見渡す限りの人の顔。
中山のレース場は満員御礼の大騒ぎだった。
10万人の熱狂がビリビリと肌を震わせる。
『……みなさん、大変長らくお待たせいたしました! 本日のメインレースを開催します!』
実況が煽ると、ファンファーレが鳴り響く。
観衆の興奮は最高潮に達した。
目の前でウララ先輩が大きく腕を振りながら、踊るように前を歩いていく。
その先には、スターティングゲート。
中山1200メートルのダートレース、右回り。
条件については小岩井トレーナーが事前に調整している。
私としても、桐生院さんと一緒にトレーニングを積んできたから問題はない。
先輩の後を追って、隣の枠へ足を踏み入れた。
無機質な、ひんやりとしたパイプを掴む。
勝負の前の緊張、ウララ先輩とレースをするのだという戸惑い。
質の違う感情の層が幾重にも折り重なり、心の中に堆積している。
「ふーっ……」
パンパン、と隣の枠から、ほっぺたを叩く音が聞こえた。
先輩にとっては、これが最後のレース。
私が、彼女の最後の敵だ。
2回深呼吸、トントンとジャンプして足を確かめる、いつものルーティン。
だが、心を落ち着けることはできない。
私は今日、どうすればいいのだろう?
『あなたが望むものは、きっと勝つことでは手に入れることができないと思います』
桐生院さんの言葉が脳裏をよぎった。
何をバカなと切り捨てる自分がいる一方で、受け入れざるを得ない自分もいる。
私の望みは、ウララ先輩や桐生院さんたちのいるチームを守ること。
寄る辺のなかった私が手に入れた、唯一の居場所を守りたい。
けれど、このレースに勝つということは、先輩を敵にするということだ。
私の全ての力をもって敵を破壊しなければならない。
相反する2つの立場。
気づけば、その間で板挟みになっている。
どうすればいい。
私は、どうすれば……。
「プイちゃん」
突然、隣から話しかけられて驚いた。
あまりこの枠の中で会話をしたことはなかった。
「負けないからねっ」
「!」
ウララ先輩の言葉と同時にゲートが開いた。
『さあ、ハルウララ引退レース。両者が一斉にスタートしました……』
ゲートを一歩出たときには、既に先輩が体ひとつ分だけ前に出ていた。
私が出遅れたのではない。
先輩の出足が良すぎるのだ。
先輩は、本気で勝負を挑んできているんだ。
その意気には、全力で応えたいと思った。
芝のゾーンを抜けて、ダートへと足を踏み入れていく。
少し土に足を取られて、体が傾きかける。
逆方向に足を入れて、踏ん張って体勢を戻した。
予想以上にバ場が重たいな。
それが、まず初めの感触だった。
このレースの条件はウララ先輩のフィールドだ。
無理に仕掛けるよりは、まず丁寧にレースへ入ることが重要。
最初の300メートルを、先輩の後ろにピッタリと付く形で通過した。
「うッ……」
また一瞬体がグラついて、急いで体勢を立て直す。
今日は妙にバランスを崩す回数が多い。
上手くダートの起伏を隠すようにして、先輩が先行しているせいだ。
その上、先輩から距離を取ろうとして、左右へステップを踏んだり少しスピードを落とすと、まるで後ろに目でもついているかのようにピッタリと前へ張り付いてくる。
気づいた時にはいつの間にか走りづらいコースを強要されているのだ。
かといって前に出ようとすると……。
「……ッ!」
先輩が微妙に外側へステップを踏むことによって、斜め方向のランニングコースをつぶされてしまう。
私の呼吸を完全に読んだ絶妙なタイミングだ。
やりづらい。
その一言につきる。
流石に、今までこういう形のマークを受けたことはない。
1対1の二人立てのレースでしか通用しない戦法ではあるが、極限の集中力と経験の積み重ねがないと、ここまで徹底したブロックは絶対にできない。
勝負はたったの1200メートル。
気づけば後半戦に突入していて、あと1つカーブを曲がればゴールはすぐそこだ。
「!」
カーブで思ったよりも体が膨らんでしまった。
すぐに上半身でバランスを取って立て直す。
冷や汗が背筋を伝った。
主戦所である芝とダートの違い。
中長距離と今日の1000メートルの違い。
様々な差異が今日のレースにはある。
けれど、それ以上に先輩の技術にやりこめられてしまっている。
細かいスピードの上げ下げで、私のスタミナを的確に奪っていくのだ。
そろそろ本当に前へ出なければマズい。
グッと足に力を込めて、幾多の強者を屠ってきた必殺のフェイントを踏む。
内ラチ側にワンステップをいれて、思い切り身体を外側に出して相手をかわす、私の必殺技だ。
私にこの刀があるとわかっていても、敵は絶対にかわすことができない、必中の一撃。
足音と気配、そして身のこなしの全てに技術の粋が詰まっているこの技を、相手は絶対に受けてしまう、ハズだった。
「……ぐっ!」
だが、多次元的に知覚へ訴えかける私のフェイントを、先輩が全て読み切って叩き落とした。
信じられない思いで、揺れる桜色のポニーテールを見つめる。
私の動きを、全て読まれている。
ずっと一緒に練習してきて、私は先輩のことをずっと見てきたつもりだった。
だが、それ以上に先輩は私の走りを研究している。
私の微妙なクセや呼吸、その全てを先輩は知っているんだ。
そうとしか思えない動きだった。
強い。
そう思った。
『さあ、勝負は最後の直線に入る! ディープインパクトは前に出られないか……?』
ウララ先輩が一つも無駄のない動きで坂を登っていく。
その背中が一瞬、遠ざかる。
負ける?
暗い予想が心の隅を腐食する。
一瞬、あの有馬記念のラストが脳裏をよぎった。
あの日と同じ中山のレース場、最後の直線。
何度も悪夢に見た、あの坂が目の前。
いや、ダメだ。
あの日、もう負けないと誓ったじゃないか。
私に敗北は許されない。
勝つことが全て。
負ければ意味はない。
今まで、そうやってきただろう。
だったらどうする?
……決まっている。
目の前の敵を、殺して勝つ。
それだけだ。
ほとんど自動的に体が動いた。
何千、何万と繰り返し、体に沁み込んでいる動作。
さっきよりも深く、強く、地球を震わせるほどにステップを踏む。
敵の視界に私の姿をチラリと映し、相手が知覚した瞬間に逆方向へ舵を取る。
そうして絶望と恐怖を叩きこんで敵の心をへし折るのだ。
最後の直線で相手を抜き去って先頭に立つ、それだけの作業。
心にフタをして、ただ勝利を目指すのみ。
「ディープインパクトが坂を登っていくーーッ!!」
目の前の背中をかわし、並びかけた瞬間に敵の表情が見えた。
赤いイヤーカバーが揺れている。
頬を紅潮させ、その息遣いが、姿勢が、意気込みが、痛いほどに私に伝わってくる。
ウララ先輩。
今一緒に走っているのはウララ先輩じゃないか。
目の前の敵?
叩き潰す対象?
私は彼女を殺して、勝つのか?
私はーー。
「プイちゃんッ!!」
彼女が、本当に私の名前を叫んだかどうかは分からない。
だが、確かに私の方を見て、先輩が笑ったような気がした。
心の底からワクワクしているような、そんな満面の笑みで。
そして、ここにきて先輩が加速する。
まるでスタミナが無尽蔵に溢れていくように。
『ここでハルウララが前に出た! かわされない、かわされないぞッ!』
先輩が一歩前に出る。
肩と肩が少しぶつかった。
その微かな、しかし深い深い衝撃。
爽やかな風が、私の心のフタを吹き飛ばす。
一歩踏みしめるごとに、まるでこの星と一体化したような、そんな心地よい感触が身を包んだ。
ギュン、と足に力がこもる。
肺の痛みなど無かったかのように力が入る。
ラスト100メートル。
身体が春風に溶けて混ざっていく。
それは、まぎれもない歓びだった。
『ここでディープインパクトが大外に舵を切る! 大外に出るッ! 今日もその翼を広げるのでしょうかっ!!』
全身の器官がガチッと噛みあって、翼を広げる。
ウララ先輩が好きだと言ってくれた私の翼。
それはキリキリと風を切って海を渡る鳥の羽ではなく。
宇宙の風に乗ってふわり舞う蝶の羽。
そしてーー。
『ここでディープインパクトがゴール!! 少し遅れてハルウララ! 素晴らしい、素晴らしいレースでした!』
中山が万雷の拍手に包まれた。
有馬記念の時と同じように、ゴールした瞬間にへにゃりと座り込む。
けれど、あの日の比にならないほどいい気分だった。
「勝った……?」
掲示板は確かに私の勝ちを示している。
前にも確か一度、こんな風に勝ったかどうか分からないレースがあったな。
トテトテと、足音が聞こえてきて顔を上げる。
座っている私に向けて、手が差し伸べられた。
「プイちゃんっ!」
「せん、ぱい」
差し出された手を取ると、一層会場の拍手が大きくなった。
どんな音楽よりも祝福に満ちた音が、滝のように降り注ぐ。
「凄いレースだったぁ! 楽しかったねっ!!」
前にも、彼女に楽しかったと言われたことがあった。
あの時は上手く答えられずに逃げてしまったけれど。
「……ええ! 楽しかった、です」
ウララ先輩の身体を抱きしめる。
涙がこぼれない様に上を向いて、強く強く腕に力を込める。
やわらかくて、温かい、陽だまりに満ちた私の居場所。
次のエピローグで、完結です。