「何ボーっとしているんですか! 早く治癒を開始して下さい!!!」
緑色の手術着姿をした二十代くらいの女が、あ然とした様子で前の方を眺めている男の腕を引っ張り急かす。
男が目線を注いでいる先には、手術台の上に乗せられた妙齢の女性が横たわっており、ぜえぜえと苦しそうに胸を上下させながら浅い呼吸を繰り返している。綺麗だったであろう金色の髪も、血でドス黒い色に染まってしまっていて見る影もない。身に纏っている漆黒の衣も、大きな獣に引き裂かれたかのようにボロボロになっている。身体の中でも特に右腕の損傷が酷く、腕全体が赤く腫れあがっていて、指先は爛れ原型を留めていない。
腕を引っ張られた男は、マスクをしていなければさぞかし間抜けに見えたであろうほどに、大きく口を開けながら動揺したように二人の女性の間で目線を行き来させる。そんな男の様子に痺れを切らした女が無言で男の背を押し、男はよろける様にして手術台の前に躍り出た。
後ろからの強烈な視線、そして目の前には自身の助けを必要としている苦し気な女性。逃げ場はない。そう確信した男は乱れる息を何とか整えようと、大きく深呼吸してからゆっくりと唾を飲み込む。
そして覚悟を決めたように大きく頷いてから、手術台に横たわる女性に向かって両手を広げた。
すると女性の身体が白い液体に包まれ、そして――
――――
「いやー、悪いね。
「いえ、
申し訳なさそうに頭を下げる白髪交じりの男――
急に呼び出された割には
あえていうなら先ほどから何かが発酵したようなムッとする臭いがしているが、残念ながらそれはいつも通りだ。それにこの牧場の臭いはまだマシな方で、もっと酷い牧場はいくらでもある。
なら牛ではなく田島に問題があるのかと思って観察してみるが、灰色のツナギに長靴、鍔のついた無地の青い帽子、首に巻いたやや黄ばんだタオルといつも通りの格好で、顔色も良好だ。
少し腹が出ているのが気になるが、そこまで聞けるような間柄ではないし、その辺りの問題は三十路を迎えた自身にとってもデリケートな話だ。
「あー、そう言えば言うのを忘れとったね。実は最近、乳量が減った牛がいるんだわ。それをちょっと見てもらいたくてね。あと、ついでにいつものアレお願い出来るかな?」
「あぁ、はい。わかりました」
「こいつなんだが最近元気が無くてな。こんな調子なんだ」
体毛は茶色でやや小柄。いわゆるジャージャー牛と呼ばれる品種の牛だ。
専門家ではない御酒仁に分かることはそれくらいで、パッと見では特に何処が悪そうなどといったことはわからない。
ただ、人が近づいてきたというのにまるで反応を示さない様子からして、確かに調子が悪そうに思える。
「わかりました。とりあえず治療してみますね」
能力の種類は人によって様々で、手から炎を放ったり、氷を生み出したりと分かりやすい能力から、物の品質が何となくわかる、目を凝らせば薄っすらと赤外線が見えるといった使い道のよくわからない能力まで多岐にわたり存在する。
治癒能力自体は割とポピュラーなものだが、能力者は能力の系統によって攻撃系、防御系などと分類分けされており、割合から見ると攻撃系が多く、治癒能力者が属する回復系能力者の数は少ない。
そんな数少ない中で能力がトップクラスなのが自慢でもあり、同時にコンプレックスでもある。
ぐったりとしている牛の前でしゃがみ込んだ御酒仁は、能力を発揮しようと手のひらを向ける。
数瞬後、牛全体がやや曇りのある透明の液体に包まれ、透明度の悪い水槽の中にいるかのように輪郭がぼやける。そんな状態が数秒間続いた後、表面を覆っていた液体がじわじわと牛の肌に吸い込まれていく。
「おぉ…。いつ見ても凄いな。さすがはグレ…グリ…グラディエイター……」
液体に包まれた牛を目を見開きながら見ている田島は、何度も頷きつつ呟く。
御酒仁はそんな姿を一瞥した後、バレないように軽くため息をつく。グラティエイターじゃなくてグレイターだと何度も訂正したはずなのだが。そう思うと同時に自分も、普段使うことも耳にすることもないから仕方のない事かと自分を納得させる。
グレイターとは能力者の中でも特別力の強い一握りの存在、特級能力者のみに使われる尊称のようなものだ。元々は海外発祥の呼び方で、既存の能力者の枠に収まらない能力者に対して尊敬の意味で使われていた。
しかし今では特級の能力者もそれなりに増え有難みが減った上に、特級の方がわかりやすいということで、グレイターという呼び方はすっかり廃れてしまった。今では昔を知っている人間か一部の専門家が得意気に使う程度の呼称だ。
「はい。終わりましたよ。もうこれで大丈夫だと思います。って…おいこら、舐めるんじゃない!」
すっかり元気を取り戻した牛は体を起こすと、興奮したように鳴きながら御酒仁の腕をペロペロと舐め始める。一瞬で牛のドロドロとした涎塗れになった服を見て顔を
動物を治療するといつもこれだ。他の能力者の治療では聞いたことがないが、自分が治療した時に限って治療を終えた動物が妙にじゃれついてくる。
悪い気分ではないが、人と違って遠慮がないので仕事の後はいつも服が酷い有様になる。だからこういう仕事の時はいつも安物の長袖のシャツにジーンズというラフな格好だ。
そうしている間にますます興奮した牛が、水蒸気が見えるほどに息を荒立たせながら御酒仁の方へとにじり寄り、御酒仁の足をその数百キロはある巨体で踏みつけた。
だが御酒仁は痛がる様子もなく、自身の足を踏みつけた牛の足の副蹄を掴みながらそっとずらすと、何でもないように立ち上がる。
「御酒仁さん本当に大丈夫なのかい? いつも牛に足を踏まれとるが……」
「あー、これくらいなら本当に大丈夫ですよ。特に痛みもありませんし」
身構える余裕もなく踏まれていたら、少しくらいは痛みを感じたかもしれないが、事前に来ると判っていれば、仮にも一応特級なのでこれくらいの事はなんてことは無い。
ただ身体の方は問題なくとも、身に着けている衣服の方は涎や牛が食べていたであろう餌のせいで、雨の山道で転げ落ちたような酷い有様になっている。
「さて干し草の方も早くやっちゃいましょうか。規定で時間を掛けすぎると追加料金掛かっちゃいますし」
これは次から着替えを持ってくるべきかもな。
「あっ、ああ。だけどいつも思うんだが、本当に正規料金だけでいいのかい? 他の能力者はよくこれを要求するって聞くが…」
田島は言いながら、自分の服の袖に手を出し入れする。
それを見た御酒仁は、いつの時代の表現だと思いつつ愛想笑いしながら頭を掻く。
「あー…、これでも学生の頃はヒーロー目指してた身なので、そういうのは主義に反するというか…」
「だが動物相手は人に比べると随分依頼料が安いんだろ? 同業者から聞いた話だと動物一本ではやっていけない能力者が大勢いるから、お互いの為に暗黙の了解になっていると聞いたんだが……」
それは正しくもあり間違いでもある。
確かに動物と人間とでは競走馬や富豪のペットなどの特殊な例を除けば、平均的な依頼料が五~六倍違うと言われている。
畜産動物相手に治療を行うのは通常、能力者の中でも最下級の五級から一つ上の階級である四級の回復系能力者だ。四級能力者までの依頼料はたかが知れているが、御酒仁は特級能力者なので動物相手でも少しだけ基礎額が高い。
それに加え特級能力者の中でも回復系能力者はそこそこには希少なため、政府からの補助が色々と出る。だから特級の回復系能力者なのに動物一本、しかもほぼ畜産動物相手の依頼しか受けることがない御酒仁でも問題なく生活出来ていた。
御酒仁は、至って普通な何処にでもいる程度の動物好きであり、動物一本に絞るほどの愛着はない。しかしなぜか人間相手には能力の効き目が悪く、階級で表すと五級程度の力しか発揮しない。五級では頑張っても骨折が治せるかどうか程度であり、怪我であればほぼ全て治せるようになる四級や三級以上の能力者とは絶望的な開きがある。
それ故に欠陥品である御酒仁の元に特級相当の依頼はまず来ることは無く、せこせこと動物相手に仕事をするしかなかった。
「大丈夫ですよ。特級能力者なので一人で何人分も仕事出来ますから」
詳しい理由まで説明する必要はないだろうと考え、適当にはぐらかす。
「そうかい、ならいいんだが…。
そんな風なやり取りを二人が牛舎で交わしていたところに突然、この場にはやや不釣り合いなスーツ姿の男性が息を切らしながら、御酒仁にぶつかる勢いで飛び込んできた。
「はぁはぁはぁ…。あなたが御酒仁さんでよろしいですか?」
スーツの男性は手に持ったタブレット型の情報端末と御酒仁を交互に見ながら尋ねる。タブレットの画面には御酒仁の顔の画像が表示されていた。
髪が耳に多少かかる程度のナチュラルな感じの髪型だが、高校生の時からずっとその髪型なのでいつ撮影された物なのかはさっぱり分からない。顔つきも良いか悪いか高校生の頃からほぼ変化がないことがそれに拍車を掛けている。
「あ、はい。そうですけど……」
一体誰だろう。そして何故自分の画像が映し出されているのかと目を白黒させながら、
「私は能力者機構の北海道支部の者です。御酒仁さん。特級回復系能力者のあなたに、緊急の依頼があります。詳しい事情は道すがら説明致しますので、とにかくついて来てください!!!」
男性は顔を顰めながらまくし立てる。
能力者機構の人間なら俺が使えない特級能力者だと知っているだろうに。自虐しつつ疑いの目で御酒仁が男性の首から掛けられた無駄に高級感の漂う金属製のネームプレートを見てみると、確かに『日本能力者機構 北海道支部 事務局』と表記されているのが見えた。
ということは緊急の依頼というのは本当のことなのだろうか。こういった経験がなくいまいち状況が飲み込み切れない御酒仁は戸惑いどうすればいいかと、意味もなく依頼主の方を見る。
だが
「えっと…今は依頼の最中でして……」
「人命が掛かっているんです! 失礼します!」
「えっ、ちょっ…」
痺れを切らした男性が御酒仁の腕をグイっと引っ張り、無理やり外へと連れ出す。そんな様子を酪農家の
「諸事情により詳しいご説明出来ませんが、急を要する怪我人が近くの病院に搬送されたんです。
「あの…… 支部の方ならもしかしたらご存じないかもしれませんが、私は人の治療はあまり得意ではなくてですね…その期待には沿えないと思うのですが」
「その点については、こちらも把握しております。ですが病院に常駐している一級の回復系能力者では回復出来なかったんです」
「えっ、一級能力者がですか?」
「はい」
肯定の返事を聞いて御酒仁は驚き、目を丸くする。
人の治療を担当するのは主に三級以降からになるが、人一人を治療するだけなら三級どころか四級と特級でも大した差はないと言われているからだ。
ただ四級の場合は重症以上の怪我場合、最後まで力が持たない可能性がある。だから命の危険性がある病気や怪我であれば三級以上が望ましいと、何かの本で見た記憶がある御酒仁であったが、一級でも駄目だという事例は今まで聞いたことがない。
「それなら、私には尚のこと無理だと思うんですけど……」
「分かっています。他の特級回復系能力者にも召集をかけていますが、御酒仁さんが一番近い場所におられましたので。ですからそれまでの繋ぎで構いません」
「はぁ…わかりました」
要するに、能力者機構は十分努力してますよと証明するためのお飾りということか。
とにかく俺にまで縋るということは、怪我をしたのは余程重要な人物なのだろう。
能力者機構のお偉いさんかどっかの金持ちだろうか。
軽く転んだだけで骨が折れたと大騒ぎして、治癒能力者を呼び出すことがあるなんて噂話も耳にしたことがある。
適当に当たりを付けながら支部の男性と共に牧場の入り口まで来ると、そこには額から玉のような汗を湧かせている全身黒いローブに身を包んだ太め男が突っ立っていた。その男は自身の鼻を摘まみながら、真剣な表情をしてブツブツと何かを呟いている。
あれは一体何なのだろうかと、引き気味の表情で御酒仁が支部の男性の方を見ると、視線に気づいた支部の男性が「あれは病院までのテレポートを担当する能力者です」と説明してくれた。
あれがテレポート能力者か。
特級能力者よりも希少だと言われるテレポート能力者まで出張るとは、いよいよお偉いさん説が濃厚だな。ただテレポート能力者まで出張るということは誰かの我儘ではなく、しっかりと緊急性が認められた事案のようだ。そんな場所に行ったとして、果たして何の役に立てるのだろうかと不安に感じる。
支部の男性に押し出されるようにして太めの男に近づくと、接近に気づいた男が不意に御酒仁の手を力強く握り締める。
男の手はなぜか酷くぬめっとした感触で、まるで籠いっぱいに入ったナメクジを鷲づかみにしたような気持ち悪さを感じる。太めの男性の手の感触について、御酒仁が感想を抱いたのと同時に二人の姿が掻き消え、その場に一陣の風が吹き込んだ。
それを見届けた支部の男性は、タブレット片手に一仕事やり終えたというかのように大きく息を吐く。そして不意に目が合った木に停まっていたフクロウとアイコンタクトを交わしてから、先が見えない程に密集した木々に囲まれた砂利道に目線をやり、盛大にため息をついた。
「特級回復能力者の
テレポート後、何も見えない暗室に移動したと思ったら、押し扉をけたたましい音共に開けて緑色の手術着姿の女性が飛び込んで来た。すぐさま御酒仁に駆け寄ると身体全体にスプレーで何かを吹きかけ、手に液体をぶっ掛けた後、同じ色の手術着を手渡す。
「え、え?」
「聞こえませんでしたか!? 早くこれに着替えて下さい!!」
すぐに着替えろと言われても、こんな場所では着替えたくない。
隣では先ほどのテレポート能力者が片膝を付いて、ぜえぜえと呻くような声をあげている。きっと能力を発動して消耗しているからだろうが汗が酷く、むせ返るような表現しがたい臭いが鼻を刺激し続けている。それに加え女性の目の前だ。色んな意味でこんな場所で着替えられるはずがない。
そんな風に御酒仁が戸惑っていると、痺れを切らしたのか女性が服を脱がしにかかってきた。
「ちょ、わ、わかりました。すぐに着替えますから!」
一体どんな羞恥プレイだと、御酒仁は頬を赤くしながらこの状況から解放されるのならと、急いで手術着に着替える。
着替え終わると、女性は引きづるような勢いで御酒仁を腕を引っ張り、すぐ隣の部屋に引きずり込んだ。
部屋中には医師と思わしき人物が複数いて、その内の一人が額から大粒の汗を流しながら手術台に向かって両手を向けている。人垣に囲まれてよく見えないが、時折緑色の光が間から漏れ出していることから、恐らく回復能力を行使しているのだろう。
他の人達は手持ち無沙汰というより、皆ソワソワとした様子で何かをしたいがどうにもできないもどかしさを感じる。その中の一部の人が、部屋に入ってきたばかりの御酒仁を何かを期待するような目でジッと見ている。
「特級回復能力者の御酒仁さんが到着しました!」
先ほど部屋に引きづり込んだ女性が皆にそう告げると、部屋にいる人たちが「特級か」、「これで助かる」などと口々に言い始めた。それとほぼ同時に回復能力を行使していた人が、御酒仁を見て安堵の表情を見せた後、そのまま糸が切れた様に倒れ込んだ。
「患者は二十代の女性ヒーローです。怪獣との戦闘で負傷し、腹部及び右腕に大きな損傷があります。しかしながら私達の手には負えない状況でして……」
幾人かが倒れ込んだ人を支え介抱する中、その内の一人が御酒仁の方へと駆け寄ってきて現状を説明する。
「手に負えない状況って…皆さん医者か回復能力者なんですよね?」
わかってはいるが、聞かずにはいられなかった。別に責めているわけではない。人を治すプロで駄目なら、ほぼ動物相手の治癒経験しかない御酒仁が治せるとは到底思えないためだ。
「恥ずかしながらその通りです。ですが彼女は身体が強靭すぎて血管にすら針も通りませんし、メスで皮膚を切ることも出来ないんです。それに何故か今のところ一級の回復能力者ではまったく回復効果が無く…… とっ、とにかく急いでください!」
「……わかりました。ただあまり期待はしないで下さい」
一級能力者で効果がないのなら、自分が治療したところで無意味だろう。しかし人命が掛かっている以上やるだけのことはやってみるしかない。そんな気持ちで御酒仁は手術台の方へ近づいていき、あと一歩のところで立ち止まる。
なんだこの鼻につく嫌な臭いは。
何かが焦げ付いたような刺激臭が
手術台に近づけば近づくほど、嗅いだ経験のない嫌な臭い強まっていき本能が近づくのを拒否する。
しかし立ち止まるわけにも行かない。気の進まない身体を理性で押し進め、さらに一歩踏み出す。
手術台の前までいくと先ほどまでは人垣に隠されていて、あまり良く見えなかった女性患者の現状がよりはっきりと確認出来た。
女性はスラリとした長身で黒い服を身に纏っていて、一見綺麗な顔に軽く擦り傷が出来ているだけで、どこも怪我をしていないように見えた。が、少し目線を動かして別の場所を確認した瞬間それは間違いだったことに気づく。
服の色のせいで気づくのが遅れたが、よくよく見れば着ている服は怪獣の攻撃でも受けたのか、引き裂かれボロ布のようになってしまっている。そんな服の隙間を黒ずんだ血が埋めているような状態だった。
手術台から垂れ下がった本来なら綺麗だっただろう金色の髪は、濁った黒い血がベットリと付着しており見る影もない。
特に酷いのは右腕で腕全体が赤く腫れあがっていて、一部は炭化すらしている。指先は爛れ原型を留めていない。そんな酷い有様の腕を見て、喉の奥か何かが込み上げてくる感覚を覚えると同時に、嫌な臭いの原因を悟る。
これは俺の力じゃどう考えても無理だ。
人を治した経験は皆無というわけではないが、せいぜい擦り傷や打撲程度だ。ここまでの傷を治した経験はないし、治せるとも思えない。
「何ボーっとしているんですか! 早く治癒を開始して下さい!!!」
先ほど
その言葉にハッとした御酒仁は、人命が掛かっているんだからとにかくやるだけのことはやってみようと覚悟を決め一度だけ深呼吸すると、苦しそうにヒューヒューと呼吸を繰り返している女性に向かって両手を広げる。
俺は特級なんだ、本気を出せば絶対彼女を治せるはず。そう自分に言い聞かせながら強い想いを込めて御酒仁は能力を行使する。
すると普段は泥水のようなお世辞にも綺麗とは言えない液体が治癒対象を包み込むはずが、なぜか彼女の身体が牛乳のような白くサラっとした液体に包まれる。
いつもと違う光景にまさか自分に秘められた能力がようやく覚醒したのかと、御酒仁は喜び思い切り拳を突きあげたい気分に駆られるが、治療中であることを思い出し自制する。
白い液体は彼女の傷が深い部分に吸い込まれるようにして集まり、膨らませた風船のように大きく球状に変化し、次々と傷口へと吸い込まれていく。そのまま一分、二分と時間が過ぎていくが、依然として彼女は苦しそうな表情のままだ。
周囲の人間も最初は御酒仁が能力を行使している姿を見て、驚きと期待の表情をしていたが時間が経つ毎に、それは疑念と失望の色に変化していくのが感じ取れた。
「ごふっ…がほっ…」
治る気配がないどころかなぜか彼女は吐血し出す始末で、黒ずんだ血を口からびちゃびちゃと吐き出し始める。
回復させてるはずなのにどうして血が、それになんだこの枯渇感は。
能力を使い始めてからどれ程の時間が経ったかわからないが、次第に足が震え出し、身体が熱を帯び始め、それを冷ますために夥しい量の汗が表皮を伝って下へ零れ落ちていく。
もう限界だ。御酒仁がそう思った時、手術室の扉が勢いよく開かれ、白模様の迷彩服を着た人物がゆっくりとした足取りで入ってきた。
入ってきた人物は百七十センチくらいある御酒仁よりも背が高く、ガッシリとした体格をしている。顔には全面を覆うタイプの黒いガスマスクをつけており、レンズの部分も曇っていてよく見えない。
その上フードを被っているので、誰かどころか男女の区別すらつかない。だが胸部に確かな起伏があるので、どうやら女性である可能性が高そうだ。
一体誰だろうかと御酒仁が戸惑いながら女性の方を見ていると、女性は御酒仁の横で立ち止まり、徐に御酒仁の肩に手を置いた。
「小僧代われ。あとは私に任せろ」
マスクをしているせいか声は少しくぐもっているが、口調にあった低めの威厳を感じる声だ。
「えっ、でも……」
「お前の出番はもう終わりだ」
曇りガラスになっているガスマスクの向こうからゆらりと見えた赤い光に、御酒仁は寒気のようなものを感じ反射的に女性に場所を譲った。
手術台の前に立った女性は、黒い皮手袋越しに何かを確認するような手つきで負傷した女性ヒーローの身体を触っていく。やがて満足したのか皆の方に向き直って、一度だけ軽く頷いた。
「この程度なら問題ない。すぐにこの部屋から出てくれ。私は治療風景を見られるのがあまり好きではないのでな」
女性が周囲を見渡しながら言う。皆すぐにはその言葉に反応しなかったが、女性が邪魔だ邪魔だというように手をブラブラさせたのを見て、皆弾かれたように動き出す。
「御酒仁さん、お疲れ様でした。さあ後はあの人に任せましょう!」
「あ、あぁ…はい」
茫然としていた御酒仁は、最初にこの部屋に連れて来た手術着の女性に引きずられるようにして手術室を後にする。部屋から出ようとしたところで背後から赤い光が迸ったような気がしたが、最早興味は湧かなかった。