その足が地を打ち鳴らすたびに、音が波となって押し寄せてくる。
一歩一歩が隕石群のように地球を穿ち、震わせる。
それは圧倒的な走りだった。
集団を完全に掌握し、一番いいポジションを最後まで譲らない。
伝説となったあのジャパンカップと同じ、他を寄せ付けない全身全霊の末脚。
突風のように他のウマ娘を6バ身差で蹴散らし、1着でゴールする。
『強い、強すぎる!スペシャルウィーーク!! これでチーム戦は2勝同士で最終戦にもつれ込みます!』
場内が総立ちになって拍手を送る。
こんなところで彼女の走りを見られるとは思わなかった、という驚きに満ちたリアクション。
スーパースターの貫録を見せつけたスペシャルウィークは、大きな拍手を背にベンチへと戻ってきた。
私もこんなに間近で彼女を見たのは初めてだった。
多少の不利があっても強引にポジションを修正する力強さ。
一番ロスの少ない道を誰にも譲らない、天才的なコース取りのセンス。
そして、何より爆発的なあの末脚。
どこを切り取っても超一流のパフォーマンスだった。
「やったぁ! スペちゃんすごいすごい!」
「えへへ……ウララちゃんの役に立ててよかったぁ」
ハルウララと、走り終わったスペシャルウィークが目の前で談笑している。
伝説のダービーウマ娘。言わずと知れた日本の総大将。
こんな大物を助っ人に呼んでいたのか。
向こう側の相手ベンチを見ると、監督が怒りのあまり被っていたキャップを地面に投げつけている。
ボコボコにできると思っていた相手のチームから、急に伝説のウマ娘が出てきたのだ。
もし私が向こうの立場だったら、おんなじように納得いかないだろうな。
そんなことを思っていると、ハルウララが私の方を振り向く。
「スペちゃん! この娘がプイちゃんだよ!」
「プイちゃん……? はじめまして! 私、スペシャルウィークといいます!」
「し、知ってます……!」
黄金世代と呼ばれた彼女たちのクラシック戦線は、小学生の私を魅了した。
世界に羽ばたいた怪鳥エルコンドルパサーに、栗毛の怪物グラスワンダー、そしてトリックスターのセイウンスカイと不屈の王キングヘイロー。
キャラの立った数々の猛者たちの中で、私が一際好きだったのがスペシャルウィークだ。
レースもそうだけど、どこか他人と思えない雰囲気を漂わせている彼女のことをテレビ越しにずっと見ていた。
そのスペシャルウィークが、今、目の前にいる。
「よ、よろしくお願いします」
「はい!」
緊張でガチガチになりながら握手をさせてもらった。
うわ、ちょっとこれは、もう手を洗えないかも……。
『さあ、交流戦は2対2の同点、次のレースですべてが決まります!』
実況の声で我に返った。
そうだ、まだ勝負は終わっていない。
助っ人Aはスペシャルウィーク、となるともう1人は誰なんだろう。
辺りを見回しても、それらしきウマ娘は見当たらないけれど。
まさか、もう1人黄金世代を呼んでたり……?
いや、流石にそれはないか。
そもそも、レースに出ればその後のトレーニングスケジュールを調整する必要が出てくるし、何より怪我のリスクもある。
相当な交渉をしないと、現役のウマ娘を借りてくることなどできないのだ。
ヂリリ、とトレーナーのスマホが鳴った。
一瞬不安そうな表情を浮かべて、彼が通話しだした。
「あ、はい……え!!? はい、はい、あ……故障、ですか」
怪しい雲行き。
不穏な響きの言葉が、周囲の雰囲気をピリッとさせた。
トレーナーの顔がどんどんひしゃげていく。
電話を切り、トレーナーがチームメンバーの方を向く。
「助っ人B、故障で出られないそうだ……」
メンバーから悲鳴が上がる。
ここにきて欠員の発生。
このチームには控え選手はいない。
欠員イコール即不戦敗が決まる、ということだ。
流石のハルウララもちょっと難しい顔をしている。
「仕方ない、プラン変更だ」
トレーナーが急いでスマホをタップし、どこかへ電話をかける。
数回のコール音が鳴って、誰かが電話口に出る。
「あの〜、以前念のためお願いしていた件でですね…… えっ、あ〜、なるほど。監督に。そうですよね……ご迷惑をおかけしちゃってすみません」
電話が切れる。
今まで見たことがないくらいに蒼白な顔色のトレーナーが、ハルウララの方を見た。
「ウララ…… 今からキングヘイローを呼べないか」
「うーん。キングちゃんは、今日は遠征中なんだよねぇ」
彼女の言葉にトレーナーはがっくりと肩を落とす。
なんだか大変そうだべ、とスペシャルウィークがつぶやいた。
バックアップのプランを用意していたところは流石だが、しかしそれもどうやら上手くいかなかったらしい。
「万策尽きたかな…… 」
トレーナーが悲しそうにスマホをポッケにしまった。
それは、チームメンバーの欠員が決定したことを意味する。
今から3200メートルの長距離を走るウマ娘を探してくるのは難しいだろう。
しかも、ただ走るだけではダメで、勝負に勝つ必要があるのだ。
ゲームオーバー。
実際、彼らはよくやったと思う。
助っ人込みとはいえ、名門チーム相手に2対2。
こんな弱小チームでよくここまで戦ったものだ。
『……繰り返します。最終レースは間も無く開始いたします。選手の皆さんはパドックへ集まってください……』
場内アナウンスが重苦しいベンチに響く。
ハルウララの耳もペタンと垂れてしまっている。
なんとなくこれ以上見ていたくないような光景だった。
数秒の沈黙。
誰も口を開くことができない。
そんな中で、ガシッ、と。
ハルウララが急に手を握ってきたので、驚いて私の尻尾が逆立ってしまった。
「わっ、ど、どうしたんですか」
「プイちゃん! ちょっとこっちに来て!」
強引に腕を引っ張られて、ベンチから連れ出される。
ハルウララは私をベンチに日よけとして設けられているタープの裏の影に連れて行った。
濃い影の中で、彼女の燃えるような瞳が際立っている。
「あのね、プイちゃん」
なんでしょう、と私はハルウララの目を見つめ返す。
彼女の白い勝負服に付着した泥の汚れが、日よけの布を通り抜けてきた薄い日光のヴェールでキラキラと光った。
こんなシチュエーションで言われることは一つしかない。
『私たちのために走ってくれないかな』
それだけだ。
「わっ」
ざぁっと強い風が吹いた。
髪の毛を抑えた私の左手を見て、驚いたように彼女が声を上げる。
「ああっ! プイちゃん、私の絆創膏してくれてる!」
さっき左手に巻いた絆創膏が目に入ったのか。
本人に使っているところを見られて、妙に気恥ずかしい。
「あ、はい。すみません、この間いただいたやつで」
「えへ。おそろいだねっ!」
誇らしげに彼女は足を前に出した。
ハルウララのトレードマークでもある、足に貼られた数多くの絆創膏。
彼女がたくさん走ってきたという端的な証拠だ。
一緒に練習してみて気づいたことだが、ハルウララはとにかくよく走る。
集中力に欠け、比較的すぐに泣き言を言うけど、少し時間を置いたりトレーナーと話したりするとすぐに復活する。
もちろん、工夫の粋を凝らした練習メニューがあってこそだとは思うけれど、どんなトレーニングも誰より楽しそうにニコニコと走る。
結局、合計すればチームで一番走り込んでいるのは彼女だろう。
『次のレースで1着を取りたいんだ!』、『わたしが一番ッ!』。
トレーニングの中で、そんなような言葉を彼女はよく口にする。
正直、意外だった。
てっきりそういう気持ちが全くないウマ娘だと思っていたから。
そして、同時に地獄だとも思った。
ハルウララには勝ちたいという気持ちが確かにある。
その気持ちを胸に抱きながら、しかし負け続ける現実の威力はいかほどだろう。
レースでの敗北は存在の否定だ。
勝者はただ1人、他の全員を粉砕して屍の上に立つのだから。
だとすれば、なぜ?
なぜ彼女は走り続けられるのだろう?
「……あの、私に何か言いたいことがあったのではないですか?」
「ああっ! そうだった!」
まん丸に目を見開いて、口に手を当てる。
それから、少しためらうようにモジモジと体をひねった。
「その……言いにくいんだけど……」
正直、驚いた。
あのハルウララでも、こんなシチュエーションだと言いよどむことがあるんだ。
珍しい姿に思わず見入ってしまう。
もし、5人目のメンバーとしてレースを走るように言われたら、どうしよう。
どうするのが正解だろうか。
「プイちゃん、前にスペちゃんとお友達になりたいって言ってたでしょ?」
「え……? は、はい。言いましたけど……」
確かに尊敬する彼女と一回お話ししてみたい、とは以前ハルウララに言った記憶がある。
しかし、話が見えない。
いったい何を言おうとしているのだろう?
「スペちゃんすっごく優しいから、プイちゃんが直接言ったら絶対お友達になってくれると思うんだ」
風の音が消えた。
「………………………………え? そ、そんな、ことですか?」
「うん! さっき急にね、思い出したの!」
彼女の笑顔が暗い影の中でひときわ輝く。
今、彼女はなんと言った?
友達? 私と、スペシャルウィークが?
私の常識では翻訳できそうにない言葉に、脳が処理落ちする。
勝負に勝つためには長距離を走れる強いウマ娘が今すぐ必要で。
おあつらえ向きのウマ娘が目の前にいる。
勝負のためには、勝つためには、私にお願いするしかないはず。
なのに。
ここで私のお友達の話……?
「う、ふふ。あははっ。な、なんですか、それ」
「そうそう! 今みたいな笑顔で話しかけたら、きっとスペちゃんと友達になれるよ!」
「ひっ、あはっ、やめ、やめてください……! わ、笑い死ぬ……」
こんなに腹を抱えて笑ったのは生まれて初めてだった。
お腹を抑えて柔らかい芝に膝をついた。
ハルウララだって勝ちたいと思っている。
それは確かなこと。
けれど、今、彼女の
それは多分、勝利だけが彼女のゴールじゃないから。
彼女は、本当にそんなところで勝負をしていないんだ。
『ハルウララは、最強のウマ娘です』
そんなことを、昨日あのトレーナーが言っていた。
あの時はよく意味が分からなかったけれど、今なら少し理解できる。
勝利を選ばなくてもいい。
そんな、そんな世界があったのか。
腹筋がちぎれそうで、涙が止まらなかった。
「れ、れ、レースは、どうするんですか?」
「うーん、まあ。しょうがないよねぇ。 また明日からがんばるよ!」
私の手を握って、また満面の笑み。
太陽だってこんなに朗らかには笑えないだろう。
差し伸べられた手を取って、彼女に立たせてもらう。
その拍子に左手の絆創膏が擦れて剥がれ落ちた。
「あっ、取れちゃった」
血はもう止まっていた。
赤い赤い線が、一本薬指に入っている。
別の絆創膏を取り出そうとする彼女を静止して、グッと手を握った。
「ウララー、大丈夫かー?」
「あ、いま戻るよっ! プイちゃん、行こっ」
ハルウララはまた『明日』頑張る、と言った。
だが、その日が来るかどうかはわからない。
ここで不戦敗になって結果的に勝負に負ければ、新メンバーが入ってくる望みは薄い。
一定期間メンバーが集まらないチームは解散を命じられる場合もある。
そうなれば、彼女が頑張ろうとしている明日は、もう無くなってしまうかもしれないのだ。
勝利を選ばなくてもいい。
けれど、それで失われてしまう世界が、間違いなくある。
それはイヤだなぁ、と思った。