サラボナの東にかかっている橋の先を南下すると、そこは大きな山脈地帯へと差し掛かる。大きく海岸沿いに回り、幾つもの山々を越えた先。
そこには、ひときわ巨大な火山が存在している。常にマグマが生まれ続け、炎に耐性のある数多くの魔物達が住み着いているという。
そんな、並の旅人ではまず近寄ることすら憚れるほどの、現世に生まれた炎の地獄。人呼んで、■の火山。
その火山の地下深くに存在するアーティファクトこそ、炎のリングという言い伝えがサラボナに存在していた。
ルドマンは、この炎のリングこそ愛娘の座を手に入れる試練に相応しいと断じた。当人の性格に基づいた、実に彼らしい決定と言えよう。
ただし、その熱意が肝心の娘に伝わっていないのでは、その親心も単なる理不尽な暴言に成り下がってしまうのだが。
「なんて事をしてくれたのですか!」
この日の朝。ルドマン邸の大広間に愛娘であるフローラの声が響き渡った。修道院の指導によって一層の淑女らしさを手に入れたと思っていた父にとって、あまりにも意外すぎる反応である。
「落ち着きなさい、フローラ。一体、お前は何が不満だというのだ。ワシはお前に相応しい婿を見つけたいからと思っていたのだぞ」
「お父様。私は確かにお父様の言いつけ通りに生きてきました。ですが、人生の伴侶となる夫は自分で決めたいんです」
凛とした瞳で、我が父と正対するフローラ。その様は、まさに娘としてではない、一人の大人の姿であった。
「お父様は、炎のリングが溶岩の流れる危険な火山の地下にあることをご存じなのでしょう? そのような場所へ殿方を悪戯に向かわせるなど、何をお考えなのですか!?」
「誤解をしないでくれ、フローラ。これは何も強要したわけではない。現に、あれほどいた婿候補はこぞって辞退してきおっただろう。余計な下心を持っている男達をふるいにかけるという意味もあったのだよ」
「だからといって、そこまでする必要はありません。そのせいで、私の幼馴染みのアンディが朝から職場や自宅で姿を見かけないと聞きました。間違いなく、お父様の条件を真に受けてしまった筈です!」
「うむ。あやつのことならワシも知っておる。少々頼りなさそうな男だと思っておったが、それなりの度胸はあったようだ」
「お父様・・・・・・!」
流石のフローラも、父のあまりの態度に眉根を寄せる。こういう我の強い所が仕事では頼もしく映るのだろうが、今はただ無責任な一人の男にしか見えなかった。
そんな愛娘の内心を悟ったのか、ルドマンは一度だけ深呼吸をする。
「フローラよ。言うまでもないが、ワシは欲深い人間だ。大事な娘に、選りすぐれた男をと望むのは至極当然の親心。そんなワシだからこそ、この世で最高の男をこそ、婿に欲しいと考えた」
「私は、自分で決めたいのです。二つのリングなんて、必要ありません」
「それでもだよ。どうかお前にも、まだ見ぬ婿との間にワシの娘の未来を思う余地があってもよいはずだ。我が家の莫大な財産目当てではない、真の男にもな」
フローラは項垂れる。彼女なりに、父の真摯さが伝わったのだろうか。それでも、反抗する意思は瞳の奥に残っているようではあったが。
「そして――――我が家に代々伝わる、家宝の盾も授ける」
フローラが父の言葉に反応する前に、一つの声が挟まれる。
「失礼いたします」
大広間に、一人の女性が入ってきた。昨日、この家に世話になっていたアリスである。
背後の出入り口の近くでは、メイドと執事がそれぞれ申し訳なさそうに立っていた。恐らくは、彼らがアリスに事情を話してしまったのだろう。口止めするべきだっただろうかと、ルドマンは今更ながらに思う。
「アリスさん。あまりこちらの事情に立ち入るのは感心しませんな」
「不快に思われてしまったのでしたら、心から謝罪いたします。しかし、今のお話はただ事ではないと勝手ながら判断いたしました」
口調は丁寧だが、どこか切迫しているようにも聞こえる。友人であるフローラの幼馴染みの危機。アリスのような女性が放っておくはずもない。
「ルドマンさん」
アリスは言った。
「フローラさんと友として育んだ時間は、確かにわずか二年と短い。それでも彼女が新しい門出を迎えると知ったとき、私は心から祝福したいと思いました。私は確かに人の家庭の事情に触れようとしている無法者かもしれません。ですが、フローラさんが目の前で大切な幼馴染みの危機を知って、苦しんでいる姿を放ってはおけないのです」
「キミは、元修道女らしいね。以前からフローラの手紙を通して知っていた」
ルドマンは傍らの椅子を勧めた。アリスは落ち着いた様子で腰を下ろす。
「ラインハットの一件でも、娘がお世話になったそうだね。一国の滅びを回避する戦いに先陣を切るとはな。出来れば、我が家で雇いたいほどだよ」
「恐縮です。ですが、今の私は生き別れとなってしまった最愛の人との再会を望む、一人の賢者です。まだまだ修行中の身ですが、せめて心は一人前でありたい。だからこそ・・・・・・」
アリスは、大商人であるルドマンの目を真っ直ぐに見返した。
「友であるフローラを、苦悩から解放したいのです」
「あ・・・・・・アリスさん」
沈黙が落ちた。フローラが微かにアリスの名前を口にするが、誰もそれには反応しない。
ルドマンは吐息を一つ付くと、椅子から立ち上がる。広間の本棚から一冊の本を取り出すと、パラパラとページを捲った。
目当てのページはすぐに見つかる。それを机上に広げた。
「キミはまだこの大陸のことは詳しくはないだろう。見るがいい。ここがサラボナ。大陸の南東に位置する、この山脈地帯の中にそびえ立つ活火山。人呼んで、■の火山」
「■の火山・・・・・・」
「まさにこの奥深くに、炎のリングは隠されておる。溶岩が常に流れ続け、熱風渦巻く■と隣り合わせの危険な地帯だ。アリスよ、お主はそこへ向かうと言っているのだぞ」
「はい」
迷いは無い。それ以上語ることはないとばかりに、アリスは席を立った。フローラが何か言おうと口を開いたが、また閉じる。呼び止める素振りを見せたが、それにアリスは気づかないフリをした。
「情報、まことに感謝致します。それでは、時間が押しているので・・・・・・これにて失礼させていただきます」
こうして、アリスは仲間と共に町を出た。当然ながら、タバサはフローラに預けて。
書物に記されてあったとおり、この場は地獄であった。
至る方向から聞こえる、ごうごうというマグマの音。熱気のせいで視界がユラユラと遮られ、真っ直ぐ歩いているのか不安になる。
全身からは汗が溢れるように流れ、多めに持っていた水筒の中身も既に半分以下に減っていた。手に持つ剣の重さには未だに慣れず、何度捨てようと思ったか分からない。
やはり自分は、筆や彫刻刀を持っていた方が似合う男なのかと思う。それでも、その瞳に迷いは無かった。
■の火山の奥深くにて、アンディは溶岩の熱気を避けるように岩壁を伝って歩き続ける。
溶岩から火の粉が上がるたび、腕や顔に火傷をした。初めは悲鳴を上げていたが、ここまで来れば声を我慢するくらいは出来るようになれた。
足を動かし、前へ、前へ。耳障りなマグマも、遠くから聞こえてくる魔物の雄叫びも、今のアンディにとっては全てがあの世への片道切符と同じだ。
だが、と思う。諦めるわけにはいかない。
ギリ、と奥歯を噛む。背筋を伸ばし、鋼の剣を握りしめた。頭に浮かぶのは、あの海のように青い髪をした自分の幼馴染み。
――――冗談じゃない。
結局、炎のリングを求めてこの火山に立ち向かったのは、自分一人であったらしい。財産欲しさに立候補した道具屋の主人も、独身続きでフローラの容姿目当てに言い寄ろうとしていた酒場の息子も、この場へは来る気配などなかった。
半端な気持ちだったからこそ、早々に諦めたらしい。だが、自分だけは違う。
アンディは、元々財産にも家宝の盾にも興味はなかった。ただ、一途にフローラに釣り合う男になるために、今まで技師として腕を磨いていたのだ。その思いは、誰にも負けないという自負がある。
だからこそ、これもまたフローラという最愛の女性を手に入れるための通過儀礼なのだ。剣の腕こそ付け焼き刃ではあるが、魔法にはそれなりに覚えがある。きっとなんとかなるだろうと思っていた。
そう。たとえ、この火山のマグマや住み着いている魔物が予想以上に過酷な相手だったとしても。
火山に入ってからというもの、至る所で魔物の群れに襲われた。魔法によって生み出されたキメラや、魔族で結成された特殊部隊の兵士であるランスアーミー。たとえ一対一でも勝てるかどうか分からない相手が、この場には彷徨いている。
岩の壁の墨に転がっている幾多もの人骨は気味が悪いし、住み家の生活のために魔物が造ったらしい石橋は、魔物の恩恵を受けてしまったかのようで渡るにも神経を使った。
「シャアアッ!!」
「っ! 見つかったか!!」
背後から己を追うように襲いかかってきたのは、蛇と蝙蝠の合成獣である蛇蝙蝠。足の爪を武器に切り裂こうとしてくる。
迷わず転がり、一撃を避ける。あの鋭い爪を持つ足に掴まれたら、どこへ運ばれてしまうのか分からない。巣に持ち去られて、餌にされるなんてまっぴらだ。
続けて放たれるのは、全身の神経を麻痺させる焼け付く息。神経毒のウイルスが混じった有毒な息は、アンディの周囲を取り囲もうと広がっていく。
「うあっ!」
一瞬の判断で、完全に取り囲まれる直前の隙間を狙い、飛び込むように走り出すアンディ。肌にあの息が触れたら、麻痺を治療する満月草を使い切ってしまった彼には防ぎようがない。
一目散に走り抜き、火口が造りあげた通路をなおも全速力で進み続ける。途中で岩石の魔物である爆弾岩が目に入ったが、アンディは無視した。元々、刺激さえしなければこちらの様子を見ているだけだ。
足をようやく止め、背後を振り返った。蛇蝙蝠が追ってきている様子はない。他の魔物も同じだ。
心臓の音がうるさく聞こえる。肩で息をして、汗もコップ数杯分は流れたのではないだろうか。
安堵の息を吐いた瞬間、足首が妙に重いことに気づく。恐る恐る視線を向けると、アンディは自分の息の音を聞いた。
足の膝から下が、真っ赤な血に染まっていた。いや、血と判別できたのは僅かに残っている部分だけで、後は殆どが赤黒く変化している。
無我夢中で走っているうちに、いつの間にか溶岩の浅瀬を通り抜けていたのだ。我ながら、とてつもない無茶をしたものである。
魔法力の残りを気にしつつ、アンディはホイミの呪文を唱えた。こう見えて、初歩魔法だけならば一通り使えるのだ。
足が元の肌の色を取り戻していく。道中で落としたものは・・・・・・ない。
かなり奥まで入った。だが、今は恐怖よりもここまで来ることが出来たという自負の心の方が強い。
先を行こう・・・・・・
石造りの階段も、随分と降りたものだ。階段というよりは、坂道に近かったが。
新たな階層は、一本の通路で出来ている。無論、周囲は相変わらずの溶岩の湖のままなので気は抜けなかったが。
「・・・・・・?」
ふと、アンディは違和感を覚える。どういうわけか、ここだけは他の溶岩の熱さが違う気がしたのだ。
これまでずっとマグマの熱に晒されていたアンディだから理解できたが、ここだけは明らかに熱さの中に妙な粘っこいものが混じっている。まるで、空気がドロリと液体状になって立ち塞がっているような・・・・・・
マグマとは、地下に向かって潜れば濃度が高くなるものなのだろうか。そんな場違いなことを茹でた脳内で考えつつ、アンディは前に進んでいった。
最後の水を飲む。これで、水筒は完全に無くなった。だが、せめて欲しいものは手に入れてから・・・・・・
「あ・・・・・・」
この先は行き止まり。その突き刺さっているような岩の上で、マグマの湯気に紛れて何かが光った。
この場には、明らかに不自然なほどの光。動かすのが億劫になってきた足を無理矢理前に出し、それが何なのかを目に焼き付けようとする。
「あった・・・・・・」
間違いない。あと一歩という所まで近づいた、炎の魔力を司るリング。ここが、最深部だったのだ。
もうそんな水分はないと思っていたのに、目から涙がこぼれていく。やっとだ。これで、愛する女性と結ばれる希望に手をかけることが出来た。
震える手で、大事そうに手を伸ばす。指先がリングに触れた。
瞬間――――周囲の溶岩が盛り上がる。アンディは、瞬間的に背筋を伸ばした。
「なっ――――!」
鳥肌が立った。全身の血の気が失せる。マグマの世界の中、アンディは初めて冷たさを覚えた。悪寒という、命の危機が迫っている状況で。
左右、正面には溶岩から湧き出た二つの瞳と、大きな口。一見すると泥の生命体であるドロヌーバに外見が似通っているが、マグマの全身を持っているという意味では、こちらの方が段違いに恐ろしい。何より、数は三体。
この魔物こそ、火山のマグマが意思を持ったもの。誰も知ることの無いその名は、溶岩原人という。
まさか、と察するアンディ。この図鑑にも載っていない魔物は、この炎のリングを守っていたのではないか。それを自分が手にしてしまったから――――
その答えに行き着くと同時に、正面の溶岩原人の口が大きく開かれる。その喉奥から、まさにマグマのような炎がアンディへ向かって放たれた。
躱す・・・・・・などということは出来なかった。もう、この時点でアンディは完全にそんな力など残ってはいなかったからだ。何より、逃げ場などどこにもないから。
嗚呼、失敗した。アンディの脳裏に浮かぶのは、そんな思い。
こんな試練、勇んで受けるべきではなかったのだ。愛さえあれば何でも出来るなどと思い上がっていたのだろう。
あの道具屋の主人達が辞退したのも、今ならば本当の意味で納得できる。自分は、この場にはただ■ぬために来たようなものだ。
ただ、一つだけ。自分がサラボナに帰らなかったことで、あの愛しい幼馴染みがどんな顔をしてしまうだろうか。彼女は優しいから、きっとこんな自分に対しても悲しんでくれるのだろう。
――――――――
ふと、視界に何かが入った。
そして、目の前の全てを覆うほどの火炎の息が、何時まで経っても来ない。
なんだ・・・・・・?
アンディは、薄れていく意識の中で・・・・・・誰かの背中を見た気がした。
ようやく探し人に追いついたとき、事は既に急を要していた。
■の火山の最深部。ここに来るまでに幾度かの戦闘を経験していた仲間モンスターと共に、アリスはこの場に立った今足を踏み入れたのだ。途中、やたらと気が立った蛇蝙蝠がいたものの、スラリンやプリズンの連係攻撃で翻弄し、トドメをブラウンが刺した。
見るからに、仲間達の腕が上がっている。後でしっかりと褒めようと思うものの、今は時間が惜しかった。
見るからに満身創痍なアンディの正面に、火炎の息が放たれる。あれを受ければ、間違いなく彼は骨だけになってしまう。
そうはさせない――――!
アリスはまるで矢のように加速し、アンディとの距離を瞬間的に詰める。彼を庇うように飛び込んだ彼女は予め詠唱していた呪文を唱える。
フバーハ。淡い衣のような光がアンディを含めた仲間達を包み込んだ。アリスの魔力で造られた魔力の壁は、火炎どころか熱すらも届かせない。
右手でフバーハを維持しつつ、左手には意識を失っているアンディへ左手を掲げた。
「ベホマ」
完全回復呪文は、アンディの怪我を瞬く間に治していく。意識までは戻ってはいないものの、フバーハの恩恵もあるのでこのまま眠っていても大丈夫の筈だ。
「ゴオオオオッ!!」
アリスを手強い相手と認めた溶岩原人は、咆哮を上げて他二体の仲間達に警告する。全力で倒すぞ、と。呼応する仲間の溶岩原人。
右の溶岩原人が、マグマから身体を切り離して飛びかかってくる。アリスは流れるような動きで跳躍し、溶岩原人の真上を飛ぶ。
ちょうど真下に溶岩原人の身体が見えたとき、アリスは懐に仕込んでいたチェーンクロスを振りかざした。鉛がまるで剣の一撃のように入り込む。彼女が着地をする前に、もう一撃。
ドロリとした身体が、岩石で構成された床にぶちまけられる。だが、倒したわけではない。液体状の身体はすぐに元の形態を取り戻し、再びマグマの湖へ飛び込んだ。
少なくとも、ダメージは与えた。次は――――
アリスに襲いかかってきたのは、燃えさかる火炎。残り二体の溶岩原人が、今度こそアリスを燃やし尽くそうと吐きだしたのだ。
だが、それも無駄である。アリスのフバーハは、たとえ二体がかりでも術者を傷つけることは叶わなかった。あの偽将軍であったキングダンサー以上に高熱の火炎を持ってしても、まだ届かないというのか。
「こちらの番です――――ヒャダルコ!」
とてつもない冷気が、溶岩原人へと襲いかかった。火山の奥深くにて生まれる氷の吹雪。従来の自然ではまず起こりえない現象。
マグマの身体に魔法の氷河が張り付き、一体の溶岩原人の氷像が出来上がった。マグマの中に氷の彫刻という、いっそ芸術のような光景である。
だが、仲間を一体失った溶岩原人も、怯むことはしない。先程手傷を負わされた仲間が再び姿を現わし、今度は左右からアリスを挟撃する。
再びチェーンクロスを振るい、右の溶岩原人を弾く。しかし、左はガラ空きだ。
溶岩原人のマグマで構成された身体が、アリスを包み込もうとする。そこを、横からの攻撃が防いだ。
アリスの、ではない。初めから彼女と共にこの場へ来ていた仲間の魔物達だ。
唸りを上げた刃が、溶岩原人の身体を切りつける。スラリンが放った、刃のブーメランだ。まだ戦闘経験が浅い故に接近戦が苦手であろうスラリンに、アリスが購入してくれたものだ。
怯ませたところを、今度はなおも力強い一撃が溶岩原人の身体に食い込む。プリズンの鋼の牙が、深々とマグマの身体を貫いたのだ。
不意を喰らって、岩の足場の上を転がる。そこへ、飛び上がった一つの影が、とてつもなく重い一撃を叩き込んだ。
大金槌を振り下ろしたのは、ブラウンだ。ブラウニーの名に恥じない、力を込めた会心の一撃。
溶岩原人は人数ですら不利と悟ったのか、溶岩へ戻る。すぐに正面に二体揃って姿を見せた。
「今度は様子見ですか。ですが、こちらも急いでいるのです」
アリスは、両手に魔力を込める。先程のヒャダルコよりも、より強力な質だった。
手首を合わせたまま、両の手の平を溶岩原人へ。そして、仲間の魔物達が見守る中、その呪文が放たれる。
そう。この世で唱えられるのは実に数百年ぶりという、この呪文を。
――――ヒャダイン。
「フローラ。フローラはどこだ」
大声を上げ、屋敷中を大股で歩き回っていたルドマンは、廊下の隅に燭台を掲げて立っている寝間着姿の妻を見て、おおと声をかけた。
「シャルロット。フローラはどこだ。アンディが戻ったのだよ。炎のリングを手にしてな。だが、フローラの姿が先ほどから見えんのだ。もう寝床に着いてしまったのか?」
「フローラでしたら、今はインガルズの家へ出かけております。流石に疲弊しきっていたため、どうしても疲れを癒やしてあげたいと」
「なに?」
ルドマンは、目を剥いた。まさか、フローラほどの嫁入り前の娘がそのようなことをするとは。
「何故止めなかった?」
「止める必要などないでしょう、あなた」
何を言っているのか、といわんばかりのシャルロット。激昂する夫の手を、妻はそっと取る。
「愛し合っている男女なのですから、口を挟むのは無粋というものです」
ルドマンは、妻の言葉を理解するのに数瞬の時を有した。
「・・・・・・あのフローラが、だと?」
「気づかなかったというのも無理はありませんか。ハッキリとお互いに言葉にしたわけではありませんしね。私は少なくとも、あの子が五歳になった頃からです」
「そ、うか・・・・・・」
なんということだ。自分は娘のことを親としてできる限りのことをしていると思っていた。そんな自分が、娘の心一つも気づいてあげられていなかった。
「私は、娘が互いを愛し合える結婚を迎えることを望みますわ」
ルドマンに貸してもらった帆船は、小ぶりながら最新式、高価な楽器に用いるような木材をふんだんに使われた美しい船だった。町外れの川の上に浮かんだ船に、アンディは乗り込む。
その背中を、フローラが気遣うように見つめていた。胸の前で指を組む姿は、彼の無事を祈る妻そのもの。そう遠くないうちに、それは本当の夫婦の姿として成り立つことだろう。
「それじゃあ、フローラ。行ってくるよ」
「アンディ・・・・・・どうか、無理をしないで」
「君と結婚をするためなら、どんなことだって出来るさ」
その後も、二人は何度かやり取りを続ける。やがて、アンディは船を発進させた。彼の姿が見えなくなるまで、二人は手を振っていた。
それも過ぎると、フローラは町へと戻っていく。噴水の傍に立っているアリスに近寄ると、深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました・・・・・・アリスさん。貴女がいなければ、アンディは今頃・・・・・・」
「いいえ、よいのですよ。フローラさん」
頭を上げてくださいと言うと、彼女は言われたとおりにした。その瞳が、心なしか潤んでいる。
「それと、フローラさん。この事は、どうかくれぐれも・・・・・・」
「は、はい。私たちだけの秘密、ということですよね」
そうなのだ。結局、アリスは溶岩原人を討ち果たした後、その場から姿を消した。後には、傷が全て回復して意識を取り戻したアンディと、ずっと求めていた炎のリングがその場にあるのみ。
――――誰かが助けてくれたというのか。だが、こんな場所へ誰が?
その疑問には答えが出ないまま、アンディは現状を甘んじて受け入れるしかなかった。腑に落ちない気持ちは、帰り道のマグマの熱さによってすぐに消えてなくなってしまう。
さらにどういうわけか、帰りの道中には魔物に殆ど見つかることがなかった。おかげで、苦しめられたのは疲労と喉の渇きくらいなものである。
その理由が、アリス達一行の手によってアンディに襲いかかろうとする魔物を追い払っていたとは知りようもなかっただろう。ともあれ、アンディ・インガルスは無事に炎のリングをルドマンに手渡すことに成功したのであった。
ルドマンには、アンディが確かに炎のリングまでたどり着いた事実を伝えておくことを忘れない。そして、アリスのことはアンディに伝えないように頼んでおくことも。
ルドマンは、その辺りを快く承諾してくれた。昨日とはうって変わり、フローラとアンディの結婚に前向きな姿勢を見せていたのである。
きっと、彼もある程度の結果を残したことでアンディを見直してくれたのだろう。もとより、誰かと協力してはいけないなどという決まり事はない。
それでも。このフローラだけは気づいていた。アリスの実力を知っている彼女なら、必ず察してしまう。
炎のリングまでたどり着いたアンディが、命を落としかけていた事。そして、そこへアリスが駆けつけてくれた事を。
実際に、フローラの手当を受けていたアンディが、何気なく口にしていたのだ。誰かが助けてくれたような気がする、と。
「フローラさん。水のリングは、滝の洞窟という場所にあるそうですね」
「はい。広大な滝の裏側に存在する、水の精霊の住み家だったとも言われています。少なくとも、あの火山よりは危険性はないかと」
「少なくとも、炎のリングまでたどり着いたのは、間違いなくアンディさん自身の力に間違いはありません。彼も今回のことを通して、色々と自信を付けてくださったようですしね」
いざとなれば、私もまた向かうつもりですがと付け加えておく。それに対し、フローラは困ったように笑う。
「私としましては、やはり彼が危ない目に遭うのは今でも反対です。ですが、先程の彼の背中はいつもより頼もしく見えました」
その時に、思ったのだろう。今の彼なら、きっと・・・・・・と。
不安が期待に変わり、それに連なって引き留める声も小さくなってしまった。
「これでは、妻失格ですね」
「いいえ。愛する男性を信頼することも、また妻の持つべき素養です。アンディさんの結婚相手は、フローラさん以外にはあり得ません」
「まあ」
その言葉が嬉しかったのか、顔を綻ばせるフローラ。その笑顔は、まさに華のようだと喩えるに相応しい。
「ふふ。何だか、アリスさんに口説かれているようですわね」
「あ、いえ。そのような意図は露ほども」
やがて、お互いになんだか可笑しくなって、しばらくクスクスと笑ってしまった。
アンディは再び戦いの地へ赴き、その帰りを待つフローラ。だが、不思議と誰の心にも不安は無い。
昨日とはうって変わり、誰もが希望を胸に抱いて生きている。きっと、これからも。
「幼い頃からよく遊んでいた時は、恋愛というものをよく理解していませんでした。ですが、この街に戻ってきてからの彼は、本当に昔の優しさを忘れないまま、別人のように成長していて・・・・・・その時に思ったんです。結婚するなら、彼のような男性がいいと」
「幼い頃から、ですか」
何気なく口にして、アリスは少しだけ寂しげに微笑んだ。彼女にとって、そう呼ぶことの出来る人間は二人しかいない。いや、もう片方は既に結婚を前提とした恋人なので、事実上は一人だけなのだろう。
加えて、世間で普通に言う幼馴染みほど長いこと一緒にいたわけではなかったが・・・・・・あの一つ年上のおしゃまさん。彼女は今も、この大空の下で元気にやっているだろうか。
共にほんの一時、リュカと幼年時代を過ごした彼女。あのレヌール城のお化け退治を、共に戦い抜いた仲間。
それでも。きっとあの頃と同じような時間を過ごすことは、今は叶わない。
ビアンカもきっと、自分のことを覚えてはいないだろう。いや、そもそもアリスという人間とは会っていないことになっている筈。それは、シスター・ジゼルの事で証明済みだ。
それでもいい。会えるのなら、会いたい。こうして、日常の合間を見て旅のような事を積極的に続けているのも、かつて確かに出会った人と再会できる希望を捨てたくはないから。
「それにしても、あの■の火山を当然のように踏破できるなんて、やっぱりアリスさんは凄いですね。私も修道院で護身の類いは習っているつもりでしたが、実戦で戦い続けている方には及ばないようです」
「まあ、否定はしません。基礎的なことは六歳の時点で習得していましたが、後は自己流なのです。正しく習っているような方々の目から見れば、さぞ不格好に見えるでしょう」
「それだけ実戦向けという意味でもあるのですよ。ところで・・・・・・」
「はい?」
「アリスさんも色々とお疲れかと思います。勝手ながら、我が家だけでは何かと息苦しさも感じてしまうかと。ここは一つ、この大陸では有名な寛ぎのスポットを紹介したいと思いまして」
「・・・・・・それは、この町におありなのですか?」
フローラは、いいえと首を振る。
「この町には、定期的に北の山奥へと向かう定期船があるのです。北にある山奥の村との通行を目的としたものなのですよ」
その定期船を作ったのもルドマンらしい。おかげで、当時から通行の手段が限られていた山奥の村からも感謝の声が絶えないという。なんでも険しい山々の麓で、周囲が川や湖に囲まれているためなのだとか。
ただし、その村にはどこにも負けない名物があるという。それが――――温泉だ。
健康によく、自然の風情を楽しみながら温泉に入れるということで、旅の人間はよく訪れる。実を言うと、ルドマン夫妻も長い仕事疲れの時などに、希に訪れているらしい。
「そう、ですか・・・・・・そんなところに、温泉があるのですね」
「はい。アンディが戻ってくるにも時間がかかるはずですし、よければと思いまして」
「・・・・・・はい。それでは、スラリン達にも話してきます」
勧められ、アリスは承諾をすることにした。確かに、そういう場所があるのならゆっくりするのもいいだろう。仲間モンスター達とて、きっと疲れているはず。
何より、タバサにも温泉を楽しんでもらいたい。今回、致し方がないとはいえ、フローラに我が子を預けてしまった。帰ってきたときにアリスを見つけたときのタバサは、それはもう取り乱したまま縋り付いてきたほどである。
もっと言ってしまえば、ずっと人の家で寛ぐというのも心苦しい。その辺りのアリスの心情を踏まえて、フローラは今回の山奥の村行きを勧めているのだ。
場所を教えてもらうと、どうやら船さえ使えば余裕で日帰りできる程度の距離らしい。向こうで一晩ほどゆっくりすれば、時間的にアンディもサラボナへ戻ってくるだろう。
二人は、ルドマン邸へと戻る。
そして、娘と仲間達に言った。温泉のある村へ行ってみませんか、と。
勿論、全員が快諾。楽しみと言わんばかりに跳びはねる仲間達。意味を理解できていないタバサも、両手を上下に動かしながら嬉しそうに笑った。
準備を手早く終わらせ、一行は北の山奥の村へと向かう。ここにいるのは、新しい家族。たまには、こうして団らんの一日を過ごさなければ。
この時のアリスは、そう思っていた。
そして、彼女達が村に着いた後。
「貴女は・・・・・・誰なんですか?」
「あ・・・・・・」
アリスは、自分の顔が愕然としているのが分かった。
彼女の視線の先には・・・・・・美しく成長したビアンカ。
もう一人は、ずっと探していた最愛のリュカの姿。彼は今、ビアンカに庇われるように彼女の後ろに立っている。彼は、自分を困惑した目で見ていた。
そして、リュカの足に縋ったままこちらを見ているのは――――母親譲りの金糸の髪を受け継いでいる一人の男の子。
ビアンカとリュカの間に生まれたのであろう、一人の子供であった。
つづく
ヒャダイン:天空の勇者の仲間が使っていたとされる氷系の呪文。ぶっちゃけブライ。
ヒャダルコよりは強いが、マヒャドより弱いという使い勝手の悪い呪文ということで、次第に真面目に覚える者も減っていったという。いざ身につけるなら、直接マヒャドを覚えた方が効率的と認識されてしまっている。不憫。
ベネットじいさんがアリスに出会う前から甦らせていた呪文の一つ。妊婦生活中に研究成果を学ばせてもらった。アリスが使えば従来のマヒャドと互角の威力が可能。
では、もしこれから先、彼女がマヒャドを正式に覚えたとしたら・・・・・・
サラボナの定期船:今作品のオリジナル設定。だが、別にあってもおかしくない。原作では完全に孤立している立地条件の村なのに、旅人は温泉目当てに多くやってくるという。ルドマンの小舟も元々個人用なので、もしかしたら村人は全員筏でも持っていたのかもしれない。まあ、その辺りを突っ込んでもゲームなのだからとしか言いようがないが。
男の子:男の子