この世界で、最も広大な教会。それが、修道院であった。
海の浜辺に位置しているのは、大海を見据える事の出来る神の教えを学ぶ総本山の意。時折聞こえるカモメの鳴き声は、この地域に強い魔物が近寄ってこないことを意味していた。野生の無害な動物は、強い魔物を警戒するものなのだから。
長年大切に扱われ、丁寧に修繕されている修道院の建物。平和を象徴するように解放されている花畑。潮の香り。その全てが、訪れる者に神聖な環境を連想させた。
厳格な神への礼儀から、日常生活における他者への配慮を初めとした礼節といった作法を学ぶべき場所。そして、この場で日々を修道女として働く者には徹底した英才教育と鍛錬が求められる。
神に仕える者は優秀であれ。これはもうアリスのみならず、修道院出身ですらないジゼルですら何度も耳にしたスローガンだ。
そして、この場に訪れたアリスの心は、純然たる懐かしさ。物心ついた頃から共に生き続けた場所。
厳しくも、孫同然に愛してくれていたヴェラ司祭。姉のように己を導いてくれたシスター・リディア。彼女達の顔を忘れたことなど、一日たりとも無いのだから。
そう、覚えている。この“故郷”を、アリスは確かに覚えているのだから。
「本当に、懐かしいものですね・・・・・・」
思わず涙ぐみそうになるところを、前に立っている先輩シスターの視線を感じて目尻を指で拭う。失礼しましたと頭を下げるが、ジゼルは顔を背ける。
「・・・・・・アリスさん。分かっているとは思いますが」
「はい、了解しております。今の私は、あくまでも・・・・・・」
そう。アリスは自分の心に蓋をしなければならない。ここに居る間は、彼女はあくまでもアルカパからの使者に過ぎないのだから。
加えて、今の彼女は旅の者でアルカパの協力者という事になっている。実際に、今のアリスは身分を証明できない立場なのだ。嘘をつくわけではないと半ば強引に自分を納得させている。これはジゼルから念を押されていた。
「それなら良いのです」
そう言うと、ジゼルは慣れた足取りで前進する。見慣れた花畑の中央を貫くように簡素な歩道があり、2人は近くで花畑の手入れをしていた1人のシスターへ声をかけた。
アリスにとって、やや年若かった記憶の中よりも成人女性に相応しい容姿になったその女性は、ジゼルの来訪に顔をほころばせた。ジゼルもまた笑顔を見せつつも挨拶を交わした。
長い付き合いがあるのだろう。ジゼルはアリスの前では見せなかった表情で話を始めた。その空間に自分が入れないことに若干の寂しさを感じつつも、アリスは一歩引いたところから大人しくする。旧交を温めているところに水を差すつもりは無かった。
「分かりました。それじゃあ、リディア司祭様は聖堂にいるのですね?」
「ええ。また積もる話を聞かせてほしいわ。この前の手紙の返事は、また改めて書かせていただきます」
「もちろん。それじゃあ・・・・・・アリスさん。こちらへ」
話は終わったらしい。アリスはジゼルに付いてくるように促された。もちろん、ジゼルの友人であるシスターにも挨拶をすることを忘れない。
「失礼いたします」
「はい。修道院へようこそ」
ニコリと笑う彼女に、アリスはどうにか笑顔を返す。彼女の微笑みは、完全に赤の他人に対するものだったからだ。
やはり、という落胆を心の中に仕舞い。
「お手紙を書いていた相手とは、彼女のことだったのですね」
「そうですが、何か?」
「いえ、深い意味はありません。あの方はまだ私が修道院に居た頃に、花言葉を教えてくれたシスターだったのです」
「・・・・・・そうですか」
複雑な顔をするアリスに、ジゼルはなんと言っていいのか分からない。かつて確かにあった人同士の絆や記憶を、この女性は今や失ってしまっているのだ。
中に入ると、絨毯の引かれた廊下が左右に伸びている。調理を中心とした仕事を行う部屋と、就寝用の部屋に分かれているのだ。正面の扉を開けると、いつ見ても重厚かつ神聖な空気を纏う聖堂が広がる。
「・・・・・・あ」
「アリスさん」
つい、無意識に声を出してしまうアリス。ジゼルがまたしても咎めてくるので、大丈夫ですと頭を下げる。我ながら情けないと思うが、さっきからこればかりだ。ほんの僅かなことでも、つい記憶の中にある光景をつついてしまう。
ジゼルの、どこかドライな対応がむしろ有り難かった。ここで気遣われるように接してこられたら、きっと涙を堪えることができなかっただろうから。
「まあ、シスター・ジゼルではありませんか」
と、声をかけてくるシスターがいた。鈴の鳴るような、聞く者の心を落ち着かせるような声だなと素直に思ってしまう。
長椅子に腰をかけて祈りを捧げていた修道女だ。一目で可憐な印象を受ける容姿で、腰まであるスカイブルーの髪が印象的な少女だった。アリスの記憶には無いシスターだが、ジゼルとは知り合いらしい。
「お久しぶりですね、シスター・フローラ。最後に会ったのは、先月の会合以来でしたでしょうか?」
「ええ。本当でしたら1度そちらへも赴く予定でしたが・・・・・・このご時世で。申し訳ありません」
よいのですよ、と話を締めくくるジゼル。フローラと呼ばれた女性はアリスの存在に気づくと、丁寧に挨拶をする。アリスもまた、笑顔で精錬された礼を返した。
まるで鏡合わせのような礼節。2人の礼を見た者は、誰もがそう思っただろう。
「シスター・フローラ。彼女は私の同行者なのです。お手数ですが、リディア様に取り次いでいただけますか? 少々頼み事ができてしまったのです」
「わかりました」
手本のような礼をすると、フローラは踵を返して聖堂の奥へと姿を消していく。周囲には、修道女がそれぞれの仕事のために聖堂内を行き来している。2人は邪魔にならないように、長椅子の隅に腰掛けることにした。
頃合いを見て、アリスはジゼルに気になっていたことを訊いてみることにする。
「ジゼルさん・・・・・・お一つよろしいでしょうか?」
「・・・・・・何か?」
「少々言いづらいことなのですが・・・・・・まさか、今の司祭様は」
アリスの言いたい事を悟るジゼル。気にするのも当然かと思う。この修道院にいる筈の者がいないことに気づいたのだろう。
「お察しの通りですよ。今の司祭様のお立場は、リディア様が務めております」
一瞬の間。アリスは、その言葉の意味をかみ砕くようにして受け入れる。まさか、あの祖母のような司祭様が・・・・・・
「やはり、ですか。それでは・・・・・・ヴェラ司祭様は」
「大往生、でした。最後までラインハットからの睨みにも毅然と立ち会ったそうです」
「・・・・・・そう、ですか」
アリスはそれだけを呟いた。何となく、彼女も予感はあったのだ。今の修道院には、あのヴェラ様の気配が感じられないと。
若くして司祭の地位を得て、ずっと他者への気配りを忘れない立派なお方。修道院の在り方を立ち上げたのはヴェラの活躍が大きい。そんな彼女が、もういない。
「・・・・・・いつ、でしょうか」
「2年前です。ちょうど冬の頃でしょうか」
「それでしたら・・・・・・84歳ですね。私にとっては、祖母のような方でした」
そう。幼い頃から、修道女のなんたるかを教えてくれた人。そんなあの人とのお別れに立ち会えなかった事が、何よりも悔しく思える。
大きくなった姿を、一目でも良いから見てほしかった。生きてもう一度だけ会いたかった。お婆ちゃんと言いたかった。
無意識に、膝の上に乗せている手をグッと握りしめる。こんな事にならなければ、会えていたはずなのに。あのどれだけ皺が増えようとも、生きる活力に満ちあふれていた優しい笑顔を、アリスは思い出した。
「きっと、誰にとってもそうだと思います。修道女そのものと呼んで差し支えない方でしたから」
ジゼルも、流石に尊敬している大先輩の話となれば色々と語りたくもなる。老衰ではあったものの、最後まで堂々としていた姿は今でも修道女達の心に残っていた。
周囲で働いているシスター達の瞳に、暗さは無い。それに安堵すると同時に、8年の時の流れは大きいと感じた。
もし、生きて会えていたら・・・・・・今の自分をどう思ってくれただろうか。
それを知る術は、もう無い。
アリスは指を組み、そっと瞳を閉じる。ヴェラ様、どうか神の元へ安らかな心のまま・・・・・・
しばらくの間、沈黙が続く。いくつかの長椅子にはちらほらと一般の人間が来訪しており、周囲のシスターはその者から相談を受けているらしい。あまり耳を澄ませるのも失礼だ。
視線を何となく壁に向ける。いくつかの宗教に関わる絵画が立てかけられており、いくつか別の絵画に取って代わられているものもあった。
そこで、ふとアリスの目が止まる。彼女にとって、見覚えのある絵だったのだ。
「・・・・・・」
確か、自分が4歳になる少し前に描かれたシスター達の集合絵だ。在りし日のヴェラやリディアといった者達の、当時の姿がよく分かる一枚の絵画。暖かいタッチで描かれているのが印象的である。
あの絵は――――
「お待たせ致しました、シスター・ジゼル」
声がかかる。フローラが司祭であるリディアを連れて戻ってきたのだ。アリスの肩が震えそうになるが、幸いにも誰かに気づかれることは無かった。
「リディア司祭様。この度は、突然の来訪をお許しください」
「いいえ。我が修道院に閉ざす扉などありませんよ。しかし、何か深刻な事情がおありのご様子ですが?」
「はい少々お願い事があって参りました。ここから先のご説明は・・・・・・彼女が」
「はい。失礼致します」
ジゼルは、アリスに前に出るように促す。8年ぶりに修道院を訪れるその女性は素直にその通りにすると、指を組んで礼をした。
その自然な仕草に、リディアは内心で感心する。優秀な修道女であるリディアは、それだけでアリスのシスターとしての修練を重ねているかを理解したらしい。
「まあ、シスター志望の方でしょうか。貴女のような優秀な方でしたら、すぐにでも一人前と呼ばれるでしょう」
「・・・・・・初めまして。お褒めにいただき、光栄です」
リディアは本心からアリスを褒め、彼女は微笑みを浮かべる。今、自分は笑えているだろうかという不安が脳裏を過ぎった。
目の前のリディアは、記憶の中にある彼女よりも僅かながら痩せているようだ。かつては年齢の割には若々しかった容姿も、どこか年相応に変わっている気がした。
「――――」
何よりも、目元に皺が僅かながらも見えている。彼女はまだ、顔にそんなものができるような年齢では無い筈なのに。それこそが、嫌でも年月の変化をアリスに思い知らされた。
「?」
反対に、リディアは思う。
まだ名前も知らない女性が浮かべているその笑顔。それが、どこか無理に取り繕っているように見えるのは気のせいだろうか。不愉快にさせた覚えは無いのだが、リディアには心当たりが思いつかなかった。
とはいえ、無理にそこを指摘するのも良くない。僅かに生まれた疑問を棚上げすることにした。アリスも同じ考えだったらしく、話を進める。
「ご挨拶が遅れましたが、私はアリスと申します。この度は、修道院の司祭であるリディア様にお願い事があってこちらへと参りました」
「お願いですか。それは、どのような?」
「はい。実は――――」
そして、アリスは話す。魔物に支配されたラインハットの狼藉や、アルカパの現状。
その現状を打破するために、ラーの鏡が必要ということ。そのために、神の塔へ向かわせてほしいという願い。当然ながら、こちらの道具袋の中に保管してある方のラーの鏡については、一切触れる事はしなかった。
「・・・・・・お話の大筋は分かりました。しかし、あなた方が行おうとしている事は、正直なところ危険が過ぎるのではないでしょうか?」
案の定、リディア司祭は良い顔をしなかった。傍らで一緒に話を聞いていたフローラも、こちらを心配そうに見ている。
何でも、修道院はラインハットが暴政を始めた頃からずっとお互いを牽制しているような状況が続いているのだという。国民や内部の支持率こそ急激に低下しているものの、ラインハットは言うまでもなく軍事国家である。修道院もまた世界中の宗教の総本山ということで、影響力は計り知れない。
国は修道院を手に入れ、世界中の宗教を支配する。修道院は暴君に屈しまいと頑強に抵抗する。
だが・・・・・・その抵抗も、近頃はヴェラを失ったことで均衡が崩れ始めてきているらしい。そもそも、ヴェラが体調を崩したのはラインハットから掛かってくる圧力が原因なのではないかと、まことしやかに囁かれている有様なのだから。
無論、リディアも司祭として手を尽くしているのだろう。だが、流石に荷が勝ちすぎるというのが本音の筈だ。
「危険は承知の上です。ですが、もはやアルカパの者達・・・・・・いいえ、ラインハットの罪も無い市民達もまた、今の統治には誰もが限界の筈ですから」
「・・・・・・ラインハットが魔物に支配されているという話は、少なくとも嘘ではないのでしょう。ですが、万が一その上層部が魔物に脅されていただけだったのだとすればどうでしょうか。偽太后など今はおらず、その将軍様に化けていた魔物が本来の大将という可能性は?」
もしそうだとしたならば、アリス達の行おうとしていることは全くの無駄となる。リーダーを失った魔物達がいなくなった事で、平和になったラインハットに疑心暗鬼となったアリス達が何も知らずに城へ乗り込み、更なる混乱を招くだけになるだろう。
「その時は、私が牢屋に入れば良いだけです。他の方達は、私に唆されたとでも言っておきますから」
そうとも。それがどうしたのか。アリスとしては、ラインハットがこれ以上魔物に牛耳られる事を防ぎさえすればそれで良い。
その後は、自分の問題だ。簡単にはいかないだろうが、できる限りのことはするつもりだ。罪も罰も、甘んじて受けよう。アルカパの人達に迷惑をかける結果にするつもりは毛頭無い。
「・・・・・・そんな覚悟はとうにできている、という目ですね」
リディアもまた、アリスの真っ直ぐな瞳を見てそれを理解する。このアリスという女性が、生半可な気持ちでここに来ているわけでは無いと。
心底、惜しいと思う。このような女性が修道女を目指してくれているのなら、誰よりも目をかけていたというのに。
しかし、それはそれとして。
「本当によろしいのですね? あの神の塔は、女の足だけで容易く向かえる場所ではありません。なにより、塔の中には魔物も数多く住み着いておりますが」
「いえ、それは問題ありません」
アリスは、あくまでも自然体で言い切った。いっそ、魔物達が哀れに思えるほどに。
あの塔の周辺や内部はドラゴンキッズやエンプーサ、強くともせいぜい彷徨う鎧程度だ。リディアは念のために言ったのだろうが、ハッキリと言わせてもらえば心配など不要である。今更警戒するほどの相手でもない。
――――あの辺りの魔物は、城の兵士でも手こずる程だったと記憶しているのですが・・・・・・
そんな中、ジゼルはどこか遠い目で額に手を当てている。護身術程度の身を守る術しか持っていない身としては、あまりにもレベルが違いすぎる事を痛感しているのだろう。
だが、それも当然。初めて会った時から、アリスから感じられる魔力はリディアの目をして一流と評価できるものだった。立ち振る舞いなども上品さが感じられ、まるで熟練のシスターのようである。
なんにせよ、彼女ならば大丈夫だろう。アリスとは出会ったばかりの筈なのだが、何故かリディアにはそんな確信があった。
「了解致しました。そこまで言うのでしたら、もう止めはしません。あなた方に、神の塔へ挑む許可を出しましょう」
続けて、ジゼルにも告げる。
「シスター・ジゼル。どうか、この頼もしい協力者であるアリスさんをご案内できますね?」
「了解しております」
「そして・・・・・・」
「?」
てっきり、このままアリスと共に神の塔へ向かうと思っていたジゼルは、リディアの続く言葉に疑問符を浮かべる。
リディアは、僅かに振り返って近くのフローラへ目を向けた。
「フローラ。良ければ、貴女も共に神の塔へ向かうのです」
「は・・・・・・?」
流石に予想外だったらしく、ジゼルが口を挟んだ。
「あの、リディア司祭様。何故シスター・フローラを?」
「ああ、これは唐突に申し訳ありません。実は彼女は、近々神の塔へ試練を受ける予定だったのです」
それは、修道女が神の塔へ赴き、己の祈りを持って扉を開けられるかという試練の事。アリスも、話だけなら幼い頃から何度か聞いていた。彼女自身、別の世界ではあるものの、神の塔の扉は確かに開くことができている。ならば、自分は既にその試練をクリアしたと言うことだろう。
それも、今となっては過去のことではあるが。
「本来、修道院直属のシスターは基本的に1人で神の塔へ挑むのが習わしとなっております。ですが、こちらのシスター・フローラはもともと行儀見習いのために、こちらでの教育を受けている者なのですよ」
「なるほど。それでしたら道理ですね」
アリスは納得する。修道院直属のシスターとは違い、あくまでも外部から修道院の英才教育を受けることを目的としている人間だったのだ。
何にせよ、アリスからすれば1人も2人も変わらない。護衛をすることがラーの鏡を使わせてもらう対価だというのなら、甘んじて受けるとしよう。
「了解致しました。どうぞ、よろしくお願いします、シスター・フローラ」
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
フローラは、特に異論は無いようだ。試練を受ける準備は、いつでも整っているのだろう。荷物を取りに自室へ向かうと、間もなく戻ってきた。
「それでは、あまり時間もありません。そろそろ向かうとしましょう」
「どうか皆様、道中お気をつけて。神のご加護があらんことを」
ジゼルに促され、リディアが祈りの言葉を口にする。こうして、一行は神の塔へ向かうことになった。
だが、その前に。アリスは出口へ向かう途中で振り向いた。
「最後に、リディア様・・・・・・つかぬ事をお伺いしても?」
「はい。どのような?」
不思議そうなリディアに、アリスは聖堂の壁に掛かっている一枚の絵画を手で指し示す。
それは、何年も前に描かれた、修道院の卒業生が描いた肖像画。当時のシスター達の姿が、穏やかな笑顔でこちらを見ている。
「ああ、あの絵ですね。ヴェラ司祭が描かれている絵画は少ないもので」
僅かに言葉を選ぶリディア。その理由は、訊かなくとも理解できた。
シスター達の集合絵。それは本来、残しておくべき記念品だ。だが・・・・・・
「当時から、あの絵画は少々“不自然な絵”として曰く付きと言われていました。そのため、2年ほど前まで倉庫の奥に保存していたのです。ですが、ヴェラ司祭が神の元へ召されてからというもの、やはりあの方の姿が描かれている絵は貴重と見直されたため、今こうして再び聖堂へ飾らせていただきました」
曰く付き。誰もがそう考えてしまうのも無理はない。アリスはそう思った。
絵画には、当時のヴェラや今よりも年若い姿の修道女達が集まっている姿。当然、その中にはリディアの姿も。
そのリディアの手前――――正確には、彼女の腰回りから下に立っていたはずの自分の姿が、まるでくり抜かれているかのように消えているのだ。実際に後ろに立っているリディアの両手は、アリスの肩の部分になっているはずだった空間に手を置いているのだから。
本来ならば、リディアがアリスを娘のように大切にしているかが分かるはずの絵画。だが、少女がいるはずの空間には人型の空白だけ。
何も知らない人間が見れば、確かに気味悪く思うことだろう。後になって、曰く付きと騒がれるのも無理はない。
そう。頭では理解できている。できているのだ。
それでも――――
「あと、もう一つだけよろしいでしょうか。私の・・・・・・アリスという名前を、以前にも聞いたことは?」
「名前・・・・・・」
リディアは、僅かに困惑の顔になる。それを見て、アリスは安心させるように微笑んだ。
「実は8年ほど前、私と同じ名前の子がシスターを目指していたのです。もしかしたら、心当たりがあればと思いまして」
「ああ、なるほど」
合点がいった、とばかりにリディアも頷く。しかし、僅かに記憶の糸を辿った彼女は、心から申し訳なさそうな顔になった。
「しかし・・・・・・8年前にアリスさんと同じ名前の女の子、ですか。少なくとも、私は心当たりが無いのです。もし会えたとしたならば、私たちが責任を持って立派なシスターに教育致しましょう」
「そうですか。それは、本当に頼もしいことです」
では、と頭を下げてアリスはジゼルとフローラの後を追っていった。
ただ、1度だけ。アリスは修道院を出た後で振り返り。
――――必ずや、貴女様が眠る墓の前で祈ることを誓います。それまでは、どうかお許しください。ヴェラ司祭様・・・・・・
そう強く決意する事を、忘れなかった。
去っていくアリスの背中を見送るリディアの瞳に、懐かしさは無い。あるのはただ大きな戦いを挑む者に対して、無事を祈る聖職者の祈り。
だが、そんな彼女の祈りに水を差す声が横からかけられる。
「ちょっとリディア。こんな所で自分の世界に入るのはやめてくれる? 祈りの時間じゃあるまいし、通るのに邪魔なんだけど」
と、いささか神聖な聖堂には相応しくない言葉。リディアは内心で眉を顰めながらも、声をかけてきた女性と正対する。この修道院で、このような口調をする女性は1人しかいない。
「貴女ですか、シスター・デボラ。困難に立ち向かう者達の無事をお祈りしていただけです」
「ふうん、そう。良く飽きないわね」
「・・・・・・何度も言っていますが、シスター・デボラ。貴女はシスターとしての自覚が無さ過ぎるのです。貴女のお父上であるルドマン様が、何のためにこの修道院へ預けていただいたのかを理解してください」
「頼まれたわけじゃあ無いわ。それじゃあ、私の行儀見習いは失敗したってことにしても良いわよ。面倒な花嫁修業は、妹に任せるから」
「・・・・・・シスター・フローラは数日間の間、帰っては来ません」
色々と言いたいことを堪えつつ、リディアは言った。その言葉に、修道服姿のデボラは僅かに興味が引かれたらしい。
「は? どういう事よ。今日はオラクルベリーのお使いも無かったわよね」
「必要な物資を購入する予定は、今のところありません。フローラは今日、神の塔における試練を与えました」
そもそも、今日が買い物の日だったというのなら、デボラは適当な理由をつけて一緒についていこうとするだろう。そして、余計な買い物をして帰ってくる。
「あ、そう。私は興味ないからやらないって言っていたアレね」
聞いた途端に興味を失ったのか、デボラはさっさと昼寝をするために寝室へ向かおうとする。その背中に、リディアは訊かなくてはならない事を口にした。
「シスター・デボラ。今日のノルマはどうしたのですか?」
彼女は足を止めることも無く、さも当然のように言った。午前中に全部終わらせた、と。
完全に姿が見えなくなって、リディアは重い溜息をつく。まったく、能力だけならば優秀だというのに、性格や態度がアレでは・・・・・・
こめかみを押さえつつ、今代の司祭は己の仕事に取りかかることにした。自分もやるべき仕事を終わらせなければ、デボラの事を叱れなくなる。
そんな彼女達のやりとりを、絵画の中でかつてのシスター達が静かに見守っていた。
昼下がりの午後。やや曇りがちになっている空。それでも、雲の切れ間から見える青空の下。
神の塔へ向かう3人は、ゆっくりと南の大陸へ向かう橋に向かっていた。背後から見える修道院は、時間と共に小さくなっていく。
狭くなっていく平原の上を歩いているうちに、遠くから潮風が届いてくる。この先に大橋がある筈だ。祠のある森の近くでキャンプをすることになるだろうが、そこさえ乗り切ればすぐに神の塔である。
当然、そこまでの距離を歩けば魔物とも遭遇するものだ。アウルベアーやエビルアップルという、ただの旅人ならば一目散に逃げ出すであろう魔物が、この辺りで縄張りを主張しているのだから。
だが、生憎と今に限って言えば、彼らは例外なく住み家で大人しくしていた方が幸せだったのかもしれない。
突然、集団で囲んできたエビルアップルが襲いかかってくる。だが、アリスは道具袋から取りだしたチェーンクロスを手にし、全方位に振るったのだ。奇声を上げて、地面に転がる魔物達。
手加減したために命までは奪われていないエビルアップルは、自分達を見下ろすアリスの視線に身体の色を赤から緑色へ変化させる。ふと未来の世界でも、アリスと出会ったエビルアップルは大体同じような反応をしていたことを今更になって思い出した。
彼女からすれば、黙って魔物達の様子を見ているだけなのだが、エビルアップル達からすれば剣を突きつけているようにでも見えているらしい。後ずさりをした後は、一目散にあらぬ方向へと逃げ去っていく。
一連のやり取りを見ていたフローラは怯える――――どころか、目を輝かせて感嘆の声を出す。
「素晴らしい太刀筋です。最初から最後まで、優雅な武器の扱いでした。無闇に命を奪わないその心も、また」
「それは、どうも」
アリスは曖昧に笑ってやり過ごす。正直なところ、あまり素直に喜べなかったからだ。
「特に、最後の戦いを締める際の祈りの礼も、また。もしや、アリスさんも修道院の出身者のお方だったのですか?」
「似たようなものです。私に戦い方を教えてくださったのは、他でもないシスター様ですので。個人的には、魔法の方が好きなのですが」
「まあ。それは是非とも会ってみたいものです。貴女のような方と共に働くことができたとしたなら、どれほど毎日が色良く見えていたことでしょうか」
クスクスと穏やかに笑う2人。そんな彼女達を、ジゼルは僅かに離れた場所から見ている。
――――シスターって、何でしたっけ?
この世界において、あまりにも今更な疑問は誰にも聞こえることは無かった。
何はともあれ、この短い時間の中でアリスとフローラは随分と打ち解け合ったようだ。お互いに得意な武器や呪文の話をしながら歩く2人を、ジゼルはあまり関わらないように距離を取りつつも先へ急ぐ。
一晩を野宿で過ごし、朝焼けに空が彩る頃。一行は神の塔へたどり着いた。アリスにとっては2度目になる、神が造りあげたという塔。
流石に、この威圧感にはフローラとジゼルも背筋を伸ばす。アリスがお願いしますと頭を下げると、フローラもまた緊張を隠せない様子ながらも、しっかりとした足取りで扉の前に立つ。
指を組み、祈りの姿勢へ。目を閉じて、心の雑念を全て排除し。
その姿は、まさに熟練の修道女の姿。修道院の誰もが、素養は我々よりも上と評するほどの、フローラというシスターの清き心の在り方。
「――――」
祈る。どうか、この世界と神の入り口を閉ざす空間を1つに――――
「あ・・・・・・」
感嘆の声は、ジゼルのもの。そもそも神の塔の扉を開くのは、本来ならば修道女ですら人生にそう何度もお目にかかれないものなのだ。
光が降り注ぎ、その散りばめられた結晶が凝固な扉を溶かすかの如く。
来訪者を歓迎するかのように、扉が開いた。
「できました・・・・・・!」
ぱあっと、明るい表情になるフローラ。こうなることを何となく予感していたアリスは、フローラの手を取って一緒に喜びを分かち合う。
「素晴らしい祈りでした、フローラさん」
「ありがとうございます。私、アリスさん達のお役に立てて良かった・・・・・・」
と、喜びが過ぎ去った後。ゴホンというジゼルの咳払いで我に返った。
「まずは感謝致します、シスター・フローラ。ですが、試練はまだこれからという事を肝に免じておいてください」
「はい」
「そして、アリスさん。どうか、目的をお忘れなく」
「はい」
揃って、シュンとする2人。ジゼルは溜息をつくと、中へ入るように促した。静々と入るアリスとフローラ。
内部は、アリスが覚えている通りの内装であった。大理石の柱と壁。あの世界で、リュカと共に一夜を過ごした塔。今の彼女にとっては、懐かしさすらある。
「・・・・・・アリスさん、余裕がありますね。私は少しばかり、緊張しているのですが」
「あ、いえ。そうですか・・・・・・?」
フローラの感心した様子に、動揺を見せてしまう。その理由に何となく心当たりのあるジゼルは、どこか不機嫌そうにアリスから顔を背けた。
「?」
ジゼル達の反応に首を傾げつつ、フローラは正面の扉に近寄る。
アリスは思い出す。確かあの先は中庭に続く扉だ。あの美しい緑あふれる中庭は、今でも彼女の心に残っている。
「あ、そういえば・・・・・・この神の塔は、魂の記憶が宿るとも言われているのですよ」
扉に手をかけつつ、思い出したようにフローラが言った。
「来訪者の心を映す、神の造りし塔。だからこそ、神を疑う少女は己の心と向き合うという意味でも神の塔へ挑戦した。その少女は神がその勇気を認めるほどに、真摯な心を持って挑んだ」
ならばこそ、とフローラは言った。扉は手をかけるまでもなく、まるで意思があるかのように開いていく。
「私たちの心の在り方が映し出される塔。ここは歴代の修道女が神へ挑戦する資格のある者かどうかが、問われるのです」
扉の先は、緑あふれる美しい庭。この光景を見るのは2度目ではあるが、それでもこの塔が管理している自然の美しさは、やはりアリスの心に安らぎを思い出させてしまう。そして、それはきっとジゼルとフローラもそうだ。
「このようなところに、中庭があったのですね・・・・・・」
「なんと美しい・・・・・・」
思わず、誰もが吐息を漏らしてしまうだろうその光景。その中庭の中心に、前の世界では無かった一つの影があった。
「・・・・・・っ」
アリスは、思わず唖然とする。ジゼルとフローラもまた、その影に気づいた。
「あれは・・・・・・」
よく見れば、その影は人だった。しかも1人ではない。
2人だ。
2人分の影が寄り添っている姿だったために、遠目からではすぐに分からなかった。アリスは近寄り、中庭へ入る。ガサリ、という雑草が足に当たった音を立てた事も、彼女には聞こえなかった。
その人影は――――
「あ・・・・・・」
瞬間、アリスの足が止まった。愕然と、目の前に立つ2人を見つめる。
中庭に立っていたのは――――自分。修道服を身につけた、自分自身。
そんな自分が寄り添っている相手は、1人の男性。
――――リュカ。
アリスの心から映し出されている2人は互いに身を寄せながら、こちらを静かに見つめていた・・・・・・
つづく