フローラがその異変に気づいたのは、ベルンが屋敷から出てきた頃であった。
サラボナの空気が重くなっていく。白い画用紙に黒の液体を滲ませるかのように、こちらの領域を浸食してくる錯覚を覚えた。
無意識に、全身が警戒の鐘を鳴らし続けている。何となく、外に身をさらしているのは危険と生き物としての本能が伝えていた。
それは、今まで幼馴染みの帰りを待ち続けていた事すら、それを棚上げしてしまう程に。
周囲の町人達は、全くこの空気に気づいてはいない。相変わらず噴水の近くには夜の散歩をするカップルが見えているし、酒場からは仕事終わりの者達らしい歓声が聞こえてくる。修道院で魔道を習っていた彼女だからこそ感じ取れるのかも知れなかった。
今は、早く家に戻らなければ。町の人達はともかく、父や姉なら相談に乗ってくれるに違いない。
そう期待を込めて、フローラは足早に家へ向かうことにした。歩くたびに胸の動悸は速まってゆき、玄関にたどり着いた頃には彼女の息はすっかり上がってしまう。
それでもどうにか呼吸を落ち着かせ、玄関のドアを開ける。いつもなら出迎えをするはずの使用人であるマリンが、奥の階段から慌ただしく降りてくる様子が目に入った。
「ああっ、お嬢様。お帰りなさいませ。今はどうか、火急の事態なのでご無礼を!」
そう早口で告げつつ、マリンはフローラの横を通り過ぎて、外へと向かっていく。噴水を迂回するように走り続けたまま、夜闇の町中へと消えていった。
マリンは使用人としてはそれなりに長いはずなのだが、フローラからしてもあそこまで慌てている彼女を見るのは初めてであった。今まで、主人の娘であるフローラを蔑ろにするようなことは無かったはずなのに。
あるいは――――この邪悪な気配と関係があるということなのか。
「いえ、まずはお父様とお話をしないと」
考えていても仕方が無い。フローラはまだ屋敷の中にいるであろうルドマンを探すため、父の書斎を目指すことにした。
だが、応接間を通った際に声をかけられる。母親のシャルロットだ。
「まあ、フローラ。良いところに帰ってきてくれたわ!」
母親であるシャルロットは、基本的に物腰が落ち着いている女性だった。世界有数の商人であるルドマンの妻であるならば、気の小さい者では務まらないのだ。
だが、そんなシャルロットも今は珍しく取り乱している様子である。少なくとも、フローラは母のこんな姿など見たこともない。
母はフローラを応接室の椅子に座らせることも忘れ、扉の前で唐突に話し始める。周囲の使用人は相変わらず慌ただしツ走り回るばかりで、こちらの様子など気にも留めてはいない。
「お願いよ、フローラ。今すぐに、お父様に会ってあげてちょうだい。さっき、いつもの商人の男性が屋敷に訪れたのだけれど、それからお父様の様子がおかしくなってしまったの。私には何も話してくれないし・・・・・・フローラの言葉なら、きっとあの人も聞いてくれると思うわ」
これまで、シャルロット夫人は夫のルドマンと共にあらゆる危険を共に乗り越えてきた。夫婦として危険な旅を経験したこともあり、むしろ事務的なことは夫人の役目としてトュルネック家を支えてきた自負がある。
しかし、今回はルドマンが長年の伴侶である妻にも事情を伝える暇が無いと言わんばかりに、使用人達にあれこれと指示を出している。シャルロットの心が乱れるのも、致し方ないというものだ。
父は先程から、町の警備を行っている警備団に周囲を警戒するように通達しているのだという。さらに町の避難先や食料の確保と、とにかく慌ただしかった。まるで、この街に危機が迫っていると言わんばかりに。
「は、はい。お母様。実は、私もその事に関してお父様とお話が・・・・・・先程、遠くから奇妙な気配を感じてしまいましたから、何事かと心配になってしまったのです」
「まあ。それはごめんなさいね! かえって邪魔をしてしまったみたい・・・・・・」
「いいえ、お母様。お父様がご心配なお気持ちは、私とて同じです」
はやる気持ちを抑えつつ、フローラは階段へ視線を向ける。
すると、そこに件のルドマンが二階から降りてきていた。心なしか足元が覚束ないが、きっと今の状況と関係があるに違いない。
「むう、フローラか。良い時に帰ってきてくれた」
「よかった、お父様。先程からのこの慌ただしさは・・・・・・」
「う、うむ。流石に驚いたであろう。騒がしくしていることは済まなく思っているが、こちらもそうは言っておられんのでな」
どうにも要領を得ない態度。おおよそ、父らしくない態度であった。
やはり、何かが起きているらしい。そして、ルドマンはそれを知っている。ややあって、彼は覚悟を決めたように口を開いた。
「やむを得まい。今は、一刻も早く町の者達を逃がすことが先決だ。まずはお前達にも事情を話すとしよう」
「・・・・・・はい」
「な、何だべ! あの山みてえな怪物は!?」
山奥の村では繰り返し悲鳴や怒号があちらこちらから喚き立てられ、村人が老若男女問わずに右往左往していた。
本来ならば危機を認識した時点で村を放棄し、身を隠すことを選ぶのが常識的な対応である。だが、今ばかりはあまりにも怪物の存在感や威圧感がとてつもなく、焦りと恐怖で適切な行動が分からないのであった。
それこそ大山と見間違うほどに巨大な魔物。あの怪物が二本の足で立っている場所は、川を挟んだ小島の辺りの筈だ。だが、それでもこのダンカン一家が暮らす家屋の窓からもハッキリと視認できるほどである。
風の勢いが肌で感じるほどに禍々しく変わり、気を抜けば理屈を無視して全身が何処かへ連れて行かれそうだった。衣服を身につけたばかりのリュカ夫妻は、それまでの営みの空気を一瞬にして吹き飛ばされてしまう。
代わりに生まれるのは、得体の知れない戦慄と焦燥。今、自分が何をしなければいけないのかが、二人には脳裏に浮かんでこなかった。
「あ、あれは・・・・・・」
「あんな魔物、見たことがないわ・・・・・・何者なの?」
怪物という言葉がそのまま形になったかのような、魑魅魍魎の集大成。それこそ世界の全てを蹂躙出来てしまいそうな巨体は、ただ周囲を確認するかのように首を動かしている。
あの怪物を視認している全ての生物が願った。頼む、目を合わせないでくれと。
「う、うわあああ・・・・・・っ!!」
村の何処かから、悲鳴が上がる。それに呼応するかのように、別の場所からも泣き叫ぶ声が上がった。
恐慌状態になった村人の逃げる方向が決まった。あの怪物から背を向け、どこまでも遠くへと走るのだ。
阿鼻叫喚。混乱はどこまでも広がっていく。
こんな中でも、ある程度の実戦経験を積んでいるビアンカの心には、自分を奮い立たせる気持ちが残っていた。脳裏の隅にある冷静な自分が叱るのだ。しっかりしなさい。今は私がみんなを先導しなければいけないのでしょう、と。
パン、と自分の頬を叩く。それで、気分はいくらか落ち着いた。あの怪物が何者かは分からないが、まずは村人達の退路を確保。夜は魔物達の時間だ。闇雲に村の外へ出ることは危険だが、今はそうも言っていられない。
この辺りの魔物達の対処は、自分が一番慣れている。リュカと一緒に外へ出てから――――
「・・・・・・」
「リュカ!?」
ビアンカは、つい非難めいた声を出してしまった。なぜなら、こんな時だというのにリュカは遙か遠くの怪物を凝視したまま、棒立ちになっていたのだから。
「・・・・・・あっ! ご、ごめんよビアンカ。すぐに用意するから」
我に返り、どうにか装備品を準備する夫。なぜか、それでも何度か怪物に視線を向けようとする。
あの怪物に恐怖を覚えているのだろうか。だが、こうまで凝視しようとする理由は何か。畏怖しているというのなら、それこそ村人達に混じって逃げる素振りくらいは見せるはず。ただ単に、妻を放って逃げられないだけと言ってしまえばそれまでなのだが。
身につけているものは旅人の服。心許ない装備品だが、日頃から相手にしている魔物ならば、彼にとっては充分である。
続けて、リュカは自室の向かいの部屋へ入った。外からの騒動に目を白黒させていたダンカンは、ベッドから上半身を起こしている。
「リュ、リュカ君。この騒ぎは何かね?」
「ダンカンさん、少しだけ辛抱していてください」
「のわっ!」
リュカは小太りのダンカンを背負うと、ビアンカが待っている玄関へと急ぐ。
「ビ、ビアンカ。せめて、何事か説明を・・・・・・」
「お待たせ。さあ、行こうか」
「私も準備は出来たわ。さあ、行きましょう」
未だに状況をつかめていないダンカンを無視しながら頷き合うと、三人は混乱の坩堝にある外へ飛び出した。村人達は口々に何事かを叫びながら、村の出入り口とは反対方向の森の奥へと我先に詰め合っている。つまり、ビアンカの家の方向だ。
まさか、険しい山脈を越えてまで北東のルラフェンの方角へ行こうとしているというのか。旅に慣れているビアンカですら、生きて越えられるか分からないほどの巨大な山だというのに。
だが、一方ではやむを得ない判断だと思う。南に位置する洞窟に向かえば山脈を東へ抜けることも出来るだろうが、それにはまず船を使って川を下らなければならない。そして、船からそう遠くない距離にあの怪物は立っているのだ。
そして、もう一つ目を逸らしてはいけない問題に気づいていた。山脈を越えるだけでも、いったい何日かかるのか分からない。必然的に、時間を稼がなければならなくなる。少なくとも、自分達の姿があの怪物の視界から完全に消えることが出来るようになるまでの。
どうする。ビアンカの額に、一筋の汗が流れた。何より、のんびり考えている時間などあるはずもない。こうしている間にも、怪物は今にも自分達を■戮の対象に決めるかも知れないのだから。
視界の隅には、自分をジッと見ているリュカの目。いつもならば誰もが心を和ませる瞳も、今は僅かなりとも不安と緊張に濡れている。
パン、とビアンカは自らの頬を叩いた。いけない、しっかりしないと。今は、自分がリーダーシップを発揮しなければいけない。
何しろ、今のリュカは――――戦えないのだから。
村人のほぼ全てが森の奥へひしめき合っている最中、一人の人間の後ろ姿が目に入る。村人に背を向けたまま、まるで棒立ちのように立ち尽くしていた。
顔を見ずとも、相手が誰なのかが分かった。上質なローブに身を包み、魔物達を従えていれば間違えるはずもない。こんな時でもなければ声をかけることすら抵抗があったであろう女性。
ビアンカは、すぐさま周囲の喚声にも負けずに声をあげる。落ち着いて避難をしてください、と。
だが、アリスという名の女性は一度だけこちらに振り向くと、村人達のように避難するような様子でもなく、こちらへと小走りに近寄ってくる。
「ビアンカさん、リュカ。あの魔物は、いつ姿を現わしたのですか?」
「いつって・・・・・・たった今よ。妙におかしな光が空へ登ったと思ったら、いつの間にか」
「・・・・・・そうですか。つまり、今この時にこそあの魔物は・・・・・・」
相変わらず自分達に対して、あたかも知り合いか何かと言いたげな口調。だが、彼女の目は真剣であった。何かを確認するように呟いているが、ビアンカには周囲の喧噪のこともあって、よく聞こえなかった。
さらに、今の彼女には先程までの弱々しい様子はなく、熟練の騎士のような雰囲気を醸し出している。まるで以前も似たような状況を経験したことがあるかのようだ。
ビアンカは、どこか頭の冷静なところで思った。こちらの方が本物なのね、と。
とはいえ、今はそれに関心をしている場合ではない。あの怪物から村人達を遠ざけるためにも、腕に覚えのある者が避難誘導を行わなくては。
戦う、などというのは論外だ。村の者達を放ってはおけないし、何より病弱の父もいる。自分達が守らずしてどうするのか。
それを余所にアリスは顔を上げると、ビアンカの目を真っ直ぐに見返した。
「分かりました。ビアンカさんは、どうかこのままリュカと一緒に村人達の避難誘導を。代わりに、あのブオーンは私が対処致します」
「・・・・・・貴女、正気かしら。まさか、囮役を買って出るっていうの?」
「自決願望はありません。ただ、それが最善というだけです。それよりも、今はどうか二人共、出来る事を最優先にお願い致します」
それと、とアリスは自分の足元を手で指し示す。そこには、二頭身のブラウニーに背負われているタバサがこちらを見上げている姿。
「どうか、この子達の事も一緒に避難してもらってもよろしいでしょうか。流石に、この子だけは危険から遠ざけたいのです」
言われて、ビアンカはタバサと目を合わせる。彼女は、不思議とこの女の子の瞳を他人のものとは思えなかった。
そして、それは隣に立っているリュカも例外ではない。彼はダンカンを背負ったまま、黙ってタバサを見つめてしまう。
「・・・・・・リュカくん?」
「あっ」
恐る恐る、というようにダンカンの遠慮がちな声が聞こえた。いけない。今は、怪物から距離を取るために避難が先だというのに。
「・・・・・・分かった。キミには負担をかけるかも知れないけれど、あの魔物に関してはお願いするよ。その代わり、この子の事はちゃんと見ておくから」
「はい」
リュカはそれだけを言う。それに対し、アリスは僅かに愁いを帯びた瞳で見返した。
――――まだ、警戒されているみたいですね。当然かもしれませんが。
そう。彼らにとって、自分は得体の知れない不審者なのだから。むしろこういう状況とはいえ、頼まれ事を聞いてくれるだけ寛大な対応なのかもしれない。
だが、そんなアリスの内心を否定するように、今度はリュカの顔が曇る。
「正直、少しだけ悔しいな・・・・・・僕にも、あの魔物と戦えるって堂々と言えるくらいの力があれば」
「・・・・・・?」
どういう意味なのだろうか。アリスはてっきり、リュカは村人の避難誘導を優先するが故に戦えないものだとばかり思っていたのだが。
・・・・・・いいえ。
アリスは思う。今はそれを考えている場合ではありません、と。今はブオーンへの対処が先なのだから。
そうとも。立ち上がる勇気なら、さっき愛娘から既にもらった。そして、仲間のモンスター達からも、自分は孤独ではないことを教えてもらった筈。
パァン、とアリスは頬を叩く。しっかりしなさい。切り替えなさい、と。
「では、ビアンカさん。タバサとブラウンのことを、どうかよろしくお願い致します」
「あ、うん。初めからそのつもりだから。一人と一匹が増えたところで、変わらないわよ」
心なしか、僅かながらも砕けた口調で承諾するビアンカ。何となく、再会した時の人当たりの良さが戻ってきているかのようだった。アリスの今の姿を見て、態度を軟化させてくれたというところだろうか。
律儀にも、ずっとアリスが動くことを待っていてくれていたビアンカとリュカに礼を告げると、今度は娘の護衛役であるブラウンに視線を向けた。
つぶらな瞳のブラウニーは、真っ直ぐに自分を見返している。それは、自分のやるべき事を理解している戦士の意思が感じられた。
本当に頼もしい護衛です。アリスは場違いにも、そう言いたくなった。
「それでは、ブラウン。タバサをお願い致します。この子が安全でなければ、私は十全に戦うことが出来ません」
「もちろんです、アリスさん。ご主人は、僕が守る!」
「はい。貴方になら、任せられます」
そして、とアリスは自分の後ろに立っている仲間達二匹にも声をかける。まるで、それが最後の確認であるかのように。
「よろしいですねスラリン、プリズン。今ならば、村の者達と共に己の命を優先させるチャンスがあるのですよ?」
言い聞かせるような口調にも、スラリンとプリズンは否定の意思を見せた。
「出来ないよ。アリスさん、あの魔物と戦うんでしょ? アリスさんがいなくなったら、ご主人が大きくなった時に悲しんじゃうから。僕だって、戦えるよ」
「フニャア、ギャウッ!」
分かりきったことを聞くな。そう言いたげな様子であった。アリスは、もう説得は無理だと悟る。何より、彼らの戦いたいという気持ちも理解できるので。
彼女の心を占めるのは、感謝と申し訳なさが半分ずつ生まれていた。いくら何でも、あのブオーンだけは一度戦ってしまえば命の保証は出来ないと理解していたからだ。それを、アリスはあの絶望の未来で身をもって思い知っている。
「それでは参ります。この戦いは、未来を守るための一戦です!」
アリスの喝と共に、彼女とスラリンとプリズンの身体に特有の魔力が覆われた。それをリュカとビアンカが認識した瞬間、彼女達は天に向かって飛び立っていく。
当然ながら、ルーラという名の古代魔法など知るはずもない二人の目には、未知の魔法以外の何物でもない。驚きから覚めやらぬまま、彼女達が一瞬で消えていった暗い天を見上げる。
「あれはね、ルーラっていうんだって」
タバサを背負ったままのブラウンが、どこか得意げに話した。二人は思わず、足元のブラウニーを見下ろす。
「ルーラ・・・・・・聞いたことがないけれど、もしかして呪文なの?」
恐る恐る、ビアンカが訊く。ブラウンは当然と言いたげに頷いた。
「そうだよ。アリスさんって、今は失われた魔法の研究をしている人間の弟子なんだ。他にも沢山の呪文を見つけて、色々覚えているんだよ」
賢者を目指している魔道の研究者。そういえばと、ビアンカは思い出した。今日の朝にアリスと初めて会った時、そんなことを聞いた気がする。
「アリスさん、言っていたよ。いつか、自分が生きているうちにブオーンと戦う時が来るかも知れないって。だから、それがきっと今なんだ」
だから、僕はこの子を守る。ブラウニーは、そう言い切った。
ハッとしたように、リュカは遠くにいるブオーンを見る。あの全てを破壊し尽くせるであろう巨体は、視線をあらぬ方向へと向けていた。そして――――こちらまで感じ取れるほどの地響きと共に、ゆっくりと南の方角へと遠ざかっていく。
森の奥から、喚声が聞こえる。狙いを定めたのが自分達ではないと分かったからだ。
だが、リュカの心に安堵は無い。確か、あの方角は・・・・・・
ビアンカも同じ事を察する。二人は顔を見合わせた。
「あそこは・・・・・・」
「サラボナ、だ・・・・・・」
「そんなことが・・・・・・」
ルドマンの口から全ての真相を聞いたフローラが、まず初めに呟いた言葉がそれであった。あまりにも重すぎる真実に、それ以上の言葉が出てこなかったのである。
彼女の目の前には、普段の豪快な態度など影も形もない父の姿。まるで天敵を前にして怯える小動物のように、全身を震わせていた。
極寒の地に放り込まれたかのように顔色を悪くさせているルドマンの手には、色あせた一冊の本が収められてある。それこそが、彼の先祖であるルドルフが残した日記帳であった。
フローラが応接間の本棚で見せてもらうと、内容は以下の通り。
150年前、先祖であるルドルフは己が独自の魔法を使って、一体の巨大な魔物を魔法の壺に封印したという。そして、その魔法の壺をサラボナから北の離れ小島に存在する祠の奥深くで管理した。
しかし、その魔法の壺は長く見ても150年程度しか効果が無い。そのため、まさに今の時期にその封印の力が切れる段階に差し掛かっているのだ。
その事実を贔屓にしている行商人から聞いたとき、ルドマンは天地が逆転したかのような錯覚を味わった。まさか、ついに復活してしまうというのか・・・・・・
ルドマンとしては、一刻も早く壺の封印を信用できるものにもう一度確認して欲しかった。何かの見間違いだろうと、そんな自分自身ですら信じられない可能性にすら縋りたくて。
だが、とてつもない気配をフローラが感じた事で、それも叶わなくなった。フローラの感受性は、決して無視できるものではない。フローラもデボラも、どこか普通の娘とは違うように感じていたことがあったからだ。
最早、ブオーンが復活することは避けられない。今はもう、無関係の町民達をここから避難させなければ。
ルドマンは、己の中に流れる血をこれほど疎ましく思ったことはなかった。ルドマンはルドルフの血筋。ならば、ブオーンが真っ先に狙うのは自分の命だ。奴は長い年月の間、封印した男の血族を持つ者を根絶やしにするために動くはず。
ルドマンとて、戦いの心得はある。だが、先祖のようにブオーンをどうにか出来るほどの力を持っているのかと訊かれれば、応えは否だ。そうでなければこのように怯えてはいない。
切に願った。一人でもいい。誰か、あのブオーンを討つために立ち上がってくれる者はいないだろうかと。
そんなルドマンの心に答えるかのように、応接間の扉が開いた。全ての人間が、一斉にそちらを向く。
そこには、魔物を連れた一人の女性が立っていたのだ。
世界を滅ぼせる可能性を持つ怪物が、サラボナの町へと歩を進める。
この、夜の冷たい空気。命溢れる大地の気配。何もかもが、全て懐かしい。
どこへ歩を進めようとも、あの魔物しかいない荒廃した世界とは大違いだ。その実感こそが、この世界が自分の知る世界とは違うという事を思い知らされる。
懐かしい、だと? 己が思ってしまった感想に、ブオーンは失笑してしまいそうになった。
馬鹿馬鹿しい。その大地を踏み荒らし、焼き尽くしたのは自分自身にも一因があるだろうに。
始めのうちは、己を封印した憎き人間に引導を渡すことにこそ目的としていた。だが、どれだけ大地を蹂躙しようとも、その宿敵は姿を見せることはなかったのだ。
それどころか人間という種族も目に見えて減っており、やがては魔物が蔓延る世界へと変わっていた。
それでも、ブオーンは歩みを止めない。あの憎きルドルフがこの世のどこにもいないなど、認められるはずがなかった。
そんな年月に虚しさを感じ始めた頃、ブオーンにとっての転機が訪れる。あの、若き人間の男女だ。
一度こそ背を向けて逃げられたものの、その後は改めて正面切って戦うこととなった、あの二人。怪物にとっても、久々に血湧き肉躍ると言える戦いであった。それは、このブオーンをして命を脅かされるほどに。
そして、最後の――――あの瞬間。崩れ去った塔の前で対峙した時。
塔から光が生まれ、それが一瞬で世界の全てを包み込んだ。気がつけば、目の前の二人は光の中に消えてゆく。そして、己自身も。
気がつけば、見覚えのある狭い暗闇の中。その場所がどこなのか、ブオーンはこれ以上無いほどの憤りと共に察する。
忘れるはずもない。我が身を100年以上も封印した、忌々しい壺の中。
ただ、あの時と違うことがあった。自分は確かに肉体をもって、この場に立っている。翻って、目の前にあるものは自分自身が封印されている当初の姿。
そう。封印されていた時のまま――――ブオーンという概念ごと閉じ込められている、自分自身の力の結晶。そんな禍々しい光の姿が、壺の中の空間に浮かんでいた。
あのルドルフの強固な封印は、今もなお継続しているのだろう。だが、ブオーンは今もこうしてここにいる。傷ついたブオーンの目の前で別のブオーンが封印されているという、なんとも奇妙な空間が出来上がっていた。
その時、肉体を持つブオーンはふと思い至ったのだ。これがあれば、この壺から脱出できるのではないか、と。
なぜ、己自身の封印された姿が目の前に存在しているのか。それは、この壺から脱出した後でゆっくりと考えるとしよう。そう薄ら笑いを浮かべながら、ブオーンは己自身の力に腕を伸ばしたのだ。
そして、そこから先は余人には到底想像すら出来ないほどの攻防が繰り広げられる。己のために力を奪おうとするブオーンと、頑強に抵抗するブオーンの結晶。
月日をかけ、僅かに手に入れた力を己の肉体に染みこませつつ、再び奪いはじめる。我ながらなんとも地道な作業だという気持ちもあったものの、その手間に見合うだけの結果を手に入れることは出来た。
この時代における自分自身の概念を丸ごと奪いつくした事で、今をもってこの世界に根を下ろすことに成功したのだ。図らずも、タイムパラドックスを超越することに成功した怪物こそが、今のブオーンなのである。
あと十年もすれば、黙っていても封印を破ることが出来る程度までに封印が希薄化していた魔法の壺。そんなものも、今のブオーンにとっては取るに足らない封印。もともと二体分のブオーンの魔力を持ち合わせてしまっている今では、内側から破るなど造作も無いことであった。
地に足を付け、この世界へと解放されたブオーン。目の前には、どこまでも果ての無い大地と、己の魔力から生まれた波動によって暗く歪む大空。
そして、ブオーンからすれば取るに足らない距離に位置する区域。町と呼ばれる、人工的な建造物の集合体。その隣には、見張りのつもりで造られたのか、そこそこ高い塔が建設されてある人間の集落。
その町に、僅かな気配が現れた。住み家である建物の集合体から、人間がまるで巣を突かれた小動物のように逃げ回っている中、その気配だけは確かな意思を持って町の隣の塔へ向かっていく。
そして、その気配は一つではない。恐らくは仲間もついてきているのだろう。
良いぞ、受けて立とうではないか。そんな気持ちと共に、ブオーンはゆっくりと歩を進める。
やがて、塔の頂上に人間の姿が見えた。そして、その姿は図らずもブオーンが待ち望んでいた人間そのものである。
僅かに記憶の糸をたぐり寄せると、すぐにその名に思い至った。確か、あの片割れの男が口にしていた。
そうだ。あの人間の名は――――
「アリス・・・・・・か」
ハッキリと、ブオーンはその名を口にした。己にとって、新たなる宿敵となった女の名を。
それに対し、人間の女――――アリスは驚くこともなく返答する。こんな時だというのによく澄んだ声は、ブオーンの耳にも当たり前のように届いた。
「私の名前を知っているということは・・・・・・貴方は、私の知っているブオーンというわけですね?」
かつて、リュカと共に与えた傷。それが残っている時点で明らかだ。それでも、アリスはあえて確証を込めて言い放った。
つづく
実はラーの鏡の力に巻き込まれていた未来ブオーン。
元々彼は特殊な魔法の壺の中に封印されていたので、その中に限って同じ存在がこの世に二体いたとしてもタイムパラドックスにはカウントされませんでした。もしそうでなければ、未来のブオーンの方は消滅していました。
今現在の、アリスに対してのキャラの感情をこの場を借りて補足。
リュカ :自分の知らないことを語ってくる奇妙な女性だけど、ブオーンへの対応のこともあって何となく悪い人ではなさそうだと思っている。
ビアンカ:知りもしないことを語ってくる上にリュカに言い寄ってくるせいもあって不信感を持っており、妻としては好きになれない女性。ただ、それはそれとして村人のためにブオーンと率先して戦ってくれたことは素直に感謝している。
ブオーン:ルドルフも腹立たしいが、まずはアリスとリュカに一本取られた雪辱を晴らす方が先。リュカの気配が以前よりも小さくなっているので村にいる事に気付かず、まずは目の前に出てきたアリスを標的に。