....暗黒の中で僕は目覚めた....はずだ。寝惚けたように何もかもが曖昧で、目を開く事すら出来ない。猫のようなナニカが発した意味を為さない言葉が何故だが恐ろしくて、意識が竦んでしまう。
「う....」
けれど、ああ、妙な感覚だ。思考がゆっくりと整理されていく。苦しい筈なのだ。だが、まるで反転するように僕は柔らかな心地良さに飲まれていた。意識が明瞭になる。体が僕の言葉に耳を傾ける。そうして僕は、ようやく光を取り戻す事が出来た。
「おや....おはよう、ワトソン君。よく眠れたかい?」
「....」
目を開いた瞬間、スカーレットの端正な顔が視界に映る。全く想定していなかった事態に鼓動が僅かに早まるが、すぐにそれを超える異常に気が付き、僕はつい疑問を溢してしまう。
「その、ええっと、なぜ膝枕を....?」
周囲に目をやれば、僕はソファーに横たわり、スカーレットの腿に頭を置いていた。つまる所、僕の感じていた柔らかな心地良さの正体とは....
いや、止そう。これ以上考えると何かが不味い気がする。平時よりずっと早く心臓が脈打っているように感じるのは、きっと気のせいに違いない。
....そうして混乱する僕を見て、スカーレットは悪戯っぽく笑う。
「私の魔術とて万能ではない。"深い"ものを含めずとも、肉体的な接触がその他の大抵の方法より効率の良い力の伝達手段なのは君も知っているだろう?」
「....まぁ、何度かスカーレットさんに聞きましたから」
魔術、この発達した人間社会においては最早幻想でしかない筈のそれを、スカーレットは当然にあるものとして話を進めていく。
体系化された不可思議、反証可能の非科学....未だ存在そのものに違和感を覚えるのだから、僕の魔術知識はあまりにも浅い。とはいえ、それが万能でないことは知っていた。
「....つまり、こうして僕が起きられている事も魔術のお陰、という事ですか?」
「そういう事になる。ああ、副作用のある魔術は使用していないから安心すると良い」
「....」
僕は....僅かな、そう、ほんの僅かでしかない名残惜しい感情をどうにか振り払い、スカーレットの腿から頭を離してソファーに座る。そこで初めて、窓の外の光景に目をやった。既に真っ暗だ。なるほど、暑苦しさを感じなかった理由はこれか。しかし....
「....もしかして、この時間までずっと膝枕を?」
「思った以上に厄介な"反応"だったのでね。それとも、何か夜に予定でもあったのかい?」
平然と彼女はそう答える。僕には真贋を見極める事なんて出来ないが、彼女がこうした場で嘘を付いた事はない。であれば、これもまた真実なのだろう。
「あ、いえ、予定はありません。その....ありがとうございます」
「気に病む必要はない。君には大きな"借り"もあるんだから。それより──」
どうやらスカーレットは意外にも僕が彼女を庇った時の事を覚えていたらしい。少し驚いた僕を横目に、彼女は真剣な顔で僕に問い掛ける。
「──猫。君はそう言ったね。一体、"何を見た"?」
「何を....?」
彼女の問い掛けに、僕は答えを詰まらせる。当然に彼女もあの"猫"の姿を見ているものと思っていたからだ。
「それは、つまり....スカーレットさんはあの"猫"を見てはいなかった、と?」
「というより、"私には見えない"という方が恐らくは正しい」
「....なる、ほど?」
距離感が掴めなかったせいで断言は出来ないが、確かにあの"猫"がスカーレットの死角に入っていたというのは考え難い。何故スカーレットには見えないのかが疑問だが、それより情報を共有しなければ話にならない。
「僕が見たのは....そうだな...."ぶぎい"、と鳴く、黒い猫のようなものでした。けど、単なる黒じゃない。距離感も、凹凸すら認識出来ない完全な黒です。それこそ、最初は自分の視界が欠けたのかと思いましたよ」
「....目眩猫か」
「目眩猫?」
「この都市に山ほどあるマイナーな都市伝説の一つさ。曰く、"黒より黒い奇怪な猫がこの都市に住み着いており、その声を聞くと昏倒する"のだと。被害例と思しき報告は噂が生まれて以降、数十件存在する。何れも1ヶ月ほどの昏倒の末に意識を回復させた、という話だ」
なるほど、確かにそれは僕を昏倒させた"猫"と特徴が一致するが....
「しかし、だとしたらその"目眩猫"はどうして僕を狙ったんでしょうね?」
「それが問題だ」
問題、という事はスカーレットには目眩猫が僕を狙った理由が分かっているのだろうか?
「まず、君は影が薄過ぎる」
「今、いきなり貶す必要性ありました?」
僕だってこの体質が自分に負の影響ばかりを与えている訳でない事は理解している。それにしたって、影が薄い事を全く気にしていない訳ではないのだ。
「いやいや、この場合は褒め言葉だよ。何しろ君は"無差別的な怪異の対象に選ばれる筈がない"んだ」
「む、それは....」
確かに、少し奇妙だ。スカーレットよりも"見えない"はずの僕にしか見えず、スカーレットよりも"狙われない"はずの僕だけが狙われたというのは。
「では、何故目眩猫は君を狙ったのか....此処には何か特別な事情があるのだろう。つまり」
「目眩猫は、"何らかの法則に則って姿を現す対象を選んでいる可能性がある"と?」
どうやら、僕の推論は当たっていたらしい。スカーレットは僕にニコリと微笑む。
「その通りだ、友よ」
「....何もかも原典からズレてますよ、それ」
僕は彼女から目を逸らす。どうしてこの人はこう頓珍漢な服装で頓珍漢な事をしても絵になるのだろう。
「という事で、明日は実地調査を行うものとする。集合場所は朝には伝えるので確認しておくように」
「んん??」
実地調査?集合場所?一体何の話なのか分からない。いや、文脈上全く理解出来ない事ではない。事ではないのだが....
「えっと、目眩猫に関する依頼は現状来ていませんよね?それに、僕は目眩猫に既に遭遇した訳で、現時点で脅威に晒されてはいません」
「しかし、対象を選んでいるのであれば、"再度遭遇する"事も有り得る。そうだろう?」
「....」
否定は出来ない。特に、単なる"直感"ですら推理の材料とする彼女の言葉だ。そう、否定は出来ないが....
「さては目眩猫の件、面白そうだと思ってますね?」
彼女は臆面もなく、またニコリと微笑んだ。
「その通りだ、友よ」
僕はやはり、そんな彼女から目を逸らした。