「おそいっ! 遅れてんぞ! 何をチンタラしとんねんっ!」
直射日光が厳しく降り注ぐグラウンドに、監督のドスの効いた怒号が飛ぶ。
私が直接に怒鳴られているわけではないが、なんとなく心が寒くなった。
肉体的に追い込まれるメニューを、延々と繰り返して自分を追い詰めていく。
ああ、トレーニングって、これだよなぁ。
疲れた足を引きずりながら、ぼんやりとそう思った。
ハルウララのチームの練習に参加した翌日。
私はまた別の名門チームに混じって汗を流していた。
ここの監督は、私が育成年代のレースでいい成績を取ったときから目をかけてくれている人。
私がこのチームの練習に参加するのは、学園に入学してからもう3度目だ。
付き合いがなまじ長いだけに、トレーニングに誘われると断りづらい。
別に加入するわけでもないのに中途半端な気持ちで承諾するのはよくないとは思いつつ、なんとなくズルズルと付き合いで何度も練習に参加してしまっていた。
ようやく全ての練習メニューが終了し、座っている監督を中心に生徒たちがぐるっと取り囲む。
合計20人はいるだろうか。
中には私でも知っているような、G1のレースに出ている先輩の顔もある。
「お前ら、分かっとんのか?」
監督が低い声で一喝する。
もともと締まっていた空気が、さらに一段階ピリッとした。
もう5月になりそうな春なのに、黒いベンチコートを着たずんぐりむっくりのシルエットの中年男性。
たるんだほっぺたが喋るたびにブルブルと震えているけど、それを見て笑える雰囲気ではない。
「この中にはレースの近い奴もおる。なんのために走っとんのや?」
「勝つためです!」
監督の問いかけにひとりのウマ娘が即答する。
一部の生徒たちからは軍隊と呼ばれ、恐れられているこのチーム。
圧倒的な統率力と練習量で、かつてはG1ウマ娘を量産したことで知られている。
勝利のため、全てを犠牲にして走るのがポリシーだ。
「そうや。 お前らは勝つためにここにおる。勝たへんとなんの意味もないねん。それを肝に銘じとけや」
ハイ、と統率のとれた返事がユニゾンする。
それを合図にトレーニングが終了し、メンバーが一斉にロッカールームへ向かう。
私も荷物を拾い上げようとして、ため息をつく。
昨日と違って、肉体というよりは精神的に疲れていた。
勝たないとなんの意味もない。
その通り。
100%正しい、はずだ。
しかし、どこか心の隅っこに違和感が残っている。
今までになかった感覚。
昨日おかしなトレーニングに付き合ってしまったからだろうか。
「おい、ディープ。ちょっと来いや」
「はい」
監督のダミ声が私の名前を呼ぶ。
そろそろ俺のチームに入れ、とこう来るのだろう。
回を重ねるごとに、スカウトを断りづらくなってきている。
もう、潮時かもしれない。
あまり気乗りはしないが、身の振り方を考えるべきか。
「お前……昨日は何しとった」
「昨日、ですか」
思いもしなかった質問に少し面食らった。
なんの話か見当がつかない。
私が何と言うべきか考えていると、監督がその思考を遮って話を続けた。
「いや、分かっとる。 昨日は
小岩井、とハルウララのトレーナーのことを、監督は憎々しげに吐き捨てた。
そういえばあの男、そんな名前だったっけ。
「いえ……」
入ろうとは思わなかったのだろうか?
自分でもよくわからない。
あのチームで、ハルウララと、あのトレーナーや先輩たちと一緒に走る。
自分にそんな未来の選択肢があるのだろうか。
「ええか。お前はいい才能を持っとる。それで勝てるかどうかは、環境にかかっとんのや。あんなヌルいお遊び同好会とつるんどったら、お前の才能が枯れてしまうんやぞ」
「…………」
ヌルいお遊び同好会。
その通りかもしれない。
昨日の練習中、彼女たちは一度も“勝つ”ことに言及しなかったし、そもそもの話でチームの要件を満たしていない。
今まで私は勝つことで自分の存在を証明してきたし、そのためにトレセン学園にいる。
「お前の姉貴は勿体無いことしたな。俺のスカウトを素直に受けてたら、皐月賞だって取れたんや。ウチには最高の機材とスタッフが揃っとる。勝つための材料が全部あんのや。分かるか?」
姉の名前を出されて心が底冷えする。
そもそもこの監督が私に目をつけたのは、姉にスカウトを断られたすぐ後のことだった。
彼女は結局、どこかのキャリアの浅いトレーナーにスカウトされて個人担当になった、らしい。
最近はちゃんと話してないのでよく知らないけど。
「姉は、私に関係ないので」
姉が誰にスカウトされたとか、姉が皐月賞でどうだったとか。
何も、何も私に関係ないじゃないか。
深呼吸をして、毛羽立った心をなだめる。
目の前の監督の言うことも決して間違ってはいない。
練習生として参加しただけでも、このチームの環境が最上級なのはすぐに分かる。
ここに加入すれば、きっと何不自由もなくトレーニングに邁進できるのだろう。
だけど、なぜかすぐに同調する気にはなれなかった。
私が押し黙っていると、監督がため息を吐いた。
ぐっ、と見上げるように私をにらみ、立ち上がる。
「フン、まあええやろ。お前に証明したるわ」
おい、と監督はサブトレーナーに合図を送り、その場から立ち去っていく。
呼ばれた女性がタブレットを片手に私のところへやってきた。
「あのね、知ってるかもしれないけど、学園のチームは交流戦をよくやっていて……」
タブレットにはチーム交流戦のスケジュールが表示されている。
5対5のチーム交流戦はトレセン学園の花だ。
公式非公式を問わず日常的に開催されていて、見物客で毎回大いに盛り上がる。
サブトレーナーが2週間後の日付を指差す。
そこには対戦相手として、ハルウララのチームの名前があった。
彼女から話を聞いているうちに、監督の狙いはだいたいわかった。
要は、あのチームを交流戦で叩き潰して、私を引き入れたいのだ。
「でね、監督はあなたに勝負を見てほしいって思ってるの」
茶番だ、と思う。
名門チームとチーム以下の同好会の対決。
まともな勝負になるとは思えない。
しかし、なぜだろう。
「分かりました。当日は観戦させてもらいます」
なぜかレースの結末がどうしても気になっていた。
胸の中で、2つの相反する感情がぶつかって弾け、混ざり合う。
ハルウララ。
彼女の、あの甘っちょろい笑顔をギタギタに叩き潰してほしいと願う自分と、そして。
「ディープさん」
サブトレーナーの声でハッとすると、彼女が私の目をまっすぐに見ていた。
このチームに参加するときは、彼女が主に私の世話を焼いてくれている。
柔和で物静かだが、芯の強い女性。
「監督は、あなたに加入して欲しいと思ってる。それはもちろん、私も同じだけど」
「それは……ありがとうございます」
「ちょっと歩きながら話しましょうか」
コースを予約している次のチームが歩いてくるのが向こうに見えた。
バッグを拾い上げ、私たちは並んで歩きながら会話を続ける。
「多分、小岩井クンもあなたに入ってもらいたいんだと思う。でもね、結果がどうなっても、そんなの関係ないから。あなたはあなた自身が望む場所に、進まなきゃダメよ」
強い意志を感じさせる口ぶりだ。
顔を見ると、彼女が穏やかに笑っていた。
ありがとうございます、と目を逸らしてぶっきらぼうに答える。
ちょっとだけ、恥ずかしい気持ちだった。
結果がどうなっても、と彼女は言った。
この人はこの人で、何か考えていることがあるんだろうか。
そんな風に思考を弄んでいると、気づけばロッカールームの前に着いていた。
サブトレーナーと別れて、私だけ中に入る。
チームの人たちはもういなくなっていて、部屋には私ひとりだけ。
シャワーを浴びている最中も、頭の中は交流戦のことでいっぱいだった。
「あ……」
シャワーの水流で、膝から絆創膏がペロンと剥がれてタイルの床に落ちた。
そういえば、昨日こんな絆創膏をもらったっけ。
濡れてビロビロになったテープを丁寧に折りたたんで、壁のくぼみに仮置きする。
メッシュの箇所に描かれた可愛いキャラが、こちらに微笑んでいた。
荷物をまとめてロッカーから出ると、もう西日が眩しい時間帯だった。
しまった、帰っても食べるものがなかったような気がする。
一旦寮に帰るのも面倒なので、そのまま直接買い物に行くことにした。
スーパーに一番近い裏門へ至る道は、グラウンドの周りを通る。
歩道自体が小高くなっていて、ダートコースを見下ろせる道だ。
夕焼けに土が照らされて、
「ふぁいおっ、ふぁいおっ」
遠くの海を、聞き覚えのある声が横切っていく。
200メートルくらい離れたここからでも、動きが大きいからハルウララとそのチームだとすぐに分かった。
逆光でよくは見えないが、チーム全体がやはりなんとも緩んだ雰囲気に思える。
今日体験した、監督のチームとはまるで対照的だ。
ヌルいお遊び同好会、か。
監督のダミ声を思い出す。
そう言われたとき、私はどう思ったんだろう?
ふと自分に近い方のベンチに立っている人影が、手を振っていることに気づいた。
背の高い男性が手のひらをこちらに向けてユラユラさせている。
小岩井トレーナーだ。
昨日、もう関わり合いにならないって決めたのに、いつの間にか彼らのレースを見届けることになっている。
運命の皮肉に眉根が寄った。
彼にぺこりと会釈をして、逃げるように裏門の方へ走っていく。
圧倒的に不利な状況で、あのトレーナーはどうするんだろう。
まだ会って間もないけれど、策士らしいことは分かる。
あの変なチームは、変なウマ娘は、変なトレーナーは、いったいどんな勝負をするのだろう。
それを考えると、おかしな話だが妙にワクワクした。
別に自分が走るわけでもない。
それにあの女性のサブトレーナーの言う通り、どっちが勝とうが私の道は私が決める。
だと言うのに、生まれて初めて、私はレースというものに対して高揚感を覚えていた。