平穏な日差し。その感覚に惹かれるかのように、アリスはゆっくりと目を覚ましていった。
この8年間、何度も見た天井。色あせた大理石で構成された、レヌール城の室内。そこまで考え、アリスの脳はようやく違和感に気づく。
いや、ここはいつもの寝室ではない。レヌール城の内部であることは確かだが、正確には玄関の先――――大広間だ。
自分は今、部屋の隅のソファに横になっているのだ。少し視線をずらせば、吹き抜けになっている上部に渡り廊下が相変わらず残っている。
なによりこれまでの見慣れた景色とは違い、この世界には色があった。ステンドグラスや窓から差し込む光。日差しから伝わる暖かさ。自然の匂い。あの神の塔で味わったとき以来の、世界の温もりがここにはあった。
――――嗚呼、帰ってきたのですね・・・・・・
自然と、涙がこみ上げてくる。だって、傍には誰もいないから。
生まれて初めて会った、最愛の父と母。そして、愛しい人――――リュカ。
あの両親は、今度こそ自分の手の届かない世界へ旅立ってしまった。でも、リュカは生きている。この、色の付いた暖かい世界で。
ですが、とふと気づく。何故、自分がここに? もしや、父と母がここへ送ってくれたのでしょうか。
ガチャリ、とドアを開ける音がした。視線を向けると、左の食道に通じるドアから、1人の女性が入ってきたのだ。彼女はアリスと目が合うと、驚いた様子で扉の奥へ引っ込んでしまう。
見慣れない女性だった。廃墟になっているはずのレヌール城に、何故人がいるのだろうか。
「――――」
何か、大きい声で話している。誰かを呼んでいるようだ。しばしの間があって、今度はもう1人見慣れない男性を連れてアリスの前に姿を現した。
「目を覚ましたのですね。よかった」
「空から光を纏って女の人が降ってくるなんて・・・・・・貴女、一体何者なの?」
安堵した様子の男性とは対照的に、女性の方はどこか詰め寄るような様子でアリスに言ってくる。そんなことを言われても、こちらだって頭が追いついていないのだが。
とはいえ、どうやらお邪魔をしてしまったのはこちらの方らしい。ソファから身を起こして素直に頭を下げ、自分が怪しい者ではない事を言っておかなければ。
「えっと・・・・・・とりあえず、突然お邪魔してしまったようで、大変申し訳ありません。私は、シスターのマチュアリスと申します。アリスで構いません」
そんな、僅かばかりズレた謝罪をする彼女――――マチュアリス。実の両親がつけてくれた本当の名前。彼女は自然と、その名を口にしていた。
「アリスさん、ですね。シスター・・・・・・」
何やらブツブツと呟いている男性をよそに、女性は言葉を重ねる。
「私たちは、別に怪しいものではありません。安心してください。つい先ほど、貴女が光に包まれてこの城の庭に落ちてきたんです。私たちはここまで運んだだけで・・・・・・」
「そ、そうだったのですか。それは、重ね重ね大変なご迷惑を。それと、助けていただき、まことに感謝致します」
つい畏まり、頭を何度も下げてしまう。基本的に、他人に迷惑をかけることを良しとしない性格のアリスだ。むしろ、謝罪された相手側の方が困ってしまう。
「い、いえ。放っておく訳にもいかなかっただけのことです。それよりも、よければ貴女は一体・・・・・・」
何者なのか、と。それは当然の疑問であった。そもそも、光を纏った人間が降ってくるなど、まずあり得ない現象なのだから。
どのみち、助けられた身分としては黙っているなどという選択肢はない。アリスはまず、自分の出自やこれまでの事を話せる範囲で説明することにした。
自分が修道院の出身で、元々はサンタローズの村へ見習いとして派遣されていたこと。その後、ラインハットで行方不明になったパパスとその息子である幼馴染みを探しに向かったこと。
偽王妃や滅びの世界のことは流石に当事者以外の人間に話すことは気が引けたので、正体不明の魔物の手で見知らぬ土地へ飛ばされたと説明した。そこで8年を過ごし、同じ土地にいた者に助けられたとして話を締めくくる。
アリスの話を全て聞いた2人は、流石に驚きの色を隠せない様子であった。正直なところ、彼女があのような形で姿を見せていなければ到底信じられないだろう。
「そう、でしたか。それはまた・・・・・・」
「旅の扉って、そんなふうに弄れる物なんですか?」
なんと言っていいのか分からない男性――――ヨーゼフ。好奇心からなのか、そんなことを訊いてくる女性――――アリシア。
「確かに、誰でもできてしまうような手法ではありません。しかし、魔物の中でも魔道を研究している者は存在しているはずです。可能か不可能かと言われてしまえば、可能と言うほかありません」
実際に、赤ん坊の自分が同じ手段でこの世界へ送られている。世間に広まっていないということは、おそらく本来は禁呪法(きんじゅほう)の類いなのだろう。
禁呪法とは、人道に反する魔道の使用方法や、あまりにも残虐な効果を持つが故に、魔道の研究者達の間で密かに禁止されている呪文の事である。これは国の法でも正式な取り決めがあり、違反した者は直ちに拘束されて処罰されるのだ。相応の理由がない限り、大抵は■刑だが。
「あの、私からもよろしいでしょうか?」
アリスは2人に尋ねる。
「具体的に、今は何年何月なのでしょうか?」
これも、訊いておかなければならない事であった。自分は向こうの世界で8年を過ごした。だが、この時代に帰ってきたからといって、時間の流れまで同じとは限らないのだから。
「ああ、すみません。それもお伝えするべきでしたね――――」
話を聞くと、どうやら今は確かに自分が飛ばされた時期から8年後で間違いはないようだ。時間軸は向こうもこちらも同じだったのだろう。それなら・・・・・・
「それでは、私と同い年程度の男性がこちらに来ていませんでしたか?」
「男性ですか? いえ、あんな風に落ちてきたのは貴女が初めてですが」
「そうですか・・・・・・」
アリシアの不思議そうな返事に、アリスは心の中で落胆する。もしかしたら、自分と同じようにこの辺りへ戻っただけなのかと期待したのだ。
アリスの質問に何かを感じたのか、ヨーゼフが訊いてくる。
「あの、もしかしてその男性とは・・・・・・アリスさんの恋人の方でしょうか?」
「え、あっ・・・・・・わ、分かりますか?」
微かに頬を染めてしまうのが鏡を見なくても分かる。人からハッキリと恋人関係かと訊かれたのは、今が初めてだったからだ。
「うん。やはりそうでしたか」
心なしか、ヨーゼフが納得の表情を見せる。隣にいるアリシアが、にこやかに彼の腕に抱きつく。
「それなら、私たちは絶対に貴女を応援しますよ。実は、私たち、駆け落ちをしてこの城にいるんですから」
そこで、2人の身の上話が始まる。アリシアは大きな宿屋の娘で、ヨーゼフは使用人の関係。身分違いの恋を認めてもらえなかったため、親元から逃げ出して今に至るのだという。
「駆け落ち、ですか」
目を瞬かせるアリス。7歳だった当時は、大人になればそういう人が希に出てくるとは人づてに聞いていた。当時は、何故全てから逃げ出してまで恋人になろうとするのかが全く理解できなかったのだが。
だが、今は――――
「そうですか・・・・・・少しだけ、羨ましいです。2人の行く末に、幸多きものであらんことを」
どこか、眩しい物を見るような目でアリスは祈る。2人は、照れくさそうにお礼を言ってくれた。
その後は、ちょうど昼食の時間だったこともあり、アリスもまたご同伴にあずかることになった。
もちろん、調理はアリスも手伝った。むしろ、作ったメニューの数で言えばアリスの方が多かったほどだ。
先ほどまで気づかなかったが、この世界へ舞い戻ったときに所持していた荷物まで一緒に手元へ引き寄せられていたのだ。身につけている賢者のローブは勿論のこと、振るっていた雷神の槍やマジックアイテムの道具袋も、まとめてソファの裏に置いてあった。ヨーゼフ達が気を利かせてくれたのだろう。
アリスは道具袋の中にある食材を使い、アリスの手伝いをしながらも手際よく料理をする。おかげで、2人のカップルは普段よりも手の込んだ料理を食べることができた。
洗い物を済ませると、アリシアとヨーゼフがアリスにお礼を言う。彼女は私の方こそお礼がしたかったのですと返した。
しかし、いつまでもこうして居候などをしているわけにはいかない。アリスは身支度を整えると、ここを出る旨を伝える。
「分かりました。色々とあるかもしれませんが、遠くから無事を祈っています」
「落ち着いたなら、また遊びに来てくださいね。たまにはお客様が来てくれた方が毎日も彩ります」
2人はアリスを見送るために中庭の前まで来てくれた。緑溢れ、木々の香りがするこの世界。それは、あのエリック王とソフィア王妃と共に過ごした、奇跡のような風景のそれと全く同じであった。
8年ぶりに浴びる暖かい日差しは心地よく、小鳥の囀る音が耳に届く。彼女はつい聞き惚れそうになるが、それはこの先の道中のお楽しみとして取っておこうと思う。
そして、お別れの間際に。
「アリスさんは、これからどちらへ向かうのですか?」
純粋な疑問としてヨーゼフは訊いた。
「そうですね。サンタローズやラインハットの現状は気になるところですが・・・・・・実はアルカパに親しかった先輩がおりますので。まずは、その人達にご挨拶を済ませたいのです」
「なるほど、そうだったのですか。私たちも仕事や買い物のためにアルカパへはよく行きますが、それ以外は割と不案内なんですよ。正直なところ、世間には疎い方でして」
少しだけ恥ずかしそうに言う。アリスは、別にそれに関してどうこう言うつもりはなかった。ヨーゼフ達が今現在の世間の情勢を詳しく知っていれば良かったのだが、やはり情報は自分で確かめた方が良い。
「あ、でも」
と、思い出したようにアリシアは言った。
「少なくとも、ラインハットは良い噂は聞きませんね。もう何年も前からアルカパ出身の兵士達が実家に帰っていますから」
「・・・・・・」
「他には・・・・・・ラインハットだけではなく、アルカパも近頃は物価が高騰して、食べ物の値段が高くなっているくらいでしょうか。毎回税で取られているらしいので、私たちもあまり高い物は買わないようにしているんです」
「それはまた・・・・・・」
ラインハットの徴税が厳しくなっている。きっと、あの偽王妃の仕業に違いない。
このままではどうなってしまうのかを、アリスは既に知っている。彼女が残してくれた、あの日誌には・・・・・・
「本当に、お世話になりました。我が恩人に、どうか神のご加護を」
「こちらこそ。道中お気をつけて」
アリスは頭を下げ、そして城を去っていった。2人は彼女の背中が見えるまで見送ると、そっと城の中へと入っていく。
アリスにはアリスの。2人には2人の。それぞれの人生が待っているのだから。
背後のレヌール城がだんだんと遠くなっていくのを感じながら、アリスは歩みを続ける。
こうした旅路も、もはや慣れた。むしろ足元の雑草や軟らかい土の感触が心地よく、つい童心に帰って走り回りたくなってしまう。
――――やってみましょうか。
周囲には人の気配はない。流石に成人になったばかりの年齢ではしゃぎ回るというのは気が引けたのだが、今だけは許されるような気がする。
アリスはつま先立ちになり、トントンとステップを踏むように草原の上を回り始めた。修道院時代にほんの少しだけ淑女の嗜みとして教わった社交ダンスを思い出しながら、広い自然の中をクルクルと動く。
それはまるで、気ままに飛び回る妖精のように。だんだんと勢いをつけ、スカートを靡かせながらターンをする。
飛び上がり、演舞のように回転しながら華麗に着地。太陽の日差しはステージのスポットライト。世界が、こんなにも色とりどりであることへの喜びを、全身で表現した。
心地良さを感じる。大地の恵みを身体で受け止めているかのよう・・・・・・
やがて、自然界を舞台としたダンスを終える。アリスは息をつくと、近くの木々に置いていた荷物の一式を拾い上げた。
周囲には、相変わらず人の目はない。というよりも、今の姿を第三者に見られたら顔がリンゴのように赤くなっていたことだろう。
――――それでも。やはり、世界に自然があることは素晴らしいですね。
これから戦いの日々が始まることを予感しているはずなのに、呑気なものだと我ながら思う。だが、むしろ今だからこそ英気を養うことができるのもまた事実だ。8年ぶりの緑豊かな世界から、僅かだけ安らぎを得ても神罰は下らないはずだ。
そう。このまま放っておけば、この美しい自然も凶暴な魔物の手によって全てが踏みにじられる。そのためにも、いま自分ができる事をしなければ。
自然を満喫するのをその辺りにして、アリスは改めて幼い頃に残っている風景を思い出していた。
遠くの山脈を横目に、暖かい風が頬を撫でていく。地平線から覗ける平原をひたすら歩き続ける。
やがて町の建物が近づいてきた。あの絶望の世界と同じ町とは思えない、人の手入れを欠かしていない、正真正銘の都会。
かつてはレヌール王家の城下町として栄えていたと言われている、現地方都市のアルカパ。北と南に緩やかな弧を描くように存在している森の中にある町である。その規模は世界有数の大都市と言われているオラクルベリーに次ぐ程。
うっかり、頬が緩みそうになってしまうのが分かった。いけない。1人で笑いながら歩いているところなど見られたら、間違いなく不審者として扱われてしまう。
ビアンカは今でも元気にやっているだろうか。そしてジゼルも。はやる気持ちが浮かぶものの、それもすぐに冷める。
道具袋の中に入っている書物を意識せざるをえない。かつての世界で彼女が残していた、アリスにとっては遺言書に近いジゼルの手記。それと同時に、あの世界が間違いなく現実だったという証の一冊。
誰にも見せるつもりはない。だけど、決して手放したくない。
必ず未来を変える。そのためにも、まずは今の時代で何が起こっているのかを知らなければ。
人の足で踏み固められている歩道へ入った。ここから先は、正真正銘アルカパが管理している土地だ。
8年ぶりの町は、記憶の中の光景を思い出させてくれた。あらゆる店の建物の列挙している一角。個々に建ち並ぶ民家。
そして、小川が流れている先に建てられている教会。正面の遙か先には、町一番の大きさを誇るダンカンの宿屋。まず始めにどちらへ挨拶に行こうかを真剣に考えてしまう。
だが、その思考も途中で止まる。アリシアとヨーゼフが言っていたとおり、この町にはかつてのような活気が無いことに気づいたのだ。
店舗が揃っている通りには、人気が明らかに少ない。いや、そもそもいくつもの店舗が空になっているのだ。商品どころか、店番すらも姿を消している。
辛うじて町を歩いている人々も、どこか目に冴えがない。そのほとんどがどこか末期戦を思わせる疲弊した姿だった。着ている衣服もくたびれていて、何日も洗っていないかのようだった。いや、実際そうなのだろう。
偽王妃が率いているラインハットの手は、ここまで影響を与えているというわけですか。アリスの手に力がこもる。
少しばかり、急ぐ必要がありそうだ。市内の奥へ足を進めたアリスは、第一に教会へ向かうことにした。
先にジゼルへ会いに行こうと思ったこともあるが、何より今はこの町の事を色々と知らなければならないからだ。詳しい情報は、やはり直接話を聞くことが一番なのだから。
ギイ、と教会の扉が開く。内部にいた1人の修道女は、中に入ってくる人物を視界に映すこともなく理解していた。
「お帰りなさい、シスター・カノン」
「ただいま戻りました、シスター・ジゼル」
どうでしたか、とジゼルはカノンに向けて訊く。もっとも、昼食のための買い出しに出かけてから、さほど時間をかけずに戻ってきたのだから結果は言うまでもなかったが。
案の定、カノンは顔に疲弊の色を濃くして首を左右に振る。食材が入っているはずの袋は、出た時とそう変わらない大きさであった。
「やはり、売ってはくれませんでしたか」
「はい。どうにか、パンは5つほど売ってくれましたが・・・・・・それだけでもかなりの出費でしたので」
無理もないとジゼルは思う。それでも、他のシスターの人数分には足りないのだが。
本来ならば、教会こそが率先して炊き出しでも行うべきなのだが、それも4年前から途絶えた。町の誰もが貧しくなる一方だというのに。
「あれだけ活気があったのが、嘘のようです」
ポツリとカノンは呟いた。そして、それはこの町の総意でもあったのだ。
現在、この教会に神父はいない。いるのは、ジゼルのようなシスター数名のみ。
神父や町長は、ラインハットから押しつけられている重税に耐えかね、抗議をしに向かったきりだ。今では有権者どころか、町を守る番兵もいない。
このまま寂れていくのを待つしか無いと悟った者達は、こぞってオラクルベリーや修道院へ逃げ出した。だが、あまり良い噂は聞かない。
風の噂ではあるが、ラインハットはオラクルベリーにも重税を科しているのだという。しかも理由が、税すら払えないアルカパの市民を保護したための連帯責任として、らしい。
もう滅茶苦茶だという言葉すら出ない。口実にしても強引すぎる。ラインハットが大都会であるオラクルベリーの資産を狙っていることは、周知の事実だったからだ。
自分達は今、どこに行けばいいのか。神に祈り続けていても、その答えが天から伝わるわけではない。救いを求めに来訪していた信者達も、今では見る影もない有様だ。
その空気が、彼女達の心を重くさせる。神よ、あなた様は我らをお見捨てになったのですか?
その、誰かの心から生まれ始めた声が、口から出ることはなかった。
教会の扉が、控えめな音を立てたのだ。その場にいた者の全員が、出入り口の方へ視線を向ける。
ノックの音。全員のシスターがここにいる以上、入ってくるのは教会関係者ではないはず。となると、このご時世に信者だろうか。購い食を期待するような者など、この町にはいないのだから。
なんにせよ、教会が来訪者を拒むわけにもいかない。どうぞと返事をすると、そっと扉が開いて1人の女性が入ってくる。
「失礼致します」
その少女の殻を破ったばかりのような、少なくとも十代半ばのような容姿。だが、あまり年下らしさを感じさせない物腰の良さを感じる。
それでいて、まるで熟練の修道女のような雰囲気を醸し出していた。格上の白いヴェールを身につけているところから、間違いなく彼女もシスターだ。
誰だろうか。おそらく、旅の尼なのだろうが。
「突然の来訪をお許しください。少々お訊ねしたいことがあり、こちらへ参った次第です」
歩き方の一つを取っても、彼女がかなりの訓練を積み重ねてきたことが伺わせられた。女性はそっとこちらへ近寄ってくると、スカートを摘まんで礼をする。まるで王族の礼節を思わせる完璧な作法に、ジゼルとエリスは慌ててシスターとしての礼を返す。
「これはご丁寧に。私はシスターのカノンと申します。良ければ、私が対応致します」
「同じく、シスターのジゼルです。旅の尼とお見受け致しますが・・・・・・」
「あ・・・・・・ジゼル、さん」
ジゼルが名乗ったとき、女性は驚いた様子を見せる。何故か、まるで待ち焦がれていた相手を目にするかのような反応だった。その理由が理解できないまま、目の前の彼女は自分の方へ歩いてくる。
「あの、お久しぶりです・・・・・・シスター・ジゼル」
「は・・・・・・?」
目を瞬かせるジゼル。明らかに困惑の表情になる彼女に代わって、シスター・カノンが訊いてくる。
「あの、シスター・ジゼル。お知り合いですか?」
「い、いいえ。失礼ですが・・・・・・お名前をお伺いしても?」
彼女は僅かに落胆した様子を見せたが、納得したように表情を戻した。僅かに、無理もありませんかという呟きが聞こえたのは気のせいだろうか。
「いえ、こちらこそ失礼を。私はシスター・アリスと申します。8年ほど前、この教会でお世話になっていた者です」
彼女――――アリスがジゼルに向けている眼差しは、紛れもない親しみと懐かしさが入り交じっている。少なくとも、嘘を言っているようには見えなかった。
「8年前・・・・・・ですか」
カノンはジゼルを見る。元農家の娘であるカノンは、この教会に6年前からシスターの洗礼を受けたため、それ以前の教会の人間関係をよく知らないのだ。
だが、そう言われたジゼルの瞳には――――困惑のまま変わっていなかった。
「・・・・・・?」
アリスには、ジゼルが何故自分をそんな目で見てくるのかが理解できない。流石に、名前を名乗れば思い出してくれるものと思っていたのだが。
「あの・・・・・・」
やがて、ジゼルの口から出た言葉は――――
「私の知る限り、貴女とは初対面の筈ですが・・・・・・」
――――明らかに、不審の混じった返答であった。
「ああああぁぁぁ・・・・・・!」
「ち、違うんだあぁぁ・・・・・・儂は、儂は・・・・・・!」
「・・・・・・ぐ、ふぅ・・・・・・!」
濃密すぎる血の色で染められた、ラインハット城の城下町。5年ほど前から取り付けられた処刑場にて、この日も新たに民の血の色で染め上がった。
罪人の烙印を押され、兵士の槍に貫かれた者はこれで何度目だろうか。もう数える者などいるはずもない。なぜなら、この国にとってはもはや慣習的なものとして受け止められているのだから。
「・・・・・・今回の罪状って、何だっけ?」
「税の未払いだとよ」
「そうか。今更どうでも良いけどな」
処刑を執行した兵士達の表情に、罪人に向けるような特有の冷徹さはない。むしろ、彼らこそが罪に怯える人間の表情をしているのだから。
幾多もの丸太を始めとした木材で構成された処刑場には、既に城下町の人々の影はまばらだ。彼らと手、別に処刑などを見たくて見ているわけではない。だが、そうしなければ反抗分子と見なされ、罪人よりも一足先に命を落とされることになるのだ。
第一王子ヘンリー王子が誘拐されてから、既に8年もの時が過ぎた。新王デールが即位して以降、なおも実権は王妃改め太后となったロザミアが掌握したまま、今日を迎えている。
先代のベルギス王が病によって崩御して、はや7年。かつての軍事大国と呼ばれていた栄華は、今や太后による重税と暴政によって国としての機能を失いかけていた。
国民達の家路へと向かう足取りに、希望はない。明日は処刑場へ向かうのは我が身かもしれないのだから。
罪の内容など、どうでも良い。不敬罪。反逆罪。侮辱罪。数え上げればキリがないほどに。
暗い表情のまま、無実の市民の血液がこびり付いている槍を手に、処刑場から降りてくる兵士達。そこへ、声をかけてくる者が現れた。
「ご苦労だったな、お前達」
「あ、アルダン将軍・・・・・・」
敬礼をする兵士達を気にすることもなく、太后のお気に入りだと周知されている将軍。その表情が、どこかこちらを嘲っているように見えるのは気のせいだろうか。
「面倒な仕事を押しつけているようで、すまないと思っているよ。だが、これも太后様のご意志だ。悪く思わないでくれ」
「いえ、ご命令ですので」
こんなやり取りも、兵士達は心から疲弊してしまう。当たり障りのない無難な返事をするのが精一杯なのだから。
失礼致しますと、この場を去ろうとする兵士達。そこへアルダンが呼び止める。
「ああ、待て。お前達には、明朝に受けてもらいたい任務がある」
「どのような・・・・・・?」
どうせ、また今のラインハットに不満を持っている者達を探してこいとでも言うのだろう。今の政治で不満を持たない者など、それこそ甘い汁を吸っている上層部だろうに。
だが、続く言葉は予想していたものとは違っていた。その内容は――――
――――アルカパへ向かった徴税官の様子を確認してくるように、というものであった。
「いらっしゃいませ。長旅を通して、さぞやお疲れでしょう!」
宿屋へ客として入ったときの、店主の言葉がそれだった。受付の男性も見慣れない人間で、記憶の中にあるビアンカの宿屋とは似ても似つかないような印象を受けてしまったものだ。
聞くところによると、案の定この宿屋も重税のあおりを喰らっているのだという。できる限り客室の壁に掛けられている絵画などを売って、どうにか税に堪えているらしい。しかし、客足が遠のいている今の状況で良くやっていると思わざるを得なかった。
一泊の宿代も300ゴールドと相場よりも高かったが、アリスは迷わずに払う。実際、値段を高くしているという意識はあった宿側は、躊躇いもなく払ったアリスに驚いた顔をし、次に満面の笑みで部屋を用意してくれた。
店の従業員に案内される道すがら、アリスは気になっていて事を訊ねた。この町に、ダンカンという人の家族は存じませんかと。
それに対し、その従業員は当然のように答えた。曰く、ダンカンさん一家でしたら、5年前に遠くの山奥へ引っ越したと。
彼らは他ならぬダンカンからこの宿屋を買い取り、今に至るのだという。幼馴染みの再会を期待していたアリスとしては、本当に残念な話であった。
――――いや、むしろ幸いだったのかもしれないが。
3階の部屋に案内されたアリスは、従業員が去っていくのを見届けると、荷物を部屋の隅に置いた。ここは眺めが良い事で評判が良いのである。
遠い山脈に隠れようとしている、オレンジ色の夕日。気づけば、もうそんな時刻なのだ。窓ガラスから映る茜色に染まった空の下が、どこか遠い情景を思い起こさせる。
ジッとする気になれずに広いベランダに出ると、アルカパの町を一望できる風景が広がった。その景色に、僅かながらも心を落ち着けることができる。
たとえ人通りが少なくとも。はしゃぎ回る子供が見えずとも。
それでも確かに、ここはあのアルカパなのだ。リュカとビアンカの3人で楽しく遊んでいた、あの町。
今でも残っている、酒場や民家。絶えず流れゆく小川がきらめき、その前にある教会の十字架が夕日に照らされている。
教会。そう、あの思い出深いあの場で、アリスは一つの事実を突きつけられたのだ。
――――貴女は、誰でしょうか?
大切な先輩、ジゼルの声が胸を抉った。
彼女は、アリスのことを何一つ覚えてはいなかったのだ。他のシスターもあの場にはいたが、誰もがここ数年以内にシスターとなった者達ばかりだったのだから。だからこそ、当時のアリスのことを覚えているのはジゼル1人だけなのである。
できる限り、アリスは説明をした。自分が修道院出身で、かつてサンタローズから奉公へ来たシスター見習いだったということ。そして、レヌール城の幽霊騒ぎでビアンカ達や神父様と共に魔物達と戦ったことも。
そこまで語りきっても、ジゼルの疑いの色は晴れない。それどころか、不審の眼差しがより強くなっていくばかり。なぜなら・・・・・・
――――レヌール城の幽霊? 少なくとも、あの件に関わった子供は2人のみの筈ですが。
アリスの名前は、どこにもなかった。それどころか、まるで“初めからいなかった”かのように、存在していなかったのである。
他のシスターも、それを肯定していた。遠巻きに見ているだけではあったが、明らかに彼女らも多かれ少なかれアリスに対してあまり好意的ではない視線を向けている。
当然だった。彼女達からすれば、突然見ず知らずの女性が自分達の認識とは違うことを話し始めたのだから。
――――どういうつもりですか。そのような嘘をつくなど・・・・・・
絶句するアリスに、疑いの眼差しを向けるジゼル。そこへ待ったをかけたのが、それまで傍にいたシスター・カノンであった。流石に空気が悪くなることを察して、2人の間に割って入ったのである。
カノンはアリスに、教会を去るように促した。アリスにも何か事情があるのだろうが、この空気ではそれも難しいから、と。
次の日の朝にまた来てくださいと、カノンはそう取りなした。そこで、アリスもやっと我に返る。
未だに落ち着かせられない動揺を隠せないまま、アリスはどうにか謝罪する。少し疲れているようですと告げて、彼女は教会を去ったのだ。最後までジゼルからの疑いの視線を背中に受けたのが、心に痛かったことは言うまでもなかったが。
「・・・・・・嘘つき、ですか」
アリスがシスターとして修行し続けていて、初めて受けた評価。それも、よりによってあのジゼル先輩の口から。思い出してしまうと、再び気持ちが暗くなりそうだった。
――――元の世界へ戻ったとき、貴女にとって・・・・・・より残酷な現実が待っていることでしょう。
あれは、母の言葉であったか。アリスは今更ながらに、その意味を知ったのだ。
また、会えて嬉しかった。8年の歳月が流れていたとしても、それでも過去の面影があったシスター・ジゼル。
一目で彼女だと分かった。たとえこんな治安の中であろうとも、また楽しく話ができれば良いと思っていたのに。
過去の、ジゼルの笑顔を思い出す。なんとなくだが、予感があった。ジゼルが自分に対して笑ってくれることはもう無いのだろう、と。
心が沈む。まるで、ここは自分がいた世界では無いのではないかと思ってしまう。あの世界とも違う、もっと自分など関わることもなかった見知らぬ世界――――
「いいえ、違います」
アリスは、言葉で否定する。
そう。ここは、確かにアリスが育ち、あのリュカ達との冒険を経験した世界だ。
この見渡す限りの、記憶の中で色あせないまま残り続けている景色。
木々から流れる自然の香り。
小鳥の囀る声。
その全てを見誤るほど、自分の目は曇ってはいない。
そうとも。落ち込むのはここまでにしよう。明日までに、どうにか冷静に振る舞えるようにならなければ。
朝になったら、改めてジゼルに謝罪をしようと思う。たとえ思い出してもらえなかったとしても、それでも今から良き関係を築くことは可能なのかもしれない。必要なら、それこそこちらの事情を全て打ち明けることもやぶさかではない。
勿論、信じてもらえるかどうかは別問題だが。下手をすれば、完全に頭のおかしい人と思われてしまうかもしれない。そのあたりは、完全にこちらの態度次第だろう。
頭を振り、アリスは部屋へと戻る。夕暮れの世界に背を向けて、アリスは食事に向かうことにした。
そして、翌日の朝。
遠くから聞こえる断末魔で、アリスは目を覚ましたのであった。
つづく