でも今となっては、それすらも最低限の事のようで。
きっと私じゃない誰かなら、知らない貴方の事を知っている。
でもそれは、私じゃない誰かだって同じ。
「……さて、水無月トレーナーには一旦出てもらった事なので――」
廊下を覗き込んだルドルフが、顔を引っ込める。水無月は玄関の方に向かっていたので、今頃は栗東寮の外にいるだろう。
その顔には、先程見せていた怒りは消え失せ、代わりに困惑が浮かんでいた。
「確かめたことがあるのだが、良いかな、里宮トレーナー?」
「……はい。私が分かる範囲でなら」
どこかこらえる様な顔をしながら、頷く里宮。あまりの水無月の行動に、思わず椅子に座り込んでいた。
「彼は昔から、あんな感じだったのかな。貴方は、水無月トレーナーと同期だったと記憶しているが」
「水無月さんは……私が初めて会ったのが6年前で、その時は普通に優しい人なのかなって思っていました。けど――」
天を仰いで、記憶を呼び起こす。
「他の娘が誰から見ても分かるようなアプローチをしても、いつも……受け流していたような気がします。『罰ゲームなの?』とか『冗談でも言われると……ね』とか……、明確に答えも返さずに誤魔化しているばかりで……」
「……なぜそのような男がトレーナーになれたのだ。人の機微も察せぬような輩が、どうやって……?」
今まで黙っていたエアグルーヴが口を開く。シンボリルドルフ以上に生徒からの相談を受け取る身としては、流石に黙っていられなかったのだろう。
「あの人は、それ以外の面では基本的にまあまあな成績だったんですよ。中の上くらい、だったかな……」
私はいっつも、勉強教えてもらってばかりだったな――懐かしい思い出が浮かび、思わず小さな笑みが零れる。
「なるほどね。誰か、水無月トレーナーの事をよく知っている人は、貴女以外にはいないのかな?」
そんなフジキセキの言葉に対し。
「私以外だと、カレンチャンとアドマイヤベガさんと、テイエムオペラオーさんのトレーナーの慎人さんと……――」
ふと、あの笑顔が浮かぶ。
自分の恋を応援してくれる、けれどいつも水無月の側に(里宮の誤解だが)いる人の事を。
「き、……うぅん、その3人だけだと思います」
どうして、桐生院の名前を挙げなかったのか。
挙げた3人よりも、もっと水無月の事を知っていて、助けてくれそうなのに。
(……巻き込みたくなかった? 違う、私は桐生院さんに――)
――関わってほしくない
勝手に、心の中で声が響いていた。身勝手で我が儘で。
そんな自分がいる事に気がついて、思わず手を強く握りしめていた。
「鏑谷トレーナーは……まあ、この話には大して関係していないだろう。あえて呼ぶ必要は無いか」
「そうだね。どちらかと言えば、テイエムオペラオーは何とか解決しようとしてくれた側だから、それについては賛成かな」
「では、鏑矢トレーナーには声はかけないという事で……。お二人の今日のお部屋はどうしましょうか? 必要であれば、私の方でお部屋を用意しますが」
フジキセキとルドルフが出した結論に、たづなさんが言葉を続ける。
「無理に部屋に戻す必要はないだろうし、今日は今いる部屋で泊まってもらうしかないかな。部屋主たちには……後日食堂の無料券でも渡すとしよう」
ルドルフが出した結論に、あえて反論を挟もうとする人はいなかった。その結論が、今出来得る最大公約数のような気がしたから。
「……いいんですか、会長は?」
「ん、どうしたエアグルーヴ?」
「トレーナーに、その……好意を抱くというのは」
少し考える素振りを見せると。
「トレーナーが押し付けた感情ではなく、ましてや彼女たちが自分で抱いたものならば……私はそれを止めることは出来ない。もし後悔しないというのならば、伝えても構わないと思っているよ。何も、トレーナーと担当ウマ娘が結ばれる、という例が無い訳ではないからね」
その言葉はまるで、誰か――それは特定の誰かではない――に言っている様にも里宮には聞こえた。
「だが今回の場合は、どちらも伝えていないのだろうな。だからこうやって……」
「すいません、私が感情的になったばかりに皆さんを……」
どこかで分かっていた。里宮も、あの状況からすべてを察する事が難しい事は、理解していたはずなのに。それなのに強く言ってしまったのは、その気持ちがどこかで分かるような気がしたから。
頭を下げる中、ルドルフは首を横に振りながら。
「里宮トレーナーが謝る必要は無いよ。私も、もう少しよく考えるべきだった」
ふっ、と。
『人は誰しも、気付かぬうちに道を踏み外したり過ちを犯したりする、そういう生き物だろ』
その言葉が、ルドルフの頭の中に浮かぶ。
(……彼女たちのためのつもりが、私も結局同じように過ちを犯していた、という事か)
皮肉にも、水無月の発言を証明したのはルドルフ自身だった。
今更になって何かを感じても、それはもう手遅れでしかない。流れてしまった時も、出来事も、元に戻す事など出来ないのだから。
「里宮トレーナー、……まだ水無月トレーナーがホールにいるだろうから、彼と一緒に今日は帰ってもらってもいいかな。また明日、生徒会室でどうするか考えようと思うが……それでもいいかな?」
「……分かりました」
振り返らずに、管理室を出た。
己が犯した過ちを、押し付けてしまった感情を、振り返るのが怖かったから。
ホールに行くと、すっかり意気消沈した様子の水無月が椅子に座っていた。やる事も無かったのか、視線は虚空に向けられている。
「あの、……一緒に帰りましょう、水無月さん」
「来るかなと思って待ってたけど……よく考えたら、勝手に出て行ってても問題無かっ」
ふらっと立ち上がり外に向かおうとするその背中に。
「あります!」
思わず、という言葉が似合う勢いだった。そんな声に、水無月は意味が分からないという顔をして。
「どうして……?」
それは、彼の何に対する疑問だったのか。
歩みは止まらず、靴を履き帰路につこうとする。里宮も慌てて靴を履き、その背中を追いかけて、宛所の無い水無月の右手を握る。
「……問題、あるんです」
「無いでしょ? 俺は貴女達とは違うんだから」
手を振り払い、歩き出す。もう一度かける声が見つからず、水無月の後ろから数メートルといったくらいの距離を維持してついていく。
「……」
「……」
お互い無言のままで、足音が隙間を埋めるように響く。リズムの合わない音が、二人を置き去りにするように駆け抜けていく。
しばらくして、水無月が何も言わずに、里宮とは違う方向に向かおうとする。
「水無月さん、……その、」
「?」
「おやすみなさい。それと……明日も、頑張りましょう」
その里宮の声に、小さく頭を下げて水無月は路地を曲がっていく。
背中が見えなくなって、足音が聞こえなくなる。
気が付くと、涙が零れていた。求めるように水無月の向かった先に手を伸ばし、何歩か歩みを進める。
どこか遠くへ、届かないところに行ってしまうような気がして。
そう思うのは、酷く醜くてわがままだと言うのに。
「水無月さん……」
紡がれた声は、路地の闇へと吸い込まれ、響くことなく消えていった。
うん、きっと……きっとなんかじゃない。水無月さんの言葉に、私があんなに感情的になっちゃったのは。
間違いなく、水無月さんをそう思っているから。
二人の本当の気持ちが、分かってしまったから。
どうすればいいかなんて、気付かないようにしていたけど、本当は分かっている。けどそれは、二人から見ればズルい様な気がして、勇気が出なかった。
でも二人がそう想っているのに『ズルい』だなんて、そっちの方が失礼じゃないの?
だから、私はもう逃げたくない……。
そうやって今日もまた、誰かを恐れるように逃げてしまう。