春風と衝撃   作:オルンガだー太郎 

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#3:桐生院 葵の受難(c)

重量のあるボールを使った、ゲーム形式のフィジカルトレーニング。

コーンを並べて互いの陣地を作り、ラグビー風のルールで対決をする。

小岩井先輩が考案したオリジナルの練習だ。

 

まず基本的な動き方を私が実演する。

 

「最初に、ボールの持ち手はコーンの外側でバックステップを踏んで……」

 

10キロのボールを2つ抱えて走り出す。

今私たちがいるダートコースの一周はほんの200メートルほどしかないから、私の足でも全然デモンストレーションができてしまうのだ。

コーンで作った陣地の外側にいる娘とボールを投げ渡して交換し、さらに反対側へと全力疾走する。

 

「ディフェンス側は相手の得点を阻むために、このゾーンの間で相手にタックルしてください。デュオペルテさんお願いします!」

 

「え? あ、はい……行きますよ」

 

バチィン!とものすごい音がして、私の横からデュオペルテさんの肩が入ってきた。

2tトラックを簡単に引くことのできるウマ娘のショルダータックルだ。

ちょっとでも気を抜けば衝撃でボールを落としそうになる。

しっかりと逆方向にステップを踏みこんでおいたから、少しだけよろめいて、なんとかボールを落とさずにコーンで囲われた陣地に滑り込むことができた。

 

「はい。こんな感じで、こっちの陣地にトライすれば1点が入ります」

 

それにしてもよく考えられたルールだと思う。

コートが比較的小さいので、ウマ娘がギリギリトップスピードを出せないようになっている。

怪我のリスクを下げながら高いゲーム性を維持しつつ、なおかつ複合的な能力向上が期待できるのだ。

縦の動きも横の動きも、その全てが実際のレースに応用できる動き。

この研修が終わっても、ぜひ自分のトレーニングメニューに取り入れたい練習だと思う。

 

「みなさん、分かりましたか?」

 

彼女たちの方を向くと、フロウさんがなぜかドン引きしながら頭をかいている。

 

「……葵ちゃんって、本当にヒトだよね……?」

 

「え!? は、はい。そのはずですけど」

 

「あはは……ごめんごめん。何度見ても凄い身体能力だなって……」

 

褒められると悪い気はしない。

そう、フィジカルトレーニングは、私が唯一それなりにサブトレーナーの役割をはたせる(と思っている)ところなのだ。

流石にウマ娘に比べると瞬発力や腕力は劣るけれど、走行中のフォーム等は実演してアドバイスできる個所もある。

幼いころからあらゆる武道やスポーツを習わせてくれた両親に、心の中で感謝した。

 

「じゃあ、始めましょうか!」

 

こういう共同練習を簡単に組めるのがチームのいいところだ。

彼女たちの身体がぶつかり合うたびに、交通事故のようなものすごい音がグラウンドに鳴り響く。

体幹およびシンプルな脚力の強化、そして全力疾走の中で思考を張り巡らせるトレーニング。

 

「うしっ! 抜いたっ!」

 

「させないっスよっ! プイちゃん、ボールを!」

 

コートの外から、ディープさんが次々にボールを投げ入れて配球する。

彼女は別メニュー調整中だから、中には入らない。

激しい攻防戦が繰り広げられるコートを見つめる彼女の瞳。

やっぱりどこか浮かない表情に見えるのは気のせいだろうか。

 

ディープさんから配給されたボールをドミツィアーナさんがキャッチする。

そのままフロウさんの陣地に攻め入ろうとしたところで、あっという間にフロウさんにかっさらわれて、逆に1点を奪われてしまった。

 

「ありゃ。葵さ~ん! 全然点を入れられないんスけど!」

 

「あ、多分ボールを受ける時の姿勢が良くないんだと思います。ちょっと投げてみてください」

 

「ウッス!」

 

彼女が振りかぶってボールをこっちに投げる。

うなりを上げて豪速球が飛んでくる。

少し軌道の逸れたそのボールをジャンピングキャッチして、同時に首をサッと振って周囲を確認した。

 

「……はい、こんな感じです。ボールを受ける前にも首を振っておいたほうがいいですね。レース中のポジション移動にそのまま使える動きなので、しっかりと周りを確認するようにしましょう!」

 

「なるほど! いやー、こういうトレーニングはやっぱ葵さんッスね。小岩井さんじゃこうはいかないッス」

 

ドミツィアーナさんがそう言うと、デュオペルテさんも楽しそうに笑う。

 

「ふふ。弥太郎(やたろう)さんならきっと、ボールに潰されちゃうのがオチでしょうね」

 

ああ。

自分にできる事があるっていうのはいい気持ちだなあ……。

まだまだ半人前だけど、もっといろんな領域でチームに貢献できるように、頑張らないと。

 

束の間の自己有用感に浸っていると、1日のトレーニングが終了した。

 

「葵ちゃん。じゃ、また後でね~」

 

「はい! お疲れさまでした!」

 

ウマ娘のみんながシャワーを浴びている間に、機材を手早く片付ける。

体に心地よい疲労感を携えて夕暮れのグラウンドを後にした。

とはいえ、私にはまだまだ仕事が残っている。

 

チームメンバーたちを集めて今日のトレーニングの総括。

今後の予定の共有。

必要であれば個別にメンバーとの面談。

そして長大な事務書類の作成。

さらにトレーナーミーティングが重なっている日も。

 

明るい照明が焚かれた部室棟に入ると、ドッと疲れが肩にのしかかってきた。

 

タフな業務だ。

チームの指揮を取ってみて、初めてその苦労がわかった。

今までは半分くらいの業務を先輩が受けとめてくれていたんだなあ、と痛感する。

 

トレーナー室の扉を開けると、もうメンバーたちはシャワーを終え、全員揃って談笑していた。

 

気のせいかもしれないが。彼女たちはなんだか元気いっぱいに見える。

つまり、私のトレーニング強度が物足りなかったということかもしれない。

調節に失敗してしまったのだろうか。

また落ち込みかけて、なんとかギリギリ気分を保つ。

声をかけるために手を叩いて注目を集めた。

 

全体ミーティングで伝える事柄はそんなに多くない。

練習中の気づきやチームとしての予定確認など、事務連絡がメインだ。

 

「……はい、他に何もなければ、今日のトレーニングは以上です……あっ」

 

そう言った瞬間に、早乙女さんの顔を思い出した。

『お前らのチームはうるさいんだよ』という意地悪な声も。

冷汗が背筋を伝う。

そういえばそのことを完全に忘れてた。

多分大丈夫だとは思うけど、明日またクレームを入れられたら嫌だな。

 

「あ、あとですね……その、トレーニング中の声がうるさい、と他のチームの方からクレームを受けてしまって……」

 

「えー? 葵ちゃーん、そんなん大丈夫っしょ。ね、プイちゃん」

 

「ん? あ、はい。そうですね。別に問題ない範囲の声量だったと思いますが」

 

うう……。

どうしよう。

強くお願いするべきか、彼女たちに同調するべきか。

迷っていると、フロウさんが立ち上がって私の肩に手を置いた。

 

「心配し過ぎだって、葵ちゃん。ほら、今ヤタローちゃんがいないっしょ? そんで多分さ、ウチのチームは舐められてんだよ。大丈夫大丈夫! つぎ何か言われたら私を呼んでよ。ぶっ飛ばしてやっから!」

 

「あはは……ありがとうございます」

 

小岩井先輩のことをヤタローちゃんと呼ぶフロウさんは、時々こういう物騒なことを言う。

豪放磊落で頼りになるのだが、色々と問題行動が多いらしく、学園から目をつけられているウマ娘の1人だ。

仮に彼女が早乙女さんをぶっ飛ばしたら、それこそ大問題になってしまうだろう。

トレーナー業務は、マニュアル外のこういう微妙な問題が多い、とつくづく思う。

ただ単にトレーニングやレースに詳しいだけではやっていけない世界なのだ。

 

そのままの流れでミーティングは解散となった。

ばらばらとメンバーたちが部屋を出ていく。

 

ディープさんも、小さな体に重そうなバッグを背負って立ち上がる。

結局今日も彼女とは、一度も話すことができなかった。

このままでいいのだろうか。

 

今日の私は、同期のトレーナーやチームのメンバーの話を聞くばかりで、自分からは何もアクションを起こせていない。

こんなことでは、いつまでたっても半人前のままだ。

桐生院の名にふさわしいトレーナーなんて、夢のまた夢。

そんな焦りにも似た思いに駆られた。

とにかく、行動しなくては何も変わらない。

 

「ディ、ディープさん! ……ちょっと、残ってくれませんか」

 

「……はい」

 

思わず声をかけてしまった。

怪訝な顔でディープさんが立ち止まる。

 

「葵さん、じゃあまた明日もよろしくっス!」

 

「あ、はい! また明日」

 

ドミツィアーナさんも出て行って、部屋には私とディープさんだけが残った。

こうして面と向かってみると本当に美しい娘だと思う。

驚くほど小さな体に長い髪。

物憂げな瞳が私を不思議そうに見つめている。

 

「なんでしょうか」

 

「え、えっと……」

 

勢いで呼び止めたのはいいものの、何を言えばいいのだろう?

そもそも百戦錬磨の先輩がたくさんケアをして、それでもうまく行っていない状況だ。

新人の私が何かを言って状況を変えられるものだろうか。

それでも、やるしかない。

今チームを任されているのは、私なのだから。

 

「あ、あのね。なにか、悩んでることとか、ないかな?」

 

悩んだ末の直球勝負。

先輩みたいに色々策を練ることはできない。

それでも、なんとかしたかった。

 

私の言葉に一瞬キョトンとしたディープさんは、少しため息をついた。

 

「大丈夫、です。お気になさらず。それよりも、ご自身の心配をなさってください」

 

それじゃ、と言って彼女は出て行ってしまった。

バタン、と扉が閉まって、部屋に取り残される。

追いかけることはできなかった。

 

『ご自身の心配をなさってください』

 

言葉がグサッと心に突き刺さる。

そうだよな……。

ミスばかりの自分には、彼女の悩みを聞く資格などないのかもしれない。

小さな達成感に浮き足立っていた心が、またどん底に沈んだ。

 

というか、彼女の域に達したことのある者など、歴史上で見ても片手に足るほどしかいないだろう。

ましてや、ヒトである私(しかも半人前)に、何かを彼女に言う資格があるのだろうか?

だとしたら、トレーナーが存在する意味って何なのだろう。

パイプ椅子に座ると、深いため息が自然と出てきた。

 

ガチャ、と扉が開く音がして、振り向くとデュオペルテさんが少し驚いたような表情で立っていた。

 

「すみません、忘れ物をしてしまって……あら、葵さん。どうかされましたか?」

 

「デュオペルテさん……」

 

彼女はこのチームでハルウララさんに次ぐ古株だ。

長いストレートの髪の毛で物静かな印象の彼女。

けれど、小岩井先輩がまだウララさんの個人担当だった時に、猛烈な勢いで頼み込んでチームに加入したと言うから驚かされる。

なんでも、先輩が受け持った特別授業の内容に感銘を受けたのだとか。

理論派の彼女には、同じく理論でレースを考える先輩の話が印象的だったのだろうか。

チームの中ではフロウさんと同じく頼りになる存在で、生徒会からもスカウトをかけられているくらいに文武両道らしい。

 

「なるほど、プイちゃんにあしらわれちゃったんですね」

 

「そ、そうなんです……」

 

あらあらと楽しそうに笑う彼女。

ディープさん復活につながる糸口を、何も見つけ出せていない。

先輩は私に期待してくれている。

彼らが遠征から帰ってくるまでに何か手がかりを掴まないと、と気ばかりが焦った。

 

私、ディープさんに認められていないんでしょうね……。

そんな言葉が口から出かけて、慌ててストップをかける。

 

気を抜くと、デュオペルテさんに弱音を吐きそうになる。

先輩に似て、対峙していると自然と心を開いてしまうような雰囲気が、彼女にはある。

しっかりしろ。

まだ未熟とはいえ、トレーナーが担当ウマ娘に迷惑をかけるわけにはいかない。

 

「でも、大丈夫です。きっと、私の問題なんです。ディープさんにはまた後日、声をかけてみます」

 

「あら、そうですか……」

 

彼女が、目を伏せる。

少し残念そうに見えたのは気のせいだろうか。

 

数秒間があって、デュオペルテさんが口を開きかけた瞬間にピロン、とPCから音が鳴った。

ビデオ通話の通知がPCの画面に差し込まれている。

 

「まだお仕事が残っていらっしゃるのですか? あまり根を詰め過ぎないようにしてくださいね」

 

「あはは……ありがとうございます」

 

ミーティングの後は、先輩への日時報告の時間だ。

礼を言うと、デュオペルテさんが忘れ物を取って部屋から出て行った。

 

通話のボタンをクリックすると、PCの画面上にウララさんと先輩の顔が大映しになった。

画面越しでも、ウララさんの笑顔を見ると心がじんわりと温かくなる。

 

『最弱のウマ娘』、ハルウララ。

戦績はともかく、間違いなく特別な存在感を持ったウマ娘だ。

彼女がいなければ、間違いなくこのチームは成り立たないだろう。

 

『葵ちゃんだ! おーい!!』

 

『こらウララ、あんまり引っ張るなって……葵、今日も元気にトレーニングできたか?』

 

メンバー各人の体調やタイムなどはリアルタイムで共有しているので報告する必要はない。

そうではなく、もっと個人的な所感の共有を先輩は求めているのだ。

 

「はい。今日はドミツィアーナさんの調子がよくって、学業面でもかなり好調だそうです」

 

『ドミちゃんすごいね!』

 

『んで、プイちゃんはどうだった?』

 

「ディープさんは……」

 

ディープインパクトさんは、良くも悪くもいつも通りだった。

誰より先にトレーナー室に現れて、誰よりも長くコースを走り回る。

回復期間のために速度はゆっくりだが、その分何か凄みを感じさせる雰囲気だ。

どこかピリピリしていて、他のメンバーともあまり話をしている様子はない。

最後のボールを使ったゲーム中も、どこか浮かない表情だったのが気になった。

 

「さっき2人きりで話をしようと思ったんですけど、断られちゃいました……」

 

『うーん、なるほどね。報告ありがとう』

 

改めて話をしていると、自分の無力感を突きつけられる。

私は今、彼女のサブトレーナーなのに、その助けになれていない。

 

「ディープさん、どうしてあそこまで落ち込んでしまっているんでしょうか」

 

『そうだなあ……』

 

確かに無敗記録が途切れてしまったのはショックかもしれない。

しかし、その敗北は彼女がまだクラシック級の時の話で、しかも舞台は有だ。

無敗でクラシック三冠をとって有記念で2着。

傍目からは上々の内容にしか見えないのだが……。

 

『まあ、何となく理由には当たりがつくよ』

 

「え!? な、なんですか」

 

『ふふ。これは葵が自分で考えてほしいなぁ』

 

そう言うと、先輩はいたずらっぽく笑って、膝に座っているウララさんの頭をぽんぽんと叩いた。

 

『いいかい。プイちゃんは1番レースが強いウマ娘だ。それは間違いない。けれど、彼女は最強のウマ娘じゃないんだ。分かるかな。()()じゃない、と言い換えてもいい。きっと、葵ならいつかきっとわかると思う』

 

「ええ…………」

 

なぞなぞのような先輩の言葉。

何となくはぐらかされた感じった。

この人の場合、放任して成長させようとしてくれているのか、単なる意地悪なのかわからない。

思わずため息をついてしまう。

 

「トレーナーって、なんなんですかね」

 

『え?』

 

気が抜けたのか、ポロッと独り言がこぼれ出てしまった。

ウララさんの前で言うべきことではなかったのに。

最近あまり眠れていないから疲れているのだろうか。

 

「あ、いや。ウマ娘の皆さんは毎日一生懸命走ってるじゃないですか。ヒトである私たちには絶対に得られない経験をたくさんして。そんな中で、トレーナーって本当に必要なのかなって、って……」

 

最近、ずっと心の中で考えていることだった。

私、ひいてはトレーナーのいる意味って何なのだろう。

そんな一つの疑問が頭を駆け巡って、そのせいで最近は寝つきが悪い。

 

クツクツと、笑い声が聞こえてきて顔を上げた。

画面の中の小岩井先輩が口を抑えて笑っているようだ。

 

「わ、笑わないでくださいよっ」

 

『ふふ、ごめんごめん。いやさ、みんな同じ道を通るもんだと思って』

 

自分も同じことで悩んだことがあるような口ぶりだ。

まあ、ありがちな苦悩だとは自分でも思う。

 

『ウララはなんで俺たちトレーナーがいると思う?』

 

『え~? トレーナーがいるとねぇ、がんばろ~って思うんだぁ』

 

嬉しいこと言うじゃない、と先輩がウララさんのつむじをグリグリと擦る。

気持ちよさそうに、彼女の目は細まっている。

ふと、先輩の口調が少しだけ真剣みを帯びた。

 

『葵はどう思う?』

 

先輩はいつも私の意見を尋ねてくる。

 

「そ、それが分からないから聞いてるんじゃないですか……」

 

『あはは、そうだな。じゃ、ちょっと質問を変えるけど、葵はさ、『一流のトレーナー』ってどんなヤツだと思う?』

 

「一流の、ですか」

 

真剣には考えたことがない。

そもそも一流って何だ?

 

『俺も昔さ、一流のトレーナーについて、色んな人に聞き回ってた時期があったんだよ。ある人は“何があっても担当のそばにいる人”のことだって言うし、“言葉を大切にする人”のことだ、なんて言う人もいたな』

 

私にとっての一流。

こうなりたい、という漠然としたイメージはあるけど、うまく言葉では言い表せない。

 

『で、それが俺にとっては“理論を大切にする人”なんだね。過去を未来に生かすのがヒトの特徴だと思うから。だから、俺はチームのメンバーにそうやって接するし、そうしたいと思ってるんだ。わかる? ウララ』

 

『うーん、わかんない! でもねぇ、トレーナーはいちりゅーだと思うよ!』

 

画面の中で2人が楽しそうに笑う。

見るものを幸せな気分にさせるような、そんな会話だった。

 

『葵も、自分の存在意義が分かんなくなったら、目指すべき自分の一流とは何か、考えてみるといい。そうすれば少しだけ俯瞰して状況を見られるようになるし、目指す方向ができるから精神衛生上もいいしね』

 

「はい、考えてみます……」

 

最後に再来週のレース前記者会見について情報共有とレクチャーを受けて、ミーティングが終わった。

荷物をまとめて校舎を出ると、頭上には星が瞬いていた。

 

いつものトレーナー寮とは、逆方向に校門を出ていく。

今日は実家に帰る予定にしていたのだ。

 

久々に家の門をくぐると、お手伝いさんが笑顔で歓迎してくれた。

仕事から早く帰っていた母が、夕食を作ってくれたらしい。

母と大おば様と3人で広いテーブルを囲む。

父は今、叔父様と一緒に地方へ長期赴任していて、ここにはいない。

 

「葵、トレーナー研修の調子はどうだい?」

 

箸を運んでいると、大おば様から話しかけられた。

もう結構な年齢のはずだが、ピシッと伸びた背筋で威厳がある。

かつての名トレーナーであり、今はURAの幹部をしている人。

 

「あ……えと。順調、です」

 

「そう。大変なこともあると思うけど、頑張りなさいね。あなたには桐生院の名を継ぐ者として、しっかりしてもらわないと困るのだから」

 

優しいな、と思う。

私のことを気遣ってくれているのは分かるし、期待してくれてありがたいとも思う。

けれど、最近はその期待が重圧となって重く肩にのしかかっていた。

 

夕食を片付けて歯を磨くと、自室のベッドに吸い寄せられた。

久しぶりの実家は温かかった。

猛烈な疲労で体が重い。

けれど、頭の中では『一流のトレーナー』についてずっと考えている。

シャワーを浴びているときもご飯を食べているときも、先輩の言葉を反芻していた。

 

担当バを勝たせるトレーナーが一流なのかな。

いや、でもウララさんを担当している先輩は一流だと思うし……。

担当バとめちゃくちゃ仲がいいトレーナーとか?

いや、でも……。

 

ダメだ。考えれば考えるほど、目が冴えてしまう。

パチリと読書灯をつけてベッド脇の本に手を伸ばす。

ノールックで手を突き出したから、積み上げた書籍の山を崩してしまった。

大きな音を立てて本が床に落ちる。

 

やってしまった、と思って起き上がると、床に落ちた本の中に懐かしいものを見つけた。

 

「これ……」

 

大仰な装丁のハードカバー。

背表紙には『トレーナー白書』の記載がある。

桐生院家に代々伝わるトレーナーの心得がまとめてある本だ。

すでに内容は全て暗記しているので、最近は開くこともなくなっていたが……。

 

藁にもすがる思いでページを開く。

この白書は、数々の重賞ウマ娘や顕彰ウマ娘を育ててきた桐生院家の叡智の結晶。

だが、流石に無敗の三冠ウマ娘を育てたことはないだろう。

 

幼い頃から繰り返し読んできたこの白書が、ディープさんに並び立てるような、一流のトレーナーへ繋がる鍵になるのかはわからない。

けれど、こうして自分の原点に戻るのはいい考えだと思った。

 

『トレーナーたるもの、鋼の意志で自らの道を突き進むべし』

 

今まで何人もの先人がめくってきたページ。

私も、幼いころから何度も目にしてきた文字列だ。

 

「あはは。鋼の意志、か」

 

それは、白書の中でも特に重要な1ページだ。

どんな状況でも諦めず、確固たる意志をどんな時も貫くこと。

けれど、実際に現場に立つとそれがどれほど難しいことか。

 

今の私は全然ダメだな、とため息をついた。

チームのメンバーや同期のトレーナーたち、小岩井先輩にディープさん。

色んな人の顔色を窺ってばかりで、その度に揺れ動いてしまっている。

 

パチン、と明かりを消して再び目を閉じた。

私の原点はあの白書。

だとすれば、私が目指すべきトレーナー像も、そこにあるのかもしれない。

 

私には、桐生院の名に懸けて、ディープさんを復活させる義務がある。

『鋼の意志で自らの道を進む』ような、一流のトレーナーになる責任があるんだ。

……どうすればなれるのかは全然分からないけど。

 

「よし!」

 

決意の声が暗闇に溶ける。

絶対にあの娘をもう一度輝かせてみせる。

あの素晴らしい走りを、みすみす殺させはしない。

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