時折、ほぼ霞のような、朧気でモノクロな夢を見ることがある。学校に通い、友と語らい、電車に揺られ、目の痛くなるほどデータを見比べ、最後には視界が暗転する。音のない真冬のような、寂寥感を覚える夢の数々である。思えば遠い昔、私は人間だったのだろう。その時の残滓のようなものが、魂か心か、あるいは脳か細胞のどこかに残されているのだと、私は勝手に納得している。
そんな気取ったところで今の私は人とは似つかぬ猫である。輪廻転生か、それとも畜生道に堕とされたのか。この喉と舌は鳴き声をあげるにとどまり、この爪と肉球ではExcelも打てまい。しかしただの猫と同列に見られるのも癪である。私はその辺の仲間たちなどよりよほど上等だ。むやみやたらに爪とぎや粗相もしないし、ネズミや虫などを取ってくることもしない。事務所の面々が仕事中に鳴き声をあげるのも我慢している。
それに事務所の面々に世話になっているという自覚まである。事務所の皆の要望にはできる範囲でどこまでも応えていると自負している。だからこそ今も私は、彼女のされるがままになっているのである。
「おおっ、すごい!ここ押すと爪が飛び出てくる。」
青い眼差しが私をのぞき込んでいる。彼女は芹沢あさひ。彼女も283プロ所属のアイドルである。芹沢はふんふんと鼻を鳴らしながら私を抱きかかえて、腕や腹やらをまさぐってくる。普通の猫にこれをやってみよ、彼女はすぐさま爪と牙の餌食である。芹沢は事務所のアイドルたちの中で一番落ち着きがないといえる。気になったことはすぐさま試してみる性分だ。好奇心旺盛で行動力の塊。それが芹沢あさひである。今、彼女は猫の構造にご執心なのだ。
昼をすぎ少しばかり涼しくなったのでレッスン場まで散歩に来たのが運の尽き。私はダンスの練習中だった芹沢の視界に入ったことであえなく捕獲された。彼女の手が私の腕、腹、足をこねくり回す。やたらめったらに触るので、練習用のジャージに私の毛がついてしまっている。これでは後で黛やプロデューサーなどから叱りを受けるだろう。
「よっと」
そんなことを考えていると芹沢は私の手をとってすっと立ち上がった。私の体はぐにょんとついていき、プルプルと後ろ足でバランスを取る形になる。
「立った立った!動画で見た通り」
いや、立ったのではなく。無理やり立たされているのですが。私は少しばかり抗議するように青色の瞳をのぞき込んだが、輝く笑顔で一蹴された。無邪気とはかくも恐ろしいものである。突然、芹沢は笑顔のまま私の手をパッと放す。解放された私の体は使い慣れた四足歩行へと戻される。やっとご満足頂けたのだろう。私は、尻を上げて背中を大きく伸ばして、あくびを一つかみ殺す。やれやれである。私はのそのそとレッスン場から出て行こうとして、
「まって」
脇の下に腕をねじ込まれて再び捕獲された。何なのですか、本当に。さすがの私も鳴き声を上げた。
芹沢はそんな私の様子には無頓着のようで、再び私の手をとって立たせようとしてくる。私はなるほどと理解して、後ろ足と尾に力をこめて立ち上がってみせた。二足歩行は類人猿だけの特権ではない。二足で立つ私の姿に芹沢はたいそう喜んだ様子で、スマホを向けてカシャカシャと撮影している。
ふぅと私は息を吐く。実のところ芹沢と一対一になるのは初めてのことである。いつもは誰かが芹沢と共におり、思えば私への過剰ともいえる触れ合いを止めてくれるブレーキ役になってくれていたのだろう。だからこそ早く誰か来てください。私は天を仰いだ。
仰いだところに再び青い眼が私の眼前に迫った。爛々と好奇の火がともった芹沢の手の平が私の顔をむんずとつかむ。その指は私のひげへと伸ばされた。私の体はビクンと震えて、思わず小さく唸ってしまう。猫のひげは非常に、とても、本当に、び、敏感なのだ。私は自由になった両腕でなんとか芹沢の手をぽんぽんと叩く。しかし、集中した彼女を引き戻すには到底足りない。そうこうしている内に私の中にたまっていく不快感も相当なものになっていた。このままではマズイ。どうすれば………
「こら、何やってんのよ」
その声は私にとっては天使のラッパのようであった。レッスン場に入って来た黛冬優子を見て、私は一鳴きする。
「あっ、冬優子ちゃん」
「あさひ、練習は――、まず可哀そうだから手ぇ放しなさい」
黛は芹沢の手をとる。その隙をついて私は脱兎のように移動し、備え付けの椅子の下へ滑りこんだ。
「あっ、椅子の下」
「まったく、あんまり猫の顔をベタベタすんのやめてあげなさいよ」
「でも、嫌がってなかったすよ?」
「アイツが我慢してただけよ」
「えー、そうっすか?」
「そうよ、じゃなきゃ逃げないでしょ」
芹沢は心底わかっていない表情で椅子の下の私をのぞき込んだ。実に純粋な眼差しである。私は手や舌を使って髭や耳、体の毛を整えていく。毛並みはくしゃくしゃである。そんな私の体に再び手を伸ばそうとする芹沢を、黛は静止する。
「ほーら、遊んでないで早くダンスの合わせを………ちょっと待ちなさい。あんたのジャージ、毛だらけなんだけど」
「え?あっ!ほんとっす!」
「ほんとっす、じゃないわよ。そのジャージは借り物でしょうが。というかちゃんと練習してたんでしょうね?!」
「練習?あっ、忘れてたっす」
その一言に黛の眉毛が一度吊り上がったが、徐々に怒気が抜け落ちていくのがわかった。黛は額に右手をおいて、あらゆる熱を逃がすようにため息をついた。私はそんな黛を見て、ねぎらうように一鳴きした。
黛は芹沢に小言を一通り浴びせた後、スマホを取り出して動画を見せた。どうやら新しいライブ用のダンス映像らしい。芹沢はスマホで見せるダンス映像をじぃと見つめ、何度か頷いたかと思えば、練習もなしに踊りきってみせたのである。本来アイドルのダンスレッスンというのは、実に地道なものである。反復の繰り返しの末、少しずつ習得していくものだ。しかし芹沢に関していえば少々勝手が違うようである。
「――っと、こうすっか?冬優子ちゃん」
「………そうよ」
黛は憮然とした様子で返した。面白くないようだ。
私はそういえばと記憶を掘り返す。以前、プロデューサーが話していたのを聞いたことがあった。芹沢はいわゆる天才というものらしい。黛はそんな彼女と共に音楽に合わせてステップを踏んでいく。練習に気合が入り始めたのか、私のことなど忘れたように二人は練習に没頭していった。私はあくびを一つして、疲れからかしばし瞼を閉じてしまった。