春風と衝撃   作:オルンガだー太郎 

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第2部を始めます。
桐生院さんをちょっと未熟な感じに描写しておりますが、時間軸的に彼女のド新人時代の話なので、ご容赦いただければ嬉しいです。


2.別れ
#1:桐生院 葵の受難(a)


12月25日。師走の風が吹きすさぶ中山レース場。

この日、無敗の三冠ウマ娘がついに敗れた。

 

記念。

それは一年間にわたって行われるトゥインクル・シリーズの総決算。

名だたる一流のウマ娘が揃い、現役最強のウマ娘を決定する戦いだ。

 

ほとんど誰もが予想もしていなかったまさかの結果に、どよめきが収まらない中山の会場。

その観客席に、私はいた。

 

自分たちのチームのエースが、2着だった事実を示す電光掲示板をぼんやりと見つめた。

あのディープインパクトも、負けることがあるんだ。

そう思った。

 

数々の名トレーナーを輩出してきた名門一族、桐生院(きりゅういん)家の子として生まれた私は、幼い頃から数え切れないほどのウマ娘たちを見てきた。

その中には、後にGⅠのレースを勝った一流のウマ娘も多くいる。

けれど、初めて彼女の走りを見たときの衝撃は、間違いなく群を抜いていたように思う。

 

チームの研修生として配属された初日のことだった。

 

(あおい)。あそこで今から走るのが、ディープインパクトだよ。まあ、ウチのレースの看板だな』

 

そう紹介されて私が顔を上げると同時に彼女は走り出した。

もうその瞬間に、彼女の虜になっていたのは間違いない。

 

踏み込んだ足が打ち鳴らす轟音、独特なフォームで爆発的に加速する風のようなスピード。

種を超えて憧れを抱いてしまうようなその走り。

目の前を突風が駆け抜けた瞬間、その衝撃が私の心の奥深くに刻まれた。

あの日から約10ヶ月、私はずっと彼女を見てきた。

 

尋常ではない末脚で圧勝した鮮烈なメイクデビュー戦から7戦して7勝。

私の研修とともに始まった彼女のクラシック級のレースでは、史上2人目となる無敗の三冠を成し遂げる。

 

そして中山の地に乗り込んだこの年末、有記念。

どんな相手でも、最後の直線で必ず追い抜いてきた彼女の末脚が、初めて届かなかった。

 

『なんとっ! ディープインパクト敗れるッッ!!』

 

2着でゴール板を切ったディープさんを、会場の悲鳴が出迎える。

騒然とする観客席。

 

「み、みなさん。一旦控室に戻りましょうっ」

 

私は、事前の打ち合わせ通りにチームのメンバーを控室に誘導した。

サブトレーナーとして当日の自分の動きを頭の中に叩きこんでおいたから、呆然としている中でもなんとか動くことができたのかもしれない。

 

あまり広くない控室の中は暗く、肌寒かった。

無機質な白い壁が重苦しい。

とりあえずストーブをつけて、ディープさんとチーフトレーナーを迎え入れる準備をする。

2人は、もしかしたら先に医務室に行っているのかもしれない。

スマホにはまだ何の連絡もなかった。

 

ゴール板を切った時のディープさんは、どこか様子がおかしかった。

怪我などないといいけど。

万が一、怪我などが診断されれば、恐らく明日の朝刊の一面は決まりだろう。

いや、もうすでに負けたこと自体が大きなニュースになっているかもしれない。

 

サブトレーナーとして必死で平静を装っているけれど、動揺で頭の中は混乱状態だった。

意味もなくスマホの画面に触れていると、バタバタと部屋に近づいてくる足音がして、ドアが開いた。

チーフがディープさんを抱えて、控室の中に入ってくる。

 

備え付けのソファに横たえられた彼女は、息こそ上がっているものの怪我はしていないようだった。

部屋に重苦しい沈黙が立ち込める。

荒く肩を上下させるディープさんの呼吸音以外はみな無言で、沈痛な表情を浮かべている。

 

たった一人、ハルウララさん以外は。

 

「プイちゃん、すごかったねぇ! 今日もすっごく速かったよ!」

 

その明るい声で、一瞬で荒野に花が咲き乱れるように空気が変った。

ウララさんはこのチームのキャプテンにして、なくてはならない大黒柱だ。

彼女がいるだけで場の雰囲気が良くなり、大抵のことはうまくいくような気がしてくる。

 

しかし。

 

「ハッ……ハッ、う、ウララ先輩…… すみま、せん。すみません……」

 

「プイちゃん、ど、どうして泣いてるの? おなか痛い?」

 

ディープさんが涙を流している。

研修が始まってから約10ヶ月、私は、彼女の涙を見たことがなかった。

 

負けたとはいえ2着。

まだシニア級にもなっていないウマ娘が有で2着になること自体が、出来過ぎた結果だというのに。

 

嗚咽して咳き込むディープさんを、ウララさんが抱きしめて頭を撫でる。

それは、さながらピエタのように、何か神聖な光景だった。

 

しばらくするとディープさんは静かになった。

泣き疲れて眠ってしまったようだ。

 

1時間後にはウイニングライブが控えている。

今年のトゥインクル・シリーズを総括する、最大級のライブが。

そしてそれはディープさんにとって、自身がメインではない初めてのショーケースとなる。

 

あと10分もすればあわただしく準備が始まるだろう。

ウララさんの膝で眠る、痛ましいディープさんの様子を見ていると心が辛かった。

リハーサルの呼び出しがかかるまでは、せめて少しでも安らかにいてほしい。

 

「葵、ここはオレが見てるから、先にライブの衣装だけ手続きしてきてくれないか」

 

「は、はいっ!」

 

チームのサブトレーナーとして、私にはやるべきことがある。

控室から飛び出して暗い廊下を走った。

 

絶対王者が敗れ、そして初めて見たあの痛切な涙。

これから何か大きな事が起こりそうな、そんな予感が胸に湧き上がった。

 

こうして私、桐生院葵の、奇妙な研修生活のラスト3か月が幕を開けた。

 

 

 

 

「ち、地方研修ですかっ!?」

 

思わず大きな声を出してしまう。

あの有からひと月が経つ。

年が明けて、新年一発目のトレーニングが終わった午後5時過ぎ。

トレーナー室でいつものミーティングを行っているときのことだった。

 

「ああ、学園から急にねじ込まれてな。1ヶ月ほどウララと高知に行くことになった」

 

いつものように飄々とした口調で、チーフトレーナー・小岩井弥太郎(こいわいやたろう)がそう言った。

はーい、とウララさんも隣で元気よく手を上げている。

 

「1か月、って……」

 

突然の発表に、戸惑いで頭がいっぱいになった。

 

トゥインクル・シリーズの普及活動の一環で、小岩井先輩とウララさんが地方の学園を廻る。

その内容自体は別に不自然ではない。

チームを結成する前は、2人で度々全国を廻っていたと聞くし。

けれど、なぜ今またそんな話が出てきたのだろうか。

 

私は研修生としてこの約10か月間、ずっと彼につきっきりで仕事を教わってきた。

彼が長期出張に出てしまったら、その間私はどうすればいいのだろう?

というか、チームの運営はどうするのか?

 

「長期間の出張にはなるけど、その間は葵がチームの指揮を執ってくれるから、心配しないでくれ」

 

「え!?」

 

「葵ちゃんっ、よろしくね!」

 

小岩井先輩とウララさんが私に微笑みかける。

あまりのことに、一瞬ぐにゃりと視界が歪む。

 

おいおい。こんなことがあっていいのだろうか?

私が、1か月もチームの指揮を執る?

まだ1年目の新人で、このチームにも研修生として参加しているだけの身分だというのに。

 

突然の発表にざわざわとチームのメンバーも不安そうにしている。

当然だろう。

この時期はあまり大きなレースがないとはいえ、チームの監督と精神的支柱が1ヶ月間も不在にするのだから。

しかも、その間の代理が新人の研修生だ。

私だって逆の立場なら不安で仕方ないと思う。

 

「さて、何か質問のあるヤツはいるか?」

 

「はい!あ、あの!!」

 

「よし、いないな。じゃあ今日は解散!」

 

手を挙げた私を無視してミーティングが終了する。

突然の発表で動揺しながらも、バラバラとチームがロッカールームへ消えていき、部屋には小岩井先輩と私だけが残った。

スーツのネクタイを少し緩めながら、先輩が私に振り向く。

 

「さて、葵。何か質問があるのかな?」

 

「あ、当たり前じゃないですかっ!」

 

ヘラヘラ笑っている彼を思い切り睨みつける。

こんなのは横暴だ。職権の乱用だ。

 

「大丈夫だって。トレーニングのメニューは先に1ヶ月分組んであるし、ミーティングにだって毎回参加する。不安だったら、進捗の報告会を毎日開いたっていい」

 

「いや、しかし……」

 

「まあまあ。あんまり心配しなくても大丈夫だよ」

 

学生時代から変わらない、先輩の穏やかな表情。

 

彼と出会ったのは大学のとき。

私が所属していたゼミのOBとして、時折顔を出す存在だった。

 

彼はイギリスの大学院で研究していたから、会えるのは年に数回だけだったけれど、物腰柔らかな態度、先進的な考え方、緻密な理論、その全てが私の憧れだった。

 

だから私は、大学を卒業後に彼の影を追った。

同じ大学院の同じ研究室へ進み、そして去年の4月からこのトレセン学園に赴任してきたのだ。

 

トレーナー職の新人は、学内のチームでサブトレーナーとして1年間のOJTを行う決まりになっている。

私は当然、迷いもせず先輩のチームの門を叩いた。

 

彼は学生時代から、なにかと策謀家の印象が強い人だった。

いつも大きな野望を持っていて、その達成のために一見奇妙な行動を取ることも多い。

 

しかし、それにしたって、新人にチーム運営をひと月も任せるのは、いくら何でも無茶苦茶だ。

 

「で、でも。ディープさんの阪神大賞典は2か月後なんですよ。その対応だって色々とあるわけで……」

 

「お、そうだね。せっかくだからレースのエントリー手続きとか記者対応も、葵に全部やってもらっちゃおうかな」

 

「えええっ!!」

 

サブトレーナーとしてこの10ヶ月間彼の仕事を見てきたから、業務自体は何となく分かる。

とはいえ、そんな重要な仕事を新人にやらせるだろうか、普通?

 

「まあまあ。1年目でこんないろいろ経験することもないだろうしさ。頼まれちゃあくれないか」

 

「むうう……」

 

両手を合わせてお願いのポーズをとる彼。

そう言われると弱い。

 

彼の言う通り、レースエントリーに関する業務を1年目の間に経験できるのは、貴重な機会になるのは間違いない。

私には、桐生院の名にふさわしいトレーナーになる責任がある。

今回の長期出張は、私が成長する上でチャンスとも言えるだろう。

 

チームの皆も優しいし、始まってみれば案外何とかなる気もする。

けれど、それでも懸念事項が一つあった。

 

「でも、ディープさんはついてきてくれるでしょうか」

 

年末の有で敗れたとはいえ、彼女は現役最強の生ける伝説。

満場一致の年度代表ウマ娘にも輝いている。

そんな彼女が、半人前の新人トレーナーの言うことなんて聞いてくれるのだろうか。

 

「そこなんだよ」

 

ぽりぽりと先輩が頭を掻いて、数秒間考え込むように部屋の隅っこを見つめる。

何かを考え込む時の、彼のクセだ。

2人しかいないトレーナー室に沈黙が漂った。

 

やがて、ぼそりと先輩が口を開く。

 

「プイちゃんはさ、今ハッキリ言って苦境に立たされてるだろ」

 

「そう、ですね……」

 

新年を迎えても、ディープさんの顔はどこか晴れないままだった。

もともと物静かな娘だったが、このところは輪をかけてそうだ。

まあ、彼女を取り巻く環境を考えれば無理もない、と思う。

 

そもそも、圧倒的な結果を残してきた彼女には、日本中の関係者やファンたちから恐ろしいほどの期待がかけられていた。

彼女の一挙手一投足にメディアは飛びつき、騒ぎ立てる。

それがどれほどの重圧だったのかは、計り知れない。

 

そして、初めての敗北を喫して失意に沈むディープさんの背中に、世間は様々な言葉を投げつけた。

 

なんだ、結局ディープインパクトは典型的な早熟タイプだったんだ。

今までの無敗もまぐれだったのだろう。

クラシック三冠を取れたのだって、世代が弱かったのではないか……などなど。

 

ほんのひと月前まで彼女を煽り立てていたメディアやファンたちが、一瞬で手のひらを返したのだ。

SNSを開けば彼女を中心に喧々諤々の議論が交わされているし、外を出歩けばどこへ行っても記者がついてくる。

厳しい状況の中で、どうやって彼女を回復させるのか、それがチームにとって現状の喫緊の課題だ。

 

そんな大事な時期だというのに、チーフトレーナーが1か月も長期出張なんて……。

別に彼の所為ではないとわかってはいたが、恨めしい気持ちは尽きない。

先輩を睨んでいると、彼がニヤッといたずらっぽく笑った。

 

「でもね、俺はさ。プイちゃんの復活のカギは、葵が握ってると思ってるんだよね」

 

「わ、私が?」

 

何を言っているのだろう、この人は。

まだ半人前の私が、最強のウマ娘の復活の鍵?

私をその気にさせるための詭弁だろうか。

いや、先輩は口達者なタイプだけど、意味のない励ましはしないはず……。

 

「ね、葵。お願いできるかな」

 

いつものように先輩が笑って、手を差し伸べてくる。

見ている者を安心させるような、そんな笑顔。

 

心のどこかではまだ、ドッキリの類なんじゃないかと思っていた。

本当は壮大ないたずらで、どこかにカメラでも仕掛けられているのでは、と。

けれど、どうやらそんな雰囲気ではない。

本当に、1ヶ月間やるしかなさそうだ。

 

「……わかりました。何かあったらすぐ相談に乗ってくださいね」

 

「おう、まかせとけ」

 

これからのことを考えると、正直不安ばかり。

だが、覚悟を決めるしかない。

 

私は、桐生院の名を継ぐ者として一族の期待を一心に背負っている。

家名にふさわしい、立派な一人前のトレーナーになる義務があるのだ。

 

大きく息を吸い込んで、グッと先輩の手を握った。

 

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