げ跡のせいで、その用途を失っていた。壁が崩れたときの残骸が山となっていて、足の踏み場もない。歩くには、内部を大きく迂回しなければ目的の場所までたどり着けないだろう。

 

 そして何より目を引いてしまうのが、朽ち果てた出入り口の扉に転がっているそれ。今や壊れたレンガの山に寄り添うように放置されている、白骨化した屍。色あせてこそいるものの、アリスと同じ修道服を身につけていることが分かる。

 

「――――」

 

 後ろに立っているリュカの目からは、立ち尽くしているアリスの表情は見えない。彼自身も、見ようとは思わなかった。

 

 ただ、黙って彼女の細い背中を叩く。

 

「・・・・・・入ろう。それとも、ここで待っているかい?」

 

「分かっています・・・・・・私も入ります。いえ、入らなければいけませんから」

 

 意を決し、2人はかつて修道院だった廃墟へ足を踏み入れた。

 

 

 

 

「これで、全員・・・・・・だよね」

 

「・・・・・・」

 

 リュカが額に浮き出る汗を拭いながら言った。見つけた人骨が全て入るほどの墓を掘っていたのだ。疲弊するのも当たり前である。

 

 一方で、アリスはたき火を作っていた。そこに、ボロ切れのようになった衣服の一部や私物を、まとめて火にくべている。どれも、生前のシスター達のものだ。

 

 涙は流れない。こうなっていることは、とうの昔に察していた筈なのだから。

 

 それでも、心の中が重く感じてしまうのは仕方がない。実際にこの場に足を踏み入れて、現実を目の当たりにしてしまったのだから。物心ついた頃から覚えている、シスター達の姿。その1人1人の姿が、アリスの頭に浮かんでは消えていく。

 

 千切れたまま野ざらしになっていた聖書。血痕が滲んだままのヴェール。切り刻まれた修道服。それら全てが灰となり、煙にまとわりついて飛んでいく。

 

「・・・・・・さあ、始めましょう。願わくは、あの方々の魂が神の元へ無事に参られんことを」

 

 そして、最後の修道女は祈りの言葉を捧げた。後ろでは、リュカもまた指を組んで目を閉じる。顔も知らないアリスの家族に、心からの祈りを捧げるために。

 

 ――――そして、僅かな時間の後。2人は修道院を去った。

 

 外は既に、灰色の空が闇の中へ溶けている時刻。修道院に来てから、半日ほど経っていたらしい。燃えさかる松明を片手に、迷い無く歩き続ける2人。アリスとリュカの瞳には、これからの事しか映ってはいない。

 

 冷たい風が吹く。ザワザワと木々が揺れ、砂浜の砂塵が僅かに舞い上がった。今は来た道を逆に進んでいる状態だ。

 

 大橋を挟んだ南の大陸へと向かう2人。それまで沈黙を保ち続けた2人だが、アリスがおもむろに話し始めた。

 

「・・・・・・先ほど話したとは思いますが、確認です」

 

「分かっているよ。僕たちは今、神の塔に向かっているんだ」

 

 そう。この宵闇の中、2人が向かっているのは神の塔。神が信者の信仰心を試すために造ったといわれている、古き塔である。

 

「はい。そこで、あの魔物と決着をつけます」

 

「あんなに巨大な敵と戦うには、確かにあの塔以外じゃあ無理だよ」

 

 山と見間違うほどの巨大な体格の怪物。さらに、ちょっとやそっとの魔法ではビクともしない。これでは何度戦ったところで、ラインハットの時の繰り返しだ。

 

 だが――――

 

「あの塔の頂上ならば、私たちは戦えますから」

 

 あの高さならば、むしろあの怪物よりもなお高い位置で迎え撃つことが出来るだろう。地形を最大限に利用し、勝機を掴むのだ。

 

 なにより2人の手に持っている武器は、この大陸へ来る前よりも強力なものに代わっている。

 

 ――――リュカの手には、十字架の装飾が施されている聖なる剣。主にゾンビ系統の魔物に対して効果のある剣である。

 

 ――――アリスの手には装飾の入った槍が握られている。雲間から走る稲光を象ったデザインの、神秘的な武器。

 

 どちらも荒々しい戦いの跡が残る修道院の中で、2人が見つけたものだ。最後まで戦い抜いたであろうシスター達の姿が目に浮かび、アリスは不覚にも涙ぐみそうになった。

 

 一緒に墓へ納めてあげようかと思ったアリスだが、それをリュカは止める。彼は落ち着いた声で、アリスに諭したのだ。

 

 もしこの人達が生きていても、きっと僕達に譲ってくれたと思うよ、と。結局、その言葉に折れてアリスは彼と共に武器を借りることになった。

 

 そして、防具も。

 

 リュカはドラゴンの鱗や皮を素材としたドラゴンメイル。アリスはかつて賢者が身につけていたという上質な魔力が込められている賢者のローブといった具合だ。こちらは、元々空き室だった場所に使わずじまいのまま残されていたものである。

 

 まるで墓荒しのようだと思ってしまったのは、致し方ない事である。事実、後ろめたさを感じなかったわけではない。だが、全ては生きるため。過去の遺産は、生きるものが受け継がなければ。

 

 なにより、そんな感傷的な理由で武器を手にする機会を捨てられるほど、現状は甘くはないのだから。

 

 2人は数日間をかけて、旅の扉があった森深き祠を通り過ぎる。そこからさらに南へ向かう頃には、既に辺りは夜になっていた。広大な山脈に囲まれるように存在しているその塔は、確かに神が与えた人への試練に相応しい威厳がある。

 

 かつては草原だったであろう荒野を歩く。高い山々を横目に、2人は回り込むように塔への道を進んでいく。ふと、あの山脈は怪物とどちらが大きいだろうかという考えが浮かんでしまった。

 

「この神の塔は、元々修道女が試練のために登るという話はしましたね」

 

「うん。確か司祭様が登ったことがあるって」

 

「そうです。この神の塔は、正確にいつ誰が建てたのかは今でも分かってはいないそうです。だからこそ、信仰心のある当時の司祭様は、人のために神が作り上げた塔だと考えたそうですよ」

 

「だから、修行のために使っているの?」

 

「そういう事になります。ですが、この神の塔が修道女の修行の場と認識している理由は、それだけではありません。他にも理由があるのです」

 

 理由とはなんだろうか。それを聞く前に、アリスは別の話をする。

 

「これは私が昔、修道院の書物で読んだ内容ですが・・・・・・」

 

 そして、彼女は語る。かつて、神を疑う1人の乙女が存在していたことを。

 

 ――――その少女は、真実を確かめるために神が住むという塔に登った。

 

 ――――神を疑う少女に、神はいくつかの試練を与えるが、少女はそれを全て乗り越えた。

 

 ――――そんな彼女の勇気を認め、神は塔の頂上で真実を映すという不思議な鏡を授けたという。

 

「・・・・・・という言い伝えが残っているのです。少なくとも、真実を映す鏡が存在していることは事実ですよ」

 

 昔、ヴェラ司祭様から聞かされましたとアリスは話を締めくくる。

 

「ふうん・・・・・・凄い話だね。あの塔で女の子が1人で・・・・・・」

 

「ええ。だからこそ、そんな勇気を神は認めたのです」

 

 リュカの少しズレた感想も、アリスは特に深く指摘しない。そうこうしているうちに、2人は神の塔の内部へと続く出入り口の前に着いた。

 

 早速リュカが、扉に手をかける。だが、どういうわけか物音一つしない。

 

「あれ?」

 

「も、申し訳ありません」

 

 首をひねるリュカに、アリスが少しだけ恥ずかしそうに言った。

 

「言い忘れていました・・・・・・実はこの扉は、神に仕える乙女にしか開くことは出来ないそうです」

 

「・・・・・・どういう事?」

 

「つまり、修道女の祈りによって開くことが出来るということです。ここが、修道女の試練の場である最たる理由がそれです」

 

「・・・・・・そういう事は、流石に前もって言ってほしかったな」

 

「は、はい。返す言葉もありません・・・・・・」

 

 リュカのジト目に、アリスはただ恐縮するしか出来ない。うっかりしていた。説明をするのに気を取られて、肝心なことを話していなかったなんて。

 

「で、では始めます」

 

「・・・・・・」

 

 彼の視線を背中に受けつつ、アリスは気を取り直して祈りの姿勢を取る。

 

 指を組み、そのまま顎の下へ。長年欠かしたことのない祈りは、まさに修道女の見本そのものであった。

 

 瞳を閉じて、外界の情報を閉ざす。意識するものは外ではなく、内なる信仰の心。瞬間、それまでの雑念が全て煙のように消え去っていく。

 

 神よ・・・・・・

 

 やがて、天から降り注ぐのは淡い光。その、まさに天上の神からの意志であるかのような輝きは、神の試練を求める者を受け入れるかのように――――音もなく開いた。

 

「本当に開いた・・・・・・触れてもいないのに。それに、さっきの光は・・・・・・」

 

 リュカが目を瞬かせて言った。アリスは自覚こそなかったが、第三者から見れば本当に幻想的な光景だったのだ。光のカーテンがアリスと扉を包むかのような、まさに神が生み出した奇跡。

 

 アリスは、ふうと息を吐く。修道女としては見習いの肩書きが外れないままであった自分だが、無事に神に仕える乙女として認められた事が本当に嬉しかった。

 

「よかったです・・・・・・さあ、参りましょう。あの強大な魔物を討つために」

 

 一つの試練を乗り越えたアリスの姿は頼もしく、また凜々しかった。先ほどまでのうっかりした表情が、まるで嘘のように。

 

 いや、あれも彼女の一つなのだろう。それでも・・・・・・

 

 背筋を伸ばし、堂々と足を踏み入れるアリス。未だに思考が纏まらないまま、リュカもまたその背中を追っていった。

 

 2人の周囲を取り囲むのは、大理石の柱と壁で構成されている内部。なるほど、確かに威厳のある内装で造られている。

 

 人が手入れをしているわけでもないはずなのだが、固い床には埃の一つも落ちている様子はない。これはおそらく、何かしらの加護の賜物なのだろう。それでも試練の一環なのか、微かに魔物の気配は感じる。

 

 だが、今の2人からすれば微弱なものだ。察するに魔道士やドラゴンキッズ程のレベルだろう。取り立てて警戒する必要はない。

 

 正面のフロアを抜けると、左右にそれぞれ分かれ道が造られている。突き当たりには、やはり扉。だが、こちらは出入り口とは違って、ごく普通に開けることの出来る扉のようだ。一度開けたアリスには理解できる。

 

「リュカ。開けてみましょうか」

 

「あ、うん」

 

「?」

 

 何故か歯切れの悪い返事が来る。なんとなく、アリスに声をかけようとして失敗しているような、そんな印象を受けた。首を傾げながらも、彼女は扉を開く。

 

 ――――その瞬間、2人はここを開けて良かったと思った。世界が、元に戻ったような錯覚を受けたのだ。

 

 なぜなら、その奥は緑に溢れた庭が広がっていた。この場は中庭のように吹き抜けになっており、その中央を分かたれたように小さな泉が生まれている。その泉の中央に造られている女神像が、見る者に安堵感を与えてくれた。

 

 生い茂った緑の自然。色とりどりの花。透き通るような泉。どれも、2人にとっては8年ぶりの光景だった。まるで、神が試練の前に与えた安らぎの空間であるかのように。

 

「ああ・・・・・・」

 

 感嘆の声が、自然と出る。2体の女神の像は、そんな彼らを優しく受け入れた。

 

 足を踏み入れると、ガサガザと草の葉が触れる感触。ふんわりとした土。

 

 懐かしかった。あの頃の、まだ無邪気にサンタローズの村を走り回っていた記憶が。

 

 いや、それだけではない。アルカパへと向かうまでの道のりでも、美しい自然や無害な魔物に囲まれ、笑って世界を歩いていた思い出。

 

 そうだった。世界は、こんなにも美しかった。

 

 忘れていた。ずっと生きていくことに必死で、自分達はそんなことも忘れていた。荒廃している世界で生き続けていたから。

 

 記憶から、知識へと劣化していく過去のこと。かつて体験した美しい記憶は、もはや無機質な知識と成り下がってしまっていた。

 

 それを、この光景は思い出させてくれたのだ。この世界で唯一、神の加護が残っているこの塔の中。ここに、まだかつての世界の美しさは守られていた。

 

「ああ・・・・・・神よ。今この世界を守り続けていた事を、心から感謝致します・・・・・・」

 

 両手で顔を覆い、涙を流すアリス。リュカもまた、瞳を潤ませて彼女の肩をそっと抱く。

 

「アリス・・・・・・一つだけ、お願いをしても良いかな」

 

「ふえ・・・・・・?」

 

「よければ、今日はここで休まないかな?」

 

 その提案に、アリスは涙を指で拭う。

 

「し、しかし・・・・・・私たちがここに来た理由は」

 

「だから、だよ。あの魔物も、すぐにここを見つける訳じゃあないはずだ。それまでに、僕たちの方こそ疲れを取って、万全になってから挑むべきだよ」

 

 それまで、この一晩を休息に使おう。この、世界で唯一の緑が残されている楽園で。

 

 彼の目は真剣だった。それに押されるかのように、アリスはやがてコクリと頷いた。

 

 

 

 

 その休息の時間は、きっと2人の心の中で永久に生き続ける事だろう。

 

 小さな草原の中で腰をかけ、生まれている花を指先でそっと触れて。

 

 穏やかな暖かい空気の中、2人は昔の頃を語り合った。その後は、どちらかがどちらかを追いかけ、捕まった後でまた笑う。

 

 まるでサンタローズの村にいた頃の2人と、何も変わっていないかのような時間。いや、本当なら過ごせるはずだった時間を取り戻しているのだ。

 

 素足になり、湖に入る。その中で泳いでいる魚が、2人の足をつつく。くすぐったそうに笑う2人。

 

 そして――――眠りの時間。

 

 リュカは、ふとした拍子に目が覚めた。水の鳴る音が聞こえてきたのだ。気づけば、中庭の中央で一緒に眠っているはずのアリスがいない。身をくるんでいるシートを外し、周囲を見回す。

 

 探すまでもなかった。アリスの姿はうっすらと輝いている湖の中、1人で身を清めていたのだ。

 

 湖の光もまた、神の塔における加護なのだろう。だが、そんなことは今のリュカにはどうでも良かった。いや、彼女の一糸纏わぬ裸身が目に焼き付くことが出来たことに関しては、良かったのかもしれない。

 

 水滴を浴びて、光り輝いている銀の髪。水晶のような瞳を今は細め、己の裸身を両手でなぞっている。それはまるで、女神の水浴びであるかのように幻想的で。

 

 戦闘を重ねていく中で、なお失わない色香のある肢体。引き締まった肌の艶は真珠の輝き。そんな裸体の持ち主が、シスター・アリスという女性。そんな美女が元の世界で生きていたのなら、性別など関係なく人は注目せずにはいられないだろう。

 

 放心したようにアリスの姿に見とれていたリュカの視線は、やがてアリスにも気づかれた。視線を感じて、目が合う。

 

「り、リュカ・・・・・・?」

 

「あ・・・・・・」

 

 名前を呼ばれ、我にかえる。全裸の姿を見られたアリスは胸元を両腕で隠し、ボンヤリした光の中でも分かるほど頬を羞恥に染めた。

 

 途端、彼に背を向けて女神像の向こう側へ隠れようとするアリス。リュカは、無意識に立ち上がって後を追った。

 

 バシャリと音を立てて、彼も湖の中へ入る。寝間着用の衣服が濡れてしまったが、今の彼には全く気にならなかった。

 

 何かの焦燥に突き動かされて、リュカは全裸のままのアリスの肩を背後から抱き寄せる。強く拘束されたわけではないはずなのだが、彼女は全くそれに抗えなかった。

 

「つかまえた・・・・・・」

 

「あ・・・・・・」

 

 肩越しに彼の顔を見るアリスの瞳には、羞恥と困惑が浮かんでいる。その瞳を直視したリュカもまた、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

「リュカ・・・・・・あ、あの・・・・・・放して、もらえませんか?」

 

「嫌だ、放さない。放したらまた逃げるから」

 

「に、逃げたりなんか・・・・・・しません」

 

 リュカの吐息が、彼女のうなじにかかる。触れられている部分が、熱くてたまらなかった。

 

「わ、私たちは、これから・・・・・・大変な戦いがあるのですよ?」

 

「だからこそ、だよ」

 

 リュカのアリスを見つめる目は、有無を言わせない何かがあった。

 

 これで、お別れなのかもしれないから。もう二度と、触れることは出来なくなるかもしれないから。

 

「キミがいい。アリスじゃなきゃ、僕は嫌だ」

 

「で、ですが・・・・・・」

 

「アリスは、どうなの?」

 

「えっ」

 

「まだ、キミにとって・・・・・・僕はただの友達?」

 

 アリスは、即座に首を左右に振る。そんなはずがない。いつまでも、気持ちが変わらないはずがない。

 

 輝く湖の中で、2人は見つめ合う。潤んだ瞳が、互いの顔を映す。

 

「わ、私も・・・・・・」

 

 意を決し、アリスは言った。裸身を堂々と晒したまま、彼と相対する。

 

「私も――――リュカのことを・・・・・・愛しています」

 

 言った。彼の目を見て、言い切った。

 

 いつ、友情から恋に。そして、それが愛に変わったのか。ずっと前からか。それとも、今この瞬間からか。

 

 2つの影は、ゆっくりと1つに重なっていく。

 

 分かっていた。これが2人にとって、最初で最後の夜であると。

 

 それでも、この瞬きのような幸福は。

 

 決して、忘れないだろうと――――

 

 

 

 

つづく

 

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