日の光が届かない牢獄の鍵が開いた音は、まさに内部で息をしていた人間にとっては、希望を生む福音と言えよう。
いわれのない罪状で拘束され、家族や恋人と引き離された日。それ以来、気が遠くなる日々を暗い牢獄で暮らしていた無実の男。かつての日々を懐かしんでいた彼らは、突如姿を見せた女神によって、その憧れが現実となったのである。
見慣れない、修道女の姿をした女性。彼女は牢獄を開ける鍵を片手に、囚人達の牢獄を開けたのである。
驚きに口を開けている者達に、名も知らぬ修道女の鈴の鳴るような声で救いの言葉がかけられた。
「助けに来ました。どうか、逃げてください!」
それは、なんと彼らにとっては待ち望んだ言葉だろうか。碌な栄養を取っておらず、運動もできなくなった不健康な身体に、とてつもない活力を与えてくれた。
「右の通路を直進してください。階段を上って、その先へ!」
彼女はそう言っている間にも、隣の牢獄の鍵を開ける。痩せ細った老人が出てきて、自分と目が合う。きっと自分の顔も、あの嬉しそうな老人と同じ顔をしているはずだ。
奇妙な共感が生まれ、男は老人に肩を貸してやった。もう大丈夫だぞ、と老人の足に合わせて女性の指示通りに道を急ぐ。
それを見送りつつも、女性――――フローラは牢獄の鍵を開け続け、囚人達を解放する。中には間に合わず、既に白骨化している者もいたが、彼女はせめて心の中で祈りを捧げた。
何人もの囚人達が通路の奥へ消えていくのを確認すると、フローラはさらに奥の牢獄へ。
この牢獄に収監されている者は、全ていわれのない罪で逮捕された者達ばかりなのだという。これは太后の元へ先行しているアリス共々、兵士長から聞かされていた。
鍵の保管場所も既に教えられている。自分の役目は、無実の罪で収監されている市民達を解放すること。そのために、兵士長達は上層部の目を引きつけるほどのクーデターを、城下で起こす必要があったのだ。
「う、うわああっ!」
通路の奥から聞こえてくる、男の悲鳴。冷静とは程遠い心理で顔を向けると、曲がり角の影から、1匹の魔物が男に覆い被さろうとしていた。
腐った■体。この地下通路に潜んでいる魔物だ。フローラは巻き付けた状態で腰に留めている武器に手をかけ、流れるような動きで魔物へ叩きつけた。
チェーンクロス。アリスから渡された武器は腐った■体の首に巻き付き、男から引き剥がされる。尻餅をついていた彼は、慌てて立ち上がると一目散にその場を離れていった。
当然、獲物の狩りを邪魔された魔物は、フローラへと襲いかかる。だが、それに怯える様子も見せない清らかな淑女は、手の平から呪文を放つ。
ベキラマ。中級閃光呪文である。文字通り命知らずな腐った■体は、呻き声も上げられないまま灰になっていく。さようなら。今度こそ神の元へ。
さらに囚人を解放すると、今度はやや離れた場所にも1つの牢屋があることに気づく。場所が若干これまでとは離れていることから察するに。どうやら上流貴族専用の牢屋らしい。
きっと、あの中にも誰かがいるはず。そう思い、フローラは足早にその牢屋へと近づいた。
「何じゃ、何故囚人の者達が牢屋から出ておる! ええい、妾も出せっ! 出しておくれっ!!」
やはり声がする。もう少しの辛抱です。すぐに出してあげますから。
鉄格子の奥。フローラは中で監禁されている人物に、もう大丈夫ですよと声をかけようとする。
だが、その声は発せられなかった。驚きに、身体が硬直してしまったのだ。
牢屋の中にいたのは――――
「おお、お主か。先ほどから囚人共を牢から出しておるのは! 後生じゃ。妾も出しておくれ・・・・・・っ!」
この国を牛耳っているはずの、太后の姿であった。
「デール王、どうかお下がりください!!」
「は、はいいっ!」
視界の隅でへたり込んでいたデールが、転がるように後ろへと下がる。それと入れ違いになるようにアリスの疾走が始まった。
ラインハット城の屋上、中庭や城下を一望できる高所で、見とれるほどの速さで3体の怪物に迫る。
前に出たのは、主を守らんとするオーク。手首で赤い柄の槍を回転させると、一瞬で距離を詰め寄ったアリスの額を突く。
「――――」
切っ先がアリスの頭蓋を貫く直前、その槍はまるで彼女を避けるように頬の横を通り抜けていった。
オークがアリスへの攻撃を躊躇ったわけではない。彼女が接近する勢いを止めないまま、進行方向を僅かにずらしたのだ。カウンターで、アリスの手に持っている武器で一撃。
雷神の槍はオークの喉を裂いた。だが、浅い。間一髪で首を反らしたため、断裂を避けることができたのだ。
今度は反撃。眉間、心臓の2カ所を同時に突く。体格の割に、素早さの高いこの魔物だからこそ可能である芸当。
だがそれも、アリスの前では無意味。彼女は全く同じモーションで槍を放ち、切っ先と切っ先を合わせたのだ。オークの技量を上回る絶技に、魔物の額に青筋が浮かぶ。
「今度は、俺の番だ!」
そこで、アリスの横から火柱が放たれる。彼女は瞬時に後方宙返りで回避行動を取ると、目の前に現れた魔物を視界に入れた。
「キメラですか」
「キメーラだ。俺を、そこいらの劣等種と同じにするなよ!」
その通り。今の火炎の息は、そこいらの魔物では吐けない炎であった。おそらくは、数々の戦いを経験している変異種なのだろう。
「ベキラマ!」
中級閃光呪文。炎の津波を思わせる威力が放たれた。ならばと、アリスも手の平に魔力を放出させる。
「ヒャダルコ!」
中級の氷呪文。広範囲の吹雪がベギラマを押し返す。
だが、それにもキメーラは余裕の笑みを崩さない。続けて、この呪文だ。
「ヒャダルコ!」
同じ呪文。この魔法は、アリスの専売特許ではないのだ。自分の放っていたベギラマを、ヒャダルコで押しつける。流石に2種類の呪文を混ぜるなどという発想は、アリスにも考えつかなかった。
「・・・・・・」
押されそうになるアリス。だが、ならばこちらも同じように対抗するのみ。
「イオラ!」
「なにいっ!?」
驚愕するキメーラ。まさか、中級爆裂呪文まで使えるのか。
流石に、それでは火力で負ける。一瞬は優勢になったキメーラが、一気に押し返されていく。
馬鹿な、俺の魔力が。キメーラが魔法4発分の魔力をその身に受けてしまうと危惧した時、間に入ってくる者がいた。
その逞しい背中は――――自分が信頼する上司、ジャミ。
瞬間、爆発が起きる。城が地震のように揺れ、巨大な煙がモクモクと生まれた。
「・・・・・・っ」
アリスは、つい動揺してしまう。なんと、あれほどの呪文を一身に受けたはずのジャミの身体には、傷1つ負っていなかったのである。
それを当然のように受け止めながらも、ジャミは呆けている部下2体に指示を出した。
「お前達よ、ここはもう良い。今から城下の人間共を始末しに向かえ」
「は、ははっ!」
「仰せのままに!」
恐れおののいたかのように、オークとキメーラは頭を下げる。ジャミは、ジロリとアリスを見た。
「この女は、俺が始末しよう」
「ケケッ。オメエは確かに強いみてえだが、ジャミ様には敵わねえぜ」
キメーラがアリスを哀れむように一言を残すと、オークと共に城の下へ飛び降りる。あの様子では、すぐさま魔物達の援護に入るのだろう。
だが、アリスもそれを追う余裕など無い。目の前のジャミは、あの2体とは比べものにならないほどの威圧感を感じる。雷神の槍を握る手に力が入った。
それに、何故だろうかとアリスは思う。彼女は、先ほどから目の前のジャミという魔物に引っかかりを覚えていた。あれほどの混合した呪文を受けて無傷という、彼の在り方はいったい・・・・・・
「さて、お前はあの時の女だな。見たところ、お前は修道女のようだが」
「・・・・・・」
返事は無言。今の彼女はシスターを目指しているわけではないが、今それをこの場でわざわざ口にする必要は無い。
「ならばこそ、あの戦闘能力もうなずける。あのキングダンサーを倒したほどなのだからな」
「・・・・・・キングダンサー?」
聞き慣れない名前に、アリスが反応する。
「フッ、名を聞いていないのか。あのアルダンに化けていた魔物だ。お前とはずいぶんな因縁があったらしいな」
「なるほど。あの時の話を聞いていたのですね」
迂闊だった、と思う。やはり、あの時に馬鹿正直に己の身に何が起こったのかを話してしまったのは不注意に過ぎた。
そして、あの魔物の名前がキングダンサーとは。聞いたことのない名前だが、恐らくは先ほどのオークやキメーラのような変異種なのだろう。
「そういう事だ。だが、あの時の貴様等の話は正直なところ驚いたぞ。奴の魔道の研究は好きにやらせていたものだが、まさかあのような結果が生まれていたとは」
フフン、とジャミの鼻が鳴る。馬の姿をした魔獣らしい仕草であった。
「女よ。世界から追放された気分はどうだったのだ?」
「よほど、そちらにとっても意外な結果だったのですね。それで、あなた方の目的は何なのでしょうか?」
長話に付き合う気は無い。挑発をキッパリと無視して、アリスは平坦な声で話を変える。
「あなた方は光の教団の一味でしょう。このように国を衰退させる目的は何ですか」
「ほう。少しは我々のことを知っているという訳か。ならば、尚更この俺が光の教団の恐ろしさを教えてやらねばな」
逆らう者は■す。戦闘態勢に入るジャミに、アリスも同じように応えた。実戦で鍛え上げた、独自の構え。雷神の槍の切っ先は、目の前の敵へ真っ直ぐに向けられる。
「さあ、来るがいい! 反抗分子は駆逐するのみだ!!」
「させません!」
ジャミとアリスが、同時に床を蹴った。
苦痛の悲鳴が、城下町の至る所から聞こえる。先ほどまで優勢に進んでいた戦況は、たった2体の魔物が姿を見せたことによってあっさりと覆った。
左右から飛び出した兵士の剣を、オークは難なく一本の槍ではじき返す。それどころか、彼らの心臓と喉を一息で貫いた。血しぶきが裏路地を赤く染めていく。
何かを叩くような音。それが何を意味するのかは逃げ回っている市民では理解できない。ただ、闇雲に人気が少なそうな通路を走ることだけ。
もう限界だった。理不尽な法に怯え、身を隠して細々と生きている市民達。この劣勢に追い込まれた状況がトドメとなって、とうとう慣れ親しんだ土地に背を向けるしかなかったのだ。
兵士達の制止の声も届かない。我先に大通りや狭い通路を走り続ける。そこに、悲鳴や怒号が飛び交う。
仲間達と共に魔物達と戦っていたビルは、周囲の様子が変わったことに焦りを覚えていた。これまでずっと隠れ潜んでいただけの市民が、発狂したかのように住むべき家から外へと姿を現わしたのである。
「マズい、暴徒か!」
こういう時は、人災が何よりも恐ろしい。魔物の襲撃も勿論だが、人間の起こす災難の方が対処は難しいものだ。なにしろ、倒してお終いというわけにはいかないから。
「私が参ります!」
「ミランさん!? 危険だ!!」
「避難誘導の方が安全です。ビル様は、どうか魔物の対処を!」
言うが早いが、シスター・ミランはビルの元から離れ、市民の群れの中へと姿を消していく。引き留めようと手を伸ばすが、それは他の兵士が止めた。
「やめときな。今はシスターさんの言う通りにしとけ」
「気持ちは分かるが、俺たちは魔物達を何とかしよう」
口々に言われ、ビルは悔しげに手を引く。仲間達が慰めるように、背中を叩いた。
「行こうぜ。俺たちは、魔物達を追い払わなきゃな。さしあたっては、あのオークとキメラからだ」
「・・・・・・分かっている」
彼らは頷くと、大通りの奥で複数の兵士達に囲まれている魔物達へ向かっていく。囲っている、とはいっても圧倒的に優勢なのは魔物達の方だったのだが。
この2体。なにしろレベルが違う。従来のオークやキメラとはまるで別の種族のようだ。今また、1人の兵士が血の海に沈んだ。
その様子に、ビルを含めた兵士達は奥歯を食いしばった。飛びかかり、剣で斬りかかる。
「かあああっ!」
だが、それは真上からの炎によって防がれた。いつの間にか彼らの上空に飛んでいたキメーラが、火炎の息を吐いたのである。完全に不意を突かれた一撃。そして、彼らを丸焦げにするには充分の火力。
地面を転がり、どうにか纏わり付く火を消した。この程度の炎で、■んでたまるものか。
そう来なくてはと、キメーラは追撃の魔法を放つ。
「ヒャダルコ!」
「うああああ・・・・・・あ・・・・・・!」
兵士の1人が、瞬く間に氷漬けにされていく。足元が完全に氷に包まれる頃には、彼の意識は完全に無くなってしまう。
「マーストン!」
兵士の名を叫ぶビルだが、もう何の返事もない。次の瞬間には、急降下してきたキメーラの嘴の突きによって、氷像となった全身が砕かれてしまった。
「ケケケッ! 脆すぎるぜ、人間っ!!」
「おのれっ!!」
激高した兵士が、全身の火傷を無視して斬りかかる。だが、刃はキメーラには届かない。
「俺がいることも忘れるなよ」
「がは・・・・・・っ」
真横から繰り出された槍は、正確に兵士の心臓を貫く。乱暴に抜かれた槍の傷口からは、血液が間欠泉のように噴き出した。
「さあ、残りはお前1人だぜ」
キメーラがビルと同じ視線まで降りてくる。その後ろには、血に濡れた槍を構えるオーク。
仲間達の兵は、大勢が血まみれのままで倒れ伏している。この場で立っていられているのはビル1人。
最後の残党狩りに、2体の怪物が近寄ってくる・・・・・・
蹄の拳が、ラインハットの堅牢な城の壁にヒビを作る。間一髪でその一撃を躱したアリスは、刃の近くの柄を握ってジャミの胸元を一閃。
薄ら笑いすら浮かべ、一撃をその身に受ける。やはり、魔獣は傷1つすら負わなかった。
再びジャミの攻撃が迫るものの、今度は壁を蹴ってジャミの反対側へ。空中を飛んでいる間に、真下からジャミのメラミの炎が。
「マホカンタ!」
あらゆる呪文を跳ね返す、魔法の壁。反射されたメラミはジャミへ牙を剥くが、それは裏拳の一撃で容易く消え去った。
――――また、傷1つ付きませんでしたか。
先ほどの槍の攻撃。いや、攻撃は確かに当たったはずだ。だというのにアリスの手には切り裂いたという感覚そのものが感じ取れなかったのだ。もう何度攻撃を加えても、その繰り返しなのである。
あの絶望の世界で生き抜いたアリスが、全く手応えを感じられない。別に自身の実力に絶対的な自信を持っているわけではないが、やはりダメージが皆無というものは少々思うところがあった。
だが、それにしては・・・・・・少々引っかかる。そんな考えを脳の奥底に残しつつも、彼女はジャミの蹄の攻撃を槍で受け止めた。
「まだまだ!」
ジャミのラッシュは終わらない。幾度もの打撃を防ぎ、どうにか防戦に徹するアリス。
やがて、マホカンタの効果が切れる。そこへ――――ジャミの魔力が形となって現れた。
「喰らえ、バギクロス!」
――――躱せない!
風魔法の最大呪文。これまでの戦いの中、ずっと隠していた一撃。ジャミの誘導に、まんまとハマってしまったのである。
今まで武器で肉薄していたために、ほぼゼロ距離。そんな状況でバギクロスなどを受けてしまえば――――
「ああああ・・・・・・っ!」
マホカンタが間に合わず、身を躱すことも敵わず。まともに喰らってしまったアリスの身体が、全身を切り刻む巨大な竜巻によって切り刻まれる。四肢も胴体も、背中も頭も。魔力の竜巻の中に閉じ込められたまま、風の刃で蹂躙されたのだ。
その竜巻が消え去ったとき、アリスは全身を傷と血まみれになりながらも、まだ両の足で立っていた。その姿に、ジャミは心からの敬意を表する。
「素晴らしいぞ。よく持ちこたえた。だが・・・・・・あれで■ななかった事が、私にとっては不愉快極まりない」
先ほどから感じていたが、このアリスという女はよほど過酷な実戦を重ねているらしい。今の一撃は、ジャミの渾身の魔法だったというのに。
だからこそ、油断はしない。この女は、確実にこの場で始末するべきだ。そろそろ、頭蓋を砕くとしようか・・・・・・
腕を伸ばそうとするジャミ。そこで――――
「やめてええええっ!」
――――1つの声が届いた。
実のところ、アリスとジャミの戦いは中庭からも確認されていた。
中庭にいるのは、牢獄の地下道を通って、この場に姿を見せた囚人達。そして、つい先ほど太后を伴ってこの場へたどり着いたフローラである。
数年ぶりに日光のある外へ出ることができた開放感に安堵するのも、つかの間であった。中庭を囲っている造りである城の屋上。普段は通路代わりに使われているその場で、馬の魔獣とローブを身につけた女性が戦っていたのだ。
混乱する囚人達に、フローラはあの魔物が太后に化けていた魔物なのであると説明した。その事実に驚愕する元囚人と、本物の太后。
「あ、あの魔物が妾の姿を使ったと・・・・・・?」
「はい。今は、あの女性がラーの鏡を使って正体を暴きました。今現在は、城下でも人々が武器を手に魔物達と戦っているのです」
「なんと・・・・・・我々が牢に閉じ込められている間に、そのような事が」
「ほ、本当なんですか。その話は?」
周囲で話を聞いていた男が、フローラに詰め寄る。それに嫌な顔もせず、彼女は真っ直ぐな瞳で頷いた。
「お気の毒ですが・・・・・・事実なのです」
「そんな・・・・・・」
打ちひしがれる男。何年も剃っていない髭が、尚更くたびれた印象を深くしてしまう。
「嘆くのは、もうその辺にするが良い。アルダンよ!」
そこで、太后が渇を入れる。彼女自身も疲弊しきっているはずなのに、その声は王族の威厳を損なわない力があった。
「皆の者、よく聞くがよい! 我々は、魔物達の卑劣な計略によってこのような縁に立たされてしまった。だが、今は救いの者の手によって、こうして生きながらえておる。今こそ、倒れてなお立ち上がる人間の意地を見せる時! 軍事国家、ラインハットの誇りを忘れておらぬと思う者は直ちに武装し、城下の護衛の任に当たるがよい!!」
「――――――――」
その言葉は、この場にいる者達にとって、どれだけの頼もしい道しるべとなっただろうか。誰もが痩せ細り、走るのがやっとである健康状態だというのに。握りしめた拳にはいささかの迷いも弱気も見当たらず。それどころか、我先にと男達は城の内部へと入っていった。
その様子を悲しげに見送りながら、ロザミア太后は力無く微笑む。まるで、先ほどの声で気力を使い果たしてしまったかのように。
「太后様・・・・・・」
「よい。これは、せめてもの妾の意地でもある。分かっているのだ。そもそも今回の一件は、かつての妾の思い上がりから生まれたもの。その結果が、今のラインハットなのだ。王族でありながら魔物がつけ込む隙を作ってしまった以上、もう権力などを持つ資格などない」
だから、とロザミアは続ける。
「今、妾に出来る事をしなければと思うのじゃ。罪を償うのは、その後である。そうでなくては、何の落ち度もない守るべき民の全てに顔向けができんわ」
「・・・・・・」
フローラは、ここでロザミア太后が持つ王族としての誇りを感じた。罪を犯して、なお人の上に立つ王族の責務を果たすこの女性を、彼女は好意的に見て取ったのである。
だが、そんな安堵にも似た気持ちも、突然に襲いかかった魔力の余波によって吹き飛んだ。
そう、吹き飛んだのである。ジャミがアリスにはなったバギクロスの余波によって、フローラとロザミアは自身の身体が中庭に転がっていく。
「きゃあっ!」
「おおお・・・・・・っ!」
修道院で訓練を受けているフローラですら、咄嗟の魔力に反応できない。辛うじて立ち上がった彼女が城の屋上を見上げると、そこには凄まじい竜巻の中で身体が切り刻まれるアリスの姿が。
「ア、 アリスさん・・・・・・っ!」
マズい、とフローラは直感する。いくらアリスが卓越した修行者だからといって、あれほどの呪文を喰らっては無事で済むわけがない。すぐに加勢に行くべきだったと、フローラは自分を叱る。
その魔力の蹂躙が終わったとき、アリスは既に虫の息であった。とどめを刺そうと、ジャミが近づいていく。
それを見たとき、フローラの中で何かが弾けた。自分の中で何かが灯り、それが全身に回っていく感覚。
この感じる力がなんなのか、フローラには理解できなかった。分かっている事は、この力を一刻も早くあの魔物にぶつけなければいけないという事だけ。
「やめてええええっ!」
感情のままに叫ぶ。湧き上がってきた力を解放し、それが外に向かって放たれた。
「こ、これは・・・・・・」
突如、中庭の方向から放たれた光がジャミの全身を包み込んだ。
間違いない。これは、あらゆる魔力を無に帰す破邪の力。愕然とした心のまま、ジャミは己の全身を見下ろすしかない。
信じられなかった。ありとあらゆる研究を重ねて生み出した、ジャミの絶対的なバリアを無効化されたのである。
ジャミはほぼ恐慌状態で、中庭に視線を向けた。誰が、どこから今の力を放ったというのだ!?
「・・・・・・っ」
中庭の光景を見て、舌打ちをする。中庭には、先ほど解放された囚人達が先ほどの余波でひっくり返っていたものの、どうにか起き上がっている姿が見えた。流石に立ち上がって城下へ向かう体力の残っていない者や、理不尽な罪状で幽閉されていた上級貴族。へたり込みながらもこちらを毅然と見上げている太后と―――修道女。
誰だ。誰が――――の子孫だというのか!?
驚愕と焦りが、ジャミの思考を鈍らせる。この時、ジャミは2つの失策を犯した。
1つは、ジャミを含めた光の教団が探し求めている者が誰であろうとも、全員を皆■しにしてしまえばよかったのだという事。要は中庭に渾身のバギクロスを放ってしまえば、それで解決する問題だったのだ。
そして、もう1つは。
「――――があっ!」
「この隙、突かせていただきました・・・・・・!」
背後から胴体を貫くアリスに、最後まで気づけなかった事であった。
己の血液に濡れた雷神の槍の切っ先を、ジャミは無念と共に睨む。槍が抜かれ、血が吹き出た。
中庭から歓声が上がる。ラインハットを狂わせていた元凶と、ついに決着が付いたのだ。
両腕でよろめきながら、穴の開いた身体を押さえる。吐血し、視界が歪む魔獣。そんな姿に喜ぶこともなく、アリスは淡々と話し始めた。
「・・・・・・どうか答えてください。あなた達、光の教団の目的は何でしょうか?」
「ぐ、ふ・・・・・・い、今の光は・・・・・・」
ジャミは、自分が身体を貫かれていることすら無視して、己の疑問を口にする。アリスの声が聞こえていないかのように。
「だ、誰だったというのだ・・・・・・で、伝説の・・・・・・」
ジャミの流れ落ちる血液は止まらない。もはや血の気も失せ始めてなお、魔獣は驚愕の言葉を止めなかった。
「・・・・・・勇者の、血筋は・・・・・・」
「伝説の、勇者の血筋・・・・・・?」
確かに聞いた。ジャミの呟きに、アリスは眉根を寄せる。
「答えてください。あなた達光の教団とは、その伝説の勇者という血筋の者を探す事が目的なのですか?」
「血筋・・・・・・勇者の、子孫・・・・・・」
アリスの言葉が聞こえていたのかいないのか、ジャミは瞳をみるみるうちに険しくさせていく。その■に際に見せる決意を込めた瞳は、アリスに嫌な予感を感じさせた。
「それだけは・・・・・・それだけは、させるわけには、いか・・・・・・ん!」
ジャミの口元から、何かの詠唱が並べられる。中庭を見下ろすその視線は、凄まじい敵意と覚悟を込めていた。
「お前も道連れだ、アリスとやら! あの場にいる者もろとも・・・・・・!!」
「はっ!」
最後まで言わせず、アリスはジャミの肉体から雷神の槍を引き抜くと、そのまま首を一閃した。胴体と別れた馬の形をした首は、アリスの足元にゴロリと転がっていく。
最後の最後で、一矢報いる何かをしようとしていたジャミ。だが、それを見過ごすほどアリスは甘い人間ではなかった。詠唱の最中に絶命したためか、その効果はジャミ自身の身体で証明される事に。
「石化・・・・・・でしたか」
ジャミの首が。2本足で立ったままの身体が。
初めからそうであったかのように石へと変化していく。いったいどんな呪文を元にして、どのような術式を加えればこのような魔法ができるのか。
魔物の魔道に対する探究心も凄まじいものがあるなどと、アリスはつい場違いな感想を持ってしまう。
いや、それよりも。アリスは思う。
「今のは、いったい・・・・・・?」
何だったのだろうか、今のは。どこからか、あの光が突然魔物の身体を包み込んだのである。その後は、どういうわけかジャミの身体の表面から魔力の膜のようなものが消えていって・・・・・・
あれは、間違いなく破邪の力。一部の魔物が使うという、凍てつく波動の力。だが、だとしたらそれは誰が?
改めて、中庭を見下ろすアリス。勇者の血筋という言葉。この中にいる誰かの中に、その子孫がいるというのか。
「う・・・・・・」
グラリ、身体が倒れかかる。血が足りないのか頭を押さえ、屋上の塀に背中を預けた。
中庭には、魔物の大将を討ち果たしたことで、歓声を上げるラインハットの者達。そして、こちらを安堵の瞳で見上げているフローラ。
そんな様子に苦笑しながら、アリスは城下を見渡した。あちこちで火の粉が上がっているようだ。すぐに身体を回復させ、救援に向かわなければいけない。
「考えていても、仕方がありませんか。今は、市民を救う方が先のようですね・・・・・・」
そんな焦りそうになる気持ちを抑えつつ、アリスは切り刻まれている己の身体にベホマの呪文をかけた。
追い詰められたビルにオークの槍が振りかぶられたその時、魔力の咆哮が魔物達の全身を覆い尽くした。
ビルの攻撃ではない。彼は呪文が使えないからだ。
これは間違いなく、ビルを救うために放たれた魔法の炎。唐突に全身を火だるまにされ、絶叫を上げるオークとキメーラ。
中級閃光呪文、ベギラマ。目の前で火だるまになる魔物を見て、ビルは慌てて距離を取る。
援護をしてくれたのは誰なのか。そう思って周囲を見回すと、今はもう誰もいなくなったはずの大通りが目に入る。その奥から、2つの人影がこちらへと近づいてくるのが分かった。
2人とも、修道服を身につけている。ということは、修道院の人間なのだろう。安堵を覚えつつ、ビルは礼を言うことにした。
「あの、援護を感謝致します。修道院の方が来てくださったのですね?」
その言葉に、シスターである妙齢の婦人は微笑みで返す。誰もが安心した気持ちにさせてしまうような仕草に、ビルはつい思い人を忘れて顔を赤くしてしまう。
もう一方のシスターは、婦人よりも明らかに若い。ビルには興味がないかのように、炎が消えかかっているオークとキメーラを見ていた。
「ご無事で何よりです。怪我人はこちらが承りますので、どうか今しばらくのご辛抱を」
「リディア。私は回復魔法とか苦手だから。全部1人でやってもらうわよ」
「承知しております。シスター・デボラには適性がありませんものね」
年上に対する不躾な言葉にも、リディアは気を悪くした様子も見せない。おそらく、礼節に関しては半ば諦めかけているような節があった。
若いシスターは、明らかにリディアと呼ばれた女性を敬っていないらしい。高飛車な印象を与える瞳は、どこか不機嫌な山猫を思わせる。それが逆に、彼女独特の品位をいささかも損ねてはいない不思議な魅力を持っていた。
身につけている衣服こそ修道女の姿ではあるものの、その貞淑さの象徴であるはずの格好は彼女の醸し出す雰囲気とはミスマッチである。どちらかというと、都会の真ん中にいそうなタイプに見えた。
「ちょっと、あんた」
思わず聞き惚れそうな滑らかな声色であるにもかかわらず、放たれた言葉はあまりにもぶっきらぼうな言葉。一瞬遅れ、その言葉が自分に向けられているのだと理解したビル。
「は、はい。あの、貴女にも感謝を。助けてくださったのですね。高名なシスターの方とお見受けしますけれど」
「は? 私が高名なのは当たり前の事でしょう。言葉にする必要はないわよ」
「・・・・・・へ?」
切羽詰まった状況を救ってくれたと思ったら、この物言い。彼女がどういう人間なのかを図りかねて、ビルはつい間抜けな声をあげて沈黙してしまう。
そんな彼に構わずに、一応はシスターらしいデボラがビルに訊く。
「それよりも、あんた。私の妹を知らないかしら。フローラっていうんだけれど」
「い、妹ですか?」
「知っているんだったら、さっさと話しなさい。知らないならそう言って」
それ以外のことを口にするな。そう言いたげな口調だった。色々と言いたいことはあったものの、まずはそれに応えなければという焦りがビルの中に生まれた。必死に記憶の糸をたぐり寄せるビルの耳に、耳障りな雄叫びが響く。
「グオオオオッ!」
「キエエエエッ!」
当然ながら、身体の至る箇所を黒焦げにされたオークとキメーラであった。2体が喰らったベギラマは熟練者のそれに近い魔力が込められていたものの、流石にそれだけで倒すことができるほど甘い相手ではなかったらしい。
「あら。思ったより頑張るのね」
「おやめなさい、シスター・デボラ。今は質問を後に」
リディアの咎めにも、デボラと呼ばれた女性は手を振る。
凄まじい敵意を込めた視線を向けられるも、女性はただ僅かな関心を向けるのみ。それを侮辱とした2体は、攻撃対象をシスター達に向けた。
「おのれ人間っ! 許さん!!」
オークの切り払いがシスターを襲う。だが、それよりもシスターがオークの懐に入る方が早かった。
「許すかどうかは、私が決めるのよ」
女性はその高貴な見た目に合わない攻撃――――あろう事か己の爪で裂傷を負わせた。否、むしろ彼女の美貌と、その内面に持つ孤高の獣のような在り方に相応しい戦い方と言えるだろう。
両手の爪に取り付けられているのは、シャイニーネイル。真珠があしらわれたつけ爪である。かなり頑丈に造られているため、素早さに自信のある者ならば対象を切り裂く専用の武器として使うことができるのだ。
喉から血を噴き出したオークは、槍を突き出した体勢のままグラリと後ろに倒れ込んだ。全身を痙攣させている魔物にはもはや見向きもしないデボラ。
「舐めるんじゃねえぜ! 俺はこいつのようにはいかねえ!!」
今度はリディアに対してヒャダルコを唱えるキメーラ。決して親しかったというわけではないが、長年共に戦ってきた仲間には違いなかった。そんな憤りを隠さないキメーラの氷呪文にも、修道院の司祭は全く臆さない。
むしろ――――片手を出してヒャダルコの魔力を収束させる程。
「なにいっ!?」
驚愕するキメーラの前で、完全に手の平で魔力の結晶として押さえ込まれてしまった。最後にグッと握りつぶすと、まるで魔力の残滓が粉雪のように宙で消えていく。
それでも、キメーラの戦意は衰えない。嘴の奥から放たれるのは、渾身の火炎の息。
ビルを含めた3人を包み込む炎。だが、それも一瞬だけ。火炎の息は、まるで巨大な壁に塞がれたかのように届かなくなる。
3人を囲むのは、リディアの唱えたフバーハ。彼女ほどの魔力で構成された光の壁は、火炎の息程度の炎など容易く防ぐことができた。
そこで、デボラの■刑宣告が放たれる。
「いい加減に消えなさい――――ザキ」
その瞬間、何か甲高い音が周囲へ響いた。それはまさに、魂を奪いにきた“何か”が降臨した音だったのかもしれない。
1体の息の根を止める■の呪文、ザキ。端から見ていたビルは、唐突に寒い世界に放り出されたかのような錯覚を覚える。
「・・・・・・っ」
宙を飛んでいたキメーラが白目を剥き、地面に力無く落下する。先ほどまで猛威を振るっていたときからは、まるで想像できない終わり方であった。
思わず、呆気にとられてしまうビル。兵士達が束になっても敵わなかった魔物達を、彼女達は問題なく倒せてしまったのだ。修道院の英才教育とは、どこまで凄いものなのだろうか。
奪った命に祈りを捧げているリディアに対し、デボラは後ろで腕を組んだまま。
「フフン。自分から下僕にしてくださいとでも頼めば、命だけは許してあげていたけど」
「シスター・デボラ。命には礼を尽くしなさいと」
つくづく、修道女とは思えない言葉を口にする彼女。リディアが眉を顰めるが、やはりデボラはどこ吹く風。
「さて、改めて訊くわよ。うちの妹のフローラっていう子を知らないかしら?」
「い、妹・・・・・・フローラ・・・・・・」
早速と言わんばかりに、彼女はビルに訊いた。緊張と焦り、なによりさっきまで命のピンチに晒されていた時の心が落ち着いておらず、彼は必死に心当たりがないかを自分の記憶に訊いていた。
「い、いえ。聞いたことはありません」
結局出た結論は、知らないの一言。実際、覚えのない名前だったからだ。それを聞いた女性は、露骨に失望の目を向ける。
「知らないなら、さっさとそう言えば良いのよ。鈍間な男はこれだから」
そう言い捨て、もう用はないとばかりにリディアすらも置き去りにして、さっさと大通りの奥へ向かっていく。ビルは、呆然と立ち尽くして見送るしかなかった。
「な、何だったんだ、あの子は・・・・・・」
「申し訳ありません・・・・・・教え子が失礼を」
「あ、いえ。助けてもらったことは事実ですから。どうかお気になさらず!」
頭を下げてきたリディアに、慌てて弁解するビル。恩人にそんなことをさせてしまうなど、彼の矜持が許さなかった。
「そう言っていただけると・・・・・・失礼。まずはこの方達を救うことが先決ですね」
リディアは頭を上げ、両手を目の前に掲げる。魔力が淡い光となって、倒れている仲間達の身体を易しく包んでいく。
「ベホマラー」
全体治療呪文、ベホマラー。不特定多数の怪我人の治療を目的に研究された呪文である。使い手は、それこそ賢者と呼ばれる程まで魔力を鍛えなければ、身につけることはできないと言われている。何しろ、ベホマよりも高度な呪文だ。
「こ、これは・・・・・・」
ビルが驚愕するのも無理はない。先ほどまで血まみれのまま倒れていた兵士達が、まるで昼寝から覚醒したかのように次々と起き上がりだしたのだから。
「マーストン。よかった、生きていたのか!」
駆け寄るビルに、同僚の兵士は何が何だか分からないと言いたげな顔をする。
「あれ、ビル? 俺たち、何があったんだよ」
「心配させやがって。この野郎っ」
そんな光景を、リディアは安堵したように見つめていたが、やがてソッとその場を離れていった。先に行ってしまったデボラを、追わなければいけないのだ。
そして、数十分後。他の兵士が止めるのも聞かないまま、勝手に王の間へ入っていった時。
女性は、我が妹であるフローラと会うことになった。呼ばれているわけでもないのに、むしろ堂々と入ってきた女性――――デボラに、フローラは目を瞬かせるしかできなかった。
「ちょっと、フローラ。あまり手間を取らせないでくれる?」
「ね、姉さん。まさか、来てくださるなんて」
「来たくて来たわけじゃないのよ。あんたがやりたいっていうなら、別に止めはしないわ。だけど、連れてきてほしいってリディアがうるさいから」
一方的に言いたいことを言うデボラに、彼女の周囲にいる太后、デール王、アリス、兵士長といった面々は唖然とするしかなかった。仮にも王の前だというのに、全く臆していないどころか無視をしている始末。
太后が偽物であった事実が市民達の間で広まっている中、関係者がデール王の頼みによって集められた直後の事だった。このフローラの姉らしい女性が、とてつもなく申し訳なさそうな顔をしたリディアを連れて来たのである。
「ごめんなさい、姉さん。ただ、あの時は時間が押していたから・・・・・・」
「それは私じゃなくて、リディアに言いなさい。私は別にどうでも良いんだけど」
「リ、リディア司祭様・・・・・・そう、ですよね。修道院に帰った後は、相応のペナルティを覚悟しておきますので」
若干、顔を引き攣らせるフローラ。普段は穏やかな司祭も、今回ばかりは流石に怒るだろう。たとえ、どれだけシスター・ジゼルが上手くフォローしていたとしても。
「い、いえ。シスター・フローラ。その話は、また後日と言うことに致しましょう」
一方で、当のリディア本人はフローラ達の予想に反して、どこか引き攣った顔で話を棚上げする。
実を言うと、リディアは別に怒っているわけではない。流石に立場上咎めなければいけないとは思っていたが、それも消極的なものだ。少なくとも、それによって救われた国王が目の前にいるのだから。
「は、はあ・・・・・・司祭様がそう仰るのでしたら」
「あら。意外ね」
姉妹揃って、驚いたという顔をする。何となく引っかかるものを覚えるリディア。というか、怒っている時の自分はそこまでシスター達に恐れられているのだろうか。
ふと気づくと、なぜかアリスまでが姉妹と同じような顔をしている。フローラとデボラはともかく、何故彼女まで?
「あの、コホン・・・・・・そろそろ、話を進めさせていただいても?」
デール王が玉座に腰掛けたまま、気まずそうに咳払いをする。フローラとリディアは顔を赤くして謝罪するが、デボラは面倒そうに腕を組むだけ。
「――――まずは、この場にいる者達よ」
デールは、精一杯の威厳を持って、声を張り上げる。
「我が国の正義を忘れぬ兵士達と共に、よくぞ母上の偽物を倒してくれました。心から礼を言いますぞ」
「勿体なきお言葉」
アリス、フローラ、リディアは異口同音に返しながら、スカートを摘まんで頭を下げ、見本のような礼をする。王族を前にする貴族の令嬢のような姿であった。
「妾からも礼を申し上げたい。まことに感謝の言葉もないぞよ。これからは出しゃばることはせず、影ながらこの国のために尽力を注ぐつもりである」
ロザミア太后もまた、同じように礼をする。アリスにとっては偽物のロザミアしか知らないため、僅かながらも新鮮な気持ちで礼を受け取っていた。
「あのままでは、このラインハットがどうなっていたか・・・・・・まったく、僕は国王として失格ですね」
「お言葉ですが、デール王さま。そうご自分を責めずに。今回のことは、国民の全てが裏で力を合わせることが出来たからこそ、辛うじて成功した解放戦線なのです。いかに王の立場といえど、流石に荷が勝ちすぎていたのではないかと」
「そう言ってくれるだけで充分ですよ、リディア司祭」
苦笑いをしながら、デールはリディアに頭を下げる。
「これは恥を重ねる頼みになるようで、大変恐縮なのですが・・・・・・どうか修道院の代表であるリディア様に、お願いをしたい。あなた方修道院のお力を、今しばらくラインハットの復興のためにお貸し頂きたい」
国王が、司祭に頭を下げる。それが、どれだけ重い意味を持つのかが分からないリディアではなかった。
「どうか、頭を上げてくださいませ、デール王。一国の王が、安易にそのような事をしてはなりません」
リディアは、幼いシスターの間違いを正すときのような口調で、優しくも的確な指摘をする。デールはゆっくりと頭を上げ、彼女を見つめた。
「恐れ多くも、国王殿下直々の頼み。我々修道院も了解しております。この国の復興のため、できうる限り尽力を尽くすつもりであります故」
「おお、なんと頼もしい」
実際、修道院の助けはラインハットにとって無くてはならない力だ。きっとこれから先、この国の復興に大きな活躍を見せることだろう。
その後も、デールはこの場にいる者達にねぎらいの言葉をかける。デボラだけは相変わらずの態度であったものの、礼は素直に受け取ったようだ。
「本来でしたら、パーティーの1つも開きたいところなのですが・・・・・・今の国の現状を考えますと、それも難しいのです。まずは、民にこれまで採取し続けてしまった財産を、僅かでも返すことから始めなければ」
「それこそ、お気遣いなく。仰るとおり、今は民の負担を減らすことが最重要課題の筈です」
礼は本当に要らないと丁寧に断るアリス。リディアを初めとしたシスター達も同感らしい。ラインハット王は、ただ彼女達の気遣いに感謝する。
「あ・・・・・・」
そこで、ふとデールは思い出したようにハッとする。視線は、アリスの方に。
「そういえば、アリスさん。1つ、お訊きしたいことが・・・・・・」
「はい。どのような?」
「今思い出してしまったのですが、少々気になりまして。私はまだ、アリスさんが何者なのかを聞いていないのです」
確かに、と思うアリス。デールにとってアリスは命の恩人で、国を開放してくれた立役者であることに違いはない。だが、アリスの口からは自分の正体を言ってはいなかった。
アリスはニコリと微笑むと、ハッキリと言った。
――――人捜しをしている旅の者ですよ、と。
そして、数日後。ラインハットの国土から、8年ぶりに船が出航することになった。
これまでは、偽太后の暴政によって貿易が禁止されていたために、定期船すらも入れない有様であった。だが、この日をもって再び他国との国交が始まったのである。
その定期船の上に、今のアリスは乗っていた。カモメの声が聞こえるビスタ港はとうに過ぎ、今はただ穏やかな海と水平線が見えるだけ。
数年ぶりに航行しているというこの船は、再び海の上を走るその時まで、大切に手入れがされていたようだ。心なしか帆を操ったり、舵を取っている船員の顔にも、生き生きとした活力が感じられる。
潮風が頬に当たって気持ちが良いが、すぐに冷えてしまうだろう。夕暮れになる前に、船室へ戻った方が良さそうだ。
「おや、お嬢さん。もしや、ひとり旅かい?」
後ろから声がかかり、振り向く。小太りの男性が、キセルを吸いながら立っていた。この人も、どうやら自分と同じ乗客らしい。
「はい。実は、人捜しをしているのです」
アリスはフンワリした髪が潮風で乱れそうになるのを押さえながら、そう答えた。
「ほほう。それは大変ですな。私は西の大陸に商売をしに向かうのですよ。これまで、ラインハットで商売をするのは厳しいものがありましてな」
「そうですか。心中お察し致します」
「いやいや。お嬢さんこそ、何か大変な旅のご様子。差し支えなければ、人捜しというのは、もしやご家族の方ですかな?」
「いいえ。私の――――恋人です」
僅かに照れも芽生えてしまったが、アリスは正直に言った。
「なんと。貴女のような美人にご足労をかけさせてしまうその方は、よほど罪作りな方ですな」
「ふふ。お世辞でも嬉しいです」
「いや、そんなつもりでは」
素直にそう思っただけなのですが、と言う商人の様子に気づくこともなく、アリスは改めて数日前の自分に思いを馳せる。
数日前、ラインハットの王の間にて。アリスを正式に雇わせてはくれないかというデールの頼みを丁寧に辞退して、彼女は城を去ったのである。その際、リディアにはラーの鏡を返納しておくことを忘れなかった。
「アリスさん。貴女の旅が、良き結果をもたらすものにならんことを」
「ありがとうございます、リディア司祭様。今後も、修道院の繁栄を心より願っております」
フローラや兵士長からは名残惜しそうにしていたが、アリスもまた旅を始めなければならない理由がある。それは、これから国を挙げて復興を始めなければならないラインハットでは助力が望めないのだ。
その旅の目的とは何か。言うまでもない。リュカを捜す旅だ。
あの時。あの神の塔にて目の当たりにした、己の本当の望み。心の奥底で、アリスが求めている願いが何かを思い知ったのである。まるで、神がアリスの進むべき道を示してくれたかのように。
いや、実際に示してくれたのだ。神の塔とは、心を映し出すことができる神聖な場。アリスの進むべき道は、神の花嫁としての道ではなく、地に足をつけた人間としての道なのだと。
ならば、アリスがその道を歩むのに何の躊躇いがあるのだろう。彼の、見つめ合うだけで心が和む、あの瞳。凜々しくも優しい心を忘れない、あの精悍な顔。
そして、彼女の頬に触れたときに感じた、あの指の暖かさ。
つい、頬が染まりそうになる。あえて潮風を意識して、この沸き上がる熱が冷めるのを待った。
そのアリスの横顔を、商人は微笑ましそうに見る。彼とて、愛しい男を脳裏に浮かべる乙女の一時を邪魔するほど、無粋ではない。
己の手を、胸にソッと当てる。この鼓動が、いつか彼にも聞こえるように願う。
空は、吸い込まれそうな群青色。その美しい大空を見上げつつ、アリスはここに誓う。
――――1人になったら、少しだけ泣こうと思っていましたが・・・・・・泣かないことにしました。
船は何の問題なく海の上を走る。1人の少女の純粋な思いを乗せて。これまで神を信じていた思いの全てを、たった1人の男に向けて。
――――やっぱり1人で泣くよりも、貴方の胸の中で泣きたいですから。
「ふう・・・・・・すっかり遅くなっちゃったかな」
僅かな疲労を感じさせる女性の声が、人気のない森の中に溶けていく。
数多くの山々に囲まれた麓には、深い森が立ち並んでいる。土地勘のない者ならば容易く迷い込んでしまうその悪路を、彼女は慣れた足取りで進んでいく。
手には、何種類もの木の実が入っている籠。身体の弱い父親のため、女性は定期的に身体に良く効く果物を採って来なければならない。
しかし、それを苦に思ったことなど、女性は一度もなかった。敬愛している父が病で寝たきりになっているのだから、それを介護するのは娘である自分の役割だ。
とはいえ、流石に今日は少し遠いところまで行きすぎた。きっと父も心配しているだろうから、急いで帰宅しなければ。
この都会から離れた土地に移り住んでから、もう5年になる。とはいえ、自分の暮らしている村は名物の温泉が湧いてある事もあって、旅人はよく訪れている。そのため、人の出入りに関して不自由になることはない。
皆、本当に良い人ばかりだから。女性はあの村の人情に触れるたびに、そう思う。
特に自宅を一から造ろうとした時など、腕に覚えのあるらしい男性が率先して手を尽くしてくれたほどだ。その後も、まるで庭師のように家の周りの世話をしてくれている。
今日の夕飯は、消化の良いものにしようかを考えていたところで、彼女の耳が僅かな変化を感じ取る。
足を止め、耳を澄ます。自然と、普段は優しい瞳も戦闘者のそれになった。流石にこういう場所を1人で歩けることもあって、腕に覚えはあるのだ。
だが、しばらく様子を探っているうちに、その警戒は杞憂であったことが分かる。この辺りの魔物ならば、傷1つ付かずに追い払える自信があった。だが、この気配は明らかに人間のものだ。
前方の斜め先。あの辺りをフラフラと彷徨いている気配がする。敵意がないところから、おそらくは道に迷った旅の人間だろう。この辺りはそういう者を偶に見かけるのだ。
そろそろ夕方に差し掛かる頃だ。村に案内して手当をしてあげよう。そう思いながら、女性はその遭難者らしい人物に近寄った。
「あの、すみませ・・・・・・」
彼女の気遣うような声は、途中で止まった。
目の前には、1人の青年。どこかで強く打ち付けたのか、頭から一筋の血を流している。
だが、彼女の関心はそこではない。目の前の彼は、自分の知っている少年とそっくりな顔であった。そう、8年前から記憶の奥にずっと残り続けている少年に。
いや、間違いない。彼は、自分の幼馴染みの彼なのだ。今でこそ困惑の目を向けている彼だが、あの魔物すらも穏やかにしてしまえるほどの優しい瞳は、記憶の中の彼と同じなのだから。
「あ・・・・・・し、信じられない。貴方は・・・・・・」
だんだんと現実感が湧き上がってくる。口元を抑え、自然と涙が流れてきた。
リュカ。
そう。かつて、共にレヌール城に住み着いた魔物を退治した少年だ。
何故ここにいるのか、という疑問を口にする前に、目の前の青年――――リュカは、戸惑ったような声を出す。
「キミは・・・・・・誰だい?」
何一つ思い出せないまま、リュカは目の前の女性――――ビアンカに向けて尋ねた。
つづく
ジャミによる石化フラグ回避。
なお、船に乗る前にヴェラの墓参りは済ませました。