偽太后。現在は王妃の座を退いて、太后の座についているはずの魔物。
かつてアリスを“あの世界”へ送り込んだ張本人が、目の前に立っている。一体これは、何の偶然なのだろうか。
未だに名も知らぬ魔物は、アリスの問いかけに対してニヤけているかのように見える目元を僅かに鋭くさせた。
「偽太后、だと? 何を言うかと思えば・・・・・・」
「まさか、あなたが将軍に化けていたとは思ってもいませんでした。8年前までは部下にやらせていたというのに、どういう風の吹き回しでしょうか?」
修道女はあえて事実を匂わせる言葉を続ける。周囲で武器を構えている兵士達は事情を知らず、事の成り行きを見守っていたが。
「8年前・・・・・・まさか?」
その言葉に、引っかかるものがあったらしい。ややあって、元からニヤけているような顔を、さらに深く笑ってみせる魔物。
「く、ふ・・・・・・フハハ・・・・・・! これは傑作だ。さてはお前、あの時の小娘か!!」
「思い出して頂けたようで何よりです。おかげさまで、この世界へと今一度戻ることに成功致しました。だからこそ――――」
アリスはこんな時だというのに、仰々しくスカートを摘まんで頭を下げる。ただし、頭を上げたときの彼女の瞳は、あまりにも鋭すぎる視線をぶつけてきた。
「――――こうして、引導を渡す機会に恵まれました。この采配に、心から神への感謝を」
「ククククク・・・・・・! いいぞ、その小娘ながらに見上げた度胸。あの時と変わってはいないようだな。貴様がどのような世界で野垂れ■んだかと思って・・・・・・いや、そもそもどうやってこの世界へと舞い戻ってきたのかは興味が尽きないがな!」
実際、それは偽太后――――否、偽アルダンとしても非常に気になる所だった。こういう状況でなければ、脳を直接切り裂いてでも彼女のこれまでの経緯を徹底的に調べ上げたいだろうに。
目の前に現れた魔道の研究対象を前に、魔物の力が増幅する。筋力を集中させることで力を溜めたのだ。全身の筋肉が膨張し、威圧感が一段と増していく。
「だが、今は好奇心を棚上げしておいてやろう。まずはこうして相まみえた以上・・・・・・抵抗できない身体にするとしようか!」
「その台詞は、そっくりそのままお返し致します」
「ハハハハハ! その後で、お前の全てを調べ尽くそう。骨の一欠片まで、興味が尽きんぞ!!」
お互いの魔力がぶつかり合い、修道女と魔物の間を中心に波紋のような衝撃波が断続的に生まれる。
スウ、と偽アルダンが息を吸う。空気中の発火性物質を取り込み、体内で炎として化合した。
数瞬の沈黙。そして――――
「――――喰らえ!!」
「――――フバーハ!!」
燃えさかる火炎の息は、アリスがつくりあげた光の衣で防がれる。彼女本人だけでなく、周囲の兵士達も効果を放ち、この場にいる誰もが火傷の1つも負わなかった。
本来、フバーハは炎や吹雪のような特殊攻撃からのダメージを半分程度にまで減らす効果を持つが、それも術者の技量や魔力の質によって効果は大きく異なる。完璧に己のブレスを防がれた偽アルダンは、プライドを傷つけられた――――と同時に、とてつもない発見をした研究者のように笑い出した。
いや、まさにその通りであった。
「ワ、ワハハハハ! つくづく貴様という奴はこちらの想像を超えてくれる!! 一体、どんな戦いをどれほど経験すれば“そう”なるのだ!?」
「ご想像にお任せします」
「つれないことを言うな。貴様の口から聞いてみたい!」
そこへ、これまで様子を見ていた兵士が駆けてくる。狙いは、当然偽アルダンへ。
「俺たちを忘れるな、魔物め!」
アリス達の事情は知らない。だが、今分かっていることはラインハットの将軍に魔物が化けていたということ。己の上司ではない以上、もはや理不尽な命令に従う理由などなかった。
「うおおっ!」
「邪魔だ」
突き刺してくる槍を、偽アルダンは柄を掴むことで止める。凄まじい怪力に、兵士達は使い慣れた獲物を動かすことすらできなかった。
僅かに動かすと、兵士の身体が槍から離れる。まるで小さな果物を放るかのように放物線を描き、兵士は仲間達を巻き込んで地面に叩きつけられた。
「兵士様。ここは私が相手をします」
「ぐ・・・・・・」
努めて冷静に告げるアリスに、悔しそうに顔を歪める彼ら。不本意とはいえ、逮捕した相手に情けをかけられては立場がない。彼らの無念はもっともであった。
「ぬうん!!」
再び大きく息を吸う。今度はブレスではなく、偽アルダンの筋肉が膨張する。ラーの鏡を破壊したときと同じ強化能力だ。
それに対し、なんとアリスは武術の構えを取った。片方の拳を引き、腰を落とす。
衝撃波のせいで近寄れない周囲の兵士達は、修道女の正気を疑う。まさか、あんな細腕の女性があえて肉弾戦で挑むとは。先ほど、魔物が兵士を放り投げたことを忘れたというのか。
偽アルダンは、そんな愚行のようにしか見えないアリスの判断をそうとは思わない。むしろ、真摯に力に力でぶつかろうとする彼女の覚悟に、嬉しさすら覚えてしまったほどだ。
アリスと偽アルダンが大地を蹴ったのは、ほぼ同時だった。渾身のスピードで、ボウガンのような瞬発力を発揮する。
互いの武器は、己の肉体。魔物の豪腕と人間の腕が、互いの狙う一点に叩き込まれた。
偽アルダンが狙ったのは、アリスの顔面。拳で顔を砕くためだ。翻って、修道女の拳は魔物の胴体。この魔物の急所を彼女は知らない。だが、どこがそうであろうとも確実に戦闘不能になる一撃。
兵士達が息を呑む。誰も、この戦いに割って入ることができない。もともと下級の兵士ということも相まって、実戦経験が少ないのだ。迂闊に彼女らのフィールドに入れば、こちらの身が危ない。
そして、この1人と1体はそんな周囲を気にも留めない。あるのはただ、目の前の相手を討つことのみ。
互いが、互いに避けては通れない宿敵であることを、過去の経験で刻みつけられている。そして、今ぶつかった結果――――アリスと偽アルダンは、互いに弾かれるようにして背後へと吹き飛んだ。
致命傷になるはずの一撃は相殺され、その余波のみで偽アルダンは背後の大木へ背中を打ち付け、アリスもまた数回ほど転がりながら立ち上がる。
「・・・・・・っ」
「・・・・・・がふっ」
アリスは口元を拭うと、口内を僅かに切った事を確認した。頬がズキズキと痛む。
偽アルダンもまた、腹を押さえつける。ダメージは確実にこちらの方が上だろう。
「この一撃・・・・・・なるほど、バイキルトで強化していたか」
肉体強化呪文。彼女は詠唱すら誰にも悟らせず、この凶悪な魔物に一撃を加えたのだ。
そして、これは今になって語ったところで詮無きことではあるのだが・・・・・・彼女はブオーンとの決戦の際にも、フバーハとバイキルトを使用した上で戦っていたのである。それでもなお怪物が吐いた炎は脅威であり、そして、肉体を傷つけるのがやっとという有様だったのだ。
それを思えば、あのブオーンとの戦いの経験が彼女達にどれだけ大きな影響を与えていたのかは、もはや語るまでもなかった。
がは、と偽アルダンが吐血をする。人間で言うところの内臓が確実に潰れただろう。
「ご明察です。単純な腕力はそちらが上でしょうから。まさか、卑怯とは仰いませんよね?」
これは馬上試合などではない。■すか■されるかだ。己の持てる全てを使って戦うことは至極当然。
「――――ク」
最後に、偽アルダンは笑ったのか。僅かな声を漏らし、地面に倒れ込んだ。
決着はついた。周囲の兵士達が色めき立つ。まさか、本当に勝ってしまうとは。
兵士達がアリスへ近寄ろうとするが、彼女は真っ直ぐに偽アルダンへ足を運ぶ。念のために警戒こそしているが、魔物はもはや起き上がる気力はないようだった。
「私の勝ちですね。貴方には、色々と訊きたいことがあるのです」
「・・・・・・フン。素直に俺が答えると思うか?」
自分を負かした相手に、しかも人間に対して素直に話すことなど何も無い。仰向けに倒れている魔物の目が、そう訴えているようであった。
だが、アリスはそんな相手の反応に頓着はしない。どこか達観したような微笑で頷く。
「ええ、そうでしょう。貴方にも魔物としての誇りがあるはず。ですが、それと同時に――――」
アリスは、僅かに息を吸う。
「――――魔道の研究者です」
「なに・・・・・・?」
虚を突かれた言葉に、魔物は言葉を失う。
「報告してあげましょう。貴方が魔道の実験とした旅の扉の先で、どのような世界が待っていたのかを」
「――――」
そして、アリスは語った。あの、滅びの世界を。人類が敗北した、終焉の世界のことを。
その言葉を、魔物は真剣な目で聞いていた。時に驚き、時に笑いながら。
話し始めてから僅かな時間が流れたとき、魔物は満足そうに頷く。その“実験結果の報告”を聞いて、彼の中でいくつか結論づける何かがあったらしい。
「な、なるほど、な・・・・・・我ら魔の存在が、人間に勝利した・・・・・・世界か。これは、素晴らしい未来、だ・・・・・・」
「いえ。貴方は少なくともあの世界にはいなかったようですが。ラインハットの城も廃墟と化していましたし。おそらくは、あのブオーンにやられているのではないかと」
「ごはっ!」
上げたところでトドメを刺され、魔物は別の意味でダメージを喰らう。
「ともあれ――――話は以上です。そこで、貴方には改めてお伺いしたことがあるのです。こちらは嘘偽り無く答えたのですから、そちらからも質問に答える義務が生じましたよ」
「クハハ、ハハ・・・・・・なんだ、それは・・・・・・取引にもならん話だ」
致命傷の怪我を受けてもなお、魔物は堪えきれないと言いたげに笑った。こんな駆け引きにもならない話で、魔物から答えを求めようとした滑稽さが、むしろ可笑しくてならない。
マチュアリスという女性は、己をこれほどの目に遭わせた魔物に対してでさえ、最後の最後で冷酷になれないのだ。この人間に長年にわたって圧政を繰り返した魔物の心ですら、馬鹿馬鹿しいと思ってしまうほどに。
「・・・・・・好きにしろ。俺が生きているうちに訊け」
「ご配慮、感謝致します。では・・・・・・この世界は、私が存在していた世界で間違いは無いのですね?」
アリスは真っ先にその事を訊ねなければならなかった。まさかこの世界は、自分の知っている世界では無いのではないかと。自分の知らない、アリスの生まれていない世界なのではないのか。
「当然だ。お前を追放した俺がここにいるのだからな」
つまらないことを訊くなという魔物の態度に、アリスはむしろ安堵の気持ちを抱く。つまり、この世界は間違いなく彼女が育った世界だ。
だが、訊きたいことはそれだけではない。アリスは続けて質問をした。
「では、なぜ・・・・・・私という存在はこの世界では認識されていないのですか。なぜ、私を知っているはずの者が、私を覚えていないのです?」
「ああ、そういう事か。お前のことは、誰も覚えてはいないのだな」
ひとり納得する魔物に、アリスは問い詰めるように声を出した。これだけは、絶対に答えてもらわなくてはならないのだから。
「答えなさい!」
「そう急くな。簡単なことだ。あの旅の扉で飛ばされた瞬間から、この世界で“お前という概念そのものが消え去った”からだよ」
「え・・・・・・」
言葉を失うアリス。概念そのものが、消えた・・・・・・?
「お前を知っていた者達は、お前のことを忘れたわけじゃあない・・・・・・お前が世界から消え去った時点で、お前の存在そのものが無かったことになったんだよ。だから・・・・・・お前と知り合っていた人間共は、この世界ではお前とは“出会っていない”事になった」
「出会ってすら、いない・・・・・・?」
「そうだ。存在していないことになった人間など認識できるはずがない。一種の、タイムパラドックスという奴だな」
タイムパラドックス。時間軸の矛盾。会えるはずの無い者同士が会うことはあり得ない。アリスという存在そのものをあの絶望の世界へ追放した時点で、この世界は“アリスのいない世界”へ変わってしまったのだ。
おそらく、母親であるソフィア王妃が使ったのならば、こうはならなかったのだろう。この魔物が編み出した悪魔のような発想から、あのような旅の扉が生まれてしまったのだ。
つまり――――
「・・・・・・誰も、この世界では私を知らない・・・・・・この世界から、いなかった事にされた?」
「そうだ、な・・・・・・傑作だ。ここまでの実験結果になるとは、俺も予想外だった、な」
激痛に意識を失いかけているというのに、魔物は嗤い続ける。まさか勝負に勝ったアリスが絶望して、負けたはずの自分はこれほどの優越感を得られているのだから。
「だったら・・・・・・」
「ん・・・・・・?」
「だったら、どうすれば思い出して頂けるんですか! この世界の人々は、シスター・ジゼルは・・・・・・!?」
血相を変えるアリス。もしもその話が本当なのだとしたのなら、修道院の皆やヴェラ司祭にリディアもまた、アリスを覚えていないと――――いや、そもそも自分のことを何も知らないということだ。こんな残酷な話があるだろうか。
それだけではない。今でこそアルカパにいないビアンカも、遠くへ行ってしまったサンチョも。行方不明のままのパパスも。全てが、アリスという少女を知らない。
では、リュカは・・・・・・? いや、彼だけは違うはずだ。リュカとて、自分と同じようにこの時代へ帰る事ができたはずなのだ。この世界のどこかで生きているはずの彼だけは違うと信じたい。
今にも掴みかかりかねないアリスに、魔物はむしろ哀れむように諭す。喉の奥から声を出すのが辛いが、構わなかった。
「ゲホッ・・・・・・さあな。さっきも言ったが・・・・・・俺自身もこんな結果になるとは予想外でなぁ。対処法なんぞ思いつくはずもない。1人のまま生きていくのが嫌だというのなら・・・・・・いっそひと思いに、自■でも・・・・・・ガフッ・・・・・・してみたら、どうだ」
「・・・・・・っ」
「クク・・・・・・それに、思い出す、などという言い方はおかしい。貴様はもはや、もともとこの世にいない人間となったのだから、な」
こんな時でも挑発的な言葉をやめない魔物。だが、それに腹を立てている場合ではない。
少なくとも、この魔物は嘘を言っているようには思えなかった。だからこそ、この状況が真実であるということを思い知らされてしまう。いかに魔物といえども、こんな命の灯火が消えかけている状態で、嘘など言える余裕などあるはずもないのに。
「ざまあみろ・・・・・・俺は・・・・・・8年前のあの時から、お前は・・・・・・俺に、負け、て・・・・・・」
「――――」
それ以降は、この本当の名前も知らぬ魔物が言葉を紡ぐことはなくなった。瞳からは光が消え失せ、アリスの足元にあるのは、ただの■だけ。
冷たい風が吹く。砂塵を巻き上げ、遠くのどこかと消えていった。
負けた。そう。この宿敵だった魔物の言う通りだったのだ。
この魔物は、目的を果たして■んだ。人間社会の頂点といっても良い王妃という立場を奪い、長い年月をかけて国を追い詰めた。それどころか、魔道の研究に1つの成果を残し、それを持って己を討ち果たした者にすら絶望を与えてみせたのである。
この長かった8年越しの戦いは――――アリスの敗北で終わったのだ。
彼女が知ってしまった事実はどんな魔法よりも強力で、どんな武器よりも深くアリスを傷つけた。彼女がこれまでの人生で受けた怪我よりも、遙かにその根幹を揺さぶって粉々に打ち砕く。
アリスの膝が地面につく。そしてそのまま、彼女はもう一度立つための力を失った。
まるで抜け殻のように、呆然とそこにへたり込む。物心ついた頃から身に染みついているはずの信仰心も、今だけは思い出すこともできない。瞳の焦点がどこにも合っておらず、虚ろな顔でただ壊れたようにそこにいるだけであった。
そしてやがて、その両眼から、すう――――と涙があふれて頬をつたう。
嗚咽を上げることもなく、泣き叫ぶこともなく。
ただただ、1人の修道女はその悲しみと孤独感に、涙を流した。
そして、そんなむせび泣いている女性に声をかけている兵士達の姿を、遠巻きに見ている影がいた事は、誰にも気づかれることはなかった。
「――――フン。不甲斐ない奴だ」
吐き捨てた悪態は、人間の女性の傍で絶命している魔物に対して。
多少は知恵が働くようだからラインハットの国を任せてはいたが、結果は見ての通りだ。蔑んでいる人間に負けていれば世話はない。
先日、空間の揺らぎを察知して、あの魔物に適当な口実を作って調査のために近くへと行かせた事は確かだ。だが、いくら甘かったとはいえ、その過程で年若い人間の女程度に敗れてしまうなどとは。
それはそうと、と思う。あの人間の女が手にしていた鏡。影には思い当たることがあった。
あれはまさしく、ラーの鏡。それ以外に変化の呪文であるモシャスを解く鏡など存在しない。
魔物達の間で、現代でも過去から伝わり続けている呪文モシャス。この影自身もまた、それを使うことができるうちの1人なのだ。
だが、なぜ神の塔に存在しているはずの鏡を、あの女が手にしていたのか。
「まあ、その鏡も今や壊れた。どういう理由だったかなど、気にすることもないな」
そういう意味では、あの偽アルダンと認識されていた魔物も、少しは評価してやっても良い。上司としての、せめてもの情けだ。これで人間共には、こちらの正体を見破る手段を失ったということなのだから。
影は、踵を返す。これから自分は、太后としてこの国を“治める”義務があるのだ。いつまでも失敗した部下をあざ笑ってやるほど暇ではない。
そして、次の瞬間――――
――――影は、まるで木々の奥へ溶け込むように消えていった。
アルカパに残った魔物達の役割は、クーデターを起こした市民達の監視であった。
だがアルダン将軍に扮した魔物は、当然ながらアルカパの者達の命など、どうでも良い。身代わりになったアリスが何を言おうと、市民達はラインハットに対する反逆者に変わりは無いのだから。彼がアリスを連れ去っていったのは、あくまでも“上”の命令だったからに過ぎない。
今現在、太后に取って代わっている偽アルダンの上司の思惑はともかくとして、現場で雇われている傭兵崩れの魔物達には、日頃から行っている人間達に対する狼藉と何も変わりない認識であった。
そう。魔物達にとって、人間とは搾取される側である。
だが――――
「馬鹿な・・・・・・」
信じられない、という言葉を最後に魔物達は命の灯火を消していった。
アルカパの町中には、焦げた痕。先ほどまで、暇つぶしのために魔物達が人間を切り裂こうと飛びかかる寸前だった場所だ。その彼らは、この通り丸焦げ焦げとなって絶命したのである。
その数、ざっと数十体。誰もが一瞬にして、突如現れた雷に焦がされてしまったのであった。
息を切らせ、この惨状を作り出したシスターは、荒い息を吐きながら立ち尽くしている。だが、足元の魔物達を睨む瞳には、いささかの曇りもなかった。
「人間を、甘く見ないでほしいわね・・・・・・!」
己を奮い立たせるように言い切ったジゼルは、握りしめている一本の武器に視線を向けた。先ほどまで凄まじい雷を放っていた槍は、既になりを潜めているようだ。
卓越した武器職人が造りあげることができる、雷神の槍。たとえ魔力が一切仕えないものであろうとも、天から落ちる雷を再現する特殊効果を持つという。
当然ながら、アリスがジゼルに託したものだ。その時は、こんな恐ろしいものを押しつけてくるなんてと思ったが、実際に使わざるを得ない状況に追い込まれてしまったので、文句は言えなかった。
見せしめのように■されそうになっていた市民は僅かな間だけ放心していた。だが、彼女が皆を助けたのだと理解すると、感謝の言葉を口にしながら近寄ってくる。
「す、凄いぞジゼル!」
「すげぇ槍だな。こいつら全員、1人で倒しちゃったのかよ!」
しきりに感心する顔なじみの市民達。後輩のシスター・カノンですら目を潤ませて感謝していた。
そんな声も、ジゼルには遠かった。纏わり付いてくる市民を適当にあしらいつつ、彼女の中には薄気味悪い疑問が浮かんでいたからだ。
・・・・・・こんな物を持ち歩いているなんて、あの子は一体何者なのだろうかと。
あのアリスとかいう女の子が、自分の何なのかは未だに判然としない。彼女がこんな騒ぎに首を突っ込んだことでうやむやになってしまったが、少なくとも只者ではないことだけは確かだ。
そして、自分が言い切れることは・・・・・・確実に自分の記憶の中にあんな子はいないということだけ。
初対面の時点で、あの子は自分の名前を知っていた。それ以外にも昔に出会っていたようなことを言っていたが、それは彼女がボロを出した時点でジゼルが嘘だと断定したのである。
レヌール城のお化け退治のことは、ジゼルもよく覚えていた。何しろ、今でも市民の間では偶に話題になるからだ。退治をした子供は2人。そして、大人である教会の関係者だけだ。それは間違いない。
あの時は、その時点であの子を突き放してしまった。だが、去り際に彼女が見せていた表情は――――
ジゼルは、あれが少なくとも演技だとは思えなかった。むしろ立ち振る舞いも完璧な修道女のそれだ。同業の自分から見ても良き見本として採用するだろう。
「なあ、ジゼルよ。それを持って、これからラインハットへ行こうぜ。その槍があれば、あんな国なんて簡単に倒せるさ!」
「賛成だ! 今度はこっちから攻めに行ってやろうぜ!! きっと帰ってこなかった奴らも、牢屋にいるはずだ!!」
「そうよ。皆を助けに行くべきだわ!」
「俺も行く!」
あ、とジゼルは我に返る。そうだ。今は考え事をしている場合ではなかった。市民の増長と義憤は危険だ。このままでは、本当に市民達が城まで行きかねない。
だが、その制止をかける声は別方向から上がった。
「いいえ。その必要はありません」
シスター達をも含めた全てが、アルカパの出入り口を見る。そこに立っていたのは、先ほどまでアルダンに従っていたはずの兵士達。そして、連れて行かれたはずの女性。
「あんたは・・・・・・無事だったのかい?」
市民の中の誰かが言った。アリスは兵士達を従わせているかのように歩いてくる。
「はい。おかげさまで。それと・・・・・・」
彼女は固まっている市民達を見回すと、落ち着いた口調で言った。
「私達にも、今後の事を話し合わせてはいただけないでしょうか?」
アルカパの役所に招かれて、アリスらは卓についた。
集められたのはアリス、ラインハットの兵士長。アルカパの代表として町長代理の男性、シスターのジゼル。兵士達は護衛のために町の周囲を見張っている。
先ほどまで敵として訪れていた兵士達に周辺を歩かせることに、始めは市民達も難色を示した。だが、兵士達の真摯な謝罪やアリスが口添えをしたことも加え、現状で戦える者がアリスを除けば彼らだけであることが、戦いの心得を持たない者達の首を縦に振らせたのである。
こんな光景に、アリスはどこか既視感を覚えた。思い当たるのは――――そう、かつてサンタローズが焼き払われた際、シスター・ミランを交えてビル隊長達と今後の事を話し合った時だ。
ふとした時に思い出してしまう、あの優しいシスターのミラン。ラインハットでアリスを助けるために生き別れになってしまった彼女の姿は、今でも瞼の奥に焼き付いている。だが、今は感傷に耽っている場合ではない。
何よりも優先するべき事は、今だ。
話題は勿論、今後の事について。すなわち、結果的にクーデターを起こすことになったアルカパの市民は、ラインハットと戦うべきか。その場合、戦えない市民達はどうするのかである。
「まずは、現状を整理するとしましょうか」
場の主として町長代理――――名をロジャースといった――――が切り出す。
「まずは、ラインハットからこのような事態を引き起こされてしまったにも関わらず、貴女様のおかげで町の人々や私自身も、こうして命を生きながらえることができたことを、心から感謝致します。町の代表として、お礼を申し上げさせて頂きたい」
頭を下げるロジャースに、ジゼルも同じようにする。その言葉を素直に受け取ったアリスは、話を続けるように促した。
「中でもとりわけ重要だった事柄については、あの将軍が魔物であったという事実こそが大きい。結果論ではあるが、これをラインハットに報告すれば、この件はクーデターではなく、国を操っている魔物を退治した“事件”として扱われる可能性が出てきた」
それは確かにもっともだ。ラインハットとて、自分達のお膝元に魔物が潜んでいて、しかも長年の間それに気づけなかったとあっては対応を変えるだろう。
だがそれは、ラインハットの上層部にまともな人間がいれば、の話だが。
将軍が魔物であったという事実。いや、そもそも8年前ですら王妃が魔物に化けていたのだ。ロジャース代理や兵士達や訴えたところで聞き入れてくれるだろうか。むしろ――――
「王族にも、確実に魔物がまだ潜んでいるでしょうね」
アリスの呟きは、半ば確信を持った発言であった。
そうとも。かつて王妃の姿でこの国を牛耳ろうとしていた魔物が、どういうわけか現場の将軍にその身を変えていた。では、今現在・・・・・・太后の姿に変えているのは一体誰なのだろうか。
まさか、太后は本物という可能性は?
いや、まさか。わざわざ本物を今になって表舞台に出す理由がない。むしろ本物など彼らにとっては邪魔なだけだ。薄情な言い方になってしまうが、入れ替わった時点で■されている可能性の方が高いだろう。
仮にもし生きていたとしたら、姿を変えるためには化ける相手がいなければいけないという理由が挙げられる。だが、それも仮説や推測の域を出ない。
まあ、ようするに・・・・・・太后も偽物だ。あの偽アルダンとは違う、もっと別の誰か。
「少なくとも、あの偽のアルダン将軍とは上司と部下の関係である可能性があります。偽アルダン将軍から太后の立場を奪い、なおかつ現場へ行かせるように命令できる程度には偉い誰か、ですが」
「ううむ・・・・・・確かに。やはり、魔物かもしれないという王族に直接訴えるというのは、なかなかに空恐ろしいものがあるな。やはり、徴税官を捕まえようとしたというのは、マズかったか?」
ロジャースが呻る。そこへ、髭を生やした中年の兵士長も口を挟んだ。
「いえ、あれはやむを得ないことだったかと思いますぞ。それに、少なくとも・・・・・・今回のクーデターは、すでに半ば決着がついているようなものです。今回のことの次第を報告するべき者は、全てそちらのアリス様が解決してくださいました。逃げた傭兵達も、今更ラインハットへ逃げ戻るような真似はしないでしょう。敵前逃亡行為ですからね」
「おお・・・・・・ご配慮、感謝致します」
今回のクーデターは、事情を知っている者達が全て口を噤む事で話を終わらせるという。偽の太后にバレれば口封じに処刑されてしまうので、兵士達も今更城の者へ馬鹿正直に話すわけにはいかないのだ。
ただし、と一転して苦々しい顔になる兵士長。
「・・・・・・こうなると、城の中で誰が味方なのか分からないというのが厄介ですね。まあ、国の全員が魔物に化けているとは思いたくはありませんが、かなり多くの魔物達が潜んでいることは間違いないでしょう」
「確かに。魔物と人を見分ける手段があれば話は別なのですが。私たちは、そんな者に心当たりはありませんし」
ジゼルが困ったように呟くと、兵士長はふとアリスを見つめた。
「そういえば、アリス様。あの時は、どうやってアルダン将軍が偽物であると?」
「ああ、それはこの鏡のおかげなのです」
アリスは道具袋から、割れた鏡を取りだした。それを見たジゼルが目の色を変える。
「貴女、それってラーの鏡でしょう! どうして・・・・・・!?」
「はい。これは真実を映し出すことができる鏡。残念ながら、あの偽アルダン将軍に不覚を取ってしまい、この通りになってしまいましたが」
そう、本当に悔やまれる。自分が動揺などせず、冷静に立ち回れていたならば防げた結果なのだから。
だが、ジゼルの動揺はそこにはない。彼女はまるで、何か信じられない物を見たかのような表情でアリスに詰め寄ったのである。ロジャースや兵士長が目を白黒しているのにも気づいていないほどに。
「――――それ、拝見させて頂けますよね?」
「はい。こちらです」
有無を言わせない口調に、アリスは素直に渡す。もとより、拒む理由など無い。
ふと、今になって安易にラーの鏡を見せたのは失敗だっただろうかと思ってしまう。だが、アルダンの正体を見破るためだったとはいえ、既に兵士達の前で鏡を使ってしまったのだ。今更になって誤魔化しなど効くはずもない。
何より、訊かれたらしっかりと答えなければならないと思っていた。こちらとて色々と込み入った事情がある事は事実である。それでも、これからラインハットという国を相手に共に戦わなくてはならない者同士なのだ。
当然だが、正直に話したところで信じてくれない可能性は高いだろう。その上、下手をすれば信頼を損ねる事は想像に難くない。実際、目の前のジゼルが良い例だ。
それでも、アリスは話すと決めていた。必要に迫られれば、たとえ異常者扱いされようとも――――
「・・・・・・貴女。これをどこで手に入れたのですか?」
「神の塔です」
ハッキリと言い切ったアリス。彼女を見る目が険しくなるジゼル。
「・・・・・・嘘ですね」
また言われた、嘘つきの言葉。だが、今のアリスは動揺しない。そう言われることは覚悟の上だったのだから。ジゼルの疑いも当然の事と受け止めている。
「嘘ではありません。神に誓って」
「・・・・・・」
「言ってはおきますが、レプリカなどという話ではありません。誰が複製したかも分からない偽物だというのならば、アルダン将軍の正体を晒すことなど不可能の筈です」
「これがこの場にあることそのものが、信じられないのですよ」
一度だけ、ジゼルは己を落ち着かせるように息を吸う。
「私はですね、アリスさん。修道院にシスターの後輩である女性と文通をしているのです」
「そう、ですか」
アリスは納得する。しかし、ジゼルが話したいことはそれではない。
「今日の朝、その子から速達で手紙が届きました。彼女は2日前、シスターの試練を受けるために神の塔へ赴いたそうです。そこで――――」
「・・・・・・」
「――――ラーの鏡が、最上階に存在しているところを確かに確認したと」
「え・・・・・・?」
息を呑むアリス。何だそれは。それこそ、あり得ない話だ。
同じ存在が、同じ世界に存在することは許されない。なのに、何故――――?
それとも、ラーの鏡は例外だとでもいうのか? それならばあり得る話だ。この世界へ戻してくれたのは、間違いなくラーの鏡の力なのだから。
「貴女は――――」
ジゼルの声は、深く思考に沈んでいたアリスを我に返らせるのに充分なものだった。ふと気がつけば、ジゼルだけではなく兵士長やロジャースもどこか胡乱な目でアリスを見ている。
「――――誰なのですか?」
突然の追求に、アリスには次の言葉が出ない。ただ、漠然と――――この場に味方はいないことに気づいて、頭を抱えるしかなくなってしまったのである。
つづく