だけど、いざこの手に持つと、まだ似合わなかった。
だから今は、ここに置いておこう。
拾って欲しい人は、まだ気づいていないけれど。
それから後は、特に何事もなく一日が過ぎた。やはり、平和が一番である。
「……胃薬、誰の為に使う事になるんだ?」
とっぷり日も暮れた、19時半。正門に向かいながら、一人で呟く。
どういう訳なのか、トレセン学園の購買に胃薬があったので、それを買っておいた。……もしかして、ハードワーク前提とか、そんなんじゃないよな?
アヤべさんとの念の為の打ち合わせは、ちゃんとしてあるから問題ない。
里宮さんが、正門前で待っていて欲しいと言うので、こうしてここに歩いてきた訳だが。
「仕事終わりに行くんなら、後ろから来るよな……?」
そう思ったが、思い違いだろうか。後ろ――トレセン学園の敷地の方を見るが、里宮さんらしき姿は無い。……遊ばれてんのだろうか、俺は。
安いスニーカーを履き、パンツはストレッチジーンズ。白の長袖シャツにグレーのベスト、その上から薄い茶色のくたびれたスポーツジャケット、というどこにでもいそうな格好の俺は、辛うじて不審者には見えないだろう。
冷たいとも温いとも言えない、微妙な感じの風を浴びて待つこと数分。
「……来ねえなら、帰ってもいいんだよな?」
いや、本当に何ですぐに来ないの? 待ち合わせ(と言うのかは微妙だが)の時間から、既に数分すぎている。
「ごめんなさい! ちょっと遅れちゃいました……」
ようやく里宮さんが、何故か外から――つまり敷地の外から来た。
赤色のロングスカートに白のブラウス、赤色のリボンタイを着け、青色のカーディガンを着ている。あと……真っ赤なポシェット? いや、どうすればこんな原色まみれの服が、綺麗にまとまるのだろうか。
普段はポニーテールで分かりづらいが、その長い髪を今は下ろしている。……いや、誰だこの美人。
……言い方はあれだが、素材が良いという事なのだろうか。
「……ええ、待ちましたね」
「えっと、遅れたのは間違いないんですけど、それ言っちゃうんですか……?」
言っちゃうのか、と言われても、事実なんだから良いじゃないか。皆も分かるんじゃない? 自分が待ち合わせに遅れるのは気にならないけど、人が遅れるとめっちゃ気になる、ってやつ。
というか、遅れたのって、着替えてきたせいだよね? 行くの居酒屋なのに、しっかり着替える必要あるの?
いろいろ文句は言いたいが、これ以上愚痴っても何も変わらない。
「……行きます?」
「そ、そうですね。行きましょう!」
――と少し和やかだったのは、何時間前だっただろうか。なんと言うか、遠い日の出来事のような気がする。
「おっちゃん、ビールもう一杯! ほらあ、水無月しゃんも呑みましょうよぉ!」
「……あ、はい」
居酒屋のカウンター席で、顔を赤くした里宮さんにジョッキを押し付けられる。
普段からは想像できないほどに、里宮さんはべろんべろんに酔っ払っていた。服装が綺麗なだけに、かなり残念なことになっている。
……空のジョッキが10個くらいあるのは、何かの見間違いだと信じたい。ついでに言うと、俺の前には焼き鳥用の皿やおつまみばかりが並んでいた。何とか、アルコールを飲まずに済んでいる。
里宮さんに促され、普通なら日本酒を注ぐであろうコップに入れた水を、見せつけるように飲む。何となく、この状態の里宮さんの扱い方が、分かってきたような気がする。
「兄ちゃんも大変だな。どういう関係だい?」
店主であろう気さくなおっちゃんが、苦笑いというか同情の笑いを浮かべながら、俺に尋ねてきた。……声をかけるついでに、横にジョッキが置かれた。俺は飲まぬ。
「同僚ですよ」
「同僚……って事はあれかい、トレーナーなのか」
「一応トレーナーです」
俺が適当に答えると、(それを聞いていたのかは怪しいが)里宮さんが付け加える。
「一昨日のおおしゃかはいで勝った、アドマイヤベガしゃんのトレーナーの水無月しゃんですよ!」
既に『さ』が『しゃ』になっている。酔いすぎだよこの人。
「そうかい! いやぁ、有名人に会っちまったなぁ」
「……有名人かは分からないですが」
「後で写真撮らせもらってもいいかい? もしかしたら、その写真を店の壁に貼るかもしれんが」
「良いですよ」
俺が写真を取られている間も、里宮さんはビールを飲んでいる。
「……どうりで、一人で来た時は酒を飲めないわけですね」
「なんだい、未来に聞いてたのかい。……まあ見ての通りさ、トレーナーになる前から来てくれてるんだが、酒癖が悪いのは変わんなくてねぇ」
「想定はしていたんですけどね。……予想以上でしたよ」
「水無月さんは飲まないのかい?」
よく聞かれるので、答え慣れている。
「俺は里宮さんと違って、相当な下戸なんですよ。缶ビール1本で、その日の夜の記憶が飛ぶくらいには弱いです」
「それじゃ、こんな勢いでは飲めないねぇ。まあ、ウチは自分で言うのもなんだが、おつまみとかも評判が良いんだ。そっちだけでもいいから、楽しんでってくれ」
これはサービスだよ、と言いながら、焼き鳥を二本置いてくれた。この居酒屋、お客さん多いよなあ、とは思っていた。その理由は、店長がいい人だからなのかもしれない。
「ね~え~、水無月しゃぁん?」
……全てをぶち壊す声で、里宮さんが声をかけてくる。酒臭いな。
目はとろんとしているし、頬は朱に染まっている。これがいわゆる、デキあがっている、というやつなのだろうけど。何というか……状況が状況なだけに、全く興奮しない。
「飲みすぎですよ……」
飲みすぎ、ダメ、絶対。さあ、そこの君(誰だよ)も、この言葉を胸に刻みつけるんだ!
「そぉんなことぉ……ありませんよ……? ほら、もう一杯……!」
そう言うと、再びジョッキを手に取り、ごくごくとビールを飲み始める。もしかして、日頃から相当ストレス溜まってる?
「い、いや……。一旦やめましょう、里宮s」
「……未来」
「はい?」
俺の言葉を急に遮って、俺の右肩を叩いてきた。
「……えっと?」
「未来って呼んでくださいよぉ……」
駄目だこりゃ、と心の内で頭を抱えておく。
「ここまで酔っちまうのは、久しぶりだなぁ。……水無月さん、本当は未来の彼氏とかじゃないのかい?」
「本当に、ただの同僚ですよ」
「そうか……。未来がここまで飲むのって、大体かなり信用している人と来た時くらいだからなぁ。まあ、最近は一人で来てたから、全然飲めなかったのもあるんだろうけどねぇ」
「……信用、ね」
果たしてどうなのだろう。信用というよりは、ただ単に都合が良い相手だった、というだけな気がする。
おっちゃんがあごをしゃくりながら。
「しっかし、お似合いだと思うがねぇ。こんな感じだし、水無月さん、未来貰っちゃってもいいよ」
「貰えませんって。……俺には勿体なさすぎる人ですよ、里宮」
「……未来」
「……未来さんは」
途中で里宮さんに遮られ、いきなり呼び捨てなのも気が引けるので、さん付けして言い直す。だがまあ、俺には勿体ない、というのは本音だ。俺みたいなしょうもない男など、里宮さんに合うわけがない。
世の中、想像している以上に、良い人間はいるものだ。もちろん、その分だけ悪い人間だっている。少なくとも俺は、悪い人間に入る部類だ。鏑矢みたいな良い人間の方が、里宮さんに合っている。
「そ〜でしゅよ……? 私、水無月しゃんにならぁ、貰われても良いですよぉ〜」
「俺が良くないんですよ……」
「何を……言ってるんでしゅかぁ? 私みたいに、……料理出来て、おっぱいも大きくてぇ……。貰わない方が、損しちゃいましゅよ……」
そう言いながら、胸を強調してくる。よしてくれ……周りからの目線が、かなり痛いんだよ。俺は酔わせてヒドイ事をするような、そんな悪人ではないからね?
「ほら、水無月さんよ。未来はいい娘なんだから、貰っちゃってくれ」
おっちゃんが、まるで里宮さんの父親のような事を言う。
「むしろ……なんで、誰も私を貰ってくれないんですかぁ?」
酒癖です。飲み始めたら止まらず、しかも性格までガラッと変わる、その酒癖です。
なんて事を言うと、一体どうなるのだろうか。怖いのでやめておこうか。
「未来さん、本当に飲みすぎですから、一旦やめましょうよ」
「まだ11杯じゃないでしゅか……。まだいけましゅよ!」
「マジでやめましょう!」
更に数時間が経過した。残念ながら、日は跨いでしまった。
結局、里宮さんは俺が止めても、ビールを飲み続けた。
その結果。
「すぅ……」
「……寝ちゃったよ」
机に突っ伏して寝てしまった。
この居酒屋は閉まるのが、周りの店に比べると大分早い。その為、もっと飲みたい人は、既に店から出ている。残っているのは、俺と里宮さんだけだ。静かになったせいで、寝息がよく聞こえる。
「よくまあ、アルコール飲まないで済んだね」
おっちゃんが感心したように話す。
「飲みたくなかったんで頑張りましたけど、結構危なかったですよ」
俺が飲んでいないのがバレそうになったので、おっちゃんに頼んで、氷をたくさん入れたコップを用意してもらった。そこにジンジャーエールを入れて、ハイボールっぽくして誤魔化したりした。
……というか、それで誤魔化されるほど、里宮さんが酔っていたという事だが。
「それで、支払いの方は……」
「ああ、それは水無月さんの分だけで構わんよ。未来の分は、また来た時に払ってもらうさ」
「ありがとうございます」
初めてだったとはいえ、里宮さんを制御出来なかったので、俺が全額支払うしかないかと思ったが。うん、本当におっちゃんいい人だよ。
「ほら、里宮さん。帰りますよ」
俺が肩を叩くと。
「はぃ……うん、お願いします……」
「……」
もう返事が適当な気がする。
確かに、おっちゃんの話を聞くに、お酒を飲んだのは久しぶりらしい。しかし、だからと言って、ここまで酔うほど飲むものだろうか。気付いていなかっただけで、フラストレーションが溜まっていたのかもしれない。
仕方がないので、おんぶする事にした。精神衛生的にはお姫様抱っこがいいのだが、それでは腕が死んでしまう。
肩越しに里宮さんの顔を見ると、先程よりマシとはいえ、まだ頬に朱がさしている。あと、吐く息が酒臭い。残念な美人、とはこういう状態の人のことだろう。
「そうだった、未来は吐いたりはしないからな。そこは安心してくれ」
「……ここまで酔うのに、吐いたりはしないんですね」
「不思議だよなあ」
いざおんぶしてみると、思っていたよりは軽かった。あと、どことは言わないが、背中に当たるのが気になる。
「気を付けて帰ってくれよ」
「はい、今日はありがとうございました」
おっちゃんに見送られながら、居酒屋の外に出る。街を灯す明かりは、ここに来た時よりも減っている。
「さて、どうしたもんか……」
俺一人だったら、迷わず家に帰るだろう。だが今は、背中に里宮さんがいる。ホテルに連れてくのも、まあ一つの選択肢ではあるが、どうしたって金がかかる。だが幸い、俺の家はここから近い所にある。
「里宮さんの家、は知らないしなあ」
かと言って、こんな時間に鏑矢に電話をかけるのは迷惑だろう。普通なら、寝ている時間なわけだし。……酔って寝ている女性を、家に連れて行こうがホテルに連れて行こうが、どっちみち問題な気がする。
さて、本当にどうするか。
「ただいま……」
マンションの一階にある、俺の部屋。どうにか片手で玄関のドアを開け、部屋に入る。当然ながら、返ってくる声は無い。
まあ、想定外の来客なら。
「すぅ……」
残念ながら、今も背中にいるが。
散々考えて出した結論は、『ホテル行くのも面倒くさいし、仕方がないから家に連れて行く』となった。まあ、外で泊まればお金がかかるので、そこは節約したかったのもあるが。
「靴は……後で脱がせるか」
ロングブーツ、というやつだろうか。今ここで背中から下ろしたら、多分玄関で寝てしまうだろう。連れて来ておいて、そんな所で寝させる訳にもいかないので、とりあえず廊下を進む。
居間を通って寝室に入る。当然ながら、ベッドはシングルベッドだ。夢も抱く相手もいない俺には、このサイズで十分だったからな。
ベッドに座らせて、一息つく。いくらあの居酒屋から家が近かったとはいえ、何分も人をおんぶして歩けば、さすがに疲れてしまう。いや、本当に重いとかそんなんじゃなくてね?
羽織っていたカーディガンは、椅子にかけて置くことにした。どうにかして靴を脱がし、玄関に置いておく。その作業だけですら、妙に疲れてしまう。とりあえず居間に戻り、水を一杯汲んで、一気に飲み干した。その冷たさに、いくらか思考がはっきりする。
再び寝室に戻ると、里宮さんがベッドに寝っ転がっていた。
「さ、……未来さん? 服がシワになっちゃうから、一応脱いで下さい……」
里宮さんが着ているブラウスとかは、明らかに安物ではなかった。生地の触り心地とかが、普通のものとは全然違う。あれは、明らかにお高いやつな気がする。そんなものを皺だらけにするのは良くない、そう思い声をかける。
「う〜ん、……分かりましたよ……」
里宮さんが俺の声を聞いてムクリと起き上がると、首元に手を伸ばし、シュルりとリボンタイを外した。腰に手を回して、スカートのボタンを外し始めた。パチン、という音が静寂の中で響く。
で、ようやく失言に気がついた。
「あ、ちょい、脱ぐのはやめて」
「え〜? だってぇ、水無月しゃんが『脱いで』って言ったじゃないでしゅか……」
ちゃんと起きているのかまでは分からないが、里宮さんは俺の声を遮り、どんどん服を脱いでしまう。まずいまずいまずいまずい。焦っているうちに、里宮さんは脱いだスカートやブラウスを、ベッドの傍に脱ぎ捨てた。
それは当然ながら、下着姿になっている、ということで。
「水無月しゃん……寒いです……」
「そ、そうですね」
腕を抱えると、胸元を強調することになるから、やめて欲しい――とか言ったら殺されそうなので、適当に返事をする。
やたら派手、というかセクシーな下着に目がいきそうになるが、どうにか視線を外す。脱ぎ捨てられた服を拾い、ハンガーにかけておいた。こうすれば、あまり皺もつかないだろう。
里宮さんの訴えを聞いて、どうするべきか考える。うちには女物の服なんて、一着も無いからなあ。
「すると、アレしかないのか……」
溜息をつきながら、タンスを開け、上下お揃いのジャージを取り出した。前のファスナーを開け、なんとか袖を通して着せる。どう見てもサイズが大きい(胸元は足りなさそうだ)が、選択肢がこれしかない。
突然里宮さんが、俺のジャージの匂いを嗅ぎ出した。やめて! 思ってた以上になんか辛いんだけど!
「ふぅ〜……すぅ……、これ、水無月さんの匂いがします……」
「…………」
エントリープラグの中じゃあるまいし、そんな事言わんで欲しい。おかしいなぁ、ちゃんと洗濯したつもりだったんだが。下は……諦めよう。触れたら訴訟されて、確実にムショにぶち込まれてしまうだろう。
「はぁ……。はい、未来さん、もう寝てください」
「……分かりましたぁ」
そう言うと、パタンとベッドに再び寝っ転がった。ジャージ一枚では少し寒いだろうし、毛布をかけた。これで、風邪をひくなんて事にはならないはずだ。
シングルベッドだから二人で寝るのは現実的ではないし、何より疑われた時、事実をうまく説明出来ないかもしれないな。諦めて、居間のソファで寝るとしよう。
よし、これで俺もようやく――
――グイッ
寝室を出ようとしたら、服が引っ張られた。まあまさか、幽霊なんて訳はないので、引っ張ったのが誰なのかは容易に判断できる。振り返ると、上体を起こした里宮さんが、右手で俺の服を引っ張っていた。
「未来さん、どうしたんです?」
「……」
「あの〜……?」
「…………」
俺が声をかけても、引っ張っる力が強くなるだけで、中々答えてくれない。しょうがないので、その手を解こうとした。すると。
「……一緒に寝てくだしゃい」
「はい?」
「一人じゃ寒いから……一緒に寝てくだしゃい」
「…………えぇ?」
いや、確かに一人だと寒いかもしれないが、……良くないだろう。
「別にぃ、今日くらい二人でもいいじゃないですか……。私は……独りより、二人の方が良いです……」
「……」
その少し寂しげな声に、良心が揺らぐ。良心と社会的な何かを、僅かな間だが天秤にかける。……やっぱり、俺はダメなやつだ。
「……分かりました」
良心に負け、一人でも気持ち狭い気がするベッドに、里宮さんの右側に入った。顔を合わせるのは、かなり恥ずかしいのと息が酒臭いので、背中を向けることにした。
目を閉じて寝ようとすると、後ろから抱きつかれた。背中に当たる二つの感触とか、ジャージとシャツという、そこまで厚くない布越しに伝わる熱とか。色々気になってしまい、眠気が来ない。
「水無月さん、暖かいしいい匂いですね……」
「……さいですかい」
きっと、ではなく間違いなく、寝ぼけているからこんな事言ってるに決まってる。目が覚めたら、恥ずかしくなるやつだな。
「こうやって、……私も……いつか…………すぅ」
そう呟くと、今度こそ里宮さんは寝た。ただし、抱きつかれた腕は、そのままである。
「……俺も寝るか」
ようやく、俺にも安寧の時が訪れようとしていた。
里宮さん編となってしまいました。本当はファン感謝祭編のはずだったんですが、筆がのってしまい……。