春風と衝撃   作:オルンガだー太郎 

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#4:ディープインパクトの苦悩(a)

芝を踏みしめて、いつもの直線。

栄光のゴールは310メートル先。

 

ウララ先輩、見ていてください。

記念。

絶対に勝ってみせますから。

そう思って、強く大地を蹴った。

 

折れるんじゃないかってくらいに体をしならせて前へ進む。

そうやって走っていると、いつだって5秒もしないうちに風圧の壁を破って先頭に立てる。

それは学園の模擬レースだろうと、この有記念の舞台だろうと、変わらない。

はずだった。

 

どこで歯車が狂ったのだろう?

第4コーナーを回ったとき、いつものようにギアが上がらなかった。

目の前の背中が、縮まらない。

坂に足が沈んでいくように感じる。

手と足の動きを上手く意思統一できない。

 

嘘だ。

 

そう思ったことを、よく覚えている。

 

『ディープインパクト、敗れるッ!』

 

「……ッ!」

 

実況の声が夢に鳴り響いて、私は飛び起きた。

汗でパジャマが張り付いて気持ち悪い。

 

震える心臓を握って窓の方を見ると外はまだ暗闇。

スマホの液晶にはAM2:00の文字。

横からルームメイトの寝息が聞こえてきて、どうやら起こしはしなかったようだ。

ため息をついて、布団を頭までかぶった。

 

負けた。

届かなかった。

 

記念からひと月が経った今でも、こうして悪夢に苛まれる日々は続いている。

あの日、レースが終わったあと、覚えているのは1着をとった娘の嬉しそうな顔と、歪む世界。

そして血相を変えて走り寄ってくるトレーナーの顔。

次に気づいたらステージに立って、ぎこちなくサブのダンスを踊っていた。

 

『プイちゃん。ごめん、ごめんなぁ』

 

ステージから袖に引き上げた私を抱きしめたトレーナーの顔。

震える、その身体。

 

どうしてあなたが謝るんですか。

その言葉は、ついに出てこなかった。

悪いのは、負けた私なのに。

 

ギュウッと強く目をつぶった。

 

ひとつずつ勝ちを積み上げてきた自分の歴史が、ガラガラと音を立てて崩れて去っていく。

負けるってこういうことなんだ、と思った。

 

『トレーナーであるあなたの責任じゃないんですか!』

 

レース場から引き上げて車に乗り込む時の、激しい記者の口調が今も耳にこびりついて離れない。

横で小岩井トレーナーが、いつものようにヘラヘラと受け答えしている。

けれど、その拳は、血がにじむほどに固く握りしめられていた。

 

『なんで君が謝るんだよ』

 

学園へ帰る車の中で彼に謝った時、トレーナーはそう言って笑った。

 

レースの後も、チームのみんなはいつも通り接してくれた。

だが、彼女たちにも世間の攻撃の矛先が向いたことを、私は知っている。

 

下手な練習計画を立てたトレーナーのせいだ。

いや、ディープ以外にあまり結果を残していない、馴れ合いチームのせいだ。

それよりも、『最弱のウマ娘』なんかと同じチームにいるせいだ……。

 

失望、嘲笑、非難、そして好奇の声。

試合後の3、4日はメディアが学園まで押し寄せてきて、外に出るのも一苦労だった。

私はずっと部屋にこもっていたから関係なかったけど、みんなは学外に出るとき、必ずトレーナーが付き添わなければならなかったらしい。

 

チームに迷惑をかけてしまった。

私の、唯一の居場所が攻撃を受けている。

全部私が、負けたせいで。

 

ゴロンと寝返りをうった。

掛け布団がはだけて少し寒かったけど、すぐに直す気分にはなれなかった。

 

私は今まで、勝つことで自分の存在を証明してきた。

レースは情け無用の残酷な世界。

目の前の相手を殺すくらいのつもりで叩き潰す。

それがレースというものだし、それくらい真剣にやってきたつもりだった。

 

だとすれば、負けた今。

いったい私は何なのだろう?

 

目をつぶっていても、もう一度眠りの世界へ戻ることができない。

スマホを起動するとウララ先輩のニュースが飛び込んできた。

『高知の英雄ハルウララ、堂々凱旋』。

サムネイル画像で先輩の笑顔が輝いている。

 

「はぁ……」

 

思わずため息が出た。

先輩が出るレースは必ずチケットが完売するらしいから、学園側やURAが彼女を遠征させたいのは理解できる。

チームを結成してからは地方遠征の数も控えていたから、そろそろおっさんも断り切れなくなったんだろう。

けれど、1ヶ月は流石に長すぎやしないか。

 

画面の上でくしゃくしゃに笑う彼女の顔を指で撫でる。

眠たくないまぶたを閉じると、不眠の疲労感が体内に不快に響いた。

 

結局、この日も朝まで上手く眠れなかった。

鳴ることが分かっていた目覚まし時計とともに、だるい体を無理やり起こす。

 

照りつける太陽が恨めしかった。

 

淡々と座学の授業を受けて、チャイムが鳴ったらのろのろとグラウンドへ向かう。

いつもなら一刻も早く走りたくてたまらなくなる時間。

だが、ここ1ヶ月はそんな気分にもなれなかった。

それに、グラウンドへ行ってもウララ先輩はいないし。

 

ロッカールームで着替えながら、先輩のことを思う。

今頃、何してるんだろ。

私は彼女がいなくてさみしいけど、先輩はどうなんだろう。

きっと、高知の子どもたちと楽しくやってるんだろうな。

 

ウララ先輩は出会った時から何も変わらない。

そばにいるだけで、陽だまりに包まれるように温かい気持ちになる。

一緒に笑っているだけで、何でも出来るような気がしてくる。

 

「……早く帰ってこないかな」

 

「あれ? プイちゃん、なんか楽しそうじゃん?」

 

蹄鉄を確かめながら、フロウ先輩が笑いながら聞いてくる。

しまった、思わず現実の声が出てしまっていた。

 

「い、いや。何でもありませんから」

 

恥ずかしくて、急いでシューズを履く。

バタバタとロッカールームを抜けてグラウンドへ出た。

 

……ちょっと失礼な態度だったかもしれない。

あとでフロウ先輩に謝っといたほうがいいかな。

でも先輩はあんまり気にしなさそうなタイプだから大丈夫、だよね。

 

グラウンドに出ると太陽がさんさんと照っていた。

目の前に広大なグラウンドが広がっている。

グッと伸びをしながら芝の臭いを嗅いだ。

 

フロウ先輩もデュオペルテ先輩も、そしてドミさんと桐生院トレーナーも。

みんなが私のことを気遣ってくれているのは分かる。

私の調子が悪くて、迷惑をかけていることも。

 

ウララ先輩がいない今、エースの私がチームのために頑張らないといけない。

先輩たちに甘えていてはダメだ。

 

「ふぅ」

 

トントン、とジャンプして、体調を確認する。

調整期間は昨日で終わり。

今日から私は集中的に桐生院トレーナーについてもらって、トレーニングの強度を上げていく予定だ。

レースは1ヶ月半後。GⅡ阪神大賞典だ。

 

「うわわっ、すみません、すみません!」

 

遠くで、桐生院さんがペコペコと誰かに謝っているのが見えた。

相手は他のチームのトレーナーらしき短髪の男。

最近よく、彼女があの人と話しているところを見る。

なんとなく見覚えのある顔だったけど、どこで見たのかは思い出せなかった。

 

このところ、桐生院さんは目に見えて疲れた表情だ。

まあ、小岩井トレーナーがウララ先輩をつれて急にどっかに行っちゃったから、大変なんだろうなあと思う。

目の下のクマとかを見てると心配になる。

ウララ先輩がいないのも、桐生院さんが疲れているのも、全部あのおっさんのせいだ、と思う。

 

「ご、ごめんなさい。じゃあ始めましょうか」

 

「はい。よろしく、お願いします」

 

練習用コースを、少しだけ力を入れて走り出す。

1ヶ月近く休めた体を徐々に温めながら。

パキパキと音を立てて脚が軽くなっていくのを感じた。

 

体が風を切っていく感覚。

懐かしいな。

 

レースなら第四コーナーに当たるカーブに差し掛かる。

久しぶりの全力に近いスピードだけど、もう少しだけ、早く進んでも大丈夫かもしれない。

そう思ってグッと地面を踏みしめた。

 

途端に記憶がフラッシュバックする。

 

『ディープインパクトッ!僅かに届かないか!』

 

不意に蘇ってくるあの日の光景。

遠慮のないメディアの視線や私の敗北を仰々しく伝える文字列。

記念での敗北が、私の足に絡み付いて離れない。

 

振り切るように足を動かすが、まるで神経が切断されたかのように上手くリズムが合わない。

坂を踏みしめた足が、そのままズブズブと沈んでいく。

もがいても、もがいても、前に進まないーー。

 

「……さん、ディープさんっ!」

 

「あ………………桐生院さん。すみません……なんでしょうか」

 

「い、いえ、時間なので切り上げましょう、と。次走に向けて擦り合わせをしておきたいので」

 

チャイムが鳴った。

もう1時間も走っていたのか。

全然気がつかなかった。

全身に汗をびっしょりかいて、少しだけ脚が震えている。

久しぶりに強い負荷をかけたからか、それとも。

 

「フロウさん! メニューCパターンを10セットお願いします! 私は1時間トレーナー室に戻りますので、その間はドミチュ……ドミツィアーナさんと交互に計測をしてあげてください!」

 

「うーい」

 

「了解ッス!」

 

桐生院さんがフロウ先輩とドミさんに指示を出して、部室棟の方へ歩いていく。

持ち主の言うことを聞いてくれない脚を苦々しく思いながら、彼女のあとを追った。

 

トレーナー室に入ると、椅子に座るように促された。

 

桐生院さんが照明を落として、プロジェクターを起動する。

画面に映ったのは、シンプルなスライドと『3・19 阪神大賞典に向けて』の文字。

 

「じゃ、じゃあ、簡単に次走の確認をします!」

 

少しだけ上ずった声を抑えながら桐生院さんがPCを操作する。

 

「まず、ここ最近の阪神のバ場状態について確認していきます……」

 

コースの詳細と過去のレース傾向。

そして出走予定者の特徴を踏まえた資料が次々に投影されていく。

 

小岩井のおっさんの資料ほど見やすくはないけど、力が込められていて、一生懸命に作ってくれたことが一目でわかるものだった。

30ページに及ぶスライド。これを作るのにどれくらい時間がかかったんだろう。

おっさんはいつも痒いところに手が届く資料をサラリと用意してくれているから、こういう微妙に不完全な手作りっぽい資料を見るのはなんだか新鮮な気持ちだった。

 

「は、はい。以上がざっくりした説明です。何か質問はありますか……?」

 

「4番の娘と6番の娘が以前に同じコースを走ってると思うので、画面分割して2レース同時に見せてもらってもいいですか」

 

「うえっ!? は、はい。えーと……」

 

「あ…… 多分、そこを押して……はい。小岩井トレーナーがそこを触ってた気がします」

 

次のレースを研究してると、前のレースのことは考えなくて済む。

対戦相手の走りを見ながら神経が研ぎ澄まされていくのがわかった。

本番まで時間はそんなに残されていない。

記念の後悔はいったん封印して、レースに集中しないと。

 

「あ、あの。ひとついいですか」

 

資料を集中して確認していると、桐生院さんから声をかけられた。

ひととおり説明は終わったはずだけど、何だろう。

 

「はい、なんでしょう」

 

「えっとですね……今回のレース、ラストスパートは早めに仕掛けた方がいいと思います」

 

彼女が追加の資料を差し出す。

見るといくつかの根拠が記載されており、矢印の先に『早めの仕掛けが吉』と書いてある。

 

「もしかして、前走で差しが決まらなかったからですか?」

 

「え!? い、いえ、そんなことは……」

 

明らかに目が泳いでいる。

で差しきれなかったトラウマを克服させようとしているのだろうか。

必死で取り繕ってるけど、ウソのつけない人だ。

 

「わかりました。考えてみます」

 

「は、はい。よろしくお願いします」

 

ウララ先輩たちが出張に出る前までの桐生院さんの印象は『能力は高いけど自信なさげな人』だった。

多分色々考えていることはあるんだろうけど、小岩井のおっさんとかいろんな人に遠慮して、言いたいことを言えていない。

そんな雰囲気。

けれど、今の彼女は少しずつ自分を出し始めている、そんな感じがする。

 

PCを閉じながら、彼女が何かを思い出したような表情をした。

 

「あ、来週のレース前インタビューなんですけど……」

 

「ああ……」

 

重賞のレース前には記者会見が開かれ、毎回多くのメディアが集まる。

選手たちに意気込みやレース展望などを聞く、恒例の場。

 

今までそういう仕事は小岩井のおっさん任せにしてたけど、今回はそうもいかない。

桐生院さんはきっと記者対応は慣れていないはず。

自分主導で何とか切り抜けないといけないと思うと、今から気が重くなってくるのだった。

 

 

 

 

都内のホテルの広い一室。

出走する9人そろっての写真撮影や質疑応答が終わった。

……のだが、今日は私のためだけに延長の時間が設けられている。

 

心の中でこっそり舌打ちをした。

いつもならおっさんがヘラヘラ笑いながら適当に対応してくれて、私はさっさと引っ込むことができるのに。

 

司会者が促して、他の8人のウマ娘がゾロゾロと退出していく。

中には私のことを露骨に睨んでいく娘もいて、やりきれない。

でも、私だけ特別扱いされているのだ。

そこに不満があるのは仕方がない、と思った。

 

嫌だったら、嫌って言えばいいよ、と小岩井トレーナーが昔言っていた。

けれど、今まで積み上げてきた勝利の上に私は立っている。

挑戦者からの敵意や観客の期待を、受けて立つ義務があるのだ。

 

「それでは、ディープインパクトさんへ質問がある方は会社名と……」

 

司会が声をかけ、延長戦がスタートした。

それと同時に、報道陣のカメラのシャッター音が一斉に鳴り響く。

中にはフラッシュを焚いている人物もいて、視界がチカチカと爆発した。

 

「ちょっ……ふ、フラッシュはごえんきょ、ご遠慮くださいっ!」

 

桐生院さんが抗議の声を上げる。

目がぐるぐるしていて、いかにもいっぱいいっぱいと言う感じだ。

 

無遠慮な光で頭が猛烈に痛いけど、そんなことを言っている暇はない。

私の名前に呼ばれて飛んできた、素人のメディアが多いのだろうか?

だとしたら、少しまずい展開かもしれない。

こういう雰囲気は苦手だけど、ここは私が率先して質問に答えていく。

 

誰々との不仲説は本当か?

意識している競争相手はいるか?

チーフトレーナーがいなくて不安か?

休日はどんなことをして過ごしているか?

好みのタイプは……。

 

くだらない質問ばかり。

相変わらずこのレース前会見というのは好きになれない。

もちろん、レースに知識と情熱を持った真摯な記者もいるのだけれど、そうではなくて、通りいっぺんの記事を書くためのつまらない質問をしてくる者も多い。

それだけならまだいいのだけれど、中にはカメラの奥に意地悪な光をたたえた人が少なからずいる。

 

奥の方で立っていた記者がだらりと手を上げて、質問権が回った。

ゆらりと立ち上がる1人の男。

あまり見たことのない顔の男だ。

無精髭を軽く擦って、マイクを握った。

 

「この前の有記念、なんで負けたんですかぁ?」

 

場の空気が凍って、一気に嫌なプレッシャーがかかる。

ほら、来た。

この手の質問。

来るとはわかっていても、心にアイスピックが刺さったように痛い。

記者はなおも攻め手を緩めない。

 

「正直、相手のことを舐めてましたよね? 勝てると思って驕ってたんじゃないですか?」

 

静かなざわめきが会場に広がる。

何を馬鹿なことを、という抗議の声。

いいぞ、もっとぶつけろ、という好奇の声。

 

この手の質問は、小岩井のおっさんが一通り対応しきったものと思っていたけれど。

過去のインタビューを全然見ていないのか、あるいは私が怒ったところを見たいのか。

いずれにせよ、煽られていることには違いない。

 

「えーと……」

 

こういう時ほど冷静にならなければいけない。

言われっぱなしなのは癪に触るけど、アンガーマネジメントは苦手な方ではなかった。

 

勤めて穏やかに、ゆっくりと答えを返す。

 

「いや、そんなこと……」

 

「今の言葉ッ、撤回してください!!!」

 

え?

 

一瞬自分の脳の中身が飛び出てしまったのかと思った。

急いで左を向くと、桐生院さんが立ち上がっていた。

怒りに震えて、髪の毛を逆立てて。

 

人間って、本当に額に怒りマークが浮かぶんだなぁ、なんて。

そんなことを思うくらいには妙に冷静だった。

 

「でぃ、ディープインパクトさんは、いつだって勝利に対して真剣に向き合っています! そ、そんなこと、くらいっ。見れば、分かるでしょッ!!」

 

聞くに耐えないくらいに声が震えて、涙も幾らか出てしまっているかもしれない。

あ、ダメだ。

この展開は記者の思うツボ。

紙面でどう料理されるかわかったもんじゃない。

早く状況を変えないといけない。

 

だが、どうにも上手い立ち回りを思いつかない。

なんとか、なんとかしないとーー。

 

「あ、じゃあ今の質問を受けてなんですけど」

 

スッと。

右手を上げて、よく通る低い声の男性が立ち上がって、論争を遮った。

ハンチング帽にサングラス。

いかにも変装している風の格好だ。

 

「前回の有記念と阪神大賞典では、様々な点で条件が異なっています。ディープインパクトさんにとって、前走から修正すべき点、およびこのひと月の間取り組んできたトレーニング内容について簡単に教えてもらっても良いでしょうか」

 

聞き覚えのある声。

小岩井のおっさん、高知から帰ってきたのか?

いや、そもそも。変装までして、こんなところで何をやってるんだ。

 

変な質問をしてきた記者が焦って何かを言おうとしているのが見えた。

また流れが変わらないうちに、私はマイクを取って答え始める。

 

「えー、前回からの修正点についてはーー」

 

明らかに、おっさんの質問で場の流れが変わった。

チラリと横を見ると、桐生院さんは青ざめた顔で放心している。

彼女があんな風に感情を露にするところは初めて見たな。

私のために、怒ったんだ。この人は。

そう考えるとなんだか変な気持ちだった。

 

明日、桐生院さんがメディアから変な風に切り取られないといいけど。

少しだけ不安が心に滑り込む。

けれど、あの男がいるということは、ウララ先輩も帰っているということだ。

 

会見が終われば、会えるのかな。

そんな想像で気を紛らせた。

 

記者会見は結局、その後定型の質問がいくつか飛んできただけで、無事に終わった。

 

「桐生院さん、終わりましたよ」

 

「あ……」

 

放心状態の彼女に声をかけて、一緒に袖へはける。

廊下を通って、控え室のドアを開けた。

 

「ほ……ほんっとーに、すみませんでした!!」

 

ドアを閉めた瞬間、桐生院さんが土下座せん勢いで私に謝ってきた。

部屋にいるのは彼女と私と、そして。

 

「葵ちゃん、カッコよかったよっ!ビシーってしてた!」

 

「お、ウララもそう思うか。うんうん。俺は葵の成長を感じて涙が出そうだったよ」

 

白々しく涙ぐむ演技をする小岩井のおっさんと、それを見ながら笑うウララ先輩。

ああ、久しぶりにこの笑顔を見たな。

 

「で、でもぉ……。うう、ネットニュースになっちゃってるかも。ディープさんにも迷惑をかけちゃったし……」

 

「うーん、それはどうだろうな。ま、大丈夫さ。なんにせよ、次のレースまでにはみんな忘れてるだろ」

 

そうでしょうか、とうつむく桐生院さん。

うなだれる彼女の姿を見ていると、何となく同情の気持ちが湧き上がってくる。

だいたい、このおっさんがロクに引き継ぎもせずに彼女に仕事をぶん投げたからこんなことになっているんじゃないか。

 

おっさんの方を睨むと、何か手でジェスチャーを送ってきた。

『慰めてやれ』という意味だろうか。

落ち込んでいる人に声をかけるのは苦手なのだが……。

 

だが、彼女がこうなってしまっているのには自分にも責任がある。

そもそもの話、私が負けなければこうはなってないわけだし。

 

「あの、桐生院さん」

 

声をかけると、彼女の身体がビクッと震えてこっちに向けて顔を上げる。

涙やらなんやらでぐしゃぐしゃの顔だった。

 

「うう~。ディープざん……ずびばぜん……」

 

「いえ、いいんです。私のために怒ってくれてありがとうございます」

 

実際、自分の怒りややるせなさを彼女が代弁してくれたような感覚があった。

私と同じ気持ちでいてくれたことは素直に嬉しい。

キョトンとした表情だった彼女の目にまたさらに涙粒が浮かぶ。

 

「ディープさんんん!!」

 

「わっ」

 

ギュっと抱き着かれた。

そのまま後頭部をなでると、もうどちらが年上なのか分からなかった。

ウララ先輩とはまた違う感触で、それなりに触り心地はよかった。

 

「さてさて、ちょっと注目してくれ」

 

パンパン、とおっさんが手を叩いて、ハッとする。

そのまま部屋備え付けのホワイトボードに歩いて行ったかと思えば、マーカーで何かを書き出した。

部屋にキュキュ、という音がしばらく響く。

 

「は・る・う・ら……」

 

「ウララ、別に逐一読み上げてくれなくて大丈夫」

 

そっかー、と先輩が頭をかいた。

やがて彼がペンを置いて、そこに書かれていた文字は、私に恐ろしい衝撃を与えるものだった。

 

「ハルウララ、引退レース……?」

 

それは、どこか絶望的な響きの言葉。

ずっと見ないようにしていた事実を突きつける文字列だった。

バッとウララ先輩の方を見ると、えへへ、と照れたように笑っている。

 

「そう、ウララの引退興行を行うことになった。もちろん、君たちにも協力してもらうぞ」

 

「引退、ってことは3月ですか?」

 

戸惑っていた桐生院さんがおずおずと聞く。

その通り、とおっさんが満足げに頷いた。

 

「阪神大賞典の2週間前、場所は中山のレース場だ。そして、走るのは……」

 

おっさんの指がスッと私に向けられる。

 

「プイちゃん。君とウララの1対1だ」

 

驚きの声を先に上げたのは私、ではなく桐生院さんだった。

 

「ふ、2人立てのレースってこと……ですか?」

 

「わーい! プイちゃんとレースだ!」

 

首を縦に振りながら笑うおっさんの周りをウララ先輩が通り抜け、私の腰に抱き着く。

ああ、懐かしい感触…………じゃなくて。

2人立てのレース、引退興行で?

そんなの聞いたことがない。

 

「別に異議を唱えるつもりはないですけど、なにか企んでるんですか?」

 

「いんや?」

 

腹立つ動作で彼は肩をすくめた。

 

「レースを提案したのはウララだよ」

 

「ウララ先輩が……?」

 

「うん! ね。楽しみだねー!」

 

先輩とは同じチーム。

普段から一緒に走る仲だ。

チームメイト同士がレースでぶつかるケースもなくはないが、2人だけで走るのであれば、それは単なる併走になってしまうんじゃないか?

 

私の心配をよそに、レースまでは私のトレーニングを桐生院さんが引き続き行うことが発表された。

何が何だかわからないうちにその日は解散になって、おっさんの運転する車で学園へと帰る。

 

「プイちゃん、見て見て! これね、高知のおばちゃんにもらったんだ〜!」

 

「あ、はい……」

 

久しぶりに話す先輩は何も変わっていなかったけれど、私はずっと上の空だった。

寮の前で先輩と私は車を降りる。

 

「プイちゃん、じゃーね!」

 

「あ、はい……」

 

桃色の髪が揺れながら遠くへ去っていく。

しばらく見つめて、それから振り返って自分の寮へ帰った。

とびきり熱いシャワーを浴びても、心のザワつきは洗い流せない。

私の心の中はウララ先輩とのレースだけが占めている。

 

ウララ先輩が引退する。

このチームから、私の前からいなくなる。

そりゃあ、いつかそんな時がくることは、ずっと前から分かっていた。

 

先輩は3年生で、最上級生だ。

だからあと2ヶ月もすれば卒業する。

当たり前のこと。

 

だが、彼女がいなくなったら私は何のために走ればいいのか?

彼女がいない世界を踏みしめて進む勇気が、今の私にはない。

 

「……ッ!」

 

ドン、とシャワールームの壁のタイルを叩く。

鈍痛が、そのまま身体中に響き渡る。

 

この日から。

私とウララ先輩の別れのカウントダウンが時を刻み始めた。

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