DRAGON QUEST Ⅴ ――聖女の足跡――   作:玖堂

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終わりへの序曲

 

 

 

 

 西の大陸。その辺境の地に存在する山奥の村。

 

 元々は人口も五十人未満という、名も無い集落ではあったが、ある日に温泉が湧き出たことを切っ掛けに、旅人や南に位置するサラボナを中心に人が集まってくるようになったという。

 

 この日。連日の曇り空が解放され、青空が広がった事は、農作業をする者達にとっても有り難い。彼らは率先して木の枝に生まれた果実を収穫し、肥料を撒く。

 

 そんな様子を、やや丘の上に位置するこの住宅からは遠く見渡すことが出来る。この山奥の村に移住してそれほど間がない住人にとっては、破格の条件で手に入れることが出来た生活と言えた。

 

 そんな見晴らしのよい土地ならば、子供も浮き足立つというもの。心が浄化された魔物達も、積極的に遊びに参加する。

 

「ブニャニャニャッ!」

 

「わあ、今度はプリズンが速い!」

 

 何をやっても楽しいかのようにはしゃぐスラリンは、遙か向こうの森の木々へ走っていく。その手前がゴールなので、誰もが一生懸命に前へ進んでいた。

 

 ピョンピョンと跳びはねながら移動するスラリンとは違って、プリズンはどう見ても猫の魔物である。そのため、この仲間モンスターの面々では誰よりも速い。

 

 それでも、プリズンは毎度のように一位を取っているわけではなかった。新たに作られたルールでは、一番になったものはご主人を背負って走らなくてはならないというものなのだから。

 

 そして、今はスラリンが主人として認めているタバサを背負っていた。一歳の幼い女の子は、全く怯えることもなくプルプルした身体に覆い被さっている。跳ねる感触も、彼女にとっては楽しくて仕方が無いのだ。

 

 彼らは今、真剣勝負の真っ最中なのである。主人の母であるアリスに、外で遊んでいてほしいというお願いを聞いて以降、こういった遊びを楽しんでいた。

 

 何しろ、ここまでの道中は馬車が多い。こうして見晴らしの良い外で遊ぶというのは、彼らにとっても心躍る時間である。

 

 今のところ、タバサというハンデを背負った異種魔物レースは、脚力を生かしたプリズンが二十一勝。ジャンプ力を生かしたスラリンが十二勝。もっとも力持ちでありながらも足には自信の無いブラウンが辛うじて奇跡の一勝。

 

「ちょ、ちょっと待って・・・・・・僕、もう限界」

 

 当然ながら、グロッキーになっているブラウン。しょうがないなあと木陰に移動するスラリンと、それを追うプリズン。

 

「ああ、いいよね。ご主人様・・・・・・あ、寝ちゃってる」

 

「くぅ・・・・・・」

 

「ブニャン」

 

 プリズンが頬をペロリと舐めても起きないタバサ。スライムの感触の心地良さと疲れで、いつの間にか寝入ってしまったようだ。

 

「ひい、ひい・・・・・・あ、ご主人様、寝ちゃったんだ」

 

 フラついたブラウンがようやく近寄ってきて、木の根に座り込む。はあっと、全員で木漏れ日を浴びながら微睡む一時を過ごす。

 

 気づけば、日は随分と傾いている。気づかないうちに、相当長い間外で遊んでいたらしい。

 

 村の入り口まで見えるこの丘からは、人々が営む生活まで見渡せた。レースを始めた頃には畑仕事をしていた村人達も、今は家に戻っている。人の姿はまばらだ。

 

 ただ、温泉の辺りから漂ってくる硫黄の匂いだけが、相変わらず魔物達の鼻腔を刺激していた。山奥の涼しい影と相まって、不思議な心地良さがある。

 

 しばらく時間が過ぎると、スラリンが不思議そうに言った。

 

「何だか遅いね、アリスさん」

 

「そういえばそうだね。あの人達と話があったみたいだけど。それよりさ、スラリン」

 

「なに?」

 

「あの男の人って、なんだかご主人に似てなかった?」

 

「あ、ブラウンも思った?」

 

 途端、キュルッと鳴くスラリン。自分と同じ印象だったと知って、喜んだのである。

 

「凄い優しい目をしていたよね。匂いもそっくり」

 

「どんな人だろうね。あの女の人の旦那様って言っていたけど」

 

「ニャアゴ」

 

「あ、プリズンは心配かい? そうだよね。アリスさん、なんだか・・・・・・」

 

 と、そこまで言いかけたところで、ビアンカと呼ばれた女性の家から人が出てきた。アリスの姿だ。

 

「あ、やっと来た」

 

「んん・・・・・・」

 

 スラリンは頭の上に寝そべっているタバサを起こさないようにしながら、アリスの元へ駆け寄っていく。ブラウンだけは疲れが残っているのかフラフラしていたが。

 

「・・・・・・」

 

「・・・・・・ああ、皆様。お時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした」

 

 今彼らの接近に気づいたように、アリスは俯いていた顔を上げた。心が浄化された魔物達は、一斉に息を呑む。

 

 その涙が流れ尽きたかのような瞳を、彼らは目の当たりにしてしまったから。

 

 

 

 

 ガチャリ、と音を立ててビアンカは玄関のドアを施錠した。一刻も早く、あの女性と自分達の繋がりを隔離したかったからだ。

 

 玄関から離れ、ビアンカはようやく深呼吸をする。頭を冷やそうと自室に戻ると、そこには既にリュカがベッドに腰掛けていた。

 

 こちらに背を向けている彼は、窓の向こう側を見ている。何を見ているかなど考えるまでもなかったが、ビアンカもリュカの隣に座りつつ視線の先を追う。

 

 窓の向こうには、魔物達に囲まれながら丘を下っていく後ろ姿。日が傾きかけている今は、僅かにオレンジ色の風景に変わり始めている。

 

 いつもなら一枚の絵のようだと思える景色も、この時ばかりはあの女性の存在のせいで、そうとは思えない。ビアンカにとって、もう顔も見たくない相手。

 

 特に、もう二度とリュカには絶対に会わせるわけにはいかない女。

 

 ビアンカは寛大な女性だ。だが、あのアリスという女に対してだけは別である。

 

 疑念。警戒。困惑。そして、焦燥。綯い交ぜになる複雑な感情。彼女が去った後も、ビアンカの心にはそれが残っていた。

 

「大変だったわね、リュカ」

 

 そんな、理不尽な災難を乗り越えたような口調が自然に出る。リュカは、肯定も否定もしなかった。ただ、未だに残る疑惑の意思を交えた瞳を、遠くなっていく彼女に向け続けている。

 

 あの時。リュカが彼女を拒絶した時。

 

 女性の自分から見ても美しかった美貌を崩し、絶望に濡れた表情。あれが、演技とは到底思えなかった。

 

 その時、ビアンカは確信した。彼女は間違いなく、事実を口にしていたのだと。心から、リュカに訴えていたのだと。

 

 それでも――――夫は譲れない。絶対に。

 

 あの女性が何を言おうとも、関係ない。今の自分達は、正式に結婚をした夫婦なのだ。自分達はこれからも愛し合い、この村で生きていく。

 

 そんな、妻として当然の決意。彼女はそっと立ち上がり、窓をカーテンで遮った。

 

「・・・・・・ビアンカ」

 

「もういいでしょう、リュカ。そろそろ夕暮れに差し掛かる時間よ」

 

「そうだね。ごめん」

 

「今日は、誰もお客さんなんて来なかった。それで良いじゃない」

 

 リュカは一瞬だけ躊躇った様子を見せたが、それでも首肯した。自分自身、彼女のことは何も覚えてはいないのは事実だ。これ以上さっきの出来事を気にしても、ただ頭を悩ませるだけ。

 

「・・・・・・っ」

 

 僅かに、痛みを堪えるリュカ。指をこめかみに当て、頭の奥に疼くような熱を抑えた。

 

「ダメよ、リュカ」

 

 ビアンカは、そっと彼の手を取った。優しく、ベッドに彼を仰向けにさせる。時折、彼は僅かな間だけ脳に痛みを感じると訴えることがあるのだ。記憶を失った事と関係があるのかもしれないが、無理に思い出させるつもりはなかった。それよりも、ビアンカは彼の痛みを和らげることを最優先にしている。

 

 リュカは抵抗しなかった。する気も全くない。二人の気持ちは、夫婦になることを決めた時からずっと同じなのだから。

 

「夕食までには、まだ時間があるわ・・・・・・」

 

「分かっているよ・・・・・・」

 

 夫婦は結婚を迎えてからずっとそうしているように、今日もまた唇を合わせる。やがて衣服が擦れる音と共に、ゆっくりと部屋が夜に近づいていった。

 

 外の景色と同じように、二人の夜はこれから始まっていく。

 

 

 

 

 この山奥の村に存在している宿泊地は、村の財政源といってよいほどの重要施設といってよかった。

 

 名を、森とビックアイの宿泊所。この温泉は事実上、この森とビックアイの宿泊所が管理しているため、村の中ではかなりの発言力のある者でなければ経営することが出来ない。

 

 温泉はこの大陸では有名で、わざわざ遠くから来訪してくる者もいる。ビアンカ一家もまた、そのうちの一組であった。従って、それを管理する責任もまた大きいのだ。

 

 入り口へ向かう階段を二階分上がった先に、宿泊の受付がある。同じ階には従業員の住まいへ向かう上り階段と、武器屋や防具屋のカウンター。後は日用雑貨やお土産を販売する店舗が数店存在した。

 

 この村の住民は、買い物といえばこの施設内の店舗を利用する。この場以外にも村の東側を中心に野菜や果物の直売所や衣類販売といった店は存在するものの、やはり温泉を目当てに来訪する者はこの施設で欲しいものを購入していた。

 

 村社会において、物資は貴重なもの。広大な畑で自給自足は充分に出来ているとはいえ、やはり観光客の足を途絶えさせるのはよくないとしていた。温泉以外でも、来訪者が村に興味を持ってくれるように、できる限り地元産の酒や食事を振る舞う名物を作る組合が努力を重ねた結果である。

 

 そして、そんな宿泊施設の奥には下りの階段がある。その先からは、男達の大らかな音頭や笑い声が今日も響いている。

 

 何のことはない。今日もまた、仕事を終わらせた者達が気分よく酒の席に集まっているだけなのだ。この酒場では何も珍しくはない、ありふれた時間である。

 

 静かな事を良しとする村の住人も、一日のこの時だけは饒舌になるものだ。山菜や獣の肉をメインとした料理がテーブルの上に並ばれ、地元の酒が途切れることはない。

 

 この日に来訪した旅人や中年の夫婦を同席させ、色々な話を語る。今日採れた果物はいまいちだった。あの国に行けばこれだけ儲かる。

 

 村人達の人柄も相まって、旅人達もまたそんな会合を楽しみにしている節が見えていた。今度は兄弟夫婦も連れてくるよと、肩を組んで歌っていた農夫の男と約束をする。

 

 愚痴から笑い話まで話題は有り余るほど有り、客に混じって呑んでいたマスターが、男性客の口から一つの話題を耳にした。

 

「そういえばよ、ボビー」

 

「あんだよ、やぶからぼうに。酒が足りなくなったなら、自分でもってきな」

 

「違う違う。今日この村に来た、べっぴんさんの話だ」

 

 その言葉に、周囲の男達も食いつくように身を乗り出した。若い娘の話ともなれば、興味を持たないはずがない。

 

「ああ。あのダンカンのトコに来ていたっていう、あの娘さんだろ。ここいらじゃあ見ねえ顔だったが、一体何の用だったんかな?」

 

「さあなあ。ただ、随分とまあ深刻な顔をしてたなあ。あの明るいビアンカちゃんも、何だかあの時はイライラしとったようにも見えたし」

 

「しかもな、おかしな魔物まで連れてたんだよ。あんな若いのに、魔物使いをやってたって話だ」

 

 魔物、という言葉に周囲が色めき立つ。この村に、魔物が侵入してくるとは。

 

 その反応に、話題を出した男は落ち着けといわんばかりに手を振った。

 

「いやいや、皆のモンは心配しなさんな。あの魔物達、別に恐がる必要はねえ。何しろ、人間の赤ん坊をおぶって村ん中に入ってきたんだよ」

 

「ああ、俺も見たぞ。ダンカンの家の前で、子供と一緒に競争なんかやってたな。よく躾けてある証拠だ」

 

 だから、悪い魔物じゃあねえ。その言葉に、肩の力を抜く面々。悪い者ではないというのなら、無闇に恐がる必要も無い。

 

「そういやあ、リュカのあんちゃんもよく動物には懐かれてたっけな」

 

「ああ。よく猫に纏わり付かれているよな。特に畑を荒らしていた悪戯猫のあいつなんか、今じゃあダンカンさん家の飼い猫か何かみてえに住み着いちまっているし」

 

「案外、あんちゃんの身内だったりしてな。まあ、顔立ちは全く似てなかったけどよ」

 

「リュカは記憶が無いって話だからなあ。ビアンカちゃんの幼馴染みらしいけれど、何か関係があんのかな」

 

 今度、訊いてみようかという話になったところで、彼らは自然と話題が移っていった。そのうち、アリス達の話をする者は殆どいなくなる。

 

 そのため、まさにその女性が現在、この宿に泊まっていることなど誰も気づくことはなかった。

 

 

 

 

 夕暮れの時刻ともなれば宿の部屋が空いているか不安になるものだが、充分に部屋は空いていた。季節によっては満室になることなどしょっちゅうだが、少なくとも今は旅人の人数も少ない方らしい。

 

 昼間、共に船に同席していた者達は半分近くが日帰りだったらしい。宿泊せずに、温泉だけ楽しんだ後は定期船で帰るという。

 

 それを、アリスは少しだけ残念に思っていた。他の宿泊客が大勢いれば、少しは気が紛れるはずだったのだが。

 

 部屋は木製のせいか、自然の良い香りがする。ベッドの手入れも行き届いており、とても過ごしやすそうだった。これならば、温泉以外でも旅人の足が途切れることはないだろうと納得できる。

 

 フロントの下は酒場になっており、宿屋の食堂とは別のようだ。ポートセルミの宿屋のように統合した方が営業しやすいはずなのだが、この宿屋のオーナーはそういう考えは無いらしい。

 

 荷物を部屋に置いたアリスは、窓の外を眺める。いつの間にか、夜に差し掛かる時刻に変わっていたらしい。太陽はほぼ沈みかけ、星もまばらだ。

 

 スラリン達はどういうわけかここまでの道中、終始無言であった。外で遊んでいた時は、楽しそうに声をあげていたというのに。何かあったのだろうか。

 

 今も、部屋にはベッドに腰掛けているアリスとタバサ。仲間達は向かいのベッドに乗っかり、こちらをチラチラと見ている。流石にこのままというのもどうかと思い、アリスは声をかけることにした。

 

「皆さん、何か?」

 

「・・・・・・」

 

 ビクリと肩を動かすと、三匹とも互いに視線を交互に彷徨わせる。ややあって、それまで黙っていたブラウンが恐る恐るといった様子で口にした。

 

「ええっと、その・・・・・・あの人達の家で、何かあったの?」

 

「・・・・・・」

 

 あまりにもストレートな質問。社交辞令というものを知らない彼ららしいといえば、らしいのだが。

 

 いや、そんな彼らの目から見ても、自分は酷い顔をしているのだろうか。

 

「・・・・・・そのように見えますでしょうか?」

 

 コクコクと頷く三匹。やっぱりそうだ。自分は今、この無邪気な仲間達に気を遣われている。薄々分かっていたが、誰が見ても分かるように自分は憔悴していたらしい。

 

「あの・・・・・・僕たちのせい?」

 

「いいえ。それは違います」

 

 それだけはハッキリと否定しておく。しまった。このままでは彼らに、あらぬ誤解をさせてしまう。

 

「ご心配をおかけしてしまったようで、申し訳ありません。少しばかり、これからの事で色々と考えなければいけない事が出来てしまったのですよ」

 

 そう言い切ると、三匹は露骨にホッとした顔を見せた。ベッドの上をピョンピョン跳ねる姿に、アリスはようやく少しだけ微笑みを浮かべることが出来そうだった。

 

 たとえそれが、貼り付けただけの笑顔だったとしても。

 

 それを見咎められたくなくて、アリスは外の景色に顔を向けた。山奥の夜から生まれる冷えた空気が入ってくるので、窓に鍵をかけるのを忘れない。

 

 カーテンを閉める際に遠目で見えたのは、民家が並ぶ地域から漏れる明かり。きっと今頃、各家庭で夕食を作っている頃だろう。そういえば、もう夕食の時間だった。

 

 今頃、同じように一つ屋根の下にいる彼と彼女はどうしているか。ふとそんな考えが過ぎったが、すぐにそれを打ち消す。分かりきったことだ。想像したくもない。

 

 本当は、今すぐにでもサラボナへ戻りたかった。今のリュカ達と、同じ土地の空気を吸っていることが辛いのである。自分はルーラが使えるし、定期船も船着き場まで急げば充分間に合う。

 

 その反面、それは出来ないだろうなと悟っていた。分かりきったことだ。

 

 アリスはもう、この先に何があろうともリュカを憎むことなど出来ないのだから。

 

 何故か。勿論――――愛したからだ。あの絶望の未来の中、月明かりが入り込む、あの安らいだ泉の中で誓った。それを、簡単に忘れてしまうようなアリスではない。

 

 たとえ、彼自身がそれを忘れてしまったとしても。自分以外の誰かの伴侶になっていようとも。

 

 受け入れよう。今の現実を。どれだけ涙を流したとしても、彼はもう自分の元へは帰ってこない。

 

 何より、彼はもう結婚の儀を神の前で済ませたのだから。あの、もう一人の大切な幼馴染みのビアンカと、生涯を共に歩くと誓ったのだから。その証に、新しい生命も生まれている。

 

 あの二人の間に、消えてしまった過去の存在は邪魔なのだ。タバサは、自分が責任を持って育てる。自分は黙って身を引き、サンタローズへ帰る。そして、二度とあの二人の前には現れない。

 

 そうです。それで良いではありませんか。その方がお互いのため。そうでなければ、生まれたレックス君があまりにも哀れでならない。

 

 何故か。決まっている。自分があの二人の間に割って入れば、レックスから父親を奪おうとする行為と同義なのだから。そして、幸せを手に入れた何の罪も無いビアンカからも、夫を奪う行為となってしまう。

 

 そうなれば、この静かな村で新しく生きている今のリュカは、決してアリスを許さない。自分自身もまた、そうなってしまった彼の冷たい視線に耐えることは出来ないだろう。

 

 ですが、とアリスは思う。

 

 タバサには近い将来、どのように伝えれば・・・・・・

 

 

 

 

 ポタ・・・・・・

 

 

 

 

「あ・・・・・・」

 

 無意識に声が出る。気づけば、膝に乗せていた手の甲に、雫が落ちたのだ。

 

 どこから、など語るまでも無い。己の瞳から生まれた涙。息が苦しく、しゃくり上げるのが止まらない。

 

 アリスは今――――泣いていた。

 

「うう、ひっく・・・・・・」

 

 目の前の仲間達が、ギョッとするのが分かった。だが、それも視界が滲んでしまったことで見えなくなる。

 

 まるで、子供のように泣いた。さっき出尽くしたと思っていた涙が、また流れ始めてしまったのだ。

 

 ダメ、です。やはり、ダメです・・・・・・っ。

 

 納得しようとした。理解しようとした。受け止めようとした。

 

 でも、ダメだ。胸の奥から漏れる思いは、どれだけ蓋をしても抑えられない。止める方法が全く思いつかない。

 

「うええ・・・・・・っ」

 

 まさか、こんな事になってしまうなんて。

 

 村の入り口。ビアンカがリュカに寄り添った時の、頭を殴られたような衝撃は今でも思い出せる。

 

 嘘ですと叫びたかった。彼の胸に飛び込みたかった。やっと会えたと、縋り付きたかった。

 

「リュカ・・・・・・リュカ・・・・・・」

 

 涙が止まらない。ボロボロと頬を伝う雫は、顎を伝って床へ落ちていく。最愛の彼の名前をいくら口にしても、自分の傍にはいないのに。

 

 きっと今頃、彼は自分以外に愛した女性を腕に抱いていることだろう。それが簡単に想像できてしまうことが、何よりも苦しかった。

 

 もう、何も考えたくない。このまま、温泉にも入らずに眠ってしまいたかった。今の締め付けられる苦しみから、僅かでも逃れられるのなら――――

 

「まぁま」

 

 ――――え?

 

 ふと、耳から馴染んだ声が聞こえた。顔を上げると、それこそ息がかかりそうな距離で娘のタバサの顔があった。ベッドの上に立ち、ジッと涙を流している自分を見つめていた。

 

「タバサ・・・・・・?」

 

「んい」

 

 何を思ったのか、タバサはいつもならつぶらに見える瞳を、どこか真剣な目に変えていた。口をとがらせ、何か難しいことに挑戦するかのような様子にも見える。

 

 ペチ、と一歳の少女の小さな手がアリスの頬に当たった。何をしたがっているのかが分からず、アリスは目を瞬かせながら、されるがままに。

 

 そして、タバサが舌足らずな声で――――しかし、誰よりも思いを込めた言葉を口にした。

 

 

 

 

 ――――いらいのいらいの、とうでけ。

 

 

 

 

「――――――――」

 

 その瞬間のアリスの心は、この世のどんな言葉でも表現することは出来なかった。

 

 ありとあらゆる心が混じり合い、爆発を起こしたかのような衝撃。今の自分は、きっと間抜けな顔を見せてしまっていることだろう。

 

 無意識に、アリスの両腕はタバサを抱きしめていた。今はただ、この子の温もりを肌で感じたかったから。

 

「タバサ・・・・・・っ!」

 

 いたいのいたいの、とんでけ。

 

 それはまさに、アリスがタバサにしてあげていた事。魔法に頼らず、大事な痛みに耐えられるようにするための、親が子にしてあげるおまじないの言葉。

 

 それを今、自分にしてくれていたことを、今度は一歳の娘が母親に。

 

 悲しんで、傷ついていた母を助けてあげるために。悲しい気持ちを何処かへ飛ばしてあげたくて。

 

 母として嬉しかった。誇らしかった。まだ生まれて一年しか経っていないというのに、人を労るほどに成長してくれた事が。そして、母を慰めてくれたということが。

 

 未だに流れ続ける瞳で、アリスは娘の瞳を見返す。そこには、確かにリュカそのものの瞳。誰もが心を和ませてしまうかのような、あの優しい瞳。

 

 今はただ、感謝を。この子を生むことが出来た全てに、ただ感謝を。

 

 愛した男は別の女性を選んだ。仲のよかった幼馴染みも失った。だが、この喪失感を全て立ち上がる希望へ変えてくれたのが、たった一人の愛娘。

 

 母親として情けなかった。まさか、まだ大事なものがすぐ近くにあるということを、実の娘に教わるとは。

 

「ごめんなさい・・・・・・ごめんなさい」

 

 不甲斐ない母親の涙は、未だに止まない。いつの間にか、ずっと自分を見ていた魔物達も、何も言わずに儚い母子の傍に寄り添ってくれていた。

 

 誰もが、アリスの心を案じている。それが何よりも有り難く、また嬉しかった。

 

 ――――神よ。今この時だけは、どうか弱い母である事をお許しください・・・・・・

 

 

 

 

 月が隠れるほどの雲に覆われた夜空の下。サラボナの船着き場には夜の定期船が到着していた。

 

 慣れた手で橋渡しの板を下ろす船員。待ってましたといわんばかりに、ゾロゾロと船から下りていく船客の姿。都会の垢を落とすために温泉へ向かった者達も、やはりサラボナの空気は慣れ親しんだものなのだろう。受付で手続きを終わらせれば、後はそれぞれが向かうべき方向へ歩いていく。

 

 そんな様子を遠目に見ながら、フローラはただ切なげな目で噴水の前に立っていた。

 

 何をしているのかなど、言うまでもない。彼女は朝からずっと、アンディの帰りを待ち続けているのだ。

 

 勿論、一日中この場にいたわけでは無い。どれだけ早くとも、丸一日は帰ってはこないだろう。何しろ、古い書物ですら水のリングがある場所は曖昧な記述しか記されてはいないのだから。仮説こそあるが、どれも未だに明確な目撃証言は無い。

 

 それでも、何となくだがフローラには確信があった。きっと彼は、水のリングを手にしてサラボナへ戻ってくると。その時に、妻になるべき自分が傍にいなくてどうするというのか。

 

 彼女は思う。やはり、思い切ってアリスに彼の護衛を頼むべきだっただろうか。

 

 しかし、それはいけないと理性が押しとどめていた。それはつまり、アンディのことを何も信じていないことと同義。彼が自分の力で手に入れなければ意味のないもの。

 

 なにより、それはアンディの覚悟と意地を汚す行為。それが理解できてしまう自分に嫌悪感を覚えてしまう。

 

 試練なんて行わなくても良い。好きな人を自分で選んで、何が悪いというのだろう。

 

 だが、現実にアンディは武器を取る道を選んだ。だからせめて、彼がそんなものを振るうのはこれが最後にして欲しい。彼が持つべきは筆や彫刻刀であって、戦士が持つ武器では無いのだ。

 

 噴水は淡く輝き続けている。夜の町を照らす灯火が水辺に反射していた。フローラの端整な顔立ちがうっすらと輝く。

 

 そのせいか、一人の男がフローラの顔を確認できたようだ。気安い足取りで近寄ると、声をかけてくる。

 

「やあ、フローラちゃん。こんな所でどうしたんだい?」

 

「あ、ベルンさん。夜中までご苦労様です」

 

 彼女の相手の顔を確認すると、上質なロングスカートを摘まんで礼をする。アリスに匹敵する優雅さだ。

 

 対して、ベルンと呼ばれた男はつい感嘆の息を漏らしてしまう。目を瞬かせ、人の良さそうな笑みを深めた。

 

「へえ。やっぱり修道院から帰ってきてから、おしとやかさが一段と増したみたいだね。花の妖精かと思ったくらいだよ」

 

「ふふ、お上手ですね。先程の船に乗っていらっしゃったということは、ベルンさんはもしや温泉にでも?」

 

「もちろん。今日も、温泉がワシを呼んでいた気がしたのだ。わっはっはっ」

 

 豪快に笑うベルン。彼の温泉好きは、昔から有名なのだ。

 

 昔から、世界中の町や村をめぐっている、腕利きの商人であるベルン。若き頃のルドマンが冒険に力を注いでいた時期からの顔なじみであり、娘であるフローラとも長い間面識がある男であった。

 

 特に、山奥の村が温泉によって活気づいてきた時から、このサラボナの定期船を通して温泉目当てに旅立つことが多い。今日も、その帰りのようだった。

 

 それはそうと、とベルンは真面目な顔になる。

 

「ところで、どうしたんだい。こんな時間に一人で?」

 

「いえ、個人的なことなのですが・・・・・・アンディの帰りを待っているのです」

 

「例の幼馴染みくんかい。彼がどうかしたのかな?」

 

「ベルンさんも、私の結婚の話はご存じでしょう。そのお父様が出した条件のために、彼が水のリングを探しに出て行ってしまったのです」

 

 いわれて、ベルンは成程と頷く。あれは確かに、常人がクリアできるような条件では無い。ルドマンも、無理難題を押しつけてきたものだ。

 

「昨日、アンディは大やけどを負いながら炎のリングを持ち帰ってきたのですが・・・・・・」

 

「なにぃ!?」

 

 仰天する。まさか、本当に持ち帰ってくる男がいるとは。

 

「だからこそ、心配なんです。今度こそ、取り返しのつかないことにならないかと・・・・・・」

 

「ううむ。だが、あの火山を乗り越えたというのなら、大丈夫なんじゃないか?」

 

「私は、そのようには考えられません」

 

 キッパリと言い放つ。おおよそ、彼女らしくない反応だった。まあ、無理もないが。

 

「お父様は、昔から強引なんです。そういう人間だからこそ、今のような立場になれたのかも知れませんが」

 

 父が自分を愛してくれているのは理解できる。それでも、引き合いに出される人間の気持ちも考えて欲しい。娘であるフローラは常々そう思っていた。

 

「そ、そうかい」

 

 正直なところ、ベルンとしては耳の痛い言葉である。事実、自分も商売ではかなり強引さを心がけているタイプなのである。だからこそ、ルドマンと気が合ったのだが。

 

「おっと、忘れるところだった。フローラちゃん、今ルドマンさんはどこにいるんだい?」

 

「ああ、父に用事があったのですね。今頃は自宅かと」

 

「それは良かった。それじゃあ、失礼させてもらうよ」

 

 そそくさと、ベルンはルドマン邸へ向かっていく。何の用事だろうかとフローラは思ったものの、それを聞くのは止めておいた。

 

 大方、また珍しいものが手に入ったから、買って欲しいという催促だろう。怪しげな物だったら父がハッキリと断るので、それほど心配することも無い。

 

 フローラは、視線を町の出入り口に向ける。やはり、あの見慣れた幼馴染みの姿は今も見えなかった。

 

 

 

 

 この数刻後。

 

 サラボナの北西に位置する、小さな祠。

 

 この、人里離れた小島を中心に、地響きが生まれた。

 

 その地震は断続的に大きくなり、津波が川や湖に発生する。

 

 まるで、地下の奥深くから発せられる、この世の全てが終わりを告げる悲鳴の如く。

 

 その悲鳴に似た衝撃波は、内側から祠を容易く崩してゆく。それはまるで、弾かれた積み木のように祠の残骸が飛び散った。

 

 祠を地下から貫いたのは、光。流星のようでありながら、どこまでも禍々しさを感じさせる悍ましい魔力の矢。

 

 その矢は天の雲を貫いただけに留まらず、まるで世界の全てを変換させたように闇の空へと姿を変えていく。今が夜であっても分かる、星の光一つ届かない漆黒。

 

 そして、光の矢は大地へ戻ってきた。しかし、それは大地を貫いたわけでは無い。

 

 矢だと思われたのは、山に匹敵するほどの巨体。先程の地震など比べものにならない地響きと共に、その巨体は二本の足で着地したのだ。

 

 全身が黄銅色に似た体毛で覆われている、純然たる怪物。全てを貫きかねない瞳が三つ。二本の角に、世界すら往復できるのかと思わせるほどの翼。そして、ずんぐりとした筋肉質の体形。

 

 周囲を見回す怪物。やがて何かを察したのか、ニヤリと大きな口元を歪める。

 

 目的地を見定めた怪物は、足を動かし始めた。怪物からすればすぐ近くに位置する、人間達が集う場所へ。

 

 

 

 

 ――――肩から胴体にかけて残っている、不自然な傷跡に触れながら。

 

 

 

 

つづく




未来で暴れていた怪物、フライングで登場。
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