ダンジョンで拾ったアンドロイドがポンコツすぎる   作:たこふらい

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5.先触れ<The Beginning>

 幼馴染に寝起きを襲撃されて、師匠に会って、妹にぶん殴られるという怒涛の勢いで過ぎていった前日。そして今日。俺はまた街へ繰り出していた。

 時間は草木も眠る丑三つ時。この時間になれば日中人通りの多い大通りでさえ人一人っ子いやしない街の中。カツカツと自分の足音だけを聞きながら待ち合わせに指定された時計台へと足を進める。

 

 隣には誰も居ない。正真正銘一人きりだ。少女───トワは家へ置いてきた。今日の仕事は一人で行くと言ったとき、

 

『───否定。この身はマスターを守るためのもの。離れていてはマスターを守ることができません。どうか私をお傍へ置いてください。()()()()()()()()()()()()()

 

 などと言って付いて来ようとするトワを説得するのは大変だった。なんでも隠匿されている濃い魔力の残滓が検知できたとかなんとか。魔力の探知なんて俺はできないから何とも言えなかったが、どうせそんな大したことでもないし、危険だとわかったらさっさと逃げるからと言い含めてようやく渋々といった具合で了承してくれたのだ。

 

 連れて行かない理由というのは、同じく同行する予定の騎士に変な目で見られたくないっていうのもある。アイツの見た目は、悔しいながら完全に女の子と認めざるを得ないため夜中に連れ歩くなんてことはできない。変死事件の犯人を見つける前に俺がお縄に付けられてしまうだろう。

 あとはなんとなく、危険が予想されるところに行ってほしくなかったというのもある。金属の鎖を柔らかい飴のように引きちぎる力を見ただけでも俺なんかよりも遥かに強いのだろうが、それとこれは話が別だ。仕事でもないのに危険がありそうなところに突っ込ませる必要はないだろう。

 

「……くそ、なんか変だな、俺」

 

 今まで一人で過ごしてきただけに、こうやって他人のことまで考える必要はなかった。自分の安全が確保できればそれでいい。後は野となれ山となれ、例え何か危険があったとしても自分だけ逃げることさえできればよかったと考えて生きてきたはずなのだが。

 『自分』の中に『他人』を含めたくない。()()()から、ずっとそう思って生きてきたし、今だってそうだ。そのはず、だ。

 人は簡単に変われない。変わろうと思ったところでその根元までは変わらない。

 だから俺は利己主義で他人のことなんてどうでもいい冷血野郎のはずだ。その、はずだ。

 

 それなのに、なんで一人で居るとこうもアイツのことを考えてしまうのか。

 ───もやもやする。なんだか頭の中に棘が刺さって、それがずっと疼いているようだ。気になってしょうがない。

 

「……やめやめ。今から仕事だぞ」

 

 頭を振って思考を切り替える。これから危険地帯と思われる場所で巡回なんてことをしなければならないのだ。ぼうっとしてたら命がいくつあっても足りないなんてものじゃない。

 どうでもいいことは置いておいて、今は集中しなければ。

 

 

 そんなことを考えながら歩いているとそこはいつの間にか時計台。待ち合わせ場所に到着していた。

 そこで今夜一緒に見回りをする騎士と合流して目的地に向かっているところなのだが。

 

「───まったく。ベスティアさまもベスティアさまです。なんでこのような得体のしれないボンクラなんかを……」

「はぁ……。そりゃどうも悪かったな。でも俺だって自分からやりたくてやってるわけでもねぇ、向こうに勝手にやらされたんだ。お相子だろ」

「うるさいです。燃やしますよ」

 

 今回のパートナーとして自分と同じように派遣されたらしいベスティアの部下が、むすむすと文句を言いながら如何にも怒ってます、なんてわかりやすく大股で足早に歩いていくところだった。

 ノワール=アルマディン。なんでもベスティア本人から見出されて騎士学校を飛び級、同年代の誰よりも早く騎士隊に所属したというまさに天才といったところか。あのベスティアに直接スカウトされたということで、学校外でも度々話題に上がっている若き新星(ルーキー)だ。

 

 俺と少女はこれが初対面になるわけだが、第一印象は『めちゃくちゃ嫌われてる』、だ。なんというか、道端で昼寝をしていた猫に近づいたら今まで聞いたこともないような強烈な声で威嚇されたような感じだ。

 

 夜闇の中でも映える赤髪に不機嫌そうに細められた緋色の目。身につけている装束はベスティアの部下、つまりは光芒騎士隊の一員という証拠の赤い外套。ただし騎士としては幾らか若すぎるため『着ている』というより『着られている』という印象が強い。

 それでも騎士ということは俺よりもよっぽど強いんだろうから才能というものはすごいものだ。飛び級だなんてここ数年聞いたこともない。途中でやめた身としては、年下だからといって嫉妬する気すら起きない才能の差というのを感じてしまう。

 

『言っておきますけど、私はあなたのことなんて認めないですからね!』

 

 と、開口一番にそう言われた衝撃は記憶に新しい。認めるも認めないもなにも、こちらには心当たりがないのだが。さすがに初対面の人にここまで嫌われるような所業は記憶にない。

 

 おっかしいなぁ、と首を傾げながらもズンズン進んでいく少女に遅れないように若干後ろについて歩いていく。

 

「んで、今日はどこ回るんだ?」

「そんなことも知らないんですか? 呆れました。なーにも知らないんですね」

「それはヴェルベットのジジイに文句言ってくれよ。あの人場所と時間しか伝えてこないし、今日の相方がアンタだって俺もさっき知ったんだからさ」

「……………………むぅ、わかりました。仕方がないので教えてあげます。今日の巡回ルートは街の南部、セクス区をぐるっと一周する形になります」

「セクス区って言ったら……あれか」

 

 セクス区は円形の街で言うところの、時計で言えばちょうど六時に当たる部分になる。家とは街を起点にすると正反対の位置にあるため、あまり近づくことはない場所だ。

 

「行方不明になった人や変死体はこの区画の住人が多いそうです。大方チンピラのサルの縄張り争いでしょうが、命令なら仕方ありません。さっさと終わらせましょう」

「言い方どうなん? ……ま、速く終わらせるってのは俺も賛成だが。というかさっきから歩くの早くない?」

「あなたが遅いのでは? 私は知りませんからっ」

 

 それだけ言ってガスガスと歩いていくノワール。

 ……しっかし、なんか恨まれるようなことしたかなぁ、俺。

 

 ガシガシと頭を掻く。まあ、どうせ今夜限りの付き合いだ。向こうだって今日が終われば俺なんかのこともすっきり忘れてくれるだろう。今後も関わりが続かないというのは気楽なものだ。それならどんなことを思われてようがどうでもいいだろうと思える。

 ……元々親密になることもないのだ。別れることを気にする必要がないというのは、ひどく楽だった。

 

 

「ところであなた。発動体は持ってきてるんですか?」

 

 歩いているうちに冷静になってきたのか、不意に歩調を緩めたノワールが聞いてくる。

 

「ん? まあ一応な。使わないことが一番だが」

 

 ほれ、と腰に提げた金属ナイフを見せる。

 

 発動体とは魔術を扱う際に必須となる触媒のようなものだ。付近にいる生物の魔力や精神状態に共鳴するという不思議な性質を持った金属で出来ていて、魔術師は必ずと言っていいほど自分用に調律したものを持っている。他人のものを使っても使えなくはないが、精度が落ちる。

 自分の場合は短刀、ナイフの形に調律してある。取り回しが効くし、なんとなく合うからだ。

 騎士の場合は片手剣、あるいは両手剣の発動体を好んでいる者が多いのだが……。

 

「お前のは……その…………ナニソレ?」

「何って……見て分かりませんか? メイスですけど。かわいいですよね」

 

 よっ、と、ノワールが掛け声と共に軽々と持ち上げたのは、人一人簡単に叩き潰せそうな威容を感じる戦棍(メイス)だった。鼻先を掠めた風圧にヒヤッとする。

 メイスの殴打部分にはこれ見よがしに痛々しいスパイクがあり、また先端にも槍のような穂先が付いている。見てるだけで鳥肌が立ってくるような武器だった。

 

 それにしても……、

 

「………………かわいい………………?」

「今何か言いました?」

「なにも言ってないです、はい」

 

 思わず敬語で返してしまった。

 なんというか、かなり独特な価値観だった。メイスをかわいいって。ミンチを作るのが趣味だったりするのだろうか。

 

「……ちなみにそれってどう使うの?」

「主に魔術と『魔法』の起点に……まぁあとは普通に叩き潰すくらい、ですね。人がボールみたいに吹っ飛んでいくのはちょっとクセになりますよ」

「こわい! 俺お前のことちょっと怖くなってきたんだけど!?」

「ピーピー喚かないでください、鬱陶しい。……はぁ、こんなことで騒ぐなんて、やっぱりベスティアさまは何を考えてるかわかりませんね。こんな男の何がいいんでしょうか」

 

 呆れたようにため息をつくノワールに突っ込みたくもなる。まるで俺がマイナーみたいな言い方をしないで欲しい。というかベスティアは一体俺のことをなんだと伝えているんだか。よろしくない誤解が生まれているような気がしてならない。

 

 ちなみに『魔法』というのが魔術の例外、体系化されていない神秘のことを指す。

 個人個人が持つ性質を元に発現するそれはその性質上、ある意味魔術よりも多彩と言えるがそれ故に体系化することができない。なぜならこの世にただ一人として同じ人間は生まれないから。あとは単純に魔法が発現する母数自体もあまり多くはない。魔術を扱える人間の中でも一握り、という具合だ。それ故に扱いの難しさは魔術の比ではない。なんせ教本なんかが全く存在しないのだから。

 

 単純な戦闘能力に加え魔術の素養、そこへ魔法も加わるとなれば、相当なものだ。あのベスティアがスカウトしたというのも納得の才能と努力の併せ持ちだ。

 

「すごいなぁお前」

「……なんですか急に、気持ち悪いんですけど。褒めたからって私はあなたのこと認めませんからね」

「普通に褒めただけだろうが! めんどくせぇ!」

「それであなたは? まさか私だけに喋らせるつもりはありませんよね。手の内をすべて晒せとは言いません、せめてどんな魔術が使えるくらいは教えなさい。早く」

「わかったわぁかったって! 頼むからその物騒なもんを向けるんじゃねぇ!」

 

 せっつくように語調を強くするノワールをなだめて答える。まぁ面白いものでもないのだが。

 

「いや、俺は()()()()()()使()()()()()()()()

 

 そう言うと少女は驚いたように目を丸くして、次の瞬間なぜか怒ったように睨みつけてきた。

 

「……どういうことですか? まさかそんなに私のことを馬鹿にしたいのですか? それとも私は信用できないので教えるつもりはないと?」

「いや違うって。普通にそのまんまの意味だよ。俺は普通の魔術は使えない」

 

 本当に言葉通りの意味である。リュコス=イフェイオンは魔術を使えない。これは師匠からも直々に言われていることだ。

 その理由は至極単純だ。つまるところ『才能ナシ』。どんなに頑張ったところで、俺は魔術の一つも発動できない。それが動かぬ事実である。

 

「……ふーん。そうなんですか。わかりました」

 

 それでもどこか納得の言っていない顔をしているノワールに睨みつけられて、ガリガリと誤魔化すように頭を掻く。

 

 それっきり目的地まで無言になった。なんとも気まずい沈黙だった。

 

 

 

 

「ここからは別行動にしましょう」

 

 セクス区の入口へたどり着いた時、唐突にノワールが口を開いたかと思うとそんなことを口走った。

 

「は? いや、二人で組んで巡回するって話だったろ?」

「気が変わりました。こんなもの、やっぱり私一人で出来ます。あなたは先に帰っててもらって結構です」

 

 思わず少女の顔を見ると妙に険しいものを感じる。勘だが、それは俺に対してではなく、どこか別のものへ向けられているような気がする。その原因が俺にはわからない。

 

「……っておい!? マジで一人で行くのか!?」

「付いてこないでください。今日はお疲れ様でした。では」

「お疲れ様ってまだ何にも───、」

 

 俺の止める声も聞かずにスタスタと歩いていくノワール。ちょっと自由過ぎないか?

 その後ろ姿はあっという間に夜に溶けて消えてしまった。

 

「……………………じゃ、帰るか──────ってわけにもいかないしな。仕事だし」

 

 呼び止めようとして挙がっていた腕を降ろし、何気なく自分も違う路地へと向かう。去り際のノワールの態度が気になるがおそらく大したこともないだろう。区を一周すると言っていたし、自分も反対側から回り込めばそれだけ早く済むだろう。さっさと合流して今日はそれで終わりだ。家で待っているはずのアイツも気になるところだし。

 

 ……本当に大人しく待っているのだろうか? なんだか怖くなってきた。戻ったら家ごとぶっ飛んでたなんて最悪な状況は見たくない。

 

 想像した光景にぶるりと背筋を振るわせて足早に歩き始める。一度気になると途端に不安になってきて仕方がない。

 

 

 

 コツコツ、と。自分の歩く音だけが暗い路地に響く。いつの間にか周りからは虫のさざめき一つ聞こえない。壁を挟んだ空間に人が住んでいるとは思えないほどの静けさだ。耳鳴りさえしてくるような静寂。忍び寄ってくるような緊張に、僅かに唾を飲みこんだ。

 

 今日は月が出ている。煌々と照る満月は夜闇の中でひと際明るく、歩くだけならば不自由しないほどに暗闇を照らしてくれている。

 それだけに、光の当たらない場所へ色濃く作られた影がやけに嫌な想像をかきたてる。

 無論、そこには何もない。嫌な想像というのも物騒な話を聞いていたために湧き上がった妄想の類に過ぎない。だから、何もあるはずがない。

 

 ───なら、この得体のしれない感覚は何なのだろうか。

 ざわざわと、影が動いているような錯覚。あるいは誰かに見られているという感覚。

 

 ふと。視界に異物が映り込んだ。

 道の真ん中に落とされたそれは、月明かりで僅かに光っていて。近づくと鼻に突く異臭。

 

 血痕だ。まだ新しく、乾き切っていない。

 

「──────」

 

 無言で腰に提げていたナイフを引き抜く。

 ───何かが、起こっている。根拠もなく、漠然とそんな予感が脳裏をかすめた。

 

 血痕は途切れなく路地の先へ続いていた。

 

 ───進むか。無視するか。

 ……僅かな逡巡の後、点々と続いた赤い染みを辿るように足を進め始めた。

 

 なぜかはわからない。この深夜に血の跡だ、たどり着いた先に居るのがただの怪我人、だなんて希望的観測をしているわけでもない。普通に考えれば無視をすればいいはずだ。後で騎士と合流した際にそういえば、とでも言って何気なく報告してやればいい。わざわざ自分が関わる必要なんてどこにもない。

 そう思うのと同時に、()()()()()()()()()()()()()、と。どこか確信めいた予感があった。これを見なかったことにすれば、何か重要なことを見落としてしまうと。そんな気がしていた。

 

 ゆっくりと、足音を立てないように。音を殺して歩いていく。普通、足を忍ばせる理由はただ一つ。誰かに気づかれないようにするためだ。今の俺もそうで、誰か、何者かもわからない『ソレ』に気づかれないように細心の注意を払っている。理由もわからずに被害妄想じみた警戒を張り詰める。

 

 目的地はもうすぐそこだ。正面の曲がり角。壁が邪魔でその先は見通せないが、そこにおそらく()()は居る。

 

 物音がかすかに聞こえ始めた。何の音までは判別できないが、音は断続的にこの先から響いてきている。

 それは血痕の正体へ確実に近づいていることを示していた。

 

 いつの間にかじっとりと汗をかいていた。短刀を握った手は不必要なほど異常に力が入っていて、喉はカラカラに乾いている。荒くなりそうな息を止め、震えそうな足を進める。

 

 ふと、風向きが変わった。同時に嗅覚が異常を捉える。

 ───瑞々しい、(にく)の匂い。

 それは確かに、この先から漂ってきていた。

 

 雲に月が隠されたのか、一瞬視界が漆黒に切り替わった。月明かりの無い路地は一層暗く、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 目は既に夜に慣れている。例え月が隠れようと問題はない。一歩進んで視界を左に向けたら、すぐにでも確認できる。だがしかし、果たしてそれでいいものか。

 

 微かに聞こえるだけの音は、もはや耳を澄ませる必要もないほど大きく近くなっていた。

 ぶちぶちと繊維を裂く音。何か硬いものが砕ける音。湿っぽいものが落ちる音。聞いているだけで身の毛がよだつ。

 

 ───潮時だ。

 頭の中で冷静な声が告げる。ここで退け、これ以上は引き返せない。見たら最後、きっとおぞましいものを見るだろうと。

 

 足を止め考える。考えようとして、考えるまでもないと振り切った。

 ここまで来たのだ。とっくに後戻りできる地点は過ぎている。ならあと残っていることは一つだけだろう。

 

 そう決めて路地の先を覗き込む。

 壁で遮られたその先の光景が視界に入り───、

 

「───え?」

 

 真っ白な声が漏れた。純粋な困惑という色に染まった反射的な動作。

 

 感じていた予感は、ある意味では当たっていた。だが、これはなんだ。

 理解できない。頭の奥が痺れたように冷えていく。

 

 真っ先に理解したのは暗闇の中でさえ鮮烈に視界へ焼き付いてくる赤だった。

 その次に、ようやくその赤の中でうごめいているものに気が付いた。

 

 路地の先。物音を立てていたのは複数の人間だった。

 手足があり、胴があり、頭があり、一心不乱に地面に置かれた何かへと向かってガツガツという音を立てている。

 

 ───否。人ではない。

 ()()が人であるはずがない。人であるならば、知性があるのならばあんな犬のように獲物へ食らい付いたりなどしない。いいや、それよりも、人は体の一部が欠けた状態で動けるような生き物だっただろうか?

 腕があらぬ方向を向いているもの。片足が取れているもの。頭が割れているもの。眼球が飛び出しているもの。

 赤の中で蠢いているナニカは人の形をしていながらも、到底人とは思えない。

 

 まるで腹を空かせた獣だ。

 

 完全に動きを止めた肉体をよそに、思考だけがどこか俯瞰しているかのように冷静に分析する。

 

 あれが獣だとすれば、()()()()()()()

 

 赤の中心を見る。

 それはたった今、人の形を失いつつあるものだった。

 

 周囲に散らばった赤い布きれと、赤く染まった糸の束のようなものと、赤く濡れた四つの棒状のものが無ければそもそもただの肉塊としか見れなかったかもしれない。いや、そう見れた方が幸運だったかも。

 

 獣が熱心に頭を動かすたびにビクビクと揺れて、断面から白いものが見え隠れする。それで辛うじて気が付いた。気が付いてしまった。

 

「──────、ぁ」

 

 そこでようやく理解する。

 赤いものは飛び散った血で、食っているのは人のようなナニカで、食われているのは人間なのだ。

 

 理解した瞬間に思考は一切の余地なく白く染まった。

 背筋が氷塊をねじ込まれたかのように冷えていく。べったりと嫌な汗が噴き出してくる。特大の異常を前に筋肉はこわばり、体が硬直し続ける。

 

 理解できない。したくない。

 そう思ったところで目は恨みたくなるほど正常で、容赦なく異常な現実を網膜に焼き付けてくる。

 月明かりでぬらぬらと照る赤色が正気を削る。叫び声を上げそうな喉を辛うじて残った理性で押しとどめる。

 

 行方不明とは、そういうことだったのだ。

 どこかにさらわれたとか、監禁されたなどといった文化的な理由ではなく。

 つまるところ、もっと原始的に、()()()()のだ。

 

 骨も残さず食われたから本人はどこにも見つからない。実に簡単な理屈だ。

 

 ───違う。そうじゃない。

 そんなことは今考えるべきことじゃない。

 

 この状況を見た自分はこれからどうするか。

 戦う? 冗談じゃない。()()()()()が一人増えるだけだ。

 逃げる? 当然で最善だ。一度身を引く。そのあとどこかにいるノワールと合流し、状況を伝えたあと撤退する。それが俺にできる唯一のことだ。

 

 そこまで考えて、はたと気づいた。

 路地の奥、目の届きにくい行き止まりにまだ生きている者がいる。

 夜目が効くことが災いした。この両目はしっかりとその姿を見て、知ってしまった。

 

 小さな女の子。まだ学校にも行っていない年齢だろう。

 暗がりにうずくまって、(ボウ)、と虚ろな瞳で目の前の惨劇を見ている。

 ……あの目は知っている。あれは、現実が心の許容範囲を超えた目だ。理解できず、しかし遠ざけることも出来ず。結果的に受け入れることしかできないということを突きつけられた目だ。

 

 …………なら、今食われているのは。

 

 思わずナイフを強く握りしめる。

 

 あの場に居て未だに襲われていないのは、あの獣が目の前の獲物に夢中になっているからか、子供が物音を立てずにじっとしているからのどちらか、あるいは両方だろう。

 ご馳走が無くなれば、すぐに子供にも気づくだろう。このままなら、俺の方にも。

 

「──────」

 

 時間はない。悠長に考えている暇はない。

 獣の数は五体ほど、どれもこちらに気づいている様子はない。

 

 このまま黙って立ち去れば、ひとまず俺は安全に撤退できる。その後あの子供がどうなるかは───想像に難くない。まともな未来はないだろう。

 

 子供を助けるのならあの中を突っ切って戻ってこなくてはならない。それも、帰りは子供を連れて。

 

 やつらが気づいていない今なら隙を突いてどうにかできるかもしれない。()()()()()()()()()()()()

 もしやつらの方が気づくのが早かったら。追いつかれてしまったら。もしも、もしも、もしも。可能性が泡のように浮かんでは消えていく。

 

 子供が顔を上げる。目が合う。思わず奥歯を噛み締める。その目からどうしようもなく『■■■■』と呼ぶ声が聞こえてしまったから。

 やめてくれ。俺にこういう役は向いていない。俺よりももっとふさわしいやつがいるだろう。そいつの方がもっと完璧で、完全に、こんな悲劇なんて打ち砕いてくれると知っているから。

 

 そう思っても願っても、今ここに居るのは俺なんだ。

 

 どうする。どうする。どうする。どうする。

 撤退。救助。逃走。戦闘。頭の中で繰り返される二択。思考はとっくに正常な判断を見失っていた。

 

 そのままゆっくりと足を動かす。前に動いたのか後ろに動いたのか、自分でもわからないままに。

 

 ───と。

 

 パキ、と。乾いた音が足元で響いた。

 反射的に視線を向ける。

 そこにあったのは薄黒く汚れた白い棒。

 それが乾いた血と肉のこびり付いた人の骨だということに気づくのにそう時間はかからなかった。

 

「なっ──────、」

 

 理解した時にはもう遅い。

 顔を上げると餓えた視線を向けてくる獣の群れ。食事をやめて、新たな獲物へと向かって標的を定めているのがわかる。わかったところで何の意味もないが、蛇に睨まれた蛙というのはこういうことなのだろうと他人事に思う。

 

 ───がちゃがちゃと背後からも足音が聞こえる。数は同じくらい、ちょうど倍になっただろうか。一体どこへ潜んでいたのだろうか、いつの間にか囲まれているようだった。無論振り向いて確認している余裕などないが。

 

 逃げる。どう逃げる? ここはとっくの昔に袋小路。もはや逃げることなどできない。

 

 なら、どうする?

 

「──────、あ」

 

 考えてる時間など、もとよりなかった。

 飢えた獣の群れが歓喜の唸り声を上げながら、喰いつくすとばかりに俺の無防備な肉へと向かって牙を突き立てた。

 




・ノワール=アルマディン
赤髪赤眼メイス女。ベスティアが好き。リュコスが嫌い。

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