でも今となっては、それすらも最低限の事のようで。
きっと私じゃない誰かなら、知らない貴方の事を知っている。
でもそれは、私じゃない誰かだって同じ。
この時間にこんな所に来るなんて、トレーナーを始めた頃なら想像すらできないだろう。がまあ、現実なのだから驚くしかない。
「――あぁ、水無月さんですね。こちらの通用口からお入りください」
「分かりました」
栗東寮の警備員さんに言われて、通用口……というか鉄製ゲートの一部になっている小さなドアを押して開ける。
たづなさんに来るように指定されたのは、栗東寮一階の管理室。確か、寮の運営に関する業務を寮長が行うための部屋、だったはずだ。
「なんたってこんな時間に……?」
腕時計にちらりと目をやると、短針が差しているのは10と11の間。当然ながら日はとっぷり暮れていて、街灯という名のイルミネーションがそこらじゅうで輝いている。
こんな時間に呼び出される事など、今までほとんどなかった。しかも呼び出される場所が、基本的にトレーナーが入る事は許されていない寮舎だとは……。
『何をやらかしたというんだい――』
呼び出されたことをLANEで鏑矢に報告したら、呆れた顔が見えそうなメッセージが返ってきた。奴の事だ、俺が事案を起こしたのだと確信していそうで困る。う~ん……何にもやっていないはずなんだけど。
まあ残念ながら、やらかした事に気がつけないのが人生というものだ。……そういう事を言ってしまうと、随分やらかしてしまったような気もしなくはない。
栗東寮の玄関に入り、来訪者用の下駄箱に靴を入れてスリッパを取り出す。照明はセンサーで付くタイプのもの以外、あえては点灯していないようで、廊下は非常口にマークが照明代わりになっている。
そんな廊下にはドアが並んでいるのが暗がりでも分かるが、玄関に近い一室と廊下の奥の方の一室のドアから光が漏れている。どちらが管理室なのかと言えば、まあドアに『管理室』というプレートがかけられている、手前の部屋の方だろう。
「……ここでいいんだよな?」
入ってはいけない、そんな聖域のような場所であるが故に、ドアノブを握ろうとする手が僅かに躊躇いを見せる。
がしかし、ここで躊躇ったところでもどうしようもないし、呼び出された理由が分からんままなので、思い切ってドアノブを捻る。
「……失礼します」
「やあ。夜遅くに申し訳ないね、水無月トレーナー」
「え?」
思わぬ声がかかる。
寮長室にいたのは、栗東寮の寮長のフジキセキだけでなくたづなさんにエアグルーヴ、ナリタブライアン、そして――
「……なんで貴女がここに?」
シンボリルドルフがいた。つまり、今の寮長室には生徒会室のメンバーが勢ぞろいしている事になる。
「トレセン学園に所属する生徒の問題だからね、生徒会が関わるのは当然というものだろう?」
「生徒の問題……? 俺が何かをやらかした、という訳ではなく?」
「おや? 貴方には、そう思うようなことをした自覚があるのかな?」
「自覚なんて無い……。人は誰しも、気付かぬうちに道を踏み外したり過ちを犯したりする、そういう生き物だろ」
自覚のある問題行為や悪意なら、それは救いようのないものだ。だがこの世の中、必ずしも救えない過ちばかりではない。……それが許される過ちであるとは限らないが。
「なるほど、君はそう考えるのか」
「悪いか?」
いまいち何を言いたいのか分からない会話に、若干の苛立ちを感じる。
「まあ……水無月トレーナーだけに話を聞くつもりはないのでね、焦る必要はないよ」
「……焦っている訳ではないが、俺だけじゃない?」
どういう意味……なんだ。呼び出されたのは俺だけじゃないって事は、割と面倒くさい事が起きているのか?
僅かに軋む音を立てたドアを横目に、誰かが管理室に入ってくる。
「こんばんは~……ってあれ、水無月さん? どうしてここにいるんですか?」
「えっ……里宮さん?」
入ってきたのが思いもよらぬ人物――里宮さんだったせいで、呆けた面になっている気がする。
「さて、本題に移るとしようかな。フジキセキ、説明をお願いしてもいいかな?」
「任されたよ。……それで、本当に二人とも身に覚えはないのかい?」
フジキセキが顎に手を当てながら、覗き込むように俺たちの顔を見てくる。
「えっと……私今来たばかりで、本当に何も分からないんですが……」
そうじゃないですよね? という言葉を暗に含んだ目線を、里宮さんから贈られる。どことなく気まずさを感じ、顔を逸らしながら答える。
「俺だって何にも知りませんよ……」
「……本当ですか?」
「本当……って言ってるんですよ」
疑念の声に、思わず声音が荒くなる。
しまった、と思ったが里宮さんは気にせずなのか気にしないふりなのか、特に俺に何かを言う事はなかった。そのまま視線をフジキセキに戻す。
「身に覚えがあると、こちらとしても助かったんだけど……まあ本当に与り知らぬ事なのかは、これから分かるだろうからね。とりあえず、話を聞いてもらおうかな」
「「……」」
「簡単に……というよりは、そうとしか言えないんだけどね。君たちの担当のカレンチャンとアドマイヤベガが、どうやら喧嘩してしまったようでね」
フジキセキは苦笑いしながら理由を告げる。
「喧嘩……ですか?」
「どうして……」
思うがままの言葉が漏れる。
「今は二人とも、別の娘の部屋にいるんだ。部屋の娘たちが説得しようとしたんだけど、うまくいかなかったようでね。その結果、生徒会だけでなくお二人も呼ぶことになったのさ」
「そう、ですか」
「……カレンチャン。アドマイヤベガさんも……」
つまり、寮長案件では済まなさそうな問題だったから、俺達だけじゃなく生徒会の面々も来ていると。そういう事なら、この状況も納得できる。
「それで、今日二人は彼女たちと何もなかったのかな?」
その声とともに、シンボリルドルフが俺たちの瞳を覗き込んでくる。どこかうすら寒いものを感じるのは、俺の気のせいなのだろうか。
「私は……カレンチャンに、水無月さんの居場所を聞かれましたよ。理由は教えてくれなかったんですが、随分慌てているような気がしたけど……」
「……」
急に居心地が悪くなる。全員の視線が一斉に自分の顔に集まれば、それは当然というものだ。……いくつか冷たい視線が混じっているような気がするのは、俺の気のせいなのだろうか。本当に……俺は。
「ほら、水無月さんも何があったのか教えてくださいよ。私だけじゃ、……色々ズルいじゃないですか」
「……『ズルい』、か。まあうん、それもそうか」
言葉の意味が分かるような分からないような、けど何となく言いたい事は分かった。
「今日は……確か電話でアヤベさんに遊園地に行かないか、って誘われていいよって言ったんだよな。それでその後、カレンチャンにも遊園地に一緒に行かないかって誘われて、アヤベさんと行くから無理だ、って言ったら急にどこかに行っちゃったんですよ。そうそう、遊園地のペアチケット入ってる封筒を落としてて……――あれ?」
首を傾げながら頭をひねって思い出していると、管理室の空気が変わっていたことに気が付いた。
それは、さっき里宮さんから視線を向けられた時に感じたものを、遥かに超える居心地の悪さ。
「水無月さん……」
「……なんすか?」
いつも通り答えるつもりが、咎めるような視線に、足が無意識に下がる。
「何で……どうして、貴方って人は――!」
ばっ、と振り上げられた里宮さんの右腕が視界に移る。避ける事は叶いそうになく、衝撃に耐えようと目を閉じた。……だが、いつまで経ってもその衝撃は訪れない。
恐る恐る目を開くと、その腕をたづなさんが掴んで止めていた。
「止めないでくださいたづなさん! これじゃ、なんの意味も――」
「こんな事をしても、解決にはなりませんよ。今は……駄目なんです、里宮トレーナー」
窘めるような目線で、俺を一瞥した後里宮さんの方を向く。
なおもその腕を振り降ろそうとしていたが、やがてその力が抜ける。所在なさげに、力の抜けた腕が垂れた。
「という訳だ、水無月トレーナー。今は我々女性陣だけで話したいから、一旦部屋から出てくれないかな」
黙って見ていたシンボリルドルフが、ゆっくりと口を開く。
「……いや、俺だって何かしら――」
「一旦部屋から出てくれないかな、水無月トレーナー?」
追い出されようとしている理由が分からず、思わず反論しようとした。しかし、シンボリルドルフから送られた目線に込められていた感情は――
「……これ以上ここに留まろう、と言うのであれば、私は里宮トレーナーを止めはしない」
憐憫と同じくらいの……怒り。
それは、俺以外の人全員の目線に込められていた。
「分かりましたよ……、俺が出ればいいんでしょ? 出れば……」
居心地の悪さ、それを作り出していた視線に負け、そう口にしていた。
さっさと身体の向きを変えて歩き出し、管理室のドアノブに手をかける。もう一度あの視線を受けるのが怖かったから、振り向くのはやめた。
これからはハーメルンでPixivより先に公開する事が増えると思います。