肌寒い中にも春の訪れを告げる2月の陽気が学園中に充満している。
昼間の太陽で温んだ風は、歌声を乗せて運んでくる。
大勢のユニゾンで、爽やかな寂しさに溢れた曲調。
どこかで卒業式の練習をしているようだ。
「……はぁ〜」
自然とため息が出る。
校舎裏のこのスペースには人がほとんど通らない。
1人でいると、自然と漏れ出る息も大きくなるのだった。
期末試験も終わり、どこか気の抜けたお昼の時間。
何も植わっていない、花壇を囲む大きなレンガの上に腰掛ける。
どうして学校には卒業というものがあるのだろう。
いたけりゃその分だけいさせてくれればいいじゃないか。
そんなことを思った。
なにか、あの有馬で負けて以来嫌なことばかりが続いている。
世間からのバッシング、チームにかけた迷惑、昨日の記者会見での攻撃。
果てはウララ先輩がいなくなってしまうのも、あの敗北のせいだという気さえしていた。
そうだ。
ウララ先輩なら留年しててもおかしくない。
そしたらもっと一緒にいられるはず。
そうだ、なぜ今までその可能性を考えなかったのだろう。
「ふぅ〜」
バカバカしい。
顔を両手で覆って、またため息をついた。
遠くに渡り廊下が見える、校舎裏の花壇。
なぜこんな日当たりの悪いところに設置されているのかは謎だ。
ウララ先輩と初めて出会ったこの場所は、私のお気に入りのスポットだった。
一体いつから、彼女は私の心の中に居座っているのだろう。
彼女と出会う前の自分はどんなだっただろうか?
ほんの2年前のことなのに、その頃の自分をよく思い出せない。
たしかあの頃は、先輩のことがすごく嫌いだったはず。
いつもヘラヘラしていて、私と真逆のウマ娘だと。
それが、どうしてこんなにーー。
「プーイちゃんっ」
ふいに、足音がした、と思ったら同時に髪の毛をワシャワシャと撫でられた。
「うにゃっ…………あ、ウララ先輩……」
先輩はいつも突然現れる。
どういう訳か、いつも私が見つけるよりも先に、先輩の方が私を見つけてくるのだった。
「えっへっへ。プイちゃん考え事?」
「いえ……なんでもありません。ボーッとしてました」
初めてこの場所で会った時は、恐ろしいほどぎこちなかった彼女とのおしゃべり。
それが、2年も一緒にいると1人でいるよりも自然に感じるから不思議なものだ。
「あれ、卒業式の練習はいいんですか?」
「…………?」
先輩が不思議そうに首を傾げて、それから胸を張った。
「だいじょーぶだよ! わたし、立派に卒業できるから!」
そういうことじゃないと思うけど。
先輩は自信満々に胸をドンと叩いている。
彼女は変わらない。
今も、昔も。
能天気で、お気楽で、優しくて。
いつから、私はこの笑顔をまともに受け取れるようになったのだろう。
「お隣、いーですか?」
「ふふ。はい、どうぞ」
先輩が私の隣に座ってきた。
そうしてスマホを取り出して、私の方に差し出してきた。
「見て見て。写真、すっごくいっぱいあるの。プイちゃんと一緒に写ってるやつだけで、500枚もあるんだ!」
画面を見ると、昨日撮った写真。
先輩の引退レースを聞かされて呆然とする私と、真っ赤な目をした桐生院さんも写っている。
気づかなかったな。いつの間に撮っていたんだろう。
先輩の指が画面を横にスワイプする。
中山のレース場前で記念撮影した写真が現れた。
有馬記念を走る直前のもので、私の表情はとても固い。
絶対に勝利を先輩にプレゼントするんだって意気込んでた時の写真だ。
横にスワイプ。
クリスマスパーティーの写真。
プレゼント交換で、私が受け取ったのはフロウ先輩のバスグッズ。
彼女からにしてはまともすぎるプレゼントに、使う時はおっかなびっくりだった。
横にスワイプ。
初雪ではしゃぐウララ先輩と私。
先輩の鼻の頭は真っ赤。
横にスワイプ。
三冠特番でテレビ画面に映る私と先輩の自撮り。
こんな写真も撮ってたんだ。
横にスワイプ。
スワイプ、スワイプ…………。
そのカメラロールは、そのまま私のトゥインクル・シリーズの歴史だった。
無敗の三冠ウマ娘になった菊花賞の時。
私の隣で、誰よりも嬉しそうなウララ先輩の顔。
日本ダービーを勝った後に行った後の焼肉。
すごく美味しいお店だった。
小岩井のおっさんは、本当にそういうところで抜け目がない。
皐月賞の前日に行った神社。
私が引いたおみくじが凶で、別に気にしてなかったのに、『わたしが大吉だったから大丈夫だよ』ってウララ先輩が励ましてくれた。
先輩と過ごしてきた日々が星のように流れ、そして消えていった。
画面の上を滑っていく時の流れと、もうすぐいなくなってしまう隣の温もりの鮮やかすぎる対比が胸を刺す。
「あっ、これ一番最初のレースの日だね!」
スマホの液晶には、チームのみんなに囲まれた私の姿。
勝利して満足げな小岩井トレーナー。
舌を出してポーズを取るフロウ先輩。
正座して微笑むデュオペルテ先輩。
その真ん中で、ぎこちない変な表情の私と、抱きつくウララ先輩。
私がチームの一員として初めて走った交流戦の日の写真だ。
ああ、そうだ。
この日から、彼女が私の世界に入り込んできたんだ。
それまではただ自分のためだけに走ってきた。
勝利することで自分の存在を確立できる。
目の前の敵を殺してその屍の上に立つ。
それだけの、シンプルな世界だったのに。
「この時のね、プイちゃん。とってもカッコよかったなぁ」
自分以外の誰かが背中を押してくれる。
そんな経験は初めてだった。
生まれた時から探し求めていた自分の居場所。
それを見つけたような気がした。
「えへ……ありがとう、ございます。ウララ先輩のためにがんばりました」
「うんうん。えらいえらい!」
頭を優しく撫でられると、耳がキュッと絞られる。
嫌なわけじゃなくて、置かれた手の方に耳が擦り寄ってしまうのだ。
「わたし、プイちゃんの走ってるところがすっごく好きなんだ。だから、来週一緒にレースできるのが、とっても楽しみ」
「…………!!」
ウララ先輩と、レースをする。
それはとても嫌な響きを持った感覚だった。
一瞬でゾワっと背筋に冷たいものが流れ、足が震えた。
レースは情け容赦のない非常な世界。
結果が全ての、非常な競争。
それを、先輩と?
「あれ? 君たちは……」
不意に声をかけられて顔を上げると、5メートルほど先に見知らぬ男性が立っていた。
襟のバッヂからして、どこかのトレーナーだろう。
こんなところを通る人は珍しい。
ちょっと怪しかったけれど、レースのことを考えないで済むのはありがたかった。
「こんにちは! わたし、ハルウララ!」
ウララ先輩が元気よく挨拶したので、仕方なく私も会釈をする。
目の前のトレーナーが穏やかに笑った。
「やっぱりそうか。桐生院さんのチームの娘たちだね」
「え? ええ、はい。そうですけど……」
ディープのチーム、とかハルウララのチームとか、あるいは小岩井のおっさんのチームと呼ばれることはあっても、桐生院さんのチームと呼ばれたのは初めてだった。
「お兄さんもトレーナーさんなの?」
「ああ。桐生院さんは同期なんだよ」
そーなんだ!とウララ先輩が足をバタバタさせる。
「で、その、同期の方がどうされたんですか?」
「さっき部室棟で彼女に会ったんだけど、なんか元気なくて。何かあったのか、気になっちゃってさ」
桐生院さんが?
昨日の会見の件が尾を引いているのだろうか。
幸い、特にネットニュースなどで大きく扱われているような様子はなかったけど。
まあ、あんまり詳しいことを、他人に言う必要はないか。
本人もあんまり触れられたくないだろうし。
「葵ちゃんねー。昨日の記者会見のことかなぁ?」
「ちょっ……先輩」
目の前でトレーナーが不思議そうな顔をしている。
仕方がないので説明を加えることにした。
「昨日レース前記者会見があって、そこであんまりガラのよくない記者がいたんですよ」
「ふーん?」
「でもねー、葵ちゃんがバーって言い返しててねー、カッコよかったんだ!」
「うーん?」
いまいち的を射ない説明だった気がする。
まあいいか。
別にしっかり説明する必要もないわけだし。
教えてくれてありがとう、と目の前のトレーナーは穏やかに笑った。
「でも、桐生院さんはもう記者対応までこなしていてすごいなあ」
「え?」
「俺たちの同期で、もうそんなことまで1人でこなしてるの、桐生院さんだけだからさ」
「そう! 葵ちゃんはすごいんだよ!」
誇らしげにウララ先輩が腕を組んだ。
「ね、プイちゃん」
「え!? は、はい。そうですね」
昨日、私のために怒った彼女の表情を思い出すと、なんとなく心の底がじんわりと暖かくなる気がする。
けれど、本当に記者会見のせいで落ち込んでしまっているのなら……私の責任だ。
私が負けたせい。それが全ての始まりなのだから。
「あ! トレーナーだ。おーい!」
先輩が手を振った先に、小岩井トレーナーがいた。
向こうの渡り廊下を走ってたみたいだけど、何をしてるんだろう?
先輩の呼び声に気づいたのか、こちらに駆け寄ってきた。
おっさんにしては珍しく、何か焦っているようだ。
「……ウララ。こんなところで、何してるんだ?」
「えっとね。お喋りしてた!」
おっさんが顔面を手で覆った。
「ちょっと、一緒に来てもらうぞ」
「わーっ!」
おっさんが先輩の手を引いて、ひょいと抱え上げる。
そうして、また廊下の方へ歩いて行った。
「……ウララが卒業式の練習にいないから、俺が怒られちゃったよ」
「ええっ! トレーナー怒られちゃったの!?」
「そうなんだよ……」
おっさんがちょっと振り向いて、私に手で合図を送ってきた。
すまんな、あるいは、ちょっと借りるぞ、か。
はよ行け、とハンドサインを送り返す。
担当ウマ娘が何か問題を起こすと、真っ先に連絡が行くのはトレーナーだ。
同情しなくもないけど、あの人はもう少し怒られた方がいい、と思った。
「なるほど。そうか、いいトレーニングを思いついたぞ!」
突然、桐生院さんの同期のトレーナーが大声を出したから、びっくりして飛びのいてしまった。
「な、なに……?」
「あ……いや、ごめんごめん。ちょっと、自分のチーム練習に活かせそうな気がしてさ」
言っている意味がよくわからない。
今の会話の何をトレーニングに?
トレーナーっていうのは変な人しかなれないのだろうか。
この人も、あのおっさんも。
桐生院さんは……。
一瞬まともかとおもったけど、あの超人的な身体能力は変だ。
『トレーナーは変な人しかいない』という仮説に、ますます確信を含めたのだった。
「それにしてもーー」
目の前のトレーナーがクスリと笑う。
「君とハルウララさんは、とっても仲良しなんだね」
「……!」
彼が真顔でそんなことを言うものだから、思わず黙ってしまった。
人の良さそうな表情だけど、それなりに意味ありげなことを口走るところはさすがトレーナーのはしくれと言うべきか。
「先輩は……そういうのじゃ、ありませんから」
じゃあ、『どういうの』なんだ?、とは聞かれなかった。
少し頷いて、じゃあね、と言った彼はそのまま去っていく。
さっき思いついたトレーニングか何かを試しにいくのだろうか。
おっさんもウララ先輩も、あの変なトレーナーも去って、静かな校舎裏に私ひとりきり。
ウララ先輩は、私にとって何なんだろう。
考えるまでもない。
私の、たった一つの居場所だ。
唯一心安らげる陽だまり。
もし失ったらと思うと、ゾッとする。
パシパシ、とスカートを払って立ち上がる。
余計なことは考えずトレーニングに集中するべきだ。
桐生院さんの調子は気にかかるけど、きっと私のためにいろんなことを考えてくれているはず。
私は彼女に、勝利で報いる義務がある。
あの有馬記念の敗北は、いろんなことを私に教えてくれた。
自分の居場所は、戦って勝たなければ守ることができないこと。
一度でも負けたら、陽だまりは揺らいでしまうこと。
そうして、唯一の居場所さえ無くなってしまいかねないということ。
先輩の笑顔。
優しいチームのみんな。
どれも失いたくない、掛け替えのない私の宝物だ。
大切なものを守るために、私は戦う。
もう二度と負けは許されない。
レースに出て、目の前の相手を全て殺し、そうして自分の居場所を、絶対に守るんだ。
急遽このエピソード足したので、3/4は前後の整合性を取るためのメンテナンス日とします。