#1:最弱のウマ娘
勝つことが全て。
負ければ意味はない。
最強のウマ娘になるために、私はトレセン学園に来た。
「あの娘、ディープインパクトじゃない? ほら、あの首席で入学した……」
そんな周囲のあけすけな噂話にもすっかり慣れた4月の終わり。
授業が終わればすぐにグラウンドへ向かって自主練に励む毎日。
連れ合いはいない。
それは結局、入学してからも変わらなかった。
1人で着替えを済ませて屋外へ出る。
分厚い雲が太陽をさえぎって、少し肌寒かった。
ターフの上で軽くストレッチをしていると、隣の練習用コースで大きな歓声があがった。
誰かを応援するような、そんな声。
なんとなく気になって、足を運んでみることにした。
広大なトレセン学園の中に点在する種類の様々なコースは、それぞれが小高い丘で区切られている。
小さなアップダウンを超えると、コース脇のベンチに10人くらいの人だかりが出来ていた。
ただのトレーニングにしては多すぎる見学の数。
彼女たちの声援はみな一様に、駆けている1人のウマ娘へ注がれている。
「ウララちゃん!がんばれぇ〜!」
「あとちょっとよ!ウララさん、頑張りなさい!」
人だかりの脇から顔を出すと、私の目にも走る彼女の姿が見えた。
小さな体をいっぱいに動かして、揺れる桜色の髪の毛。
ハルウララ。
その名前はもちろん、新入生の私とて知っていた。
曰く、最弱のウマ娘。
曰く、世界一走るのが好きなウマ娘。
普通に生きていれば、その名前くらいは嫌でも耳に入ってくる。
体操服姿のハルウララがコースを一周しながら、ベンチの近くを通り過ぎていく。
相当走り込んで疲弊しているのか、無様に崩れたフォームを目いっぱいに動かして、しかし満面の笑顔で観客に手を振っている。
その一番後ろで、私は彼女を睨みつけた。
トゥインクル・シリーズの総決算にして最大のレース、有馬記念。
私を含めた全てのウマ娘の憧れの舞台。
彼女はそんなレースに、去年、人気だけで出場したウマ娘だ。
結果は案の定最下位。
大差が着いたしんがりを一人で走る彼女の背には、今と同じく大きな歓声が送られていた。
最下位で負けたにも関わらず、ブンブンと観客席とカメラに手を振る彼女の笑顔。
虫唾が走るような光景だった。
勝つことが全てのこの世界で、負けた彼女にそんな権利はない。
ハルウララは、有馬を汚した。
だから、私はハルウララのことが大嫌いだ。
◆
トレセン学園の新入生には毎日、実践的なレースの講習が行われる。
本格化を迎える前の生徒たちは、定期的に練習レースを走ってだんだんと体を作っていく。
そこで地力を高めながら、年4回の選抜レースでスカウトを勝ち取る……らしい。
何かしらのスカウトを受諾しない限り、このレースには参加義務がある。
そんなわけで、私も他の生徒に混じってトラックを回る羽目になっていた。
1000メートルの短距離を、私を含めた15人で競っている。
最後の直線をむかえて、目の前に同級生のウマ娘が2人。
予想通り、大した実力ではない。
レースを走る時は、それ以外の時間に増して孤独との戦いになる。
勝者はいつも1人。
自分以外はみんな敵だ。
私に抜かせまいと、敵は必死に抵抗してくる。
ビチビチと跳ね回る魚を冷静に締めるように、相手の息の根をひと蹴りで止める。
「……フッ!」
わざと大きく踏み込んだ内側へのステップで簡単に翻弄して、一気に大外から
残り300メートルでみんなを抜き去って先頭に立つ、いつもの作業。
彼女たちの努力を、プライドを、たったのひと蹴りで踏み潰す。
そうやって、敵の心を一つグチャグチャにして殺す度に、私の存在が証明できる気がした。
レースは残酷な世界。
勝者は敗者の
1人、また1人と潰して、今日もレースの先頭に立った。
最前の景色を拝むその瞬間に、敗者の怨念がこもった表情が目の端に流れていく。
決して最後まで油断しない。
全員をぶっちぎって高揚する心を抑えつけて、しっかりと蓋をする。
勝つために余計な感情は必要ないのだから。
必要なのは勝利、それだけ。
そうやって今日も、ゴール板を一番先に通過する。
勝った余韻に浸ることもなく、さっさと教官の下へ歩いていく。
「おつかれさま! 相変わらず、ものすごい脚ね」
「……どうも」
事務的なやりとり。無味乾燥なお世辞。
5回連続でぶっちぎりの1着だった私は、次回からのレース講習の免除を言い渡された。
何事にも例外措置はある。
正直、ありがたかった。
私は、最強のウマ娘になるためにここへ来た。
いつまでも同級生とぬるいレースばかりをしている暇はない。
……別の意味でもホッとしたけれど、今は衆目の前だ。
気を抜ける場所ではない。
教官の話が終わって、振り返る。
自然と周囲の生徒たちが両脇にどいて、前に一本の道ができた。
怯え、憎しみ、嫉妬。
私の肌に彼女たちの視線の矢が刺さる。
結局ここでも同じだ。
そう思った。
「トレーナーやチームからスカウトを勝ち取るのは大変だけど、がんばってね」
体育座りする生徒たちの目の前で、そう教官が話している。
スカウトなど、私の下には最初のレース講習のときから届いていた。
レースを始めた当初から今のように期待されていたわけではない。
優秀な姉の、体の小さな妹。
生まれた時から、そんな評価だけが私の存在の全てだった。
誰も私を見てくれない。
大人たちは、透明な私のフィルターを通して、いつもその奥の姉を見ていた。
『我慢してね。お姉ちゃんは今日、とっても大事なレースなの』
5年くらい前、そう言って、私のレースを誰も見に来てくれなかった時、
私が弱いから、誰も私を見ないんだ。
それから、薄く消えそうな自分の輪郭を濃くなぞるために、絶えざる研鑽とたゆまぬ努力で勝利を積み重ねてきた。
そうしてこのトレセン学園に首席で入学した最近になってようやく、妹呼ばわりされることは少なくなった。
勝つことで、存在を証明できたと思った。
そんな努力をしってか知らずか、周囲は私のことで勝手に騒ぎたてる。
将来の三冠ウマ娘だ、100年に1人の天才だ、あるいは調子に乗っている典型的な早熟タイプだ、などと。
そして、私がどこに所属するのかを勝手に噂する。
私もさっさとスカウトを受けて所属先を決めてしまえば楽なのだろうけど、誰かの指導を受けている自分の未来を思い浮かべることができなかった。
「はい、じゃあ今日の講習は終わり! じゃあまた明日……」
もうとっくに息は整っているはずなのに、耳の血管がドクンドクンと音を立てて、胸が重たく苦しい。
レースをした後は、いつもこうなる。
周りの生徒たちが一斉に立ち上がって、どこかへ歩いていく。
それで、ようやく授業が終わったことに気がついた。
友達と喋りながらロッカールームの方へ歩いていく彼女たちの後ろで、私はこっそりと脇道へ逸れる。
こうして、講習が終わった後は1人で遠回りしながら歩くのが日課になっていた。
同期たちとロッカールームで一緒になって、余計な気を使ったり使わせたりするのは嫌だ。
かといって、この裏道が自分の居場所だとは思えない。
昼の強い太陽を遮る校舎の巨大な影は、心の中にもびっしりと差していた。
休み時間で賑わう中庭の花道を避けて、校舎裏のひなびた草むらを歩く。
トレセン学園は広大で、一つの施設に至る道が複数あるのが救いだ。
生徒たちの話し声が遠くに溶けて消えていき、やがて風と鳥の鳴き声と、自分の鼓動の音しか聞こえなくなった。
「はぁ〜」
ため息をつく。
胸のつかえを吐き出そうと思ったのだけれど、一緒に足の力が抜けて、しゃがみこんでしまった。
そのまま、花壇を囲む大きなレンガの上に腰掛ける。
レース中の、競争相手の目が精神を苛む。
負の感情が爆発したような、そんな目線。
「そりゃ、そうだよな……」
わざと相手の全力を引き出して、その上で容赦無く叩き潰すような走りをしているのだから、そうなるのは当たり前だ。
だけど、私だって、自分の存在を証明するために戦っているのだ。
文句を言われる筋合いはない。
恨むのなら、弱い自分を恨めばいい。
そう思っていても、やっぱり悪意の槍を向けられるのは辛かった。
もう同級生とのレース講習に出なくて済むかと思うと、心底ホッとする。
けれど、受けてきた傷跡でもう体は穴だらけだった。
「ぐふぅ……」
潰れたカエルのような声が口から漏れる。
気管支に綿をつめられたように、息苦しい。
頭が、猛烈に痛かった。
ふと、右肩にかすかな重みを感じた。
そっと目を向けると、小さな蝶々が私の肩を止まり木代わりにしていた。
羽をゆっくりと開閉させて、安らいでいるように見える。
それを見ていると、両の羽が揺れる速度に合わせてなんとなく心の海が凪いでいく。
そんな気がした。
「君はいいね。羽があって」
口に出してみるとその陳腐さに笑えてくる。
ただ自分の内だけに向けられた悲しい笑い。
敵を倒し、それでいて
「ほわぁ〜……」
遠くから、何やら間抜けな声がふいに聞こえてきて、ビクッとした。
ハッとして顔を上げると、向こう50メートルほどの場所にある柱の陰から、1人のウマ娘が顔を出しているのが見える。
見覚えのある桜色の髪に特徴的な動き。
ハルウララが、私めがけて近づいてくる。
何か用だろうかと不安になった。
そうやって戸惑っている間にも彼女はどんどん距離を詰めてきて、ついには私のすぐそばに寄ってきた。
「なっ、なっ、なんなんですか」
思わず声を出すと、シーっと彼女が人差し指を口に当てる。
興味深そうなその顔は、私の右肩の蝶々に向けられている。
蝶が触覚や羽を動かす度に彼女の澄んだ瞳が輝いた。
す、ご、い、ね、!
パクパクと彼女の口が動いて、すごいという感情を伝えてくる。
何が目的なのだろう。
頭が完全に混乱していた。
「あっ、行っちゃった!」
ポヤポヤした表情で彼女の目線が飛び立った蝶を追う。
蝶は大きな木の周りを飛び、石垣の向こうへ行ってしまった。
ゼンマイの切れた人形みたいにハルウララはその場で固まっている。
「あの、なにか、ようですか」
久しぶりに自分からウマ娘に話しかけたので、声色がかなりぎこちなくなってしまった。
発声した瞬間に恥ずかしくなってしまう。
すると彼女は勢いよくこっちを向き、朗らかに笑った。
「チョウチョ、きれいだったね!」
それだけ言って、ハルウララはニコニコしている。
蝶々が綺麗だった。それだけ?
いくつもいくつもはてなマークが脳内に浮かんでくる。
今までこんなコミュニケーションを挑まれたことがなかった。
「わたし、ハルウララ! あなたは?」
「えっ、あ、ディープ……インパクト、です」
「でぃーぷいんぱくと!? かっこいー名前だねっ!」
春の日差しのように屈託ない彼女の笑顔に、気圧されてしまう。
良くも悪くも天真爛漫そのもの、という彼女のパブリックイメージ。
それとなんら違うことのないハルウララがそこにいた。
「プイちゃんは新入生なの?」
「ぷ、プイちゃん?」
「そう! ディープインパクトだから、プイちゃん!」
生来の名前以外で名指されることは初めてだった。
彼女はそよぐ春風を感じて気持ちよさそうに目を細めている。
「わた、私は、はい。新入生です。今月入学してきました」
英文和訳か、お前は。
会話って、こんなに難しかったっけか。
ハルウララがそっか、と笑った。
そして、自己嫌悪に陥る私の肩に手を置いて、逆の手でグッと握りこぶしを作る。
「わたしのチーム、いま新入生を募集してるんだっ! よかったらプイちゃんもおいでよ!」
ハルウララが、チーム?
知っている限りでは彼女はチームに所属していなかったはずだ。
今シーズンからどこかに入ったのだろうか。
疑問に思っていると、ハルウララが何かを発見したように地面の方を見る。
「あ! それ、スペちゃんのグッズでしょ!」
「えっ、あ……」
彼女が私のバッグにつけているチャームを指さす。
尊敬するダービーウマ娘、スペシャルウィークの勝負服をモチーフにしたデザインのものだ。
急に指摘されて、カッとほおが熱くなる。
「スペちゃんはねぇ、私のお友達なんだ!」
「し、知ってます……」
ハルウララとスペシャルウィークは仲が良いらしい。
メディアなどでも友達を公言しているし、SNSでも度々一緒にいる所を見かける。
その成績は対照的だけれど。
「ウララさーん! どこに行ったの?」
「あ! キングちゃんだ。 いま行くよーっ!」
校舎の方からハルウララを呼ぶ誰かの声が聞こえてきた。
呼応するようにハルウララが立ち上がって、駆け出す。
私の方にブンブンと手を振りながら、あっという間に小さくなっていった。
「じゃあまたね!プイちゃん!」
「あ、はい……」
春の嵐のように突然現れ、そして去っていった彼女。
私はしばらく振り返した手を下ろすことができなかった。
「なんなの……」
頭痛のことは、いつの間にか忘れてしまっている。