唸る風を吹き飛ばして第4コーナーを回る。
阪神の最後の直線は356メートル。
急勾配の坂が牙を剝く。
相変わらずこのコーナー付近に差し掛かると有馬記念のことを思い出すけれど、もはや支障はなかった。
えぐり取るような角度でグイグイとカーブを曲がっていく。
前の逃げを切らせず、後ろからも差させない。
桐生院さんと考えたレースプラン通り、早めに勝負をかけた。
コーナーの終わりを待たずに先頭に立つ。
ウララ先輩の引退レースが終わってからも、しっかりとトレーニングを積んできた。
桐生院さんはそれに一生懸命付き合ってくれたし、小岩井のおっさんも、チームメイトのみんなも。
息を意識的に大きく吸い込んで、止める。
膨らんだ肺から酸素が体に浸透して、エンジンが爆発的にピストンする、そんなイメージ。
ガチッとギアが上がって、翼を広げる。
明らかな私の独走態勢に、観客席から大歓声が上がった。
脚は加速して止まらない。
自分の想定通り、いやそれ以上に脚が伸びていく。
気づいたら前には誰もいない。
飛翔するような感覚で高揚する心のままに、翼を広げた。
『ディープインパクト1着! やはりこのウマ娘は強いのか!』
1番にゴール板を駆け抜けると、喝采に会場が包まれた。
ああ、楽しい。
大地を踏みしめて、思うがままに風を切る感覚。
親しい仲間の思いを背負って、その上で世界と連結する。
こういう感覚は走っている時にしか味わえない。
「ディープさんっ!」
桐生院さんが観客席から走ってきた。
ガシッと握手をして、肩をぶつけ合う。
今日のレース展開は、概ね彼女の予想通りだった。
1人で走っていたら、こう簡単には勝てなかっただろう。
「桐生院さん、あなたのおかげで、走れました。ありがとうございます」
「……!」
感極まったのか、彼女にぎゅっと抱きしめられた。
レース場のビジョンに私たちの姿が大写しになっていて、ちょっと恥ずかしい。
まあ、でも。
これも最後だからいいかな。
トレセン学園に新規でトレーナーとして採用された人は、1年の間どこかのチームでサブトレーナーとして研修を受ける。
それはつまり、桐生院さんの研修がもう終わるということを意味していた。
控え室に戻って、ウイニングライブの準備をする。
衣装に着替えてダンスの確認をしていると、ノックの音が聞こえた。
「失礼……お、プイちゃん。頑張ったな。見てたよ」
小岩井トレーナーが笑いながら部屋に入ってきた。
その後から、みんなも続いて入室してくる。
デュオペルテ先輩に、フロウ先輩、ドミさんと、それから。
「プイちゃんっ。今日もカッコよかったね! ライブも応援しちゃうよ〜!」
「ありがとうございます。ウララ先輩」
引退した身ではあるけれど、今日は私の復帰戦ということで、わざわざ応援しにやってきてくれた。
彼女にいいところを見せられて一安心というところ。
「ディープさん、そろそろリハーサルの時間です。準備はいいですか?」
「はい、大丈夫です。……それでは、行ってきます」
来てくれたメンバーたちに背中を叩かれながら、桐生院さんの後を追ってステージへ向かう。
応援してくれている人たち、そして仲間たちのために、一生懸命歌おうと思った。
リハを終え、本番の幕が上がると大きな拍手が出迎えてくれる。
ライブで歌ったり踊ったりするのは好きだった。
走っている時とは少し違う楽しさがあるような気がする。
もしかしたら、『楽しい』にもいろんな種類があるのかもしれない。
これから私は、一つづつそれを集めていくんだ。
そんなことを思った。
ライブが終わると、小岩井のおっさんが運転する車に乗って東京へトンボ帰りする。
チームメイトの応援に行くとき、出場する選手とトレーナーは新幹線か飛行機移動で、他のメンバーは車移動することが多い。
今回も、本来なら私はホテルに一泊して、翌日新幹線で帰る予定になっていた。
けれど、今日はなんとなく皆で車に乗りたいような気分だったのだ。
みんなで遠征するのも、これで最後だし。
できれば車中でずっと起きていたかったのだけれど、レースの疲れがそれを許さない。
高速道路に乗ったあたりで瞼を閉じたことは覚えている。
目覚めた時にはもう高速を降りていて、夜もとっぷりと更けていた。
「ねえ~、葵ちゃん。本当に独立しちゃうの? もう一年くらい、サブトレーナーやってもいいんじゃない?」
しんと静まり返った郊外の住宅街の道を通っていると、突然フロウ先輩が泣き出した。
桐生院さんの研修はもうすぐ終わりを迎える。
4月になれば、一人前のトレーナーとして羽ばたいていくのだ。
「フロウさん……ありがとうございます。でも、すみません。やっぱり一人のトレーナーとしてやっていくのが昔から夢だったので……」
「うう〜、ヤタローちゃんも止めてよぉ。葵ちゃんいなきゃ事務仕事とか困るっしょ?」
ハンドルを握る小岩井のおっさんがちょっと笑った。
「うーん、まあそうだな。でも葵は一人で自由にやるのが向いてると思うからさ。俺からも独立を勧めたんだよ」
ええ~、とフロウ先輩が嘆きの声をあげた。
おっさんは桐生院さんに最初から結構仕事を任せていたし、初めから1年で彼女を育成するつもりだったのだろう。
デュオペルテ先輩がフロウ先輩を慰めながら、おっさんの方を見る。
「でも、そうすると来年は弥太郎さんだけでチームを運営することになるのですか?」
「いや、まあその辺は学園とのギブアンドテイクというか。来年度は何人かサブトレーナーを見繕ってくれるって話がついてるよ。葵は優秀だったから、2人くらいいないと穴が埋まらないと思うしね」
助手席で桐生院さんが照れている。
学園に何をギブしたのかは知らないけれど、きっと高知への長期出張の条件とかそういうことだったんだろう。
おっさんは、本当にそういう小細工が得意だ。
「で、どうだった? プイちゃん」
運転席から急に話しかけられて少しびっくりした。
バックミラー越しに、彼が笑っているのが見える
「どうって、何がですか?」
「今日のレースだよ。走ってみて、どうだった?」
チラリ、と桐生院さんと目が合った。
鼻で少しため息をついた。
ここで変な意地を張っても仕方がないか。
「楽しかった、です」
そっか、と彼は満足げに前を向いた。
ぎゅ、と横に座っているウララ先輩に抱きしめられる。
やわらかい感触と、私の好きな匂い。
「今日は随分と静かだな、ウララ。寝てるのかと思ったぞ」
「うん……えへへ。なんだか、嬉しくって」
ウララ先輩の柔らかい指が頭皮を優しく刺激してきて気持ちいい。
まるで桜の大木に抱きついているような安心感があった。
「なんか、こう。『ワーッ』ってなる嬉しさじゃなくて、じんわり、幸せだぁって、思う」
そんな風に優しい声を出さないで欲しい。
彼女のお腹に顔を埋めた。
「あのね、初めてペルちゃんがチームに来たとき、すーっごく、嬉しかったんだ。わたし、今までずっと1人で走ってきたから。なんて言うんだろ。お友達はいたけど、そうじゃなくて、一緒に同じ方を向いて走る仲間っていうか……」
わかるよ、と小岩井トレーナーが穏やかに返事をする。
トレセン学園の中で、彼女の存在は異質だ。
『周囲と違う』ということが、時にどれほどの孤独を生むのか、私は知っている。
「それでね。ペルちゃんがおふろちゃんを連れてきて、それからプイちゃんが入ってくれて、ドミちゃんも。……わたしね、みんながいてくれて、とってもとっても幸せ、だなあ」
このチームは、私だけじゃない。
先輩にとっても大切な居場所だったんだ。
私は、彼女の居場所を守れただろうか?
いつも貰ってばかりで、私は何か彼女に返せたのか。
否応もなく時は過ぎ去っていって、二度と戻ることはない。
最後なんだ。これが。きっと。
そう思うと、止まらなくなった。
「引退レースもプイちゃんと一緒に走れて、それで……って、プイちゃん!?」
「うっ……ぐうっ……せんぱい……」
ボロボロと大粒の涙が溢れて流れ落ちる。
ウララ先輩が大声を出したものだから、車が路肩に止まって、全員がわたしの方を見た。
恥ずかしかったけれど、そんなことはどうでもいいと思った。
いつの間にか寮の近くまで帰ってきていた車が、桜並木を徐行していく。
桃色の花びらが月夜に輝いて、舞い散るのが見えた。
みんなに慰められながら、撫でられながら、ただ温かさを感じていた。
これからもこの場所を大事にしていこう。
誰がいつ出て行っても、いつでも帰ってこられるように。
時が流れても、大切なものをいつまでも受け継いでいけるように。
大好きだと、そう思った。
◆
「え? 新人さんなんですか? いや、流石にちょっと……」
「あ、もう私チーム入るの決めたんで」
「話だけでも、ですか? いや~、この後は予定が詰まっちゃってて、すみません」
甘かった。
あのディープインパクトのいるチームで研修をしていた、と言う肩書だけでは、私のような2年目の新人トレーナーのスカウトに乗ってくるような娘はいない。
4月の陽光の下、精力的に足を動かす生徒たちを見ながら、ベンチでうなだれる。
ダメダメ、しっかりしないと。
ここでへこたれていたら、ディープさんたちに申し訳が立たない。
それに、私は桐生院の名を継ぐトレーナーなのだから。
「何してるんですか」
顔を上げると、最強のウマ娘がそこに立っていた。
「あはは……。ちょっと休憩してただけですよ」
「スカウト、上手くいってないみたいですね」
「うぐっ……」
ディープさんが隣に座った。
木漏れ日が柔らかく彼女のスカートに落ちる。
これからトレーニングに行くのだろうか。
「チームのみなさんは、お元気ですか?」
「ええ。先輩たちはみんな元気そうです。後輩も2人入ってきて、おっさんが……小岩井トレーナーが大変そうにしてます」
「あはは……。ディープさんは次、天皇賞ですね。頑張ってください」
「ええ。勝ってきますよ」
そう口にする彼女の表情は、とても楽しそうだった。
まるで、今からレースをすることが楽しみで仕方ない、というような。
「桐生院さんのスカウトが上手くいったら、みんなでご飯に行こうって、ウララ先輩も言ってました」
「わわ……、頑張らないと。ウララさんとは今でも話すんですか?」
「そうですね。結構忙しくされてるみたいですけど、たまに遊びに連れて行ってくれるんですよ」
わっ、と歓声が上がってコースの方を見下ろすと、レース講習が佳境を迎えていた。
ボンヤリとそれを見つめていると、一人のウマ娘に視線が吸い寄せられる。
決して速くはないけれど、綺麗なフォーム。
白毛という以外に、目立った特徴がない。
いや、なさすぎる。
デビューもしていないこの年代において、ここまで特徴のない、言い換えれば欠点のない走りができるものだろうか?
結局、その娘は6着でゴールした。
誰と話すでもなくそそくさと荷物をまとめている。
「あの白毛の娘、面白いですね」
「! ディープさんもそう思いますか?」
「ええ。ああいう走り方の娘って、あんまり他にいないので……」
彼女の言葉を遮るように、後ろから2人のウマ娘が話しかけてきた。
「あーっ! プイちゃん先輩、こんなところに!」
「ちょっとアンタ! そんな呼び方、失礼でしょ!」
「うっせーなー。先輩っ、俺、今から走んスけど……」
「わ、私も! ディープ先輩……その、レースを見ていただければ……」
小岩井先輩のチームの1年生だろう。
2人とも元気そうないい娘たちだ。
ディープさんがポリポリと頭をかいて、彼女たちの方を向き直る。
「わかった。ここで見てるから、2人とも頑張ってね」
「よっしゃあ! 絶対1着取るから見ててくださいね!」
「バカ! 1着とるのはこのアタシなんだからっ!」
2人が競い合いながら駆けていく。
後ろ姿を見送るディープさんの表情は、陽だまりのように優しかった。
ふと、彼女がコース脇の方を指差した。
「さっきのあの白毛の娘、行っちゃいますよ。声かけなくていいんですか?」
指先の方向、ロッカールームに向かってあの娘が1人歩いていくのが見えた。
「あ、わ、私、行ってきます!」
「はい……あ、桐生院さん!」
駆け出した足を止めて振り返る。
「きっと、大丈夫です。すぐスカウトも上手くいきますよ。私の、元トレーナーだったんですから」
「……!」
そう言って、ディープさんが微笑んだ。
風にひらり舞う蝶のような、美しい笑顔だった。
「あ、ありがとうございますッ!」
手を振る彼女を背に、目的の方へと走り出す。
心臓がドキドキしてうるさかった。
さっき見た彼女の走りが頭から離れない。
初めてディープさんの走りを見た時と、種類は違うけれど、どこか似たような衝撃を受けていた。
全力で足を動かして、白毛のウマ娘の後を追いかける。
「あ、あの!」
ポツンとひとり、歩いている彼女の背中に声をかけた。
「…………はい」
物静かな、独特のテンポで会話をする娘。
おっとりとした雰囲気だが、その目には力強い輝きが灯っていた。
「えっと、あの、その。さっきのレースを見てて、えーと、つまり……」
また断られるかもしれないと思うと、話を切り出すのが怖い。
でも、何か感じるものがあったのだ。
この娘と一緒に飛んでいきたい。
色んな景色を、横で一緒に見たい。
そう強く思った。
「私は桐生院葵と言います。トレーナーです」
そう、私はトレーナーなんだ。
鋼の意志で前へ突き進まなければ。
「あの、お名前を聞かせてもらってもいいですか?」
春の風が優しく吹き抜けて、桜の花びらが彼女の白い髪にぽとりと落ちた。
小さな唇が、花咲くように開く。
「ミーク……ハッピーミーク…………です」
完結しました〜!
みなさま、読んでいただいてありがとうございました。
いただいた感想や評価のおかげで、ここまで書ききることができました。
また別の長編も考えておりますので、またお目にかかることがあればよろしくお願いいたします!