『さあ、盛り上がりを見せた本日の交流戦もいよいよ最終レース! 選手が続々とゲートに入っていきます』
しっかりとウォーミングアップをして、蹄鉄の調子を確認する。
いつもより体が熱く、柔らかく、そして軽かった。
「ディープインパクトさん、結局あのチームに入るのですか?」
対戦相手のウマ娘がにこやかに話しかけてきた。
暗く燃えるような鹿毛の長い髪。
そして光を吸い込むように真っ黒な瞳。
現役でクラシック級のGⅠレースに出ている、一流のウマ娘だ。
彼女の走りは何度か見たことがあった。
末脚の伸びに自信があるタイプで、最後方から一気に捲る追込の走りに定評がある。
「うふふ。あなたが変なチームに入って勝手に潰れてくれば、私のチャンスが増えるので別に良いのですけれど」
「……どうするかは決めてません」
トントン、とジャンプして最後の確認。
うん。調子は良さそうだ。
「けど、私が勝ちますよ」
長身の彼女をにらみ返す。
逆説的ではあるが、今までこんなに勝ちたい、と思ったことはなかった。
暗い鹿毛が揺れて、クスリと笑った。
夏のマンホールで跳ねるオタマジャクシを見下ろすときのような、なにか憐れみのこもった目線。
「可哀想な娘。みんなの期待を一身に背負って。お姉さんと一緒ね。『早く楽になりたい』って魂の叫びが聞こえてくるわ」
姉を引き合いに出されて、瞬時に頭に血が上った。
全身の血管がボコボコと騒ぎ出す。
「……ッ!」
安い挑発。
頭ではわかっていても、体が反応してしまった。
衝動的に襟首を掴もうと腕を伸ばす。
しかし、同時に指の傷にヒリヒリと痛みを感じて、我に返った。
一本、赤い糸のような切り傷が太陽に照らされてほんのりと輝いている。
血はもう止まっていた。
伸ばしかけた手を下ろす。
暗い鹿毛の、その真黒の瞳に穴を開けるように、鋭く睨みつける。
「…………私にも、聞こえますよ。『ジュニア級未満の娘に負けちゃいそうだよー』って、あなたの心の泣き声が」
ファンファーレが天高く鳴り響いた。
暗い鹿毛は不敵に笑って、ひらひらと手を振りながらゲートに入っていく。
彼女は姉が破れた皐月賞で共に走っていたウマ娘だ。
ただ、それだけのこと。
私には何も関係がない。
観客席の熱気が身体中を包む。
どこまでも飛んでいけそうな気がして、早く走り出したかった。
ベンチを出る前に小岩井トレーナーから伝えられた言葉を思い出す。
『プイちゃん、時間がないから一つだけ、いいか』
レース前に誰かから指示をもらうのは初めてだった。
いままで、決まったトレーナーがいなかったから。
『檻を脱出するセオリーは、昔も今も正面突破だ。覚えておくといい』
よく分からない、意味深な言葉だった。
すぐに呼び出しがかかったから、どういう意図なのかは詳しくは聞けなかった。
……まったく、なぞなぞやってるんじゃないんだから。
ため息と共に、記憶の中の彼のニヤけ面を吹き飛ばす。
枠に入る。
両腕も広げられないほど小さな箱。
それが一瞬のうちに3200メートルの奥行きへと変わるのだ。
一瞬の沈黙が競技場を包む。
聞こえるのは周囲の息遣いだけ。
2回深呼吸、トントンとジャンプ、足に力を溜めるイメージでグッと前を睨む。
いつものルーティン。
スッと息を小さく吸い込むと、ゲートが開いた。
バカッ、と音がして、横一列のウマ娘たちが前へ飛び出していく。
ぐう。
出遅れてしまった。
やっぱりスタートは苦手。
体は熱かったけど頭は冷静に、周囲を見渡してポジションを見定める。
そういえばスタートの修正についてトレーナーが言ってたっけ。
あの日の練習を思い出しつつ、しっかりとステップを踏んだ。
「!!」
スタートの横一線が崩れて、出遅れた私の周りに他のウマ娘がまとわりつく。
このままでは囲まれる格好になってしまう。
まだ序盤だけれど、少しだけ脚を使って前へポジションをずらす。
すでに右側の内ラチ側には2人が、そして前を塞ぐように無数のウマ娘が見える。
バ群に巻き込まれるのは避けたい。
集団を回避して前に出るため、大きく外へズレようとステップを踏む。
ロスになるけど、仕方ないか。
「んっ!?」
私の前にいた選手が、進路を塞ぐように私の左側へと下りてきた。
そして首を振ってみれば、いつの間にか後ろにも選手がいる。
四方を完全に囲まれてしまった。
辺りを見回しても、脱出できそうな隙間はない。
さらに驚いたことに、周囲の彼女たちの顔には見覚えがあった。
そこで、初めて気づいた。
交流戦において、対戦するチーム以外の選手は基本的にメイクデビュー前の娘が走る。
つまり、今走っている9人のうち、あの暗い鹿毛と私を除いた7人は、私がレース講習で散々潰してきた娘たちなのだ。
別に、事前に話し合ったというわけではないのかもしれない。
しかし、まるで図ったかのように私を囲む檻が形成されていた。
彼女たちの矢印は間違いなく私だけに向けられている。
今まで嫌という程浴びせられてきた悪意の視線が私を貫いた。
最初の1000メートルの標識を越える。
あの暗い鹿毛がどこにいるのかすら、囲まれてしまって見えない状況。
このままでは、勝負にすらならない。
どうする。
どうすればいい。
バシッ、と音が聞こえて、反射的に少し屈む。
耳のすぐ横を、なにか物体が飛んで行った。
前を走る娘が芝と泥の塊を跳ね上げたのだ。
「んぎゃっ!?」
後ろから間抜けな声。
どうやら、命中してしまったみたい。
御愁傷様。
私を囲っていた檻が、少しだけヨレて、ひしゃげて、やがてもう一度元に戻る。
「…………」
メイクデビュー前とはいえ、流石にトレセン学園の生徒たち。
檻を形成している個々の能力は高いんだろう。
けれど、おそらくこのフォーメーションは前もって練習していたわけではないだろう。
冷静に考えてみれば当たり前の話だ。
私が今日走るのは、ついさっき決まったことなのだから。
もしそうだとすれば、付け入る隙はある。
目の前で通せんぼしているウマ娘の腕がブンブンと振れている。
私を前に行かせないための牽制のつもりか。
単純にそういう癖の娘なのかもしれないけれど、
『いいか、檻を脱出するセオリーはーー』
はあ、とため息をついた。
あんまり選びたくない手段だけれど、仕方がない。
歯を食いしばって覚悟を決めた。
グッ、と足を踏み込む。
上半身を前傾させて、前の彼女に体当たりをするような格好を取る。
そして、私の顔をめがけて、後ろ手に振り上げられた拳が飛んできた。
ゴイン!
鈍い音がして私の目に衝撃の火花が散る。
体の軸がブレないように、しっかりと足を踏み込んだ。
「
レース中の接触はよくあることだ。
抜こうとして偶然に体がぶつかったり、転倒したウマ娘に後続が偶然巻き込まれたり。
ましてや、振り上げた手が顔に当たってしまうなんてのは茶飯事。
だから、彼女が勢いよく振った拳を、私のおでこが完全に迎え撃つ格好になったのも、偶然だ。
前の娘の足取りが予期せぬ激痛でふらつく。
檻のフォーメーションが崩れて、蓋が開いた。
視界がひらけて、緑の絨毯が前方へ伸びる。
即席の檻ゆえに、崩れたバランスに対するカバーが遅い。
その隙を突くようにまた少しだけ脚を使って、光の射す方へと突破した。
脱出、成功。
『さあ、レースは後半戦へと突入していきます!! ディープインパクトは現在2番手まで上がってきました……』
強く、強くターフを蹴り上げて走る。
第3コーナーを過ぎて、勝負は私と暗い鹿毛の叩き合いになった。
最後方からの追込が彼女の戦い方だったはず。
それがこの時点でハナをきっているなんて、何かしらの指示が出ているのだろうか?
まあ、ルーキーを潰すために、自分がペースを作ったほうがいいという判断なのかも。
長距離のレースにも関わらず異様なまでのハイペース。
後ろの集団を置いてけぼりにして、2人だけでグリグリとコーナーを回っていく。
いつもならこんな無茶な走りはしない。
だが今日は、脚が一歩先のターフを踏みしめて止まらないのだ。
『さあ、勝負はいよいよ最後のカーブに入っていきます……』
並みのウマ娘が相手であれば、すでに千切って独走しているであろうスピードと展開。
それにトレーナーから散々叩き込まれて進化した私のコーナリングも冴えている。
だが敵もさるもの。
私の進路を的確に妨害しながら、第4コーナーを回ろうかという地点に至ってもその集中が切れる気配がない。
揺れる長い鹿毛が切り裂く風のせいか、その独特なステップのせいか、人が泣き叫ぶような音が聞こえてくる。
どういう走り方をすればあんな音が鳴るんだ?
「……ハッ!」
最後の直線に入った瞬間に、鋭く息を入れて目の前の相手がスパートをかけた。
少しずつ差が開いて、その背中が遠くなっていく。
マズい!
ここで離されると致命的だ。
観客席の歓声がどおっと大きくなった。
序盤からロスが大きかったせいで、私の足はほとんど残っていない。
そもそも、3200メートルを実戦で走った経験なんてない。
走れども走れどもゴールが見えない。
ぜぇぜぇうるさい自分の呼吸で、喉が苦しい。
肺が潰れそうに痛い。
徐々に相手から離されていく。
当然だ。
相手はすでにGⅠで結果を残しているウマ娘で、私はメイクデビューも済ませていないルーキーなのだから。
「ハァ……ハァ……ぐっ……」
ディープインパクト、お前はよくやったよ。
新人であれば、こんな長距離を走りきるだけでも十分。
それを2着でフィニッシュするなんて大したものだ。
素晴らしい素質。やはりあのお姉さんの妹だ。
きっとあの名門チームに入れば、その素質をぐんぐん伸ばしていけるだろう………………
なんてね。
最後の直線に入って、ゴールの脇に立っている人たちが目に入る。
私の帰りを待ってくれている人たちが、あそこにいる。
桜色に輝く瞳が私を見ている。
声を張り上げて、心配そうに。
ああ、そんな顔をしないでくださいよ。
ウララ先輩。
『さあ、差が2バ身、3バ身と開いていく! ディープインパクト、もはやこれまでかっ!! …………いや、これは……』
一歩。
衝撃を大地に響かせる。
深く、クレーターを残すくらいの勢いで、右足を内ラチ側に踏み込む。
大地の鳴動よりも低い、その音をしっかりと轟かせる。
相手の耳の繊毛を、限界まで振るわせるひと踏み。
この時、やや自分の体を大きく横に振って、相手の視界のほんの隅っこに私の存在を刻み込むのがポイントだ。
すると、ほら。
ほんの半身か1バ身分だけ相手の体が内側へ傾く。
私をインから抜かせまいと、必死でディフェンスしてしまう。
フェイントだと頭ではわかっていても、極限の状況の中で体が反射してしまう。
このたったワンステップで目の前の視界が開けた。
一筋の光が差す。
生死を分かつ活路。
私の、進む道。
『ここでアウト! ここでアウトのコースを選択ッ! 残り200メートルを切って翼が生えたようなディープインパクトの走り! 並んだ!並んだ! 残り100!』
ガソリンのタンクはエンプティ。
だというのに、また別の領域から燃料が供給されているような、そんな感覚を覚えた。
もう一段、さらに足が回転する。
脳が処理するより早く体が動いた。
相手を抜かすとき、その顔が気にならなかったのは初めてだった。
私の目は、光は、ベンチの仲間を捉えて離さない。
自分ではなく、誰かのために走ることが、こんなに気分のいいことだとは知らなかった。
視界が光に包まれる。
そして、ゴール板を通過した瞬間、全ての音が消え去った。
『ディープ1着!ディープ1着! こんな、こんなウマ娘がいていいのでしょうか! トゥウィンクル・シリーズに新たな怪物が現れたっ!!』
肺に酸素を取り込もうと心臓が爆発しそうな勢いで拍動する。
勝った……のか?
スタンドからは割れんばかりの歓声。
みんなが私を、誰かの仲間としての私を称えている。
「プイちゃんっ!!」
「うわっ」
急にハルウララが抱きついてきて、ターフに倒れ込んだ。
腰の上でウマ乗りになった彼女が私の手を握る。
「プイちゃん、すごかったねぇ。あんなに楽しそうなプイちゃんを見たの初めてだったから、私まで嬉しくなっちゃった!」
相変わらず、陽だまりのように温かい手。
あなたたちの、あなたのために走りました。
流石にそんなことは言えなかったが、達成感が体を包む。
生まれてから今に至るまで、こんなレースは初めてだった。
「ありがとうございます。ウララ先輩」
「せ……! はわ…… と、トレーナー!プイちゃんが先輩って呼んでくれた!」
小岩井トレーナーがタオルを私の首にかけて、手を差し伸べてくる。
がっちりと握手をして、彼の顔を見た。
「すごい走りだった。プイちゃん、ありがとうな」
礼を言うのはこちらだと思った。
彼の言葉がなければ、バ群を抜け出せたかどうか分からない。
そして、彼にはひとつ、伝えなければならないことがある。
「いえ、あの。お願いが……あるんですが」
胸に抱きついてくるウララ先輩の頭を撫でながら、私は彼の顔を見た。
言うべきことなら、とっくに決まってる。
この先の数年間を、このチームで。
ハルウララや目の前のトレーナーと一緒に過ごしたい。
「私をチームに入れてください」
ぐっ、と彼の手が私を引き上げる。
こっちは最初からそのつもりだよ、と彼は笑った。
紙吹雪が宙に舞う。
心臓がドキドキして、むず痒い。
呆れるくらいにいい気分だった。
たくさん読んでいただいてありがとうございます。
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次の話で第1部完です。